宗教と科学

   (1919年 3、4月聖書の研究 内村鑑三)

創世記(1・1-31)


宗教と科学との関係、ことに創世記第一章の研究は、わが国においても今より三、四十年前には、キリスト信者のもっとも興味を有したる問題であった。しかるに今は、かくのごときは古き問題、とくにすぎたる問題とせられてかえりみられない。大正八年の日本の青年に対して創世記第一章を講ずるがごときは、近世思想の何たるを知らざる無学者のなすところである。現代の活問題は国際連盟と万国平和とである。何を苦しんでか四千年のむかしに帰り、モーセの著書のごときについて、宗教と科学との関係を研究するの必要あらんやと。これ現代人の声であって、また現代の教会の声である。現代の教会において創世記第一章のまじめに研究せられたる事実のごとき、余は久しくこれを聞かないのである。
しかしながら、いずれがはたして真であるか。創世記第一章ははたして、われらに無関係なる古き記述にすぎないか。はた昔の信者の信じたるごとく、こはわれら各自の信仰の根本に大関係ある貴き書であるか。しばらく忘却せられたる問題なりといえども、今やあらためてふたたぴこれを研究するの必要がある。
しかして創世記第一章に対し二個の反対説がある。あるいはいわく、「これ古きヘブライ人の神話にすぎず。
今日科学的に何らの価値あるなし。ただわずかに骨董品としてこれを扱うべきのみ」と。あるいはまた近世の聖書学者らはいわく、「興味ある思想なり。バビロンの世界創造説をヘブライの信者が改訂したるものなり」と。
かの有名なるF・デリッチが、前ドイツ皇帝の前において“Babel und Bibel(バベルと聖書)と題する講演をなしたることあるは、人のよく知るところである。しかしながら、もし彼らの説のごとくならんか、聖書はまことに価値なき書であるといわざるを得ない。かかる書をいかにして神の御言(みことば)として信頼することができようか。かかる書を、天地は廃〈う〉せても廃せざるものなりというがごときは、虚妄もまたはなはだしというべしである。しかしながら余輩はしか信ずることができない。
マタイ伝五章ないし七章にあるだけ貴きものが、創世記にもまたあるのである。ことにその第一章のごときはおどろくべき記録である。これを研究するによりて、ひとり学問上貴重なる真理を発見するのみだらず、また信仰上もっとも豊富なる大真理を獲得するのである。
ただし聖書を研究するにあたりて深く注意すべきは、聖書はかくいうに相違なしとみずから忖度(そんたく)すべからざることである。聖書ははたして何を教うるか、まず公平にこれを学べよ。しかしてのちにこれに対する自己の態度を定むべきである。聖書のいうところをみずから予定し、聖書をして自己に賛成せしめんとするがごとき、現代人の態度は全く真理探究の途をあやまるものである。

