ベルクーワの著作の紹介

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  第10章 千年王国

はじめに

第10章は、「千年王国」(The Millennium)であるが、ベルクーワの問題意識は何か。すると、ヨハネの黙示録20:1-6に、「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。 この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」とある。すなわち、サタンが、千年の間つながれて、イエス・キリストが千年間支配するということが記されている。この千年間の支配がどのようなものかについては、意見が3つある。キリストが再臨して、エルサレムに地上的ダビデ王国を立てて、千年間治めるという前千年王国説(プレミレ)、キリストの再臨前に、平和な祝福の期間として千年間続くという後千年王国説(ポストミレ)、そして、千年王国というものはなく、千年というのは聖書では永遠的ということで、キリストの永遠的支配を表すという無千年王国(アミレ)がある。
 いずれにしても、千年王国は終末論のひとつの課題である。これを取り上げないでは、終末論は語れない。そこで、ベルクーワも取り上げる。ベルクーワの結論としては、後千年王国説も、前千年王国説も、黙示録を文字通りに生じるものとして解釈して、歴史の終りに生じるか、あるいは、歴史の中に生じるかを論じているが、それは誤りで、ベルクーワは、黙示録は、戦いや迫害の中にある教会とクリスチャンが、いろいろなことがあっても、キリストの勝利を確信して、今、ここで、慰められることを黙示録のかたちで教えていることを理解することが大切と主張する。黙示録は将来の書物でなく、今、現在、教会とクリスチャンを慰める書物であると述べる。

1.千年王国を組み立てる動機は何か

 (1)ヨハネの黙示録20:1-6

千年王国を組み立てる動機は何か。すると、根本的には、この世にキリストの王国が立てられるということで、この世性(this worldliness)であると言える。千年王国というのは、キリストによって千年間平和に治められる期間のことを言う。あるいは、そのキリストの支配のことを言う。では、どこから、これが来ているか。きっかけ、契機(moment)は何か。すると、ヨハネ黙示録20:1-6である。サタンが千年間閉じ込められる。その後、しばらくの間、また、解き放たれる。そして、その千年間、キリストと信仰者が支配する。信仰者がキリストと千年間支配するのは、体の復活と考えられた第一の復活が生じるからである。
 こうして、平和の支配が非常に特別な仕方で歴史の流れに入ることになる。これによって、キリストの主権性は、歴史において、地上のすべての人々に知られるようになる。もちろん、悪の力が働かないわけではないが、しかし、悪の力は、キリストの主権の対して勝てないし、また、悪の力は永遠的でもない。以上が、千年王国を組み立てるきっかけ、あるいは、動機になる。すなわち、黙示録20章になる。

 (2)千年王国への批判

 千年王国という考えについては、幻想(fantacy)、あるいは、理想主義(idealism)という批判がいつもあった。そして、最近では、弁証法神学者ブルンナーも、「永遠の希望」(1954年)を書いて、反対した。ブルンナーの反対理由は何か。すると、平和な神の国が、とても明白なかたちで歴史の中に入り込んだとは考えられない。その証拠に、罪が歴史にはあるし、また、否定的諸力が常に働いている。また、千年王国論者の黙示録の釈義は、正しいとは思えないし、キリスト教の希望は、歴史、今の時代における(in this dispensation)平和な支配(reign of peace)でなくて、復活と永遠の命にあるべきであるという理由である。しかし、だからと言って、千年王国論者は、ブルンナーの反対意見を受け入れるわけではない。

 (3)宗教改革者たちは、千年王国をどのように考えたか

 ベルクーワによれば、アウグスブルク信仰告白17条、第二スイス信条11章14節にあるように、宗教改革者たちは、千年王国説は、非聖書的なユダヤ教の見解(unbibilical Jewish opinion)に根があると見ていた。アウグスブルク信仰告白17条に、「死者の復活の前に、敬虔な者たち(the godly)が世界の王国(the kingdom of the world)を支配し、邪悪な者たちはどこででも圧迫されるというユダヤ教的見解をまき散らす者たちをも、彼らは定罪する」とある。また、第二スイス信条11章に、「さらに、審判の日の前に、地上に黄金時代(golden age)があるというユダヤ教的夢(the Jewish dream)を定罪する・・・」とある。
 そして、もうひとつは、宗教改革者たちは、歴史において、今の時代の中に平和の支配を求めるすべての概念そのものが、非現実的な幻想(unreal fantacy)と考えた。いずれにしても、宗教改革者たちは、千年王国論者は、起源も動機もキリスト教の伝統の外にあるもの(outside of the Christian tradition )と考えた。

