聖書の神以外に神なし

神は唯一

 聖書は言っています。
 「だけが神であって、ほかに神はない」 (申命4:35) 
 「は私たちの神。主はただひとりである」(同6:4)
 聖書は、本当に存在しておられる神はおひとりしかいない、それは「」と呼ばれるかたである、と述べています。
 この太文字の「」は、原語では「ヤハウェ(エホバ) という言葉です。『新改約聖書』(日本聖書刊行会訳)は「ヤハウェ」を、「」という言葉に置き換えて訳しているのです。
 「ヤハウェ」は、聖書の示す唯一の神様のお名前――固有名詞です。聖書の神には、お名前があるのです。
 私たち人間にはみな、名前があります。「太郎」とか「花子」とか。これらは"固有名詞"です。そのひと個人につけられた名前です。
 同様に真の神様には、お名前があります。しかし、
 「名前なら、イスラム教の神様も、アッラーという名前を持っていますね」
 という人もいるでしょう。けれども「アッラー」は、じつは固有名詞ではありません。「アッラー」は、定冠詞「アル」+神を意味する「イッラー」で、英語でいえば "the God" (その神、至高の神) というような言葉なのです。
 「アッラー」は固有名詞ではなく、もとは普通名詞です。日本語の「神」を英語でいうと「ゴッド」、アラビア語でいうと「アッラー」なのです。ちなみに「神」という普通名詞は、新約聖書の原語ギリシャ語では「セオス」、旧約聖書の原語ヘブル語では「エロヒム」といいます。
 ところで名前には、"意味"があるものです。
 神の御名「ヤハウェ」には、「彼はある」または「彼は存在する」という意味があります。神は、かつてイスラエルの大預言者モーセに対して、こう語られました。
 「わたしは『わたしはある』という者である。・・・これが永遠にわたしの名。これが代々にわたってわたしの呼び名である」(出エ3:14-15)
 「ヤハウェ」は、この「わたしはある」 (わたしは存在する) という言葉に由来するお名前なのです。
 このお名前には、さらに深遠な意味があります。
 聖書学者によると、「ある」の原語 (ヘブル語でハーヤー)は、未完了態というものだそうです。古代ヘブル語には定まった時制はなくて、未完了態は、ある事柄の継続状態を表すものです。
 それは過去・現在・未来のどの状態にも用いることができます。したがって「ヤハウェ」は、
 「彼は存在した」
 「彼は存在している」
 「彼は存在し続けるであろう」
 のすべての意味を含んでいます。「ヤハウェ」はまことに、「永遠の実在者」である真の神にふさわしいお名前といえるでしょう。
 「ヤハウェ」と呼ばれるかた以外に、真の神はいないのです。
 クリスチャンはふつう、「主の御名をみだりに唱えてはならない」 (申命5:11)
 のご命令に従って、必要な時以外は、このお名前をほとんど口にしません。しかし真の神にはお名前があること、そしてそのお名前には以上のような深遠な意味があることを知っておくことは、大切です。
 真に実在する神は、『聖書』中にご自身の名と、ご性質を啓示された神ヤハウェ以外にはおられないのです。


聖書は真の神からの書物

 世界を創造し、現在もその無限の力によって世界を保たれている神は、私たちのために『聖書』をお与えになりました。神は聖書の中に、ご自分を"啓示"されたのです。
 神はご自分を、おもに3つのものを通して、啓示されました。
 第1に、神は宇宙・自然を通して、ご自分を啓示しておられます
 「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物(ひぞうぶつ)によって知られ、はっきりと認められるのであって、(神の存在について)彼らに弁解の余地はない」(ロマ1:20)
 と聖書は述べています。風にゆれる野の花や、高原に流れる小川を見て美しいと思い、また夜空に輝く星を見上げたり、山頂から壮大な雲海のながめを見て、大自然の荘厳さ、崇高さに胸を打たれたことのある人は少なくないでしょう。
 また、胎児が母の胎内で成長する有り様をテレビで見て、生命の神秘に胸を打たれたことのある人も、きっと多いことでしょう。神の偉大な創造の力、また美と崇高さに満ちたその神性とは、被造物である大自然の中に、明らかにあらわされているのです。
 私たちは大自然の中に、創造者の神性を"読む"ことができます。じつに「自然は"第2の聖書"である」と言われるゆえんも、ここにあります。


