豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)


豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名天下人関白太閤三英傑の一人。

初め木下氏名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。

尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。(出自参照)当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変明智光秀に討たれると「中国大返し」によりへと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信忠の遺児・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白太政大臣に就任し、豊臣姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地刀狩令惣無事令石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるがの征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。

墨俣の一夜城金ヶ崎の退き口高松城の水攻め中国大返し石垣山一夜城など機知に富んだ功名立志伝が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。

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