新約聖書の書簡  21巻

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 新約聖書に収められている文書の中で、最も早く執筆されたのは13巻にも上るパウロ書簡です。そのほかに8つの書簡が新約聖書に入れられており全27文書中21の文書が書簡(手紙)です。
これらの書簡は、信徒たちや教会への手紙という形式をとり、信仰についての解説、激励、喜び、感謝、慰めなどが記されており、キリスト教徒たちの信仰への重要な指針となっています。

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<ローマの信徒への手紙〔略称ロマ〕>

パウロがローマの信徒たちに宛てた手紙で、三度目のコリント滞在中の55~6年頃に執筆され、13の手紙の中でもその内容が最も重要なものとされており 「この手紙を理解するものは全聖書を理解する扉を開く」とも言われ、最後の 手紙であることから「遺言書」とも呼ばれています。

-内 容- まづ福音は信仰をとおして実現されることを説いています。(1章) 信仰による義は、神の贖罪行為により、律法のわざによらない恵みとして、た だ信じることによって無償で与えられる、としています。 このことが旧約のアブラハムの故事によって立証され(4章)、恵みの下に入れられた者はアダム以来の罪の支配から解放され、死から命を移されると記 しています(5章)。 さらに、信仰による義は、律法の下に奴隷とされ罪の支配下にあった者が解 放され、義の奴隷、神の奴隷として永遠の命を与えられる(6~7章)、罪はその 支配力を失い、何ものによってもこの救いから信仰者を引き離すことは出来 ず、神の愛は勝利している(8章)、としています。

 

<コリントの信徒への手紙Ⅰ〔略称一コリ〕>

 

パウロが54年頃、エペソ伝道中に書いたものです。 コリントとエペソの間には交通が頻繁で「クロエの家の人たち」がコリントからパウロの許にきて、教会内の紛争、不倫行為事件などコリント教会の実情を知らせ、またステファノ、ポルトナト、アカイコの3人を通して送られてきた様々な問題について、いちいち教示を試みたものです。

-内 容- 最初にパウロはコリント教会内の分派争いに対して、教会の一致を訴え(1 章10節)、指導者たちの神に対する忠実さは神によってのみ裁かれるとし、コリント教会の唯一の生みの親として、このパウロにならえと勧めます。 後半(7章~16章)では、結婚の問題、偶像への供え物、教会の礼拝の秩序に関 わるいくつかの問題がまとめて論議されています。

 

<コリントの信徒への手紙Ⅱ〔略称二コリ〕>

 

パウロが当初予定していたコリント訪問は投獄により不可能となり、その間コリント教会に、ユダヤ人キリスト教徒で使徒と自覚する巡回伝道者がやって きましたが、彼らの影響を受けたコリント教会とパウロの関係が急に悪化した ため書かれたのが本書です。

-内 容- 一コリの手紙を受取った信者の中には、反パウロ的指導者たちの煽動にのって、パウロに反抗し、その教説を非難した者がいたようです。パウロは自分に対 する不当の誹謗に答え、使徒としての権威を強調し、反対者たちに激しく反撃を加え(10-12、11-4、13)、テトスに託して、この手紙を送ったのち、マケド ニアに渡り、コリントの信徒がパウロの勧告に従い悔い改めたと聞き、喜びと コリント人への熱愛を語っています。

 

<ガラテヤの信徒への手紙〔略称ガラ〕>

 

パウロはガラテヤの教会で異邦人キリスト者に、割礼など律法遵守の義務を 要求するユダヤ主義者に対して、彼らと対決する姿勢、で福音とは何かを説い たのがこの手紙です。

-内 容- 手紙の本論は三つの部分によって構成されています。 第1部(1-11~2-21)ではパウロの反対者たちが、パウロの割礼なしの福音とそ れに関連してパウロの使徒職を問題としたことに対し、自分の福音と使徒職の 正当性を明らかにしています。 第2部(3-1~4-31)は信仰と律法を二者択一のかたちで捉えた独自の信仰義認 論を述べています。 第3部(5-1~6-10)はまず、律法に隷属することによる自由の放棄がいましめられ、ガラテヤの諸教会において起こりつつあった会員相互の不和の問題に対 する勧告が続き、更に一連の勧めが主に宗教的優越感に起因する問題とのかか わりで記されています。

