ウェストミンスター信仰告白解説

 

                    第15章 命に至る悔い改めについて

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はじめに

 第15章は、悔い改めについて述べていますが、ただ単に、「悔い改めについて」としないで、「命に至る悔い改めについて」と「命に至る」を付け加えた表題は、何とすばらしいことでしょう。悔い改めがもたらす祝福を表題で最初にはっきりさせています。すなわち、永遠の命をもたらす悔い改めについて述べています。

 悔い改めとは、日本語では、反省し、悔いて、改めることですが、キリスト教信仰においては、あくまで、神に対して、また、神の前で、それまでの自分の罪を認め、反省し、悔い、これからは、罪を犯さないように決意して、神に立ち返り、悔い改めのふさわしい実として、神の御心に一致する善い行いと善い生活をしていくことを意味します。
 悔い改めは、わたしたち罪人が、神に向かってな行う大切な行為です。決して、悔い改めを軽んじてはなりません。悔い改めは、一言で言えば、心と生活の方向転換です。悔い改めは、ギリシャ語で、メタノイアと言います。もともと、変化(チェンジ)や転換(ターン)を意味します。ですから、命に至る悔い改めとは、神の前で、あるいは神に対して、わたしたちの心と生活の方向転換です。
 そして、神を信じて、悔い改めるときは、人生の一大方向転換となります。しかし、悔い改めはそのときだけで終わらず、また、その後も、日々、自分の罪を悔い改めて歩みますので、悔い改めは、生涯続きます
 なお、「命に至る悔い改めについて」の「命」とは、永遠の命のことです。「命に至る悔い改め」という言い方は、使徒言行録11:8、「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した。」から来ています。こうして、「命に至る悔い改めについて」とは、永遠の命を得るために、神に対して自分の罪を認め、悔いて、改めることについての教えです。


第1節 悔い改めの教理の重要性

罪の悔い改めの教理は、救い主キリストへの信仰の教理と同じくとても重要で、牧師が、講壇から説教すべきもので、悔い改めを無視したり、軽んじたりしてはなりません。ウ告白作成当時、無律法主義者といわれる人々がいました。彼らは、律法主義を退け、恵みを強調する余り、キリストを信じて救われれば、後は、何をしても自由であるとして、自由奔放な生活に陥りました。
 でも、それは、信仰の教理のみを主張して、悔い改めの教理を無視する誤りでした。なぜなら、悔い改めの教理を無視したり、軽んじたりすると、悔い改めの実としての神の戒めに従う行いや生活が出て来なくなるからです。悔い改めの実としての神の戒めに従う生活が出て来なくなれなれば、人の生活は従うべき権威ある規範がなくなり、自由奔放、放縦、ルーズになってしまいます。神に造られた真の人間としてのきちんとした生活は、造り主なる神の戒めに従順に喜んで従う生活です。今、日本で必要なのはこれです。
 それゆえ、悔い改めの教理は、いつも信仰の教理と一緒に教えられ、語られるべきものです。そこで、教会においては、「信仰と悔い改め」の両方を結びつけて語ってきました。もちろん、信仰と悔い改めは、区別されます。しかし、事柄の性質上しっかり結び合っているのです。すなわち、神から遣わされたキリストを救い主と信仰し、それまでの自分の罪を神に対して悔い改めることは、時間的には同時的なことです。
 でも、神から遣わされたキリストを救い主と信仰しなければ、キリストを遣わしてくださった神に対して罪を悔い改めることなどしませんので、論理的順序として、神が遣わしたキリストへの信仰が先に来て、次に神に対する悔い改めが続くのです。カルヴァンも、「キリスト教綱要」で「悔い改めは、信仰から生じる」と述べ、救い主キリストを信じて、自分の罪を悔い改めることを教えました。
 そこで、信仰と悔い改めは、両方を合わせて、広く回心とも言われてきました。でも、ウ告白は、回心の2つの要素である信仰と悔い改めを分けて1章ずつ使って、詳しく述べました。第1節を2点から学びましょう。