 (3)千年王国への最近の評価

 さて、ところが、最近になって、神学的状況が少し変わってきて、千年王国にある種の真理契機を認める神学者が出てきた。千年王国の極端な例があるからと言って、千年王国のすべてを捨て去るのはおかしい。もっと、起源や内容をきちんと分析すべきだという傾向が出てきた。そして、彼らは、千年王国の人々の動機は、「イエス・キリストの福音は将来だけでなくて、あるいは、彼岸的現実に立ってだけ、意義があるのでなくて、わたしたちの時代(for our dispensation)、現在の歴史的展開(for current historical development)にも意義がある」という認識である。
 すなわち、神信心は、約束を将来だけでなく、現在に対してももつ。千年王国は、神の約束を現在において実現する、少なくても、神の約束の含み(implication)を、この時代に対して注目させることを求めている。
 千年王国の動機の見直しを主張している人としては、具体的には、ルター派のアルトハウスである。アルトハウスは、「最後の事柄」また、「歴史と現代における宗教」の「終末論」という論文において言う。「千年王国を評価する最も人を動かす論拠は、キリスト教の希望の必然的この世性(necessary this worldliness of Christian hope)であると描写している。神の行為は、わたしたちの歴史に対しての肯定であって、具体的な歴史的状況や新しい世や地上におけるすべてのことを来るべき御国に向けるわたしたちの責任に関係してくる」。すなわち、アルトハウスの評価は、千年王国は、彼岸でなく、この世と歴史に目を向けさせるところがあるという評価である。
 ボンヘッファー(Bonhoeffer)も、キリスト教のこの世性(worldliness)を強調した。ハインリッヒ・オットー(Heinrich Ott)も、「終末論」(1950年)で、「千年王国的使信のケリュグマ的重み」と語って、千年王国が地上に目を向けている、現実に目を向けていることを評価する発言をした。
 オランダのヘンドリクス・ベルコフ(H.Bekhof)は、「キリスト、歴史の意味」において次のように述べた。「千年王国論のねばり強さとある程度の範囲に広がっていることは、世界に対する将来を見ず、また、諸預言を霊化させてしまい、また、期待を天における個人の救いに限定してしまった公的教会(official church)の霊性主義(spiritualism)と歴史的視野の欠如への反作用である」。
 すなわち、ベルコフは、千年王国の主張には、教会が信仰を天国にだけ向け、また、霊性主義化してしまったことへの反動で、よい意味があったと評価した。
 では、ベルコフの終末論はどのようなものか。ベルコフは言う。「反キリストの後、長い幸せな期間が、天と地の境は消え始め、しいたげられた者たちが治め、キリストの苦難の教会が公に正しいと証明され、回復されたイスラエルが世界の中心となる期間が、やって来るのである。そこでは、罪、苦難、死がまだ追放されない世界において、政治的、社会的秩序が、可能な限り強く表わされるキリストの支配において、支配するのである」。
 ベルコフのこの視野は、後千年王国(ポストミレ)に似ている。すなわち、キリストの支配が、今、地上に行きわたっていることと福音の宣教が世界でなされることを強調する。そして、キリストのこの支配は、前千年王国のように、突然の神の超越的介入によって来るものでなく、次第に、歴史の進化的成長を通して、平和の支配の「中間期」(interim)において完成していくという考えである。ベルコフのこの考えは、千年王国の平和な支配は、突然、神の超越的な介入によるのでなく、わたしたちが、「歴史内的」視野(intra-historical perspective)と呼んでよいもので、歴史は、進化、成長、人間の活動を含んで、キリストの平和な支配となっていくものと考える。一言で言えば、千年王国は、歴史の中で実現するという考えである。 以上のように、以前は、千年王国と言うと、幻想、あるいは、理想郷的局面(utopian aspect)と言われたが、最近は、千年王国は、教会の霊性主義化(spiritualism)への反作用という動機、すなわち、現実や歴史、今の時代への注目という点が、評価されるようになってきた。

2.最近現れた歴史の終わりの出来事としての千年王国

 (1)クルマン

最近になって、千年王国論は、再評価されているが、その中で、ベルコフのように、千年王国を、今の歴史の中に見ていく人もいるが、逆に、千年王国を歴史の終わりの出来事(end-historical event)として見る人もいる。この立場の人々は、たとえば、クルマン(O.Cullmann)やビーテンハルト(H.Bietenhard) である。
 クルマンは、どんな考えか。すると、「新約聖書のキリスト論」(1957年)と、論文、「新約聖書におけるキリストの王権と教会」(1941年)を書いた。クルマンは、十字架と復活に始まったキリストの支配から出発する。そして、キリストは、すでに現在、今、昇天して父の右にて、万物に対して主権を発揮している。しかし、だからと言って、キリストの今の支配が千年王国になるのではない。クルマンは言う。「啓示は、将来においてのみ、実現する終末的御国を特別に考えている。言わば、それは、キリストの主権性のまさに最後の部分なのであって、それは同時に新しい時代(アエオン)に広がっていくものである。それは、キリストの王権の最後的行為で、その中において、教会は来るべき時代の一部として消え去っていくのである」。すなわち、クルマンは、キリストの千年支配は、今の時代のキリストの支配でなくて、終末の、世の終わりの歴史の終わりの出来事であると言う。

