山上でのイエスの変貌

- マタイの福音書1719-

 

1. それから六日たってイエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけをれていてかれた

2. そしてらの御姿わり御顔太陽のように御衣のようにくなった

3. しかもモーセとエリヤがれてイエスとっているではないか

4. するとペテロが口出ししてイエスにった。「先生たちがここにいることは

すばらしいことですもしおよろしければここにつの幕屋ります

あなたのためにモーセのためにエリヤのために。」

5. がまだしているがその々をそしてから

これはわたしのするわたしはこれをうことをきなさい

いうがした

6. 弟子たちはこのくとひれして非常にこわがった

7. するとイエスがられてらに、「きなさいこわがることはないわれた

8. それでらがげてるとだれもいなくてただイエスおひとりだけであった

9. らがりるときイエスはらに、「死人からよみがえるときまではいまをだれにもしてはならないじられた

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ペテロの信仰告白から六日たってからイエスとその弟子たちのから三人(ペテロヨハネヤコブ)だけをれてピリポ・カイザリヤからさらににあるかいますそのとは、「ヘルモン(2,774m)だとわれています約一週間弟子たちの心中するならばのようなことがえます(甲斐慎一郎著キリストの生涯より)

弟子たちはイエスにつまずいたおそらくイエスのしい叱責憤慨したはず

弟子たちはイエスがわからなくなった理解できなくなった

弟子たちはイエスが本当なのかどうかメシアなのかどうかめた

すべてのことがからはじまりそしてによりへと(私訳 ローマ11:36 )

 

そうした状況からイエスは三人だけをひそかに(内密)れてらをヘルモンへとかれましただれのためでしょうかそれはイエス自身のためではありませんそこへれてった弟子たちのためですそのことを念頭においてさい

 

●「山上変貌記事共観福音書がそろってっていますのでそれらを見比べてむのが重要です

三者視点からるので細部多少異なるのは当然ですがより全体像明確になってきますここではマタイの福音書だけを掲載しますがマルコ(9:29)とルカ(9:2836)別紙でごください

 

(1) なぜなのか

 

でのイエスの変貌イエスが御子であること」、「栄光のメシアであること弟子たちにしく理解させこれからこる受難とよみがえりしくめさせるためでした

そのために三人弟子(ペテロヨハネヤコブ)ばれましたちなみにこの山上変貌記事にイエスが弟子たちにった不思議なことばがありますそれはるまではしてわわないたちがいます。」(マタイ16:28)ですマルコはまことにあなたがたにげますここにっている々のにはをもって到来しているのをるまではしてわわないがいます(マルコ9:1)べていますこのとはだれのことをっているのでしょうかそれはこれからイエスとにひそかに弟子たちですつまりその人物ペテロヨハネヤコブ三人です

 

●ところで、なぜ「高い山」なのでしょうか。これまで神がご自身の重要な啓示を現わされるときには、聖書では山が多いのです。しかも高い山です。モーセはホレブの山の麓で「燃え尽きない火で燃えた柴」を見、 そしてイスラエルの民をホレブの山のところに連れて来て、その山で神から律法を受け取りました。預言者 エリヤも主の働きに疲れて、ホレブの山に導かれ、彼の後継者エリシャに油を注ぐように語られました。そ れゆえ、異邦人たちはイスラエルの神のことを「山の神」と呼んでいたほどです。天からの光を受けたサウ ロ(使徒パウロ)も、神の光を求めてアラビヤに出かけたとあります。おそらくそれは「ホレブの山」と思わ れます。まさに、聖書において「高い山」は啓示の場なのです。 


(2) 変貌した姿こそ御子本当姿

 

本来イエスは御子でしたがこのられるにたって神的側面ててられたのです(ピリピ 2:68)しかし、「御姿わり御顔太陽のように御衣のようにくなったのは御子本来本性きが肉体けてありのままに啓示されたからですといってもほとんどその姿えなかったとわれますこれが受肉以前御子イエスの本当姿なのですマルコはその御衣非常のさらしではとてもできないほどのさであった。」(9:3)しています面白表現をしていますがそのきのさはこののものではないということをおうとしたのだといますおそらく再臨のイエスもそのような姿られるとえられます

 

(3) なぜモーセとエリヤがわれたのか

 