第1点 聖霊により起こされる恵み

 罪の悔い改めの教理は、救い主キリストへの信仰と同じく、福音に伴う恵みで、人が福音を聞くとき、聖霊が働いて、聖霊が心に起こしてくださる恵みです。もちろん、人が、それまでの自分の罪を認め、反省し、悔い、これからは、罪を犯さないようにして、神に立ち返り、悔い改めのふさわしい実として、神の律法に喜んで従うよい行いとよい生活をしていくのです。でも、全的堕落のゆえに、生まれつきの自力で悔い改めることはできませんで、聖霊が心に悔い改めを恵みとして起こしてくださるので、できるのです。
 確かに、キリストへの信仰は、聖霊により起こされる恵みですが、悔い改めも聖霊により起こされる恵みです。「福音的恵み」とは、福音に伴う恵みのことです。すなわち、キリストを自分の救い主と信仰しただけで救われる福音を聞くときに、聖霊により、心に起こされる恵みです。ですから、悔い改めは、自分の功績、いさおし、メリットにはなりません。悔い改めも、信仰と同じく、また、恵みの賜物です。

第2点 悔説教されるべき教理

 悔い改めは、信仰と区別されますが、信仰とひとつにしっかり結びついていて、切り離すことができません。信仰のあるところには、必ず、悔い改めもあります。すなわち、人は、キリストを救い主と信仰し、自分の罪を悔い改めて救われるのです。そこで、信仰と悔い改めは、仲のよい姉妹のように、いつも一緒ですので、信仰と悔い改めは、姉妹的恵み、シスターグレースと言われます。
 イエス・キリストは、救い主メシアとして、公生涯に入られ、第一声を放ったとき、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われ、人は、よき知らせである福音を聞いて、キリストを救い主として信仰し、罪を悔い改めて、神の国に入り、救いを得るように呼びかけました。すなわち、信仰と悔い改めを求めました。
 ですから、「福音の教役者」、すなわち、福音に仕える教職者は、どの教職者も、救いのために、キリストへの信仰の教理を説教するとともに、悔い改めの教理も説教すべきで、悔い改めの教理を無視したり、軽んじたりしてはなりません。「すべての福音の教役者によって・・・説教されるべきである」は、英語原文では、「福音のことごとくの教役者によって・・・説教されるべきである」となっていて、一人ひとりのどの牧師も説教すべきという強調になっています。
 実は、ウ告白作成当時、無律法主義者(アンチノミアン)といわれる一派がいました。彼らは、律法主義を退け、恵みを強調する余り、キリストを救い主と信仰して救われれば、後は、何をしても自由であると主張して、悔い改めの実としての神の律法に従う善い行いと善い生活をすることをおろそかにし、悔い改めの教理を説教しませんでした。その結果、彼らは、自由奔放な生活に陥ってしまいました。それは、信仰の教理ばかりを強調して、悔い改めの教理を無視し、軽んじた結果でした。そうならないためには、信仰の教理と同じように、悔い改めの教理が、「福音の教役者」、すなわち、福音に仕えるどの牧師によってもきちんと説教されることが重要であり、必要でした。
 今日もそうです。キリストを信仰していると言いながら、その生活が自由奔放、放縦の生活であるなら、それは悔い改めにふさわしい実としての神の律法に従順に喜んで従う善い行いと善い生活がないことになってしいまい、実質的に、無律法主義者と同じになるでしょう。それでは、証にならないでしょう。そうならないように、悔い改めの教えについての説教をどの教職者、どの牧師も繰り返し語って、それを聞き、悔い改めにふさしい実を結び、日本においてキリスト教のよい生き方をみんなで証ししましょう。


第2節 悔い改めの性質

では、悔い改めとは、どのような性質のものなのでしょう。すると、自分は罪ゆえに神に滅ぼされるべきものと感じて、十字架のキリストのあがないが自分に対する神のあわれみと悟ることです。また、自分の罪から離れ、神に心を向け、決意して神に立ち返り、悔い改めた者の義務として、悔い改めの実として、神の戒めに従って、神と共に歩むように日々努力することです。そこで、2点から学びましょう。
 