創世記第一章第一節において天地創造の大事実は宣言せられた。その第ニ節以下は、神のいかにしてこれを創造したまいしか、その順序について述ぶるものである。
しかして天に関しては第一節の言をもって尽き、第ニ節以下においては主として地の創造を説く。
地は定形(かたち)なく、曠空(むな)しくして、黒暗(やみ)淵(わだ)の面にあり。神の霊、水の面をおおいたりき(ニ〉
事は幾億万年のむかしに属す。淵といい水というも、いまだ淵あるなく水あるなし。しかるに、モーセはなぜかくのごとき文字を用いたのであるか。これいわゆる「モーセ讒謗(ざんぼう)文学」のよって起こるゆえんである。
インガーソル著「モーセ誤謬論」"Moses' Mistakes“等にもこのことを指摘して非難している。されどもすこしく誠実をもって考えよ。物あり、しかしていまだこれをあらわすべき語なし。ここに言者の苦心がある。たとえば、わが国において今は「ガス」と称するも、始め物ありていまだ語なく、これをあらわすに術(すべ)なくして、ついに外国語をそのまま用いたのである。われら自身にもまたそのたぐいの事実がある。何の語をもってするも
表現するあたわざるものがある。われらの霊のごときすなわちこれである。霊あり、されども語るあたわず。ここにおいてか、やむを得ず一字をあててこれを「霊」という。モーセもまたしかり。天地創造の偉大をあらわさんと欲してその語を得ず。よって自己の有するあらゆる語をもってこれにあてたのである。 ・
地は「定形なく」また「曠空し」という。ヘブライ語にて「トーフ」およぴ「ボーフ」である。定形なきの意を、積極的および消極的両方面よりあらわしたのである。「黒暗、淵の面にあり」という。真暗にして混沌たるの意である。外は定形なく内は混沌たりという。され
どもこの混沌の上に何ものか、これをおおえるものがあった。「神の霊、水の面をおおいたりき」と。あたかも鶏の卵をいだくがごとく、母の児をいだくがごとく、神の霊が地の混沌をつつみいたりという。さらばこの混沌は決して混沌をもって終わるべきではない。かならずやそのうちより、何ものかが出現せざるを得ないのである。
神、光あれといいたまいければ光ありき。神、光を善しと見たまえり。神、光と暗をわかちたまえり。
神、光を昼と名づけ、暗を夜と名づけたまえり。夕あり、朝ありき。これはじめの日なり(1・3-5)

第一日は光の出現である。神、光あれといいたまいければすなわち光あり。定形なき時にまず光あらわれたのである。まことに壮大なる事実である。 ・
神いいたまいけるは、水の中に穹蒼(おおぞら〉ありて、水と水とをわかつべし・…・・。すなわちかくなりぬ。神、穹蒼を天と名づけたまえり。夕あり、朝ありき。これ二日なり(1・6-8)

第二日は天地の分別である。神、真暗なる水を上下にわかち、その中問に、ある場所を生ぜしめたもうた。すなわち地は下に、天は上に、しかして空間(firmament)なるものがその間にできたのである。神いいたまいけるは、天の下の水は一つ処に集まりて乾ける土あらわるべしと。すなわちかくなりぬ。
神、乾ける土を地と名づけ、水の集まれるを海と名づけたまえり。神これを善しと見たまえり。神いいたまいけるは、地は青草と種を生ずる草 と、その類にしたがい果を結ぴ、みずから核(たね)をもつところの果を結ぶ樹を地に出だすべしと。すなわちかくなりぬ・・・・・・。神これを善しと見またえり。夕あり、朝ありき。これ三日なり(1・9-13)

第三日は地球上における水と陸との区別である。神、大洋およぴ大陸または島を作り、しかしてただちに植生を発出せしめたもうた。かくて地は緑樹青草をもっておおわるるにいたったのである。神いいたまいけるは、天の穹蒼に光明ありて、昼と夜とをわかち、また天象〈しるし〉のため時節(とき)のため日のため、年のためになるべし。また天の穹蒼にありて地を照らす光となるべしと。すなわちかくなりぬ。神、二つの巨(おおい)なる光を造り、大いなる光に昼をつかさどらしめ、小さき光に夜をつかさどらしめたもう。また星を造りたまえり……神これを善しと見たまえり。夕あり、朝ありき。これ四日なり(1・14-19)

第四日は天体の出現である。神、天に日月星晨あらしめよといいたまいて、すなわちもろもろの天体あらわれ、したがって四季を生じ、またこよみを編み得るにいたった。
神いいたまいけるは、水には生物さわに生じ、鳥は天の穹蒼の面に、地の上に飛ぶべしと。・・…・神これを善しと見たまえり。神これを祝していわく、生めよ、ふえよ、海の水に充てよ。また禽鳥は地にふえよと。夕あり、朝ありき。これ五日なり(1・20-23)