神の存在と、そのご性質とは、
大自然のうちに啓示されている。

 第2に、神はご自分を、『聖書』の中に啓示しておられます
 神が私たちに『聖書』をお与えになったのは、ご自身の愛を私たちに示すためです。聖書は、神が私たち人間のためにどのような救いのご計画をたてられ、どのようにそれを実現されたかを知らせるために、下さった書物なのです。
 聖書は私たち人間について、人間は神のかたちに似せて造られた者である、と述べています。神が完全に自由な"人格"(神格と言ったほうがよいでしょうが)を持つかたであるように、人間も自由な人格を持つ者として造られたのです。
 それが"神は人をご自身のかたちに似せて造られた"という聖書の教えの最も中心的な意味です。人間は、自分が歩む人生を自分で決める者として、造られたのです。
 たとえば、親が子どもを産みます。親の人格と、子の人格は、全く別のものです。子は、親の感化や教育を受けることはあっても、自分の人生は自分自身が決めなければなりません。
 同様に、神は親のようなかたであり、人間はその子どもなのです。神は、子である人間に教育と訓戒はお与えになりますが、人の人生は人自身が決めなければなりません。
 ところが人間は、神の御教えを忘れ、堕落し、罪の道に入ってしまいました。その道は、滅びの道でもありました。
 それで神は、私たちを「いのちの道」に引き戻すために、私たちに『聖書』をお与えになったのです。聖書は、神が私たちにお与えになった"親書(しんしょ)"であり"手紙"なのです。
 そこには、私たちの救いのために神がなしてこられた事柄が、記されています。神は何千年も前から、私たちを救いに導くための出来事を、着々と歴史上に起こしてこられたのです。
 また、私たちがなぜ信仰によってのみ救われるか、という理由もそこに記されています。私たちは、善行や、知識の豊さによって救われるのではなく、ただ信仰によって救われるのです。
 神は、救いのご計画と、私たちに対する愛を、『聖書』の中に啓示されたのです。


神はご自身の御心を、聖書の中に啓示された。



神はご自身をイエス・キリストによって啓示された

 第3に、神はご自身を、イエス・キリストによって啓示されました
 神は、イエス・キリストのご人格と活動を通して、ご自身を私たちにより身近なものとされたのです。
 神ご自身は、私たちの目には見えないかたです。神はあまりにも偉大なかたであって、私たちの想像をはるかに越えています。
 そこで神は、御子イエス・キリストをつかわされ、ご自身の本質を御子を通してあらわされました。御子キリストは、永遠において神から生まれ出たかたであって、ヤハウェの神から来られたかたなのです。
 御子キリストは、万物の創造以前から神と共におられたかたであり、神と「一つ霊」であるかたでした。そのかたが、神を私たちに啓示するために、肉体をとられ、人間となって地上に来られたのです。
 創造者なる神は、かつて人を「神のかたち」に似せて創造されました。しかし今度は人間を救うために、ご自身の御子に「人のかたち」を与え、人間とならせて、地上につかわされたのです。
 つまり御子キリストは、神性と人性の両方を持たれたのです。キリストは、神のご性質と人間としての性質の双方を、ともに持っておられます。
 罪を持たないきよいかたであるという点では、キリストと私たちは異なっていますが、他のすべての点では、私たちと同じになられました。キリストは神のすぐ近くにおられたのに、私たちのすぐ近くに来られて、神を私たちに身近なかたとされたのです。
 聖書は言っています。
 「御子は、神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われである(ヘブ1:3)
 神は御子キリストによって、ご自身の本質を、完全なかたちで啓示されました。私たちは、キリストを見ることにより、神のご本質を見ることができます。


キリストは、神のご本質の完全な現われである。

 キリストはこう言われました。
 「わたしと父(父なる神)とは一つです(ヨハ10:30)
 キリストと父なる神とは、一体なのです。
 この聖句中の「一つ」という言葉は、単に思いや目的を「一つ」にしている、ということではありません。原語には「同一の本質」という意味があります。
 キリストと父なる神とは、同一の本質を持ち、存在を一つにしているのです。これを「神とキリストの一体性」と呼んでいます。
 「一体」とは、決して"両者が同じ者である"ということではありません。神とキリストの間に"区別"はあるのです。
 たとえば夫と妻は「一心同体」である、と聖書は述べています(エペ5:31)。しかし、夫と妻は互いに別の人格を持っていて、個人としては別の者です。
 同様に父なる神と御子キリストは、「一つ霊」であり一体なのですが、その間に区別はあるのです。この区別を、キリスト教では「位格」と呼んでいます。
 ヤハウェの神は「父なる神」としての位格を、イエス・キリストは「御子」または「子なる神」としての位格を、持っておられるのです。父なる神ヤハウェと御子イエス・キリストは、決して"同じかたの別名"ではありません。
 御子キリストは、父なる神から「生まれ出た」かたです。御子キリストから父なる神が「生まれ出る」ことはありません。両者の間には"区別"があるのです。
 しかし御子キリストは、存在と本質において神と一体であるので、彼により、神は私たちにきわめて身近なかたになりました。私たちは御子キリストを通して、神のみもとに近づくことができるのです。
 神はこのように、大自然・聖書・キリストの3つを通して、ご自身を私たちに啓示されました。大自然・聖書・キリストの3つが指し示している神こそが、本当に存在される神様なのです。


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