第1点 罪ゆえに滅ぼされる危険性
 悔い改めは、罪ゆえに滅ぼされる危険性をまず知ることです。
わたしたちはどうして悔い改めなければならないのでしょう。すると、自分の罪が神のきよいご性質と神の義しい律法に違反するゆえ、神の正当な裁きにより、自分が滅ぼされるという危険性を、聖書を通して見、また、感じるからです。また、自分の罪がいかに神の前で汚れ、神に憎まれるかを聖書を通して見、また、感じて、深く反省し、悔いて、キリストの十字架の死が、滅びの危険性からの逃れの場として備えられていることを神のあわれみと悟るから、悔い改めるのです。
 「危険さばかりでなく」とありますが、どのような危険性を意味しているのでしょう。すると、自分の罪が、神のきよい性質と義しい律法に違反するゆえ、神の正当な裁きにより、自分が永遠に滅ぼされるという人にとり最も恐ろしい霊的危険、霊的デンジャーを意味します。これ以上に恐ろしい危険は、人にありません。危険の中の危険です。神の裁きによる永遠の滅びというこの危険を、聖書を通して見、知り、リアルに感じたら、人はそのままではいられません。人生において、最も深く自分の罪を反省し、最も真剣に自分の罪を悔いるのです。人生における最も深い反省と最も真剣な悔い、それが、キリスト教の悔い改めです。
 「そのけがらわしさ」は、自分の罪がきよい神の前に汚れていること、「いとわしさ」は、神から憎まれることを意味します。わたしの罪、あなたの罪は、何でもないものでなく、きよい神の前でけがれたものであり、きよい神から憎まれるものです。

第2点 神への立ち返り
 悔い改めは、罪から離れ、神に立ち返り、神と共に歩むものです。
罪ゆえに神に滅ぼされる危険性を知ると、人は、自分の罪を悲しみ、自分の罪を憎んで、罪から離れ、神に立ち帰り、悔い改めた者として、悔い改めにふさわしい実として、神の戒めに従って歩むことを決意して、努力するようになります。
 聖書の中に、罪を悲しみ、憎み、そして罪から離れ、神に立ち帰り、神の戒めに従順に従い、神と共に歩むこと目ざして努力するように求め、命じている箇所がたくさんあります。
 旧約聖書において、罪を悲しみ、憎み、そして罪から離れ、神に立ち帰り、神の戒めに従順に従い、神と共に歩むことを決意して努力することが、「立ち帰る」という用語で表されています。特に、預言者は、罪の中で背教しているイスラエルの民が神に立ち帰るように、すなわち、悔い改めるように、しばしば求めました。
 たとえば、エゼキエル18:30では、「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。」、また、ヨエル2:12では、「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。』などがそうです。

新約聖書においては、罪を悲しんで、神に立ち帰ることを求める代表的箇所は、コリント二7:10、11です。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。」とあり、「神の御心に適った悲しみは」とは、自分の犯した罪を神の前で心から悲しみ、憎み、そして罪から離れ、神に立ち帰り、今後は神の戒めに従順に従い、神と共に歩むことを決意し努力することを意味しています。
 ウ告白の表現はとても強い表現です。自分の犯した罪を悲しむだけでなく、憎むのです。「まったくそれを捨てて神に立ち帰り」は、もともとは、「それらの罪のすべてから離れて神に向かう」という言い方で、これも強い言い方です。また、「神と共に歩むように目ざし努力する」は、「神と共に歩むように決意し努力する」と、「決意する」と訳したほうがよいでしょう。わたしたちも、罪から離れ、神の戒めに従う生活をしていく決意をして、日々努力しましょう。