 (2)ビーテンハルト

 ビーテンハルトは、「千年王国」(1955年)を書いた。その中で、クルマンと似たことを述べている。「千年王国は、すべての時代に対するキリストの支配の最後の期間である。そこにおいて、神は世界の歴史を閉じるのである。キリストが再臨することによって実現するものである」。これも、歴史の終わりの出来事として千年王国を考えている。
 以上のように、近代になって、クルマンとビーテンハルトなどのように、千年王国を歴史の終わりの出来事として考える神学者も出てきた。そして、彼らの共通点は、ベルコフのように歴史の中に千年王国が入って来るという考えに反対していることである。
 実は、千年王国が歴史の中に入って来るというのは、アウグスチヌスの考えであった。アウグスチヌスは、ローマ皇帝コンスタンチヌス大帝が回心したことは、キリストの勝利として、その時から教会は、千年王国に入ったという風に考えた。それまでの教父は、大体、世の終わりにキリストが再臨して千年王国が始まるという前千年王国の立場であったが、アウグスチヌスは違った。

 (3)初期教父の前千年王国と最近の千年王国の違い

 では、初期教父の前千年王国と最近のクルマンやビーテンハルトの歴史の終わりの出来事としての千年王国はどこが違うのか。すると、初期教父たちの前千年王国は、キリストが再臨し、再臨のキリストとキリスト信仰者による千年間の支配(千年王国)がある。その後、サタンがしばらくの間再び放たれる。そして、その後、神の国の完成という順序で考える。
 しかし、クルマンは違う。千年王国は、キリストの主権性の最後的行為として考える。すなわち、クルマンにおいては、キリストが世の終わりに体をもってもう一度この世に再臨しないで、キリストの今の現在の支配の最終段階の支配として千年王国が始まるという考えである。再臨でなく、キリストの最後の支配形態として千年王国に入るという考えである。
 では、どうして、初期教父と最近の神学者は、意見が分かれるのか。すると、結局黙示録20章の解釈の違いに基づく。しかし、ビーテンハルトは、黙示録20章だけでなく、コリント一15:23-28、「 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。『神は、すべてをその足の下に服従させたからです。』すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」も関係してくると主張する。ここから、信仰者の二重の復活を考える。まず、キリストが復活する。そして、次ぎに信仰者が復活する。その後、生き残っていた信仰者が復活すると考える。不信仰者の復活については、パウロは何も言いていないと考える。
 でも、ベルクーワは、コリント一15章は、確かに、キリストの支配を語るが、しかし、千年王国の論拠には無理だと言う。コリント一15章が語っていることは、キリストに属することの重要性とキリストの復活の力である。
 いずれにしても、最近の神学者たちの中で、千年王国を歴史の終わりの出来事として考える立場の人がいることがわかる。

3.黙示録20章をどのように解釈するか

千年王国についての議論は、結局、黙示録20章をどのように解釈するかである。すなわち、黙示録20章は、千年王国が歴史の中に生じる、あるいは、歴史の終りに生じるという歴史の局面を詳細に年代記的に教えているものとして読むか、それとも、サタンに対する勝利によって慰めを与えるものとして読むかについての解釈による。
 では、黙示録19章と20章を見ると、どうなっているか。すると、19章は、バビロン陥落に対するハレルヤコーラス、小羊の婚宴、獣と偽預言者たちの捕縛、20章は、敵に対するキリストの勝利、サタンが千年間閉じ込められること、サタンがしばらくの間解き放たれること、第1の復活、新天新地の出現となっている。
そして、特に、千年王国論者は、第1の復活を強調する。これは、上からなされるわざ、非日常的出来事、超越的出来事として生じる。これらの人々が復活させられて、キリストと共に千年間支配すると言う。
そこで、ベルクーワは、ここで、コントラスト、対照があると言う。すなわち、イエスの証しのために首を切られて死んだ人々が、命によみがえらされるということで、命と死、栄光と不名誉、正義と不義が対照されている。彼らも生き返えらされて、キリストと共に支配する。これらすべては殉教の死とは正反対のものが描かれている。一言で言えば、勝利の幻である。
 そして、ベルクーワは、ここで言う。「決定的に大切なのは、この幻は歴史的な中間期の支配を示していると見るのか、あるいは、将来についての、すなわち、世の終わりの告知と見るべきなのか、あるいは、それとも、殉教者の命についての幻的照明(visionary illumination)と解釈されるべきものかということである」(304頁)。すなわち、黙示録20章は、将来の歴史をレポート的に、報告的に詳細に客観的に語ろうとしているのか、それとも、殉教者のキリストにある勝利を語ろうとしているのかという問題である。
 もし、この黙示録20章を歴史を語るものとして読むとおかしなことが出てくる。どんなおかしなことが出てくるか。すると、サタンは千年間閉じ込められて、封印までされたと言っているけれど、もし、この千年間を歴史の中に生じる千年間とすると、サタンの力が今だに働いていることが説明できない。
 すなわち、サタンは、20:3で、「・・・鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした」のに、実際には、まだまだ力を奮っていることになる。そこで、これは、おかしくなる。サタンを閉じ込めたと言っていることを非常に弱く解釈しなければならなくなる。
 ある人々は、この千年間を歴史に当てはめて、コンスタンチヌス大帝の回心が、サタンが閉じ込められた時で、その後千年間縛って、中世の暗黒時代に入ったこと、蛮族にヨーロッパが攻撃されたことが、サタンの力が再び解き放たれたことと解釈した。また、ある人は、4世紀から(コンスタンチヌス大帝の回心)、17世紀のフランス大革命までが千年間であると判断した。
 ベルクーワは、要するに、千年王国は、キリスト教共同体の時代(corpus Christianum)になる。しかし、この時代も、サタンは働いていたので、聖書には、とても合わないと言う。そこで、ベルクーワは、どうするか。すると、サタンが閉じ込められたということは、黙示録だけで考えないで、聖書の他の個所も合わせて考えるべきと言う。たとえば、マタイ12:29で、イエスは、強い人を縛り上げて強盗に入る例で、御自分がサタンを無力化(powerless)にしてしまったことを明言した。黙示録12:9で、サタンは天から投げ落とされて無力化された。コロサイ2:15で、サタンは、武装解除された。
 こうして、キリストの光は、すべての暗き闇に入り込んできた。キリストは、サタンに勝利している。しかし、聖書は、それにもかかわらず、サタンはまだ働いていることを認めている。
 でも、サタンは、自ら、自分の活動期間が失われることも知っている。黙示録12:12で、「・・・残された時が少ないのを知ったからである。」。いずれにしても、聖書は、サタンを追放して、キリストの勝利を描いている。
 したがって、黙示録でも、新約聖書全体のこの背景との関係で読むべきである。すると、どうなるか。すると、ベルクーワは言う。「黙示録は、新約聖書のすべての終末論に顕著である勝利の局面にあずかっている。そして、新約聖書のすべての終末論は、現在の苦しみや悲惨にも、慰めを語るのである。・・・こうして、黙示録の幻がサタンの解き放ちを語る時、その意図は年代記的に長くて困難な時を予言するのでなく、むしろ、わたしたちにキリストの勝利が示され、かつ、サタンの究極的無力を対照によって示すことなのである。この幻を読む多くの人々は、サタンが実行するあざむきの範囲の広さのよって、打ちのめされて、恐れの感覚をもつ。すなわち、黙示録20:8によれば、サタンは出てきて、地の四方にいる諸民族、すなわち、ゴグ、マゴグを来たらせ、彼らを戦いのために召集する。その敵は、海の砂のように多いのであるが、しかし、彼らは、天からの火で焼き滅ぼされてしまって、神の民は勝利するのである(20:8-10)。幻の仕方においても、そのテーマは再び出てくる。すなわち、いかにサタンは無力であり、サタンに与えられた時は、いかに短いか。いかに、サタンの仕掛ける戦いが小さいか。いかに、サタンは、イエス・キリストの御前と勝利において、馬鹿げているかがわかるのである」(307頁)。