第五日は水中および空中の動物の発生である。神の言にしたがいて、大洋には魚類またはこれに属する動物を、空中にはもろもろの鳥類を生じ、しかしてその羽翼の音聞こえて、地はますますうるわしき所となった神いいたまいけるは、地は生物をその類にしたがいていだし、家畜、昆虫〈はうもの)と、地のけものをその類にしたがいていだすべしと。すなわちかくなりぬ。・・・・・・神これを善しと見たまえり。神いいたまいけるは、われらにかたどりてわれらの像(かたち)のごとくにわれら人を造り、海の魚と、空の鳥と、家畜と、全地に匍(は〉うところのすべての昆虫を治めしめんと。神そのかたちのごとくに人をつくりたまえり。 …・・・神、その造りたるすべてのものを見たまいけるに、はなはだ善かりき。夕あり、朝ありき。これ六日なり(1・24-31)

第六日は陸上の動物の発生と人類の創造である。神、地は生物をその類にしたがいていだすべしといいたまいて、すなわち家畜と爬虫(蛇類なり)と獣類とが造られた。また最後に神、われらにかたどりて人を造るべしといいたまいて、人類が創造せられた。しかして人類の創造をもって造化は終局に達したのである。

ゆえに第七日は神はそのわざを竣(お)えてやすみたもうたのである。

はじめに光の出現あり、つぎに天地の区別あり、つぎに水陸の区別あり、あわせて植物の発生あり、つぎに天体の出現あり、つぎに水中およぴ空中の動物の発生あり、最後に陸上の動物の発生および人類の創造ありて、しかるのちに神は安息に入りたまえりという。まことにおどろくべき記事である。試みにこれをモーセと同時代の他の人の思想と比較して、そのいかに大なる霊感 (インスピレーション)なりしかを知ることができる。今日といえども、無学の農夫らの間には、いまだ、地球の自転しつつ太陽の周囲を廻転すというがごとき事実をさえ信ぜざるものがすくなくない。いわんや今より四千年前においてをや。モーセ時代の記録にして天地創造を伝えたものにバビロン人の説がある。いわく、はじめタムテと称する巨大なる女ありて世界を包めり。しかるにベルと称する神きたりて、この女を胴より二つに斬りたれば、その上部は天にのぼりて月日星晨となり、下部は地球となれり。つぎにベル神、おのが僚神を呼ぴきたり、自己の首をきらしめ、これよりいでし血と土とを混じて万物を造れり…・・・…と。これを創世記の天地創造説と比較してその差はたしていかん。ベル創造説のごときは、モーセの記事の前には全く問題とすべからずである。


バビロンの天地創造説よりもはるかに優秀なるは、わが国史のそれである。松苗著『国史略』は真摯なる日本歴史として、今の文部省編纂の歴史の比ではない。しかしてその開闢説にいわく、天地陰陽のいまだ剖判(ほうはん)せざる、渾沌たる・ こと難子のごとし。溟(めい)けいにしてしかして芽をふくめり。すなわち清軽なるもの磚歴(はくれき)して天となるにいたって、重濁なるもの淹滞して地となる。神聖その中に生まるるあり、・・・・・・これ大いにうるわしき思想である。されども「神聖その中に生まるるあり」というにいたって、そのへブライ思想との差いかにはなはだしきかを認めざるを得ない。
聖書はいう、「はじめに神、天地を創造したまえり」と。日本歴史はいう、「神、天地の中より生まる」と。
神もし天地の中より生まれたるものならんか、神はいかにして天地を足下に踏まえてこれを支配することを得べき。天地創造説のうち優秀なるものすらこれである。四千年前のモーセの思想は、百年前の日本人の思想よりもはるかに偉大かつ完美であった。


つぎに注意すべきは、「創造」なる語の用法である。はじめに神、天地を「創造り」たまえりといい、のちにはみな何々を「造り」といい、しかしてさらに二十七節にいたって神またその像のごとくに人を「創造り」たまえりという。「創造」はヘブラィ語の「バラー」にして、「造」は「アサー」である。前者は特別の創造にして、後者はだいたいの創造である。神、はじめに宇宙を造りたまいし時にはこれを特別に創造したもうた。つぎに水陸、または天体、または植生、または動物を造りたまいし時には、だいたいの創造にすぎなかった。最後に、おのがかたちにかたどりて人を造りたまいし時には、ふたたび特別の創造をおこないたもうた。すなわち知る、聖書は始めより人に特別の重きをおくことを。人を地上に存置してこれを撫育することが、神の造化の目的であった。このゆえに神は人を造るにあたって新らしき造化をおこないたもうたのである。人は万物よりも貴しという。