不思議なのはなぜ弟子たちは変貌したイエスとにいるのがモーセとエリヤだとかったのからは実際たこともないのにどうしてらがモーセとエリヤだとかったのでしょう三人弟子たちはおそらくここでかせたのかもしれませんというのはった人物といえばモーセとエリヤしかいないからですにそのような人物がいるでしょうか

ホレブ(これまでかされてきたホレブのではないアラビヤ(=ミディヤン)にあるホレブの)っていますそのことがエジプトそして列王記にもされていますエリヤの場合1回限りですがモーセの場合はなんと8もシナイりしています(エジプト)そのようにえればらずとも栄光のイエスとっている二人人物モーセとエリヤ以外にいないとこれまでかされてきた知識直感的かったのかもれません

 

三人っているのをたペテロがした行為つまりペテロが口出ししてイエスに先生たちがここにいることはすばらしいことですもしおよろしければここにつの幕屋りますあなたのためにモーセのためにエリヤのために。」ったことは不可解です

ちなみにここでの幕屋仮小屋のことでヘブルだとスッコート(תֹ כּוֻס(となっていますしでもらがここにとどまってくれることをペテロはとっさにいついたのでしょうかいずれにしてもペテロはうべきかわからなかったようですが、「すばらしいことだとじたことは事実ですむしろいなぞはなにゆえにモーセとエリヤがここで登場しているのかということですこのなぞについてえてみたいといます一般的にはモーセは律法代表するエリヤは預言者代表するわれま すべてのことがからはじまりそしてによりへと(私訳 ローマ11:36 )ですそのような分類えるならばイエスは諸書(聖文書)における知恵代表するえられ三者のすべてが旧約全体啓示していることになりますしかもモーセとエリヤがわれてなにやらイエスとっている(っている)されていますどんないがなされていたのでしょうかそれについてはルカがのようにしています。「イエスがエルサレムでげようとしておられるご最期についていっしょにしていた。」(ルカ9:31)

 

イエスがエルサレムでげようとしておられるご最期といえばすぐにかべるのは受難十字架復活のことですたしてそうでしょうかここに使われている最期された言葉エジプトを意味するエクソドス(ἔξοδος)ですさらにげようとしておられるという言葉プレーロー(πληρω)未完了形ですこのプレーロー本来意味たすということでがあらかじめめておられたご計画たしていくという意味ですこののご計画たされることについてらがっていたとえられますがその内容については一切記されていません

 

イエスがやがてエルサレムでげようとしておられる最期(エジプト)とは受難十字架復活(十字架みの福音)のみならずキリストの再臨における出来事すなわち御国福音まれているとえられますこのことは旧約預言者たちが二重預言としてメシアの初臨再臨同時っていたことと符合します

 

モーセとエリヤは、「栄光のうちにわれてとあるように第四エジプトである御国完成(千年王国)のことがわれていたと解釈できるのですとするならばモーセはんだ代表でありエリヤはなずにきた代表えないでしょうかしかも二人栄光のうちにわれてとあるのはそのことを裏付けています三人弟子たちがたモーセとエリヤの姿はやがてキリストの再臨時における栄光姿なのです。「やがてこうなるということをせることが山上での変貌えている事柄なのですイエスが三人弟子たちをれてったのは最期実現するることで、 「すべてのことがからはじまりそしてによりへと(私訳 ローマ11:36 )

らがいなる希望つことをっておられたからではないかとわれますイエスがそしてなさってきたすべての奇蹟まさに歴史最期にエルサレムで実現されることだからですしかしこの出来事メシアの秘密かれますなくともイエスがから復活するまではこの出来事しく理解されることがないため不用意じられたのです

 

●「御国福音復活出来事じているであってもなかなかありのままにじられないのが今日のキリスト教会現実です置換神学てられたにとってはそのえて理解するのはかなりの勇気ることかもしれませんしかしそれをえるのに必要なのは神学ではなくきたのみことばですそこで最後から(シャハイナ・グローリーの)られた注意けたいといます

 

マタイの福音書175がそうです。『これはわたしのするわたしはこれをうことをきなさい』。まさに、「わたしのするであるイエスのられることばのみが真理なのですそして真理はあなたを自由にするのですしいイエスのられたことばをより注意深くことにしていくでありたいといます

 

http://meigata-bokushin.secret.jp/swfu/d/auto_IxVmAh.6.pdf