近代世界のキリスト教①

 

                                                                            ジェフリー・バラグラフ:図説・キリスト教文化史(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)
日本キリスト教団出版局:新共同訳・聖書事典 ほか

宗教改革後、プロテスタント教会は宗教戦争と制度化を経て、ヨーロッパ各地に拡大しヨーロッパの近代化を促進しました。 フランスに誕生したユグノー派はカトリック派の厳しい弾圧を受けながらも、激しい戦いの結果、ナントの勅令により不充分ながら信仰の自由を一応認められました。 またドイツを舞台にした三十年戦争はヨーロッパ各国に広がり、ドイツ国内では諸侯の独立性が強化され、神聖ローマ皇帝の地位はいよいよ名目的存在となりました。 宗教戦争の嵐が鎮まると、プロテスタント教会には改革派、バプテスト派などの諸派が成立し、17世紀後半に起こった敬虔主義は信仰復興運動へと発展しました。  

 

(*1)サン・バル テルミの虐殺 1572年8月、パ リで行われフラ ンス各地で10月 までつづいたプ ロテスタントユ グノー派を、カ トリック派のギ ーズ一門の兵隊 が虐殺した事件 (*2)一致信条書 和協信条書とも いい、三つの古典 信条(使徒信条、 ニカイア信条、ア タナシオス信条) 、アウグスブルグ 信仰告白、アウグ スブルグ信仰告 白弁証論、シュマ カルデン条項、大 教理問答書、小教 理問答書、和協信 条を包括してい ます。 (*3)会衆派(組 合派) 16世紀中頃英 国教会から分離 、国家から独立 し個々の地方教 会もそれぞれが 独立する完全な 自治体であるこ とを宣言しまし たが、当局の弾 圧を受け、一部 はオランダに逃 れました。 (*4)バプテスト 派 17世紀はじめ、 イギリスのピュ ーリタン分離派 から誕生、信仰 復興運動と結び つき、アメリカ で最大の教派と なりました。 この派の共通 した特徴は、聖 書を信仰と生 活の基準とす る聖書主義、各 個教会の自立、 自治を主張する 会衆主義、政教 分離原則、幼児 洗礼を否定し信 仰者の「パブテ スマ浸礼による 洗礼」を重視す る点にあります


<宗教戦争>
 1555年のアウグスブルグ宗教和議ではカトリック派とプロテスタ
ント派の対決に一応の政治的な解決が図られましたが、その後も両
者の対決は続き、フランスではカルバン派のユグノーがアンリ2世
の厳しい弾圧にもかかわらず急速に拡大し、プロテスタント、カト
リック両派の対立が王権をめぐる貴族間の政治闘争と結びついて、
新王フランソワ2世の外戚たるギーズ家の率いるカトリック派と反
ギーズ派のブルボン家やコンデ家などの貴族が率いるプロテスタ
ント派との間に1562年以降36年にわたるユグノー戦争がおこりま
した。
 またスペインの属領ネーデルランドではスペインによるプロテス
タントの弾圧、地域的諸特権の剥奪などの圧政に対する反抗を契機
としてネーデルランド独立戦争(80年戦争)が起こり、最後には30年
戦争と結びついて進行しました。
 ドイツではボヘミアのプロテスタント派が皇帝の弾圧に対して起
こした反乱を糸口に、1618年から48年のウエストファリヤ条約の成
立まで戦われた30年戦争へと発展しました。
 この戦争はデンマーク、スウェーデン、フランスをはじめ様々な国
々の関与する全ヨーロッパ的な規模の戦争となりました。
 これらの宗教戦争は宗教改革以後のヨーロッパにおけるプロテス
タントとカトリックとの対立を背景とするものですが、必ずしも宗
教問題のみをめぐる戦いであったわけではありません。そこには皇
帝、諸侯、新旧貴族層、新興ブルジョア層などの諸階層間における近
代初期に特有な政治的、社会的対立、利害関係が結びついていたの
であり、また同時に30年戦争におけるドイツ近隣諸国の領土的野心
からの介入や、ユグノー戦争の場合のスペインやイギリスの干渉の
ように、諸国間の対立、利害関係によって、これらの戦争がしばしば
国際的な規模に拡大されるようになったと考えられています。