まことにしかりである。一人の乳児はアラビヤ名馬百万頭にまさる。全世界をもってするも、人一人の貴きにはおよばない。さらば何ぴとがこの真理を教えたのであるか。聖書をおいて他にこれを教うるものはいずこにもないのである。


 宗教と科学、創世記第一章の記事と近世の天然科学との調和、モーセのことばと天文学、動植物学との関係、これ余輩の青年時代における大いなる疑問にして、また熱心なる研究の題目であった。これがためには幾百冊の書をひもどいた。ことにスイスの学者にして、のち米国に移住したるアーノルド・ギョーの創世記第一章論、力ナダの学者ドーソンの著等は、余輩のもっとも精読したるところであった。しかるに今日の青年にしてかくのごとき問題を憂うるもの、はたして幾人あるか。近世人ははなはだのんきである。彼らは、宗教と科学との衝突のごときを意に介しない。彼らのあるものは、ひとえに聖書の言をとりて、学者の所説には一顧をも与えない。またあるものは、学問と宗教との調和のごとき、とうてい不可能なりと称して、二者を別個に両立せしめんと欲する。またあるものは、近世科学に符合せざる聖書の記事をもって、全く迷妄なりとして、これを葬り去るのである。


しかしてまことにモーセのことば中、近世科学と符合せざるがごとくに見ゆるものは少なくない。たとえば一日にして水陸の区別成り、一日にして植生ことごとく出現し、一日にして諸動物みな発生したりというがごとき、これである。ある人の計算によれば、地球の成立には一億年または三、四億年または十五億年以上をついやせりという。石炭層の形成のみにても少なくとも九百万年を要したりという。しかるにこれを一日と称するはいかに。またたとえば、第四日に太陽と月と星との造られたりというがごときもそうである。星の出現は、地球の成立、すなわち水陸の区別よりもはるかに以前のことに属するのである。また、神、植物を造り、禽鳥を造り、家畜と爬虫と獣類とを造れりといいて、あたかも幼稚園の小児の玩具を作成するがごとき観がある。植物または動物は神によって直接に造られたものではない。自然の進化発達を経て今日にいたりしものである。ゆえにモーセの記事は、進化論と天文学とにそむく非科学的思想なりとして排斥せらるるのである。


しかしながら、まず考うべきはモーセの時代である。今より四千年前、神武天皇がわれらと相距〈さ)るだけさらに以前にさかのぼりて、われらと相距る人の筆に成りし天地創造説として、はたしてかくのごとき記事を想像し得るか。試みに聖書以外の天地創造説を見よ。かのバピロン伝説のごときはほとんど意味をなさず、これを批評するの価値だになきものである。しかのみならず、近世人は今日の科学を誇るといえども、今より四千年後におよぴて、今日の科学を批評するものはこれを何というであろうか。モーセの記事は時代的に見てたしかに驚嘆すべき記事である。


さらにすこしくモーセに対し、同情ある観察をくださんか、最初に光、出現したりとの観念のごときは、人の思想のとうていおよばざるところである。光はただ太陽より来たるとは、今より百五十年前にいたるまで人類普通の思想であった。何ぴとも太陽をはなれて光を考うることはできなかった。いずれの国民も、神といえば光を思い、光といえば太陽を思いしがゆえに、太陽を神として拝したのである。しかるに言あり、いわく「太陽いまだ造られざるにさきだちてすでに光ありき」と。こははたして何びとの言であるか。空想か。風刺か。いな、これ天よりの啓示(しめし)であったのである。しかして天然学者はようやく近来にいたりて太陽以外に光ありとの事実に注意するにいたった。電気の光すなわちこれである。いわゆる北光は、電気の作用によって生ずる光にして、太陽と関係なきものである。ゆえに天地なお混沌たりし時にあたり、まず神、光あれといいたまいければ光ありきとはおどろくべき思想である。
モーセは天地万物発生の順序を示していうた。はじめに植物、つぎに動物、最後に人類と。しかして動物中にありてはまず魚類あり、つぎに鳥類あり、つぎに爬虫と家畜と獣類ありと。もし地質学者をして、種々なる標本の陳列によって進化の順序をあらわさしめば、かくのごとくかんたんなるあたわず、その境界複合して、截然(せつぜん)と相わかつことができないであろう。しかしながら、万物創造の大略を教えんと欲せばモーセのごとくにいうのほかないのである。その順序は真実にして、その説明は最良である。ゆえにモーセのことばは、だいたいにおいて決して誤らずということができる。