 すなわち、黙示録は、キリストの勝利とサタンの無力が黙示録的に記されているので、それを勘違いして、そのまま文字通りにレポート的に、報告的に、写真のように将来の歴史の予言と考えてはいいけない。結局、千年王国論は、黙示録を文字通りに取るかどうかである。
 ベルクーワは言う。「換言すれば、わたしたちは、千年王国に賛成するか、反対するかは、わたしたちが、黙示録に当てはめる解釈原理によっているのである」(308頁)。しかし、解釈原理として、黙示録を文字通り(literalism)に取れば、おかしなことになるのである。こうして、いずれにしても、黙示録20章は、文字通りには取れない。黙示録の解釈は、サタンに対するキリストの勝利として読むべきである。

4.黙示録は復讐の書物で、福音書と矛盾するか

 ある人々は、黙示録は、愛の書物でなく、復讐の書物であるから、福音書と矛盾するということを言う。そこで、ベルクーワは、矛盾かどうかを取り上げる。W.ニッグ(W.Nigg)は、「永遠の御国」(1944年)を書いて、矛盾しないことを述べた。すなわち、山上の説教で言っていた「飢える者はあきたり、泣く者が笑うようになる」ことの実現ということで、復讐というような視点で黙示録を読んではいけないことを述べた。終末には、大方向転換(turnabout)が生じて、人間の目から見てでなく、神の目から見ての正しいことが生じるのである。

5.黙示録的慰め(apocalyptic comfort)