 

<エペソの信徒への手紙〔略称エペ〕>

 

パウロは晩年(61~63年頃)ローマで捕われの身となり、軟禁状態の生活を送 りましたが、その中でローマからアジアの中心的教会であったエペソの信徒た ちに書き、これをテキコが持参したものです。

-内 容- この手紙はケリュグマ(福音の宣言)の部分(1~3章)とディダケー(教え)の部 分(4~6章)に分けられます。 ケリュグマの部分では、まず神による救済史が述べられ、ついでキリスト論と 教会論が記され、キリストは万物のかしらであり、教会はこのキリストのからだであるとしています。 ディダケーの部分は、ケリュグマに基づいた信徒への実践的勧告で、神にならうものとなって光の子らしく歩むことが勧められ、さらに夫婦、親子、主人と奴 隷への勧告がなされています。

 

<ピリピの信徒への手紙〔略称ピリ〕>

 

ピリピの教会の人々は自分たちの教会の建設者パウロが獄中にあるのを、心から慰め、物心両面において援助しようと、エパフロデトを代表としてパウロのもとに送りました。エパフロデトがピリピに帰るとき、パウロはこの援助に 感謝し、かつ近況を伝えるために、この手紙を書き、彼に託したのです。

-内 容- パウロは獄中にも拘らず「主にあっていつも喜びなさい」と繰り返し勧めています。特に第2章のキリスト賛歌は有名で、キリスト受肉の謙遜と従順の信仰生活を勧め、第3章では特に信仰による義、キリスト来臨の希望、信仰の完成を力 説しています。

 

<コロサイの信徒への手紙〔略称コロ〕>

 

パウロはコロサイの町へ福音を伝えたエパフラスから、ここの教会がグノー シス的(参考サイト・グノーシス主義)異端によって乱されていることを聞き正統 的福音の姿を示し、異端を排撃しようとして筆をとったもので、囚人としてロ ーマにあった60年頃の執筆と考えられています。

-内 容- ゲリュグマ(福音の宣言)の部分(1~2章)とディダケー(教)の部分(3~4章)とに分けられます。 第1部のゲリュグマにおいてキリストの絶対性を強く主張し、異端思想を排撃 しています。 第2部のディダケーにおいては、キリストの信徒が神に選ばれたものとして互いに愛し、許しあうよう勧め、夫婦、親子などの人間関係において互いに主に仕 える心をもってするよう勧告しています。

 

<テサロニケの信徒への第一、第二の手紙〔略称一テサ、二テサ〕>

 

[第一の手紙] パウロがコリント滞在中、ユダヤ人たちからの迫害と苦難にあっていたテサ ロニケの信者が、かたく信仰に立ち、パウロのことをたえず思いつづけ、彼との再会を待ち望んでいることを知り、感謝と喜びとに満たされて筆をとったもの です。

 -内 容- この手紙にはテサロニケの教会に対するパウロの暖かい思いやりが全体にあふれています。その内容は2部に別れ第1部(1章2節~3章13節)においてパウロはテサロニケの信者たちが、信仰の働き、愛の労苦、キリストに対する望みを持ちつづけていることを深く喜び、信者全体の模範として賞賛し、ついで ユダヤ人の反対者の非難に対して自己を弁明し、テサロニケの信者に対する切 なる祈りをもって第1部を終っています。 第2部(4章1節~5章2節)は道徳的教訓で、まづ性の純潔を説き、主の再臨 の近い時でも、日常のつとめを忠実に果たすことを勧め、さらに教会生活一般 に関して訓戒を与えています。 [第二の手紙] テサロニケの信者に対する迫害と苦難とが、パウロを憂えさせ、またあまりに もキリストの再臨を待ち望んで、日常生活のつとめを放棄する信者たちのいる ことを知り、訓戒を与えるために筆をとったものと考えられています。