かの四日目に日と月と星との造られたりというにいたっては、一見非科学的のはなはだしきもののごとくである。されども学者の研究によれば、地球は石炭の形成せらるるまで混沌たる状態にありしが、石炭の形成ととむに空気清澄となり、はじめて太陽の光これに達したりという。ゆえに地球の立場よりすれば、四日目にいたって日と月と星とが出現したのである。.


もちろん現今の級密なる学問よりいわば、モーセの記事中、非科学的と見ゆるもの少なからずどいえども、これかならずしもその誤れるがゆえではない。いまだ明白ならずというにすぎない。しかのみならず、だいたいにおいて正確なることはこれを疑うことができない。だいたいにおいてモーセの記事は科学的である。しかしながら、聖書は本来科学の教科書ではない。聖書は天然については、その道徳的または信仰的方面を教うるものである。神と天然との関係いかん、神の子はいかに天然を見るべきか、これ聖書の明らかにせんと欲するところである。しかしてこの立場よりして、われらは科学の示すあたわざる多くの貴き真理を聖書より学ぶのである。


 「神、光あれといいたまいければ光ありき」「神いいたまいけるは……・・・」と、これ造化の一段ごとにくりかえさるる語である。しかしてこの語の中にきわめて深遠なる真理がある。「神いいたまいければ」、しかり、始めなく終りなく、いっさいの能力をおのれに備えたもう神うんぬんといいたまえば、すなわちそのこと実現するのである。聖書にいうところの言は、ただの「言」ではない。ヘブライ語の「ダバール」に二重の意味がある。はじめに思想あり、しかしてのちに行為あるとき、これを称して「言」という。神、光あれといいたもうとき、まず神に光を造らんとの思想がみる。しかしてこれを行為に実現してすなわち光があるのである。信仰の立場より見て、神の天地万物の創造は、みなこの順序によっておこなわれたるものである。はじめに神に造化の思想あり、しかしてのちにこれを行為に実現して、造化は成ったのである。造化の根源は神の思想にある。


いかにしてこのことを知り得るか。これを試験するあたわず、しかしながらこれを各自の信仰の実験によって知ることができる。神を知らず、キリストを知らざりし余が、いかにして今の光を有するにいたりしか。余みずからこれを知らずといえども、あるいは余が銃を肩にして山野を跋渉したる時か、あるいは余の睡眠中か、いつか神の思想が余の心に臨んだのである。しかしてこれによって、余はキリストの十字架が余の生命の源なることを知ったのである。このことを証明せんとして何というべきか。「神この罪人に光あれといいたまいければ光ありき」というのほかなし。余の光もまた、神の思想より来たのである。そのごとく、天地万物の根源は神の思想にある。「神うんぬんといいたまいければ、かくなりぬ」である。


 「タあり、朝ありき。これ一日なり」と。あるいはこれをユダヤ思想なりという。ユダヤ人の一日は、日没より日没までなりしがゆえである。しかしながら、ユダヤ人のこの観念は、かえって創世記の記事より来たのであろう。この語の深き真理を説明するものもまたユダヤ思想にあらずして各自の信仰上の実験である。ある時、われらの心に光臨みてこれを照らし、歓喜と感謝をもってあふるることがある。これ朝である。しかるにようやく進みてある所にいたれば、また暗黒におちいらざるを得ない。これ夕である。その時、神うんぬんあれといいたまえば、たちまち新たなる光臨み来たりて、ふたたぴ朝となるのである。キリストの贖罪は三十年間余をなぐさめたる光であった。しかるにある所にいたりて、余はこれのみをもってはとうてい堪えがたきを感じた。その時、余の心は暗黒の夕であった。しかして神また光あれといいたまいければ、ここにキリスト再臨の新らしき光は余の心に臨んで、ふたたぴ輝く朝を迎えたのである。


