日本とキリスト教

歴史

 

キリスト教伝来

日本にいつキリスト教が到来したかということに関しては、中国景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説がある

史実として確認されている日本へのキリスト教の最初の宣教は、1549年に、カトリックの司祭、イエズス会フランシスコ・ザビエルらによるものである。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得した。この頃、キリスト教は「耶蘇教」(やそきょう、耶蘇はラテン語 Jesusの中国音訳「耶蘇」の音読み)、キリスト教徒は「吉利支丹」(キリシタン)、キリスト教宣教師は「伴天連」(バテレン)と呼ばれた。織田信長が宣教師に対して好意的であり、その政策を踏襲した豊臣秀吉も当初はキリスト教を保護した。

鎖国とキリスト教禁止

しかし、九州においてキリシタン大名が仏教徒や神道徒を迫害、さらにポルトガル商人によって日本人が海外に奴隷として売られている事を知った秀吉は、1587年バテレン追放令を発布して、宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明した。しかし、その後しばらくは、キリスト教は秀吉のポルトガルとの南蛮貿易を優先する政策のため事実上黙認されていたが、その後1596年サン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、翌年長崎でキリスト教徒26人を処刑した。これが日本二十六聖人殉教である。

その後権力の座に着いた徳川家康も、当初はキリスト教に対しては寛容な態度をとっていたが、1612年および翌1613年禁教令を発布し、教会の破壊と布教の禁止を命じた。さらに1637年島原の乱が起こったことにより、江戸幕府は徹底した禁教政策をとっていった。乱の直接の原因は、それぞれ島原天草を支配していた島原藩唐津藩による残酷な収税制度にあったが、同地にはキリシタン大名であった有馬晴信小西行長の統治時代に入信したキリシタンが多く、一揆の盟約結成の求心力としてキリスト教信仰を基盤においた内部統制も行われたこと、そのことが一向宗法華宗などのような求心性の強い宗教勢力が排他的な一揆的結合の核となって強大な政治勢力を築いた事態が再来する危機を感じさせたことから「キリシタンによる反乱」と単純化されて規定され、また事件を重く見た幕府は1639年寛永の鎖国令を発してポルトガル船の来航を禁止、九州沿岸の防備体制を整えると共に、キリスト教徒の根絶に乗り出した。

以後キリスト教徒の探索と迫害が行われ、激しい迫害によってキリスト教は根絶させられたかのように見えたが、長崎などで一部の信徒が地下にもぐり、潜伏キリシタンとして信仰を守り続けた。

1858年の日米修好通商条約によって、居留地に教会を建設することと、居留アメリカ人の信教の自由が認められたが(後に結ばれた他国との条約も同様)、日本人に対する禁教は続いていた。禁教令からおよそ250年後の幕末1865年3月、出来たばかりの長崎・大浦天主堂にてフランス人ベルナール・プティジャン神父(後に司教)の前に潜伏キリシタンが現れて信仰告白を行い(信徒の発見と大浦天主堂)、その後、続々と神父の元に詰めかけた。そして彼らが祈りと洗礼の儀式などを守り受け継いできたことが明らかになり、「信徒発見」のニュースが欧米に伝えられた。潜伏キリシタンの多くはカトリック教会に復帰したが、同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治政府もこれを継続し、拷問や3,400人におよぶ流刑などが行われた。また他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。

明治維新後

しかし、この明治政府のキリスト教弾圧は欧米諸国からの強い抗議を受け、1873年に明治政府はキリスト教禁制の高札を撤去することとなる。

キリスト教への禁止撤廃後は、キリスト教とその教会は、純粋な宗教的動機にとどまらず、西洋文化に触れる目的でまずやってくる日本人をもひきつけるようになる。カトリックプロテスタント正教会とも禁教時代から宣教師を日本へ派遣しており、前述のようにそのなかには秘密裡に宣教をするものもあったが、いまや公に日本人信徒を獲得すべく、教会、伝道所を立てて宣教を行った。また海外からの宣教とは独立して、内村鑑三らによる無教会という信仰のあり方も主張された。