第3節 罪の赦しの条件としての悔い改め

第3節は、前半の訳をより正確に、わかりやすくするため、私訳をしておきます。「悔い改めは、罪に対する償いや、罪の赦しの根拠として信頼してはならない。それは、(罪に対する償いや、罪の赦しの原因のこと)、キリストにおける神の無償の恵みの行為である。しかし、それは(悔い改めのこと)、すべての罪人に必要であるから、だれもそれ(悔い改め)なしに、赦しを期待することはできない」。2点から学びましょう。
 
第1点 カトリックの告解の誤り
 この第3節は、カトリックの告解の誤りを排除しています。カトリックは、信徒が罪を犯したときには、司祭に告白、ざんげすれば、司祭が神の代理として、罪の償いまた罪の赦しを保証するという告解を礼典のひとつとしています。司祭による告解が罪の償い、赦しの原因、すなわち、根拠になると主張します。

 でも、これは誤りです。なぜなら、罪の償いまた罪の赦しの原因、すなわち、根拠は、キリストの死によるあがないだからです。罪の悔い改めは、罪のつぐないまた罪の赦しの根拠でなく、罪のつぐないまた罪の赦しを受けるための条件です。根拠と条件を区別しなければなりません。
 キリストが教えた礼典は、洗礼と聖餐の2つですが、カトリックは、今日もそうですが、7つの礼典を主張します。洗礼(幼児洗礼と成人洗礼)、堅信(信仰告白式のこと)、聖体(ミサ、聖餐のこと)、告解(悔い改め、ざんげのこと)、結婚、叙階(司祭になる儀式)、終油(死んだとき、体にオリーブ油を注ぐ儀式)の7つです。
 そして、告解は、人が洗礼を受けた後、犯した罪を教会の司祭を通して赦す礼典と考えます。洗礼により、洗礼までに犯した罪はすべて赦されますが、洗礼以後犯す罪は、教会の間仕切りしたざんげ室で、間仕切りをはさんで、信徒の顔が見えないようにして、信徒が司祭に告白、ざんげするのです。すると、司祭は、それを聞いて、「父と子と聖霊のみ名により、なんじの罪を赦す」と宣言します。これで、罪が赦される、あるいは、罪が償われると主張します。わたしたちは、今日でも、このような場面を小説で読んだり、映画やテレビで見たりするでしょう。こうして、カトリックにおいては、告解が、罪の赦しまた罪のつぐないの根拠となっています。
 これは、大きな間違いです。罪の償いまた罪の赦しの根拠は、キリストの十字架の身代わりの死だけです。では、プロテスタントにおいて、悔い改めは不要でしょうか。もちろん、必要です。どういう意味で必要でしょう。すると、キリストによる罪の償いまた罪の赦しを自分のものとして受けるための条件として、悔い改めが、キリストへの信仰とともに必ず必要です。悔い改めをしないで救われる人はいないのです。
 信仰をもって悔い改めることで、罪赦されて救われるし、救われた後も、日々、自らの罪を信仰をもって悔い改めて、生涯罪を赦されるのです。ですから、悔い改めは、罪の赦しの原因でなく、信仰とともに条件です。罪の赦しの根拠は、キリストの十字架の死によるあがないだけです。悔い改めといえども、根拠にはなれません。
 「罪のための償い」と「罪のゆるし」は実質的に同じことですが、キリスト教において、2つの言い方があるので、2つの言い方で記しています。「罪のための償い」また「罪のゆるし」と言っても同じです。この表現で言おうとしていることは、悔い改めは、罪のあがないまた罪のゆるしを起こす原因、すなわち、罪のあがないまた罪のゆるしを起こす根拠ではないことを教えています。なぜなら、罪のあがないや罪のゆるしを起こす素晴らしい原因、すなわち、根拠は、キリストの十字架のあがないの死という神の無償の恵みの行為だからです。悔い改めは、あくまで、罪のあがないまた罪のゆるしに導かれる条件です。条件にすぎないものを、カトリックの告解のように原因や根拠にしてはなりません。
 「悔い改めが、何かそのようなものであるかのように信頼されてはならない」(より正確には「悔い改めは、罪に対する償いまた罪の赦しの根拠として信頼してはならない」)とは、カトリックの悔い改め、すなわち、告解が、罪のあがないまた罪のゆるしを起こす原因、すなわち、根拠とされていることを誤りとして排除しています。
 「キリストにある神の自由な恵みの行為」とは、罪のあがないまた罪のゆるしを起こす唯一の根拠は、キリストの十字架のあがないの死という神の無償の恵みの行為であることを強調しています。「神の自由な恵みの行為」は、「神の無償の恵みの行為」と訳して、恩恵性をより表す方が趣旨に合います。