まことに夕あり、朝ありき、これ一日なりである。詩人ホワイトの歌いしごとき、人のはじめて宵の明星を仰ぎし時の経験は、われら各自もまたこれを有するのである。
天地もまたしかり、はじめ各種の植物発生して地はいとうるわしくあった。しかしながらその繁殖の極に達したる時は行きづまりの夕であった。その時、神、動物あれといいたまいければ動物いでて、また新天地は開けたのである。これ聖書の宇宙万物観である。夕あり、朝ありき、これ一日なり。天地はこの順序によって創造せられ、われらの小なる霊魂もまたこの順序によって救わる。彼を造りし神は、同じ法則をもってこれをまもりたもうのである。大地球の発達の歴史を証明するものは、われらの信仰の実験である。宗教と科学との調和は、ここにこれを発見すべきである。


 夕あり、朝ありき、しかして今はまた夕にせまったのではないか。世界はふたたび暗黒におちいったのではいか。暴逆なるドイツはほろびて、新らしき平和は世に臨みつつある。しかしながら何よりも確実なるは、これによって黄金時代の実現せざることである。あるいは恐る、今年のクリスマスにいたらざる以前、全人類の大いなる不平が勃発するのではあるまいか。すべての方面より観察して、世界は今や夕にいたりしの徴候顕著である。


さらば世界はこれをもって終わるのであるか。いな、神すでに六たぴ光あれといいたまいければ、新らしき光臨みしがごとく、神いまひとたび光あれといいたまいて、大いなる新生命はわれらに臨むのである。神の言にしたがいて、光いで、植物いで、動物いで、最後に神また新らしき生命あれといいたまいて人類は生まれた。今や人類の夕に達したる時、神はかならずふたたぴ新らしき生命あれといいたもうであろう。しかしてわれらのいまだ実験せざるおどろくべき大生命が、世界にあらわれいずるのであろう。


 余は今朝、雑司ケ谷の地に愛する女(むすめ)の墓を見舞うた。墓地はますます繁昌しつつある。たぶん今より五十年後には、この堂にあるものもまた、みな墓の中に眠るであろう。しかして命日ごとに友人によってその墓を飾らるるのみをもって、神の仕事は終わるのであろうか。始めに神、光あれといいて、大いなる努力をついやして創(はじ)めたまいし造化が、ついに墓をもって終わるのであるか。神もし神ならずとせばすなわちやむ。されども神が神たる以上は、人生は墓をもって終わるべからず。造化の終局はその元始のごとく、また神らしきものでなければならない。ゆえに聖書はいう、「さらに新らしき日きたらん、その日には、神を信じて死したるものは新らしき体をもって墓より起きいで、新らしき生命に入るなり」と。迷妄か、非科学的か。しかしながらこれより以下のものをもって人は満足することができないのである。われらの信ずる神は生命(いのち)の神である。


ゆえに彼はつめたき土の中にわれらを終わらしめたまわない。「ラザロよ起きよ」と呼ぴたまいし同じ声が、われらにかかる時、われらは栄光の体をもってよみがえるのである。
造化はいまだ完成に達しない。宇宙万物はその完成を待ちつつある。しかして宗教の目的は、人をしてかぎりなき新生命をもって、新らしき天地に棲息せしむるにある。その時において神の造化ははじめて完成に達するのである。創世記第一章の教うるところはこれである。それはただに過去の事実の記録ではない。未来の恩恵の預言である。人類永遠の希望の約束である

 

http://www4.tokai.or.jp/v.c/topic15.htm