-ユグノー戦争-
 ユグノー戦争はフランスのカトリック対ユグノー派(プロテスタ
ント・カルヴァン派)の宗教戦争です。
 宗教改革によって、フランスにもプロテスタントの貴族が現れ、15
59年にはパリで最初の全国教会会議を開催するほどになっていま
した。
 1560年に国王フランソワ2世が死ぬと、幼少の王を擁するカトリッ
クのギーズ家とユグノー派の貴族ブルボン家の対立が表面化しま
した。
 摂政となった幼王の母のカトリーヌ・ド・メディシスは当初宗教融
和政策をとりましたが、ギーズ一門の兵隊がユグノー派を教会内で
虐殺したのをきっかけに、1562年第一次の戦争がはじまりました。
 パリを拠点とするギーズ一門とオルレアンを拠点とするユグノー
派は、ロワール川流域で激しい戦いを繰り広げました。1570年には
サンジェルマンの講和によって一時講和が成立しましたが、1572年
「サン・バルテルミの虐殺」(*1)をきっかけに両派は再び戦争に入り
、戦闘は第八次にまで及びました。1589年ギーズ一家はカトリック
側の内紛で断絶し、ユグノー派のアンリ4世が即位し、ブルボン朝を
開き、政治的配慮から1598年「ナントの勅令」によって宗教的寛容を
定めました。これによりユグノー派の信仰の自由も一応認められる
ことになりました。

-三十年戦争-
 皇帝フェルディナント2世の弾圧に対するボヘミアのプロテスタ
ントの反乱にはじまり、やがてウニオン(新教連合)とリーガ(旧教
連合)の対立へとエスカレートし、ついに全ヨーロッパをカトリッ
クとプロテスタントに色分けする宗教戦争となりました。