第2点 悔い改めを必要とすべての罪人
 悔い改めは、カトリックが主張するように、罪のゆるしのための根拠ではありません。では、プロテスタントにおいては、悔い改めは不必要なのでしょうか。すると、もちろん、必要です。正しい意味で必要です。では、どういう意味で必要なのでしょう。すると、罪の赦しを自分のものにするための条件としてどの人も必ず必要です。悔い改めれば、罪赦されて救われるし、また、救われた後も、日々罪を悔い改めて、赦され続けるのです。
 万人が悔い改めて、罪赦され、救われるのです。例外はありません。キリストは、ルカ13:3で、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と語り、神の民といわれたイスラエルの民であっても悔い改めなければ、救われず、滅びることを厳粛に教えて、悔い改めを求めました。また、パウロも、使徒言行録17:30で、「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」と語り、知恵と知識と思想を誇り、また、多くの神々を考え出して礼拝していたギリシャ人たちであっても、万物の創造主なる真の神、また、キリストを遣わして、救いの途を開いてくださった真の神に対する悔い改めをすべきことを求めました。 日本も同じです。縄文式時代や弥生式時代の太古から、万物の創造主なる真の神、また、キリストを遣わして、救いの途を開いてくださった真の神を知らずして、罪の中に生まれ、罪の中に生き、罪の中で希望なくむなしく死んでいくわたしたち日本人も、今こそ、信仰をもって悔い改め、恵みにより罪赦され、心、魂、霊魂、精神をすがすがしくされ、真の神をほめたたえる本来の人生に立ち帰るときです。


第4節 悔い改めにおける大罪と小罪の区別の誤り

この第4節も、カトリックの誤りを排除しています。カトリックは、今日もそうですが、罪を大罪と小罪に区別します。大罪は、重大な罪で、人が罪と意識して犯す罪で、この罪は地獄行きの罪と教えます。小罪は、人が罪と意識しないで犯す罪で、この罪は煉獄行きの罪になると教えます。カトリックにおいては、信者であっても、すぐには天国に行けません。天国にすぐに行けるのは、聖人といわれる特別な人々で、それ以外の人々は、信者でもすぐに天国に行けず、死後、煉獄と言われるところで霊魂がきよめられるのをなお苦しみつつ待つのです。煉獄で苦しみつつ罪をきよめられてから天国に行くと教えます。
 これに対して、プロテスタントは、聖書に基づき、信者は、死のとき、霊魂がまったくきよめられ、直ちに、すぐに天国に入れられ、いかなる意味においてもはや涙、悲しみ、苦しみ、苦痛は一切なく、まったき平安、まったき喜び、神のまったき愛の中に置かれます。何の心配も不安も恐れももつ必要はありません。大丈夫です。2点から学びましょう。

第1点 罪の永遠の刑罰性
 どんなに小さな罪も、神の永遠の刑罰をもたらします。
カトリックは、洗礼以前の大罪も小罪も、洗礼を受けて赦されるが、洗礼以後に犯した大罪と小罪は、そのままにしておくと、地獄行きあるいは煉獄行きとなるので、司祭への告解の秘跡(礼典のこと)で赦される必要があると教えます。
 しかし、もちろん、聖書に大罪と小罪の区別はありません。聖書は、ローマ6:23で、「罪が支払う報酬は死です。」と厳粛に教えているように、どんな罪でも、大小に関係なく、罪は神による刑罰としての死、すなわち、神との分離である霊的死、体と魂の分離である肉体の死、そして、神からの永久分離である永遠の死、すなわち、地獄での永遠の滅びに罰せられるのです。わたしたちは、自分が行った罪の行いだけでなく、自分が自らの口で語った罪の無益な言葉ゆえにも、最後の審判で裁かれて、永久刑罰を受けるのです。キリストは、「あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。」(口語訳聖書マタイ12:36)と厳粛に警告しました。それゆえ、どんな小さな罪でも、罪は罪で、神による永久刑罰をもたらします。罪を甘く、軽く見てはいけません。「永久刑罰」とは、滅びのことで、神により罪に対して永遠の罰が与えられることを意味します。