黙示録の千年王国は、しばしば、歴史の中に生じるか、それとも、歴史の終わりの出来事と教えているとして読むものなのか、そのような歴史の局面を教えている読み方でなく、来るべき主イエス・キリストの勝利を教えているものとして読むべきである。
 ベルクーワは言う。「・・・わたしたちは、黙示録は来るべき主の今まで隠されている勝利の観点から歴史について照明するもの(illuminate)について記しているものと主張する。この書は、迫害が今日の現在であり、明日の可能性である時に書かれたのである(1:3)。黙示録は、全世界にやってきつつある試みの時を語っている(3:10)。わたしたちは、証しのために、祭壇の下にいる霊魂の叫びを聞く(6:9以下)。わたしたちは、大きな迫害を経験してきた人々を見る(7:14)。ここで生じることは、すさまじい視野によって、黙示録的な仕方で描かれている。天における戦い(12:7)、竜の怒り(12:17)、証人の死(11:30以下)。獣のしるしを押されて苦しめられること(13:13-17)。しかし、究極的勝利がすべてのこれらの時に響いている。そして、宣言されている。いつの日か、終末に実現することが啓示されている。今や、忍耐が求められる時である(14:12)。しかし、光は隠れていない。聖書の一番最後の書物は、歌の本でもある。モーセの歌と小羊の歌がある。獣とその像とその名の数字に打ち勝った人々によって歌われている(15:2以下)。『この・・・』(1:3)」(313頁-314頁)。
 すなわち、ベルクーワは、黙示録は、信仰の苦しみと迫害の中にある教会と信仰者が読んで、キリストの勝利を確信して、忍耐して、今、慰めを受ける書物して見るべきことを主張している。そういう意味では、黙示録を遠い遠い将来を書いて、信仰生活に関係のない書物としてあるのでなくて、今、教会と信仰者が読んで、キリストの勝利を確信して慰めと励ましを受ける書物ということを主張している。
 ベルクーワは言う。「千年王国を教会の歴史の一側面として解釈することと、千年王国を歴史の終わりに待つべきものとして解釈することの間において、どちらを選ぶかという重要な選択がなされるべきでなく、むしろ、選択は、黙示録的慰めか、それとも、厳密な年代記的物語(a strictly chronological narrative account)であるかどうかとの間でなされるべきものである。黙示録的慰めは、何か内的光のようなものを含まない。黙示録的慰めは、終わりの日々における終末的視野において見られる現実である。黙示録20章の幻は、そこから、罪、苦しみ、死が取り除かれている平和の領域としての千年王国としての解釈をとても許さないのである」(315頁)。
 すなわち、黙示録は、詳しい正確な歴史記述と考えると間違える。黙示録のかたちで戦いのある教会に、キリストの勝利を教えて慰め、励ます書物である。いずれにしても、黙示録は、黙示録的な慰め(apocalyptic comfort)を与える書である。

6.キリストの千年支配をどのように考えるか

 千年王国というのは、キリストが千年間支配するということで、キリストの支配と深く関わる。そこで、キリストの支配をどのように考えるかという問題が出てくる。では、ベルクーワは、どのようなことを言っているか。すると、千年王国論は、キリストが支配するということで、現実には、キリストがどのようなかたちで支配するかということになってくる。たたえば、ルター派が主張する二つの王国、すなわち、世俗の王国と霊的王国、この世の支配とキリストの支配などと関係してくる。 それで、伝統的には、ルター派の二王国論は、キリストの支配を狭く、教会だけに限定して言っているという批判があった。最近のルター派神学の中には、二王国論を取りながらも、新約聖書は、キリストが教会外の領域の宇宙的支配(cosmic domination of Christ)をも語っているのを認めるという人も出てきた。
 F.ラウ(F.Lau)は、「イエス・キリストの王権とルター派の二王国論」(1960年)を書いた。その中で、新約聖書は、すべてに及ぶ(all-powerful)キリストの宇宙的支配権を教えていることは、疑い得ないと述べている。また、この世の王国(regnum mundi)の自律性ということはない。キリストの支配の下にあるということを語っている。
 しかし、ところが、ラウは、そこまで言いながらも、カール・バルトが国家のキリスト論的基礎付けをすると、それは教会を直接的に政治の領域(directly political realm)に関係させるとして反対した。いずれにしても、千年王国はいろいろなものに関係してくる。
 そして、ベルクーワが、ここで、もうひとつ言っていることは、後千年王国論は、キリスト再臨前に至福の平和な千年間があって、福音宣教が進むと言って、ある意味で楽観的なのであるが、逆に言えば、後千年王国論は、人間の歴史は罪と悪に満ち満ちているので、歴史の外側からキリストが再臨して、エルサレムにダビデ王国を建てて千年間支配するということによって、この世と歴史に対して悲観的なところがある。だから、キリストの超越的介入を望むところがある。しかし、ベルクーワは、悲観的にならない方がよい。それは、悪の決定論的見解(deterministic view of evil)になるので、それに負けてはならない。黙示録において、小羊の勝利は確実なので、信仰によって歩むべきであると語る。
 ベルクーワは言う。「悪を決定論的に見ることに、ひとたび、委ねてしまうと、人は、自分の周囲の世界において日毎に(悪の決定論の)肯定を見出し得る。換言すれば、人は、聖書と歴史の両方が、(悪の)決定論を支持していると誇らしく語り得るのである。しかし、この決定論に対して、反対が起こることは、理解できるし、また、反対が起こることを推奨する。人は、確かに、この悲観主義の確実性を歴史内的実現の確実性(certainty of an intrahistoric fulfilment)で対抗してはならない。両見解(前千年王国論と後千年王国論)の間に、どんなに大きな違いがあっても、両見解は表向きには聖書に依拠する。そして、もし、聖書の意図が、新しい確実性を歴史内的発展についての信仰者の『知識』を豊かにすることが事実としても、最初の(体の)復活を伴う超越的に入り込んでくる超自然的な千年王国(a transcendently inbreaking,supernatural millennium)を待望するあらゆる理由があるであろう。―確かに、これらの局面を欠いている黙示録20章への訴えをもたずして―『最高の発展』の途を行くことは、可能ではない。しかし、そのすべての不思議さと驚きにおける平和の支配を待ち望むことのみが可能であろう」(321頁)。
 すなわち、どうせ、この世は罪と悪がはびこっていて、信仰も福音の力も勝てないという悲観主義に、教会と信仰者は負けてはならない。この考えは、結局は悪には勝てないという悪の決定論となり、現在と将来に永遠の命を約束している信仰と福音を弱体化させてしまうからである。そうなってはならない。しかし、そうならないために、何か、歴史に中から出てくる確実性をもってきても勝てない。たとえ、歴史の中で、最高度に発展した確実性をもってきても勝てない。そうではなく、聖書が教える本来の体の復活を伴う超自然的な介入による千年王国と言われるものを、信仰によって待ち望むことによってのみ勝つことができるという意味である。