カトリックとプロテスタント諸教派は、宣教の補助手段またキリスト教の社会実践として、学校(ミッションスクール)や病院をたて、活動を行った。こうした学校を通じ、とくに都市部の知識層において、学校教育を通じてキリスト教とその文化に触れ、影響をうけるものが出た。またキリスト教実践の延長として社会福祉活動を行うものもいた。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現コープこうべ)などを、キリスト教文化の影響下に生まれた運動としてあげることができる。

また、日本の正教会は19世紀半ば以来の歴史を持ち[65]、発足間もない時代からニコライ・カサートキン神品を最初に派遣したロシア正教会の指導下におかれており、19世紀半ばに函館から始まった日本正教会の伝道は、明治末には日本全国におよび、北海道・東北・東京・関西・九州を中心に教会が建てられた。主にロシアからの資金援助により、東京神田に壮麗な大聖堂:ニコライ堂も建設された。

戦前・戦中

戦前・戦中を通じ、キリスト教に対して社会の環境は厳しいものであった。キリスト教諸派に対する政府の統制は1930年代からとりわけ厳しさを増し、各教派とも難しい状態におかれた。キリスト教徒にも靖国神社参拝が強制され、解散を命じられた教派も出た。

カトリックでは1932年上智大生靖国神社参拝拒否事件が起こり、靖国参拝の強要に反対した学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解「第一聖省訓令」「祖国に対する信者のつとめ」を出し、以後戦争については沈黙した(ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる)。

プロテスタント諸教派は、戦時中その多くが政府の誘導下に皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会の宣言により合同教会「日本基督教団」を設立したが、ほとんど全ての教会に求道者を装った特高の密偵が入り厳しい監視下に置かれた。そのため、日本基督教団では会堂に神棚を設置し、礼拝前に宮城遥拝など国民儀礼を行うなどして保身を図った。また日本基督教団は政府の政策に協力して軍用機日本基督教団号」を献納し、さらに「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」を出して大東亜戦争は聖戦であると主張し、神社参拝を強要するなど、アジアのクリスチャンへの弾圧に加担した。しかし、偶像を否定する者や再臨信仰を持つ教会では牧師連行などの弾圧を受けた

ホーリネスの日本基督教団第六部(元日本聖教会)、同第九部(元きよめ教会)、宗教結社東洋宣教会きよめ教会の3派は、その再臨信仰により国体否定・神宮冒涜の不穏結社とされ、1942年11月、一斉検挙により結社禁止・教会解散・牧師長期拘置などの厳しい弾圧を受け、7名の牧師が殉教した。

救世軍1940年7月、イギリス軍スパイの容疑をかけられ外国人士官(宣教師)が逮捕され、また敗戦まで「日本救世団」に名称変更を強制されたセブンスデー・アドベンチスト教会も再臨信仰が不敬に当たるとして活動禁止を余儀なくされた。また神社参拝を偶像崇拝として拒否した美濃ミッションら少数のキリスト者は激しい迫害にあった。


正教会は、1917年ロシア革命によりロシアからの資金と宣教の両面での援助が断たれたことから、苦しい立場におかれていた。加えて、ロシア政府と教会の関係に厳しい目を向けていた日本政府は、ロシアの共産化以後、さらに正教会を厳しく監視するようになる。このため第2代日本府主教であるセルギイ府主教は、政府の圧力により退位を余儀なくされた。そして1923年関東大震災で東京復活大聖堂(ニコライ堂)も含む東京市内のほとんどの教会が破壊された。資金難の困難な情勢の中でニコライ堂は再建されたが、他の東京市内の教会の殆どは再建されず、東京市内の教会は神田の東京復活大聖堂の教会に再編された

現代日本のキリスト教

第二次世界大戦後は、合同教会としての日本基督教団の組織はGHQの意向により存続し、アメリカのエキュメニカル運動体の支援により再建された。連絡組織としてエキュメニカル派ではカトリックなども包含する日本キリスト教協議会(NCC)がある。またプロテスタントの各教派の教会も、日本基督教団と決別して再建し、救世軍など活動を禁止されていた教派も活動を再開した。福音派の連絡機関としては日本福音同盟(JEA)が結成されている。日本の福音派の特徴は聖書信仰と偶像崇拝の拒否である。