第2点 悔い改めによる罪の赦し
 真に悔い改める者は、どんなに大きな罪も恵みにより赦されます。
聖書は、確かに、罪はどんなに小さな罪でも、永久刑罰をもたらすことを教えています。でも、同時に、どんなに大きな罪でも、真に悔い改める人は、恵みにより赦されることを約束しています。キリストから立てられた使徒パウロは、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(ローマ8:1)と権威をもって、真に悔い改めている信者は キリストのあがないゆえに罪が赦されていることを堂々と宣言しています。何と力強いことでしょう。心が赦しの確信と喜びで満ちあふれます。
 旧約時代もそうでした。神から立てられた預言者イザヤも、「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。」と、どんなに深い罪でも、真に悔い改める者は、恵みにより罪赦されて、羊の白い毛のように、罪の汚れのない者と見なされるのです。


第5節 罪の個別的悔い改めの必要性

罪は、一般的に悔い改めること共に、個別的に悔い改めることが必要です。すなわち、わたしたちは、罪を悔い改めるとき、わたしは、罪人です、お赦しくださいとか、わたしの犯したすべての罪をお赦しくださいと、一般的に、総体的に、神に告白して、赦しを求めます。もちろん、それでよいのです。でも、同時に、自分が犯したあれこれの具体的な罪を個別的に認めて、告白し、神に赦しを求めるように努力することが必要で、義務です。悔い改めには、どちらも必要なのです。ですから、一般的な、総体的な悔い改めをしているから、もうそれでよいと満足してなりません。自分が犯したあれこれの個々の罪をきちんと告白して、悔い改め、赦しの確信をもつように努力することが必要で、義務です。
 「一般的な悔い改め」とは、わたしの罪をお赦しくださいと自分の罪を全体として、総体として、神に告白し、赦しを求めることを意味します。「自分の個々の罪を個別的に悔い改める」とは、自分が犯したあれこれの具体的な個々の罪を神に告白し、赦しを求めることです。たとえば、徴税人のかしらのザアカイは、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカ19:8)と、自分が人々から税金を必要以上にだまし取ったことは盗みの罪にあたるとして具体的に個別的に悔い改め求めました。こうすれば、2度と同じ罪を犯さないでしょう。
 パウロも、「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。・・・わたしは、その罪人の中で最たる者です。」と自らの迫害の罪の赦しを具体的に個別的に求めました。わたしたちも、自分の犯した罪を具体的に個別的に悔い改めて、同じ罪を2度と犯さないように努力すべきです。
 なお、証拠聖句として、詩篇19:13、「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。」があげられています。これはどのような意味でしょう。すると、わたしたちは、自分が意識しないで犯す罪、知らずに犯す罪も多々あります。そこで、自分が知らずに犯した罪も、神が恵みにより赦してくださるように祈る努力をすること教えていると思われます。知らずに犯した罪でも、罪は罪で、神による赦しが必要です。


第6節 罪の悔い改めの方法

罪は、すべて神への罪で、神に告白して、赦されるべきものです。しかし、その罪が信仰の仲間に対して犯された罪であるなら、仲間に告白して、許しを求めるべきです。また、その罪が教会に対して犯された罪なら、教会に告白して、教会からの許しを受けるべきです。そして、罪の許しを求められたなら、仲間も、教会も、主にあって快く許して、和解し、受け入れることが大切です。3点から学びましょう