ウニオンとリーガ
ウニオン(Union、新教連合)は1608年にファルツ選帝侯フリ ードリッヒ5世(カルヴァン派)の下に結成され、背後にはイギ リス、オランダが加わりました。リーガ(Liga、旧教連合)は翌 年バイエルン侯マクシミリアン1世の下に結成され、背後には オーストリアとスペインの領主であったハプスブルグ家の皇 帝がつきました。
カトリック勢力はプラハの和約(1635年)に追い込まれ、プロテスタ ントに大幅に譲歩しましたが、それでもなお戦争は続き、次第にヨー ロッパの覇権を目指すフランスとオーストリア、スペインを支配す るハプスブルグ家との政治的闘争の様相が強まり、その後、カトリッ クとプロテスタントの対立は1648年のウェストファリア条約という 妥協により終息しました。 戦争の影響は大きく、とりわけ戦乱の主要な舞台となったドイツの 荒廃は著しく、神聖ローマ帝国の政治体制は崩壊し、領邦国家の分立 が促進されました。 経済活動も停滞し、それ以後の近代化の遅れを 決定的にしました。 カトリック勢力はボヘミアやポーランドの奪回には成功しました が、その他の地域はプロテスタント側に留まりました。そして〔領主 の宗教がその領土の宗教となる〕というアウグスブルグの和議の 決定が、ルター派に加えてカルヴァン派にも適用されました。 三十年戦争は教皇権から解放された国家の体制が、もはや後戻り出 来ない段階に達していたことを示しています。 <プロテスタント勢力の拡大> 宗教改革の成功後、プロテスタント教会は教理上の制度化の時代 を迎え、プロテスタント正統主義が形成されました。 その一方では新たにいくつもの教派が生まれ、17~18世紀には正 統主義を乗り越えようとする敬虔主義やメゾシスト派の運動が起 こりました。18世紀に起こった信仰復興運動は初期キリスト教信仰 の情熱を呼び覚まし、海外宣教活動を促進しました。以降19世紀か ら第一次大戦にかけてプロテスタント教会は最盛期を迎えました。 -プロテスタント正統主義- 16世紀半ばから17世紀後半にかけてルターやカルヴァンら宗教改 革のパイオニアたちの思想を固定化し、基本的教理を集大成しよう という動きが広がり、プロテスタント正統主義が形成されました。 ルター派はザクセン選帝侯アウグストとの調停によって内部の神 学論争を統一し、1577年「和協信条」を制定、1580年「一致信条書」(*2) によって基本的教理を集大成しました。 また神学者ヨハン・ゲルハルトはルター派の神学を体系化した「ロ キ・テオロギカ」を著しました。 改革派の神学は、すでにカルヴァンの「キリスト教要綱」で一つの 大成を見ていましたが、オランダの改革派教会で起った予定説をめ ぐるカルヴァン主義とアルミニウス主義の対立では、1619年の「ド ルト信条」によってカルヴァン主義が正統とされました。
カルヴァン主義とアルミにウス主義の対立
カルヴァンの“神はある者を 救いに、その他のものを 滅び に、定めたと”する二重予定説に対して、アルミニウスは“神 の救いは一部の人間にではなく全人類に向けられる”と主張 しました。
その後、プロテスタント正統主義は次第に中世スコラ学に似た主 知主義的傾向(人間活動の源を理性にのみ見ようとする立場)を強 めていき、17~18世紀の啓蒙主義の時代には思想的影響力を失い、 その硬直化を打破しようとする試みとして敬虔主義やメソジスト 運動が登場しました。 -プロテスタント諸派の成立- フランスのユグノー戦争、ドイツの三十年戦争、イギリスに於ける ピューリタン革命などを経て、やがて宗教戦争の嵐が沈静化に向か う17世紀後半までにプロテスタント教会はルター派、改革派、長老派 、会衆派(組合派)(*3)、バプテスト派(*4)、クエーカー派、英国教会な どの教派としてヨーロッパに定着しました。 17世紀末にはドイツを中心に敬虔主義が起こり、ルター派の正統 主義の硬直化した理論に対して、内面の信仰と魂の経験を強調し、 知識ではなく、実践的信仰を重んじる改革運動を展開しました。 18世紀の信仰復活運動は産業革命に組み込まれ、精神的な活力を 失いつつあった諸教会に初期キリスト教信仰の情熱を吹き込みま した。 イギリスのジョン・ウェスレーとその弟チャールズ・ウェスレーに よるメソジスト運動はその代表です。 19世紀から第一次大戦にかけて欧米のプロテスタント教会は最盛 期を迎えました。アメリカでは第二次信仰復興運動がおこり、中西 部にかけてメソジスト派が飛躍的に成長しました。イギリスではY MCA運動、救世軍運動がおこりました。ドイツではシュライエル マッハーにはじまるリッチュルらによる自由主義神学が形成され ました。 -敬虔主義- 17世紀から18世紀前半にかけてドイツのプロテスタント教会のル ター派の内部に、一般信徒の宗教意識を覚醒させようとする運動が 起こりました。これが敬虔主義と呼ばれるもので、思想的影響力を 失ったルター派の正統主義に対する改革運動であり、人間の内面性 を重視する点で、啓蒙主義、シュライエルマッハーの神学、ゲーテな どのドイツ国民文学、キエルケゴールなどの思想の重要な精神的底 流となりました。
敬虔主義の特徴
①正統主義の硬直化した理論に対して、内面の信仰と魂の経 験を強調する ②ルターの信仰義認論の正当性を認めながら、信仰の「再生」 を訴え、知識ではなく実践的信仰を重んじる ③敬虔な心を第一として、世俗的な悦楽から隔絶し、禁欲的 な生活によって道徳的な「完全」を目指して生きる ④領邦教会に留まりながらも、信仰に目覚めた信徒の集会を 教会内に形成する などですが、原始キリスト教における「愛」と「単純さ」と 「力」を回復しようとする運動といわれます。
敬虔主義はシュペーナーに始まるとされます。シュペーナーは16 70年にフランクフルトの自宅で「敬虔主義の集会」を創設し、1675年 「敬虔なる願望」を著して、ルター派教会内の信仰改革運動を開始し ました。 シュペーナーの影響を受けてハレ大学神学部が敬虔主義を受け入 れました。その中心人物であった大学教授フランケは孤児院や貧民 学校を設立し、新しい世代の倫理的、社会的覚醒に貢献しました。ま たフランケの指導の下で、ルター派としての最初の海外宣教運動が 始まっています。敬虔主義の運動と理念はやがて貴族のツィンツェ ンドルフの下で、モラヴィア兄弟団(ヘルンフート兄弟団)に引き継 がれていきました。 -信仰復興運動(リバイバル・ムーブメント)- ルター派の正統主義に対する改革運動であった敬虔主義の流れを 受け、18~19世紀に信仰復興運動がプロテスタント教会全体に広ま りました。 信仰復興運動とは、プロテスタント派による情緒的高揚を引き起 こすような集会を開いたり、メディアを用いるなどして多くの人々 が一体感を持ちながら、それを支えとして強い信仰覚醒(劇的に真 の信仰に目覚めること)を起こす運動です。 イギリスでは当時、産業革命によって社会構造が激変し、宗教的、 道徳的な後退が起こっていました。また理神論によって合理的でな い宗教は軽視されていました。こうした状況の中で、英国教会の司 祭だったジョン・ウエスリーらによるメソジスト派が信仰復活運 動の中心となりました。彼らはスラム街、鉱山、牢獄、病院などを訪 ねて福音を語り、信仰による生まれ変わり、聖化(人間の罪のある生 き方が神の愛によって清められること)を説きました。やがて野外 説教などによる大衆布教と集団的な盛り上がりが、メソジスト派の 集会のスタイルとして定着するようになりました。 18世紀のアメリカでは牧師のジョナサン・エドワーズの説教をき っかけに、大きな信仰復興の波がおこりました。その運動にメソジ スト派の伝道者ホイットフィールドが加わり、やがて植民地各地に 飛び火しました。これらの地域では信仰に目覚めた人々が、情緒的 に興奮しながら回心を表明し、町の風紀までが一新されることがあ りました。 イギリスやアメリカに始まった信仰復興運動は20世紀には世界各 地に広まり、とりわけ近代化の途上にある地域で大きな成果を収め て今日に至っています。

 

http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/kirisitokyou21.html