-内 容- 第一の手紙と似ていますが、第一の手紙のような信者たちに対するパウロの 深い愛情と喜びの溢れている論調は、本書には見られません。また再臨についての思想も第一の手紙では、それが予告なしに突然来ることを述べているのに 対して、第二の手紙では再臨の前兆が詳細に描かれています。

 

<テモテへの第一、第二の手紙〔略称一テモ、二テモ〕>

 

テトスへの手紙とともに「牧会書簡」(*3)と呼ばれ、教会の指導者たちへの勧告です。 二世紀後半以来、パウロの著作として広く認められてきましたが、十九世紀初 め頃から否定的見解が出され、今日ではパウロの作ではないとされており、著 者は確定されていません。

-内 容- 第一の手紙は異端に対する警告と正しい教と生活の指示で、かっては「神を冒 涜する者、迫害する者、暴力をふるう者」であったパウロでさえも、神のあわれみを受けて回心し、強くされたのであるから、“信仰と正しい良心を持って雄 々しく戦いなさい”とテモテを励ましています。 第二の手紙は第一の手紙と同様、異端者に対する警告と、苦難と迫害における伝統的信仰の堅持と福音宣教への奨励を強く語っています。そしてテモテは「パウロの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣ってパウロと一緒に迫害や 苦難をいとわなかったが、今後も聖書の教えに従って、折りが良くても悪くても、宣教に励み、宣教者としての務めを全うせよ」と厳命されています。

 

<テトスへの手紙〔略称テト〕>

 

テモテへの手紙と同様に牧会書簡と呼ばれており、著者は特定できませんが、パウロの思想を継承しようとしながらも、教会秩序や安定した市民生活に強い関心をいだくパウロ主義者たちの集団によって作られたと考えられています。

-内 容- テモテへの手紙と共通点が多く、教会の組織、制度の確立、ならびに健全な教 えと信仰生活を教えたもので、それぞれの立場の人が自らの役割を果たすよう にという市民道徳であり、長老、監督がそれを支えるとしています。

 

<フィレモンへの手紙〔略称フィレ〕>

 

コロサイに住むフィレモンはパウロと親交を持ち、その地の家の教会として 自分の家をそなえ、パウロの良き後継者でした。ところが彼の奴隷オネシモがローマに逃亡し、獄中で出合ったパウロから福音を聞き、信仰を持つようにな り、パウロはオネシモを自由人としてフィレモンが受け入れることを切望し て執筆したのが本書です。パウロの手紙の中で唯一の個人宛ての私信です。

-内 容- 回心した奴隷オネシモをパウロは当時の法に従って主人フィレモンに送り 返しますが、その際、逃亡したことを許すのみならず、もはや奴隷としてでは なく、愛する信仰の兄弟として受け入れることをフィレモンに頼み、オネシモ が与えたと思われる損害や負債もパウロ自身が負い、返済すると述べていま す。 わずか1章の短い手紙ですが、キリスト教の人格尊重の精神を、かいま見る ことが出来る新約聖書中の真珠であると讃えられています。

 

<ヘブライ人への手紙〔略称ヘブ〕>

 

本書は試練を受けて信仰生活に倦み疲れ、罪と戦う気力を失い、迫害に怯え、ついにはキリスト教のから押し流され、生ける神を棄てる危険にさら されていた人々を励まし、その告白を堅持して信仰生活を全うするよう勧めるために書かれました。宛先については確定できませんが、主として異邦人 キリスト教徒からなる教会と考えられています。

-内 容- 神の子キリストについて語り、キリストが新約の大祭司として、一度限り天の至聖所に入り、自身を犠牲として捧げたことにより、人々の罪が清められ、 永遠の救いが完成したことを述べ、イエス・キリストの再臨を指し示すとともに、終わりの時が間もなく到来するゆえに、忍耐すべきことが勧告されて います。

 

<ヤコブの手紙〔略称ヤコ〕>

 

主イエスの兄弟ヤコブの名を借りて執筆した無名のユダヤ人キリスト信徒の作と考えられています、人々の信仰が口先ばかりで実践に乏しいことを 非難し、試練のために動揺した信仰をいましめることを目的としており、公 同書簡の一書です。