 

結び

 

以上が、第10章「千年王国」であるが、要旨を振りかえってみよう。ベルクーワの問題意識は、ヨハネの黙示録20:1-6に出てくる「千年」の解釈である。この千年間の支配がどのようなものかについては、意見が3つある。すなわち、「千年」を文字通りに解釈して、キリストが再臨して、エルサレムに地上的ダビデ王国を立てて、千年間治めるという前千年王国説(プレミレ)、キリストの再臨前に、平和な祝福の期間として千年間続くという後千年王国説(ポストミレ)がある。しかし、黙示録の「千年」というのは、文字通りでなく、千年というのは聖書では、キリストの出現から再臨までのキリストの恵みの支配を表すという無千年王国説(アミレ)がある。この問題を取り上げないでは、終末論は語れないので、ベルクーワも取り上げる。
 宗教改革者たちは、前千年王国説は、非聖書的なユダヤ教の見解に根があると見て、前千年王国説は非現実的な幻想と考え、起源も動機もキリスト教の伝統の外にあるものとして否定した。
ところが、最近になって、アルトハウスやハインリッヒ・オットー、オランダのヘンドリクス・ベルコフなどによって、状況が変わってきた。以前は、千年王国と言うと、幻想やユートピア的見解と言われたが、最近は、千年王国は、教会の霊性主義化への反作用というよい動機をもち、現実や歴史、今の時代への注目という点が、評価されるようになってきた。
 特に、オランダのヘンドリクス・ベルコフの考えは、後千年王国説に似て、千年王国の平和な支配は、歴史の進化、成長、人間の活動を含んで、キリストの平和な支配となっていくもの、一言で言えば、千年王国は、歴史の中で実現するという考えである。
 しかし、ベルコフのように、千年王国を、今の歴史の中に見ていく人もいるが、逆に、千年王国を歴史の終わりの出来事として見る人も出てきた。クルマンがそうである。クルマンは、十字架と復活に始まったキリストの支配から出発し、すでに現在、今、昇天して父の右にて、万物に対して主権を発揮している。しかし、キリストが世の終わりに体をもってもう一度この世に再臨しないで、キリストの今の現在の支配の最終段階の支配として千年王国が始まるという考えである。再臨でなく、キリストの最後の支配形態として千年王国に入るという考えである。
 千年王国についての議論は、いろいろに分かれるが、結局、黙示録20章をどのように解釈するかである。結局、千年王国論は、黙示録を文字通りに取るかどうかである。
 もし、この黙示録20章を歴史を語るものとして読むとおかしなことが出てくる。すなわち、サタンは千年間閉じ込められて、封印までされたと言っているけれど、もし、この千年間を、後千年王国説のように、歴史の中に生じる千年間とすると、サタンは千年間閉じ込められて、その力が働かにようにされているはずなのに、サタンの力は、今だに歴史の中で働いていることが説明できなくなる。したがって、後千年王国説は正しくない。
 ちなみに、後千年王国説は、ローマ皇帝のコンスタンチヌス大帝が、キリスト教に回心したときから、キリストの支配が始まって、現在に至っていて、福音が世界に広まる祝福の時代と考える。この説は、アウグスチヌスが唱えた。
 こうして、黙示録20章は、文字通りには取れない。黙示録の解釈は、サタンに対するキリストの勝利として読むべきである。すなわち、ベルクーワは、黙示録は、信仰の苦しみと迫害の中にある教会と信仰者が読んで、キリストの勝利を確信して、忍耐して、今、慰めを受ける書物して見るべきことを主張している。したがって、ベルクーワは、千年王国を教会の歴史の一側面として解釈する後千年王国説も、千年王国を歴史の終わりに待つべきものとして解釈する前千年王国説も正しくないと見る。
 すなわち、黙示録は、詳しい正確な歴史記述と考えると間違える。黙示録のかたちで戦いのある教会に、キリストの勝利を教えて慰め、励ます書物である。いずれにしても、黙示録は、黙示録的な慰めを与える書である。
 黙示録は、信仰の苦しみと迫害の中にある教会と信仰者が読んで、この世に罪や悪や死があっても、サタンが敗北し、キリストが勝利していることを確信して、忍耐して、今、慰めを受ける書物して見るべきことを主張している。そういう意味では、黙示録を遠い遠い将来を書いて、信仰生活に関係のない書物としてあるのでなくて、今、教会と信仰者が読んで、キリストの勝利を確信して慰めと励ましを受ける書物ということを主張している。
 以上が、第10章「千年王国」の要旨であるが、わかり易く言えば、ベルクーワは、黙示録20章の「千年」を文字通りに解釈する前千年王国説と後千年王国説の両方を退け、「千年」を文字通りに解釈しないで、サタンに対するキリストの勝利を表しているものと解釈する無千年王国説の立場に立っていると言える。
 ただし、ベルクーワは、自分の主張は、聖書自身の教えであると確信しているので、自分は、無千年王国説の立場であるとは、1回も言っていない。自分の立場は、聖書の教えの立場として語っているが、それを十分理解した上で、第3者的に、わかりやすく言えば、ベルクーワは、無千年王国説の立場に立っていると言えるということになる。
 すなわち、聖書、黙示録がかたる「千年」というのは、キリストの第1の来臨から第2の来臨、すなわち、再臨までの支配を意味している。そして、その期間は、キリスト出現により、既に、サタンは、強盗に入るときは、まず強い者を縛り上げるたとえにもあるように、また、サタンが天から落ちるのを見たと言われているように、キリストに敗北したのである。しかし、それでも、まだ、キリストの支配下で、働くことを許されているので、今、この世には、現在、罪、悪、圧迫、迫害などいろいろなことがある。しかし、いろいろなことがあっても、もうすでにキリストは勝利しているし、キリストが再臨したときに、サタンは永遠に閉じ込められることを知って、今、教会と信仰者は、黙示録を読んで、慰めを受け、忍耐ができるのである。黙示録は、今、教会と信仰者への慰めの書なのである。