第1点 神に対する罪
 罪は、神に対して、罪を犯した本人である自分自身が告白すべきです。
罪はどんな罪も、神に対して自分自身ひとりで、神と向かい合って、神と1対1になって、自分が犯したその罪を神に真剣に告白し、神から赦しを求めるべきです。そして、その罪から離れるべきです。そうすれば、神からあわれみを受けてその罪が赦されます。
 「神に対しそれを私的に告白すべきであり」とは、自分が犯した罪の悔い改めは、自分自身が神に対してひとりで、神と向かい合って、神と1対1になって、その罪を真剣に告白し、赦しを求めるべきことを意味しています。詩篇51編また32編で、ダビデがそうでした。預言者ナタンによって、罪を糾弾されたとき、ダビデは、神に対して自分ひとりで、神と向かい合って、神と1対1になって、自分が犯したその罪を真剣に告白し、赦しを求めました。

第2点 仲間や教会に対する告白
 信仰の仲間や教会に対する罪は、仲間や教会にも告白して、許しを求めるべきです。
信仰の仲間や教会に対する罪は、仲間や教会にも告白して、許しを求めるべきです。 神に対して告白して、赦しを求めればそれで終りというわけにはいきません。その罪が、「自分の兄弟」、すなわち、信仰の仲間や教会に対するものであれば、その仲間や関係教会に自分の罪をケースバイケースで私的にあるいは公的に、進んで告白し、許しを求め、悔い改めを表してきちんと解決すべきです。うやむやにしてはいけません。信仰の仲間や教会に対して罪を犯して、仲間や教会を現実に困らせ、苦しめ、悩ませ、名誉を傷つけているのに、仲間や教会に対して何も知ら顔では、仲間も教会も許しようがないでしょう。神に対してとともに、仲間や教会に対しても、信仰により、自分の罪をケースバイケースで私的にあるいは公的に、進んで告白し、許しを求めて、悔い改めを表して主にあってきちんと解決すべきです。
信仰の仲間への罪の告白は、ヤコブ5:16で、「・・・罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。」と教えられています。また、教会への罪の告白は、ヨシュア記7:14で、「『わたしの子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主をほめたたえ、あなたが何をしたのか包み隠さずわたしに告げなさい』と言うと」とありまして、指導者のヨシュアは、アカンが、自分の罪を公にイスラエルの会衆に告白するように命じました。

第3点 愛による受け入れ
 罪の告白がなされたときには、愛をもって受け入れるべきです。
罪を犯した人が、進んで、悔い改めを表したときには、信仰の仲間また教会は、その人を主にあって愛をもって受け入れ、和解すべきです。悔い改めを表しているのに、それでも受け入れないし、和解もしないというのであれば、今度は、こちらの姿勢が問われるでしょう。パウロは、コリント二2:8で、「そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」と記しました。すなわち、罪を犯して、コリント教会から戒規を受けたその会員は、自分の罪を心から悲しみ、反省し、悔い改めました。そこで、パウロは、その会員を、教会が愛をもって主にあって受け入れ、共に、信仰の途を歩むように勧めました。
 わたしたちは、信仰者といえども、弱さがあり、罪を犯す者です。わたしたちは、他の人から罪を犯されて傷つきますが、でも、考えて見ますと、自分も他の人に罪を犯して、他の人を傷つけているでしょう。わたしたちのまじわり、交流、一緒に生きること、共生は、お互いに罪を犯したり、罪を犯されたりです。そこで、お互いに主にあって許し合うことが必要です。主も、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と日々祈ることを教えてくださったことを忘れず、実践しましょう。


結び

わたしたちクリスチャンの生涯は、悔い改めの生涯です。わたしたちは、日本の地にあって、キリストを信仰し、悔い改め、人生の大転換をして、天の慈愛深い神をほめたたえながら真のよい人生を送っていますが、今も罪を犯します。でも、日々悔い改め、永遠の生命の途をみんなで励まし合って喜んで歩んでいきましょう。