なお、日本キリスト教連合会は、カトリックやプロテスタントも含まれるが、国への対応機関であり、上記のNCCやJEAとは性格が異なる。

政治運動ではなく、さまざまな手段を用いた布教を主たる活動とする教会の台頭も著しい。キリスト者自らがイエス・キリストについての『聖書』の言葉を聞き、イエス・キリストが自らの救い主であることを受け入れ、人生観、人生がいかに変化したかを語る証しによって、キリスト者になる者が一部の教会では増えている。近年、海外のキリスト教の助力により、パワーフォーリビング(2007年に配布開始)やラブソナタなどの大規模な布教が行われている。

また、日本におけるエキュメニカル派の動きとしては、教役者や学者の間での交流と、信徒を中心とした交流が指摘される。元々、戦時中の政府の政策で一本化された日本基督教団であるが、エキュメニカル派の教団として現在も存続している。1960年代の学生運動のときには、靖国神社参拝をめぐり、プロテスタントとカトリックの大学生を中心とする信徒が合同で活動をおこなった。一方教会間の交流としては『新共同訳聖書』の共同翻訳事業が特筆される。この『新共同訳聖書』においては、プロテスタント諸派の一部が「外典(アポクリファ)」として『聖書』から除外したもの(『集会の書』『マナセの祈り』など)を「旧約聖書続編」としてまとめている。これは日本の聖書翻訳事業においては画期的なことである。また2006年8月には京都で世界宗教者会議が行われ、他宗教を含めた交流の場がもたれた。

カトリック教会では、当時の教皇であったピオ12世の方針もあり、日本のカトリック教会は政治・社会問題については消極的で、きわめて保守的な態度をとった。フランスやイタリアで興った社会主義とカトリックとの共存を目指す動きは、学生を中心とする知識人の一部には伝わったが、その力は大きくはなかった。1960年代に入ると、教会内部では第2バチカン公会議に代表されるような自己刷新の動きがあり、日本のカトリック教会は信徒の参加と日本独自の文化への配慮を重視するようになり、仏式・神式の儀式への参列・焼香等が一定の条件付で許可されるようになったほか、プロテスタントとの一致運動(エキュメニズム)にも積極的に参加している。1987年にはカトリックとプロテスタント諸派が共同して翻訳された新共同訳聖書が刊行された。


また正教会は、戦後にソ連との外交関係が途絶してアメリカを中心とする連合軍が日本に入ったことにより、アメリカ合衆国に所在する正教会(アメリカ正教会の前身)の管轄下に一時的におかれた。アメリカから主教が来日し、日本の正教会の指導に当たった。また日本からニューヨークのウラジーミル神学校に多数の若い神学生が留学した。その後、1970年に日本教会はモスクワ総主教庁の庇護下で聖自治教会となり、自身で主教を選出する権限を得た。東京、仙台、京都が主教座教会となっている。また、ロシア正教会の直接の管轄下にあることを選んでいたグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」に再編成された。紆余曲折があったが、現在[いつ?]では日本正教会と駐日ポドヴォリエの関係は良好である。

20世紀後半以降の日本はクリスマスバレンタインデーのように年中行事として、或いはキリスト教会での結婚式の選択やキリスト教系ミッションスクール人気などの形で純粋な信仰とは別にキリスト教の文化・行事が国民の間に浸透しつつある

2004年現在日本の総人口の約1%がキリスト教徒である。そのうちカトリックが約45万人、プロテスタント諸派が計約65万人、プロテスタントで最も信徒数の多いエキュメニカル派合同教会日本基督教団が約10万人である。プロテスタントのうち教会員数は日本基督教団が多いものの、礼拝に出席する信徒の実数は福音派日本福音同盟の方が多い。また聖霊派日本リバイバル同盟も教勢を伸ばしている。正教会(日本ハリストス正教会)は約2.5万人。

なお、異端とされる教派についても言及すると、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)が公称約12万人、最大勢力とされるエホバの証人が約22万人とされている。通常この2派は正統派の立場からはキリスト教徒総人口には含めない。


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