 なお、わかり易さのために、参考までに言うのであるが、前千年王国説は、初期の教父たち、イレナイス、ジャスチン・マーター、テルトリニアスなど、近代では、ゴデー、ランゲ、ツァーン、改革派では、クロミンガ、ウーレーなどがそうである。後千年王国説は、コッケウス、ウィチウス、A.H.ストロング、オールド・プリンストンのチャールズ・ホッジ、その息子のアーチバルド・アレキサンダー・ホッジ、ウォーフィールド、そして、おそらく、ダブネー、ソーンウェル、ボエトナーなどである。
 無千年王国説は、アブラハム・カイパー、ヘルマン・バーフィンク、グレイダヌス、L.ベルコフ、ゲールハルダス・ボス、メーチェン、ストーンハウス、ジョン・マーレー、バンテル、ヘンドリクセンなどがそうである。
 ところで、無千年王国説(Amillennianlisum)という言い方は、新しい言い方であるが、しかし、その考え方そのものは古く、2世紀、3世紀の前千年王国説全盛時代にも、すでに多くの人々がもっていた考え方であった。
 また、Amillennanlisum(無千年王国説)というと、「無」(英語では、a )がついているので、キリストによる千年間の支配と聖書で言われているものまでも、全部否定してしまうような印象を与えるので、適切でなく、むしろ、聖書が「千年」という言葉で教えている本来の意味を積極的に説明しようと意図しているので、Amillennianlisum(無千年王国説)という「無」(英語で a)ではなく、Promillennianlisumと呼ぶ神学者も出てきている。Promillennianlisum(プロミレナリズム)のProは、英語で for(賛成、支持)、あるいは、in favor of(賛成している、支持している)という用語で、Amillennianlisum(無千年王国説)呼んだ方がよいと主張する神学者も出てきた。
 では、わたしたちの教派が採用しているウェストミンスター信仰基準は、千年王国について、何か言及しているか。すると、していない。しかし、キリスト再臨によって、まず第一段階で、信じる者が復活し、千年間地上を支配した後、第二段階で、信じていない者が復活して、キリストの最後の審判によって滅ぼされるという二度の復活を主張する前千年王国説を退けていることは、覚えておく必要がある。
 大教理問答87問を見ると、「復活について、わたしたちは何を信じなければならないか。」 答「わたしたちは、次の点を信じなければならない。すなわち、終わりの日には、正しいものも正しくないものも同じように、一般的な死人の復活がある。」と言われて、人類全員が一度に同時的に復活する「一般的な死人の復活」が表明されている。
 それゆえ、ウ信仰基準は、キリストの再臨によって、まず信者が復活し、信者が地上を千年支配した後、信じない者が復活して、最後の審判によって滅ぼされるという、人類には復活が2回あると考える前千王国論を退けている。あるいは、前千年王国論が取れないようになっている。ウ信仰基準が、前千王国論を取らないことは、南長老のエドワード・モリスも「ウェストミンスター信仰基準の神学」で指摘している。
 また、無千年王国論がある。この説は、聖書における千年間は、文字通りの千年間を表すのではなく、キリストの出現から再臨までの期間のキリストの恵みの支配を表すと考える。すなわち、キリストが父なる神に右に座して、現在、万物を支配していることを表すと考える。そこで、文字通りの千年王国はないので無千年王国論と言われる。特色は、千年間の文字にこだわらないことである。そして、キリスト再臨の時、信者も未信者も同時に一緒に復活する。そして、信者も未信者も同時に最後の審判を受けると考える。
 こうして、千年王国、すなわち、キリストと共なる信者の千年間の支配ということについては、4つの立場がある。そして、改革派は、契約期分割説、ディスペンセーショナリズムの立場の人はいないが、他の3つの立場に分かれている。ウェストミンスター神学校のウーレーやカルビン神学校のクロミンガなどは前千王国論の立場である。また、後千年王国論の立場の人は、アウグスチヌス、オールド・プリンストンのチャールズ・ホッジ、ウォーフィールドなどがそうである。また、無千年王国論の立場の人は、アブラハム・カイパー、メーチェン、ゲールハルダス・ボス、ベルコフ、ジョン・マーレー、ストーンハウスなどがいる。
 わたしたち、日本キリスト改革派教会の教師たちは、どうかと思うが、吉岡繁先生は「実践的伝道論研究」において、自分の立場は、ウェストミンスター神学校で新約学を教えていたストーンハウスにならって無千年王国論であると表明している。おそらく、改革派の先生方は、無千年王国論の立場が多いのではないかと思われる。わたしも、無千年王国論の立場である。 このように、改革派神学者の各々の個人の神学的立場はいろいろであるが、ウ信仰基準は、特定の立場を表明していない。確かに、ウェストミンスター信仰基準は、明白に、前千王国論を退けているが、しかし、だからと言って、ウェストミンスター信仰基準は、後千年王国論を表明しているとか、あるいは無千年王国論を表明しているとも言えない。ウェストミンスター信仰基準は、千年王国論について、特定の立場を表明していない。前千王国論を退けているという表現が最も適切であろう。 実は、信条史を見ると、プロテスタントの最初の信条であるルター派のアウグスブルグ信仰告白も前千王国論を退ける表明をしているし、さらに、ウ信仰基準よりも、100年ほど前の第二スイスイ信条も、前千王国論を拒否する表明をしている。また、南長老のエドワード・モリスの「ウェストミンスター信仰基準の神学」によれば、ウェストミンスター信仰基準以前の英国の「39ケ条」という信条の下敷きになった「エドワード信条」に、すでに、前千王国論が誤りであることの表明があると語っている。ですから、そういう背景を踏まえて、ウェストミンスター信仰基準も、前千王国論を退けていると思われる。千年王国論というのはなかなか難しいものと思う。
 なお、わたしたちの教派の日本キリスト改革派創立60周年記念宣言である「終末の希望についての信仰の宣言」においては、千年王国については、どうか。すると、下記のようである。


