はかりしれない愛
D.L.ムーディが神の愛を熱っぽく語る


D.L.ムーディが神の愛を熱っぽく語る(ニューヨークにて)


〔ドワイト・L・ムーディ 1837・1899年〕
 アメリカの代表的な伝道者。
 彼の父は4歳のときに死んだので、家庭は経済的苦境の中に放り出された。そのため学校にもほとんど行けず、17歳の時には家を離れて、叔父の靴屋で働いた。
 靴屋のあったボストンで、彼は日曜学校の教師に導かれて、回心した。そののちシカゴに移り、・・実業家として成功したが、しだいに教会の働きに専念するようになった。
 彼は決して、言葉巧みな説教者ではなかった。しかし、その温情あふれる説教のゆえに、多くの人々の魂をゆり動かした。彼の伝道のやり方や、教会の組織化の方法は、その後の大衆伝道に大きな影響を与えた。


〔聖書テキスト〕
 「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(エペソ人への手紙3:19)


〔メッセージ〕
 もし私に、
 「神は愛なり」という聖書の御言葉を、本当の意味で人々に理解させる力があるならば、私はきっとその一つの御言葉を持って、世界を巡り歩くことでしょう。
 そしてその輝かしい真理を宣べ伝えるでしょう。
 もし人が、ある人を愛していることを相手に確信させることができれば、その人は相手の心を得たのです。同様に私が、人々に神の愛を確信させることができれば、どんなにか多くの人々が神の国に群がって来ることでしょう。
 ところが難しいのは、神は自分を憎んでいる、と思って、人々がいつも神から逃げまわっていることなのです。


心に焼きつけられた御言葉

 数年前にシカゴに教会を建てた私たちは、神様の愛を、人々に熱心に伝えていました。
 そのとき私たちは説教を聞くだけでなく、聖書の御言葉(みことば)を、人々がよく見えるところにかかげたい、と思いました。それで講壇の上のほうに、ガスの光で、「神は愛なり」の御言葉を浮かびあがらせました。
 ある晩、一人の男が街を通りがかり、とびら越しに中をのぞき見て、この御言葉に気づきました。
 彼は毎日毎日を放蕩(ほうとう)に費やし、むなしく遊びふけっていました。彼はそこを通りすぎると、心の中で思いました。
 「神が愛だって? 神様がオレを愛してくれるわけがない。どうせオレは、くだらない、きたない男なんだから」
 彼は聖書の御言葉を、心の中で払いのけようとしました。けれども御言葉は火の文字になって、心から離れませんでした。彼は少し行ってから、戻って集会に加わりました。
 説教は聞きませんでしたが、その短い御言葉は深く彼の心にとどまっていました。それで充分でした。
 失われた人の心に、御言葉の入る入口さえあれば、人が何を言おうと問題ではありません。第1回の集会がすんでも、彼はとどまっていました。
 私は、そこで子どものように泣いている彼に気づきました。私はそばに寄り、聖書を開いて、神はたとえ彼がどんなに遠く迷っていたとしても、いつでも彼を愛しておいでになったことを話しました。
 また神が彼を受け入れ、罪を赦(ゆる)し、幸福に導くために、どんなに待っておられるかを話しました。そのとき、彼の心に福音の光がさしこみ、彼は喜んで帰っていきました。
 世の中で最も尊いものは、愛です。だれにもかまってもらえず、また愛してくれる者もいない人を想像してみてください。そのような人はおそらく、世界で最もみじめな人でしょう。
 人々はなぜ自殺するのでしょうか。誰にも愛されていない、死んだほうがましだ――という考えが心に忍びこんだ場合が、ほとんどなのです。
 聖書の中で「神の愛」という真理ほど、私たちの心に、力といたわりをもって迫るものはありません。
 しかし一方では、この真理ほど悪魔(サタン)の消したがっている真理は、ありません。悪魔は6千年以上も、神は人を愛してくださらないと人々に信じこませるために、熱心に努めてきました。
 この偽りを私たちの最初の祖先に信じこませるのに成功し、ひきつづきその子孫に対しても、成功しているのです。


神はいつ私たちを愛されるか

 神は私たちを愛してくださらない、という考えは、たいてい誤った教えから来ています。
 たとえばお母さんがたは、お子さんに対して、神様は悪いことをする子は愛してくださらない、良い事をする子だけ愛してくださるのですよと、間違って教えていないでしょうか