-内 容- 信仰よりも行為を重んじている点が行為よりも信仰を重んじるパウロ思想と対照的ですが、これは矛盾とみるべきではなく、信仰の一面を強調し、パウロ思想の誤解を正そうとしていると見られています。

 

<ペテロの手紙Ⅰ〔略称一ペト〕>

 

本書は手紙の形式で書かれていますが、私信ではなく、ローマ領に広がる諸教会にあてられた回状で公同書簡の一つです。 この世界で迫害にあっても、天に真の故郷を持つ者として喜びに満ちた信仰の生活を全うするよう勧告するために書かれました。 著者はペトロの感化を受けた有力な伝道者であると考えられています。

-内 容- キリストの死が復活によって覆されたのと同様、キリストを模範とする信 徒の苦難は、終末にキリストの栄光の祝福へと変えられることを語り、迫害時に当たり、忍耐強く生き抜くよう教えています。

 

<ペテロの手紙Ⅱ〔略称二ペト〕>

 

本書では使途ペトロが著者であるとしていますが、本書に使途の権威を持たせるための偽名で、ペテロの第一の手紙の著者とも違うとされています。

-内 容- キリストの再臨の遅延は救いの機会を多くの人に与えるための神のあわれみと忍耐の現われであり、神には一日も千日も同じであると述べ、誤った教 えに惑わされないで、終末と再臨の希望を確信するように勧めています。

 

<ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ〔略称一ヨハ、二ヨハ、三ヨハ〕>

 

第一書は手紙というよりは、むしろ宗教的小冊子です。第二書、第三書はいずれも一章のみの短い実際の手紙で第二書はガイオという個人の伝道者に 宛てたもので三書ともグノーシス的な「反キリスト」の動きにたいする戦い という前提において一致しています。

-内 容- 第一の手紙はヨハネ福音書と最も近く、神は光であり、復活したキリストは助け主であり、神は愛であることを語り、祈りの根拠と罪からの解放を確かめ、偶像を警戒せよと結んでいます。 第二の手紙では、互いに愛し合い、御父の掟に従って歩み、反キリストに対 する警戒を勧告しています。 第三の手紙は真理のために共に働き、悪いことでなく、善い事を見習うこと を勧めています。

 

<ユダの手紙〔略称ユダ〕>

 

一世紀末か二世紀初め頃、教会に侵入した異端思想を弾劾することを目的として執筆されたもので、イエスの弟ユダが著者に擬せられていますが、本 書の権威づけのためにユダの名が利用されたもので、真実の著者は不明です。

-内 容- 異端思想の出現に対して教会の伝統的信仰のために戦うことを勧め、異端の不徳を攻撃し、彼らの終極はこの世の終わりにおける神の審判による滅び であると論じています。

 

<ヨハネの黙示録〔略称黙〕>

 

新約聖書の最後におかれている書で、教会書簡の形式をとっています。 きびしい迫害にさらされている教会に対して、主の再臨の近いことを告げ て、希望を抱かせ、慰めと励ましと警告とを与えようとして書かれたもので す。 小アジアの諸教会に宛てて書いている著者ヨハネは、かって十二使徒の一 人であるヨハネとされていましたが、現在では否定的に考えられており、小アジアの諸教会で、権威を持って説教し、伝道した初期キリスト教の予言者 であったということ以外は不明です。

-内 容- キリストの復活および昇天から、その再臨と世界支配の確立にいたるまで の一連の出来事が記されています。 背景にはユダヤ教黙示文書がありますが、著者が教会に直接向けて書いて おり、著者の意図は、諸教会が直面している困難な状況に対して、預言者的権 威をもって語りかけることにより、それらに慰めと勧告を与えることにあり ます。 さらに著者にとっては神の現在はユダヤ教黙示思想家のごとく、遠い過去や未来に対してのみ信じられることではなく、彼にとっての終末的希望の起点・出発点は専らイエス・キリストにおける神の行為にあるのです。 この文書が、イエス・キリストの啓示を、旧約聖書の言語をひんぱんに用いて証言し、この啓示を旧約聖書の約束の成就・完成をもたらすものとして叙 述していることも本書の特色であるとされています。