四 キリストの再臨と神の国の完成
(二)体の復活 復活の日に、主キリストは、すべての死者をよみがえらせ、敵である死を滅ぼされます。
 この表明の仕方は、ウェストミンスター信仰基準と同じで、信者と信者でない者の復活を同時に1回のものとして記しているので、信者と信者でない者の2回の復活を主張する前千年御王国説が取れないようになっている。しかし、だからと言って、後千年王国説、あるいは、無千年王国説を表明しているわけではない。見解が分かれるものは、信条文書に書かない方がよいので、この「宣言」の仕方は、とてもよかったと思う。
 なお、千年王国については、岡田稔先生の「教理学教本」においては、まとまったかたちでの記述がなく、言及もごくわずかであるので、Lベルコフの「組織神学」の「千年王国の諸見解」(708頁-719頁)、モ-トン H.スミスの「組織神学 Ⅱ」の「1.千年王国(795頁-800頁)、ドナルド・マッキム編「改革派信仰百科全書」の「千年王国」(240頁-241頁)、リチャード A.マラーの「ラテン語・ギリシャ語神学用語辞典」の「千年王国」(66頁-67頁)、ヘルマン・バーフィンクの「最後の事柄」の当該個所、アンソニー・フッケマの「聖書と将来」の当該個所を読んで、基本的、標準的、教科書的理解を得たらよいと思う。
 また、ベルクーワの千年王国論をよく理解したいのであれば、CRCのカルヴィン・カレッジの教義学教授のゴードン・G・スパイクマンの「宗教改革的神学―教義学をするための模型」の「終末論の基本型」(534頁-543頁)を読むと、ベルクーワの千年王国論を踏まえて書かれ、要所要所でベルクーワの千年王国論からの引用がなされているので、ベルクーワの千年王国論がわかりやすい。
 千年王国については、前千年王国、後千年王国、無千年王国の他に、19世紀のジョン・N・ダービー(1800-1882)によって唱えられ、カイロス・I・スコーフィールド(1843-1921)によって広められた「契約期分割説」(デスペンセーショナィズム Dispensationalism)もある。「契約期分割説」は、前千年王国説から出てきた考えで、非常に細かで、複雑な考えで、創造から終末までを、神と人間との7つの契約期間に分け、それぞれの期間を支配する原理が異なり、人類の復活も複数回、人類に対する神の審判も複数回と主張することが特色である。
 千年王国にいては、説がいろいろに分かれるので難しいが、わたしたちは、自分の説が聖書に立つ、黙示録に立つと確信していることが大切であるので、聖書をよく学び、黙示録をよく学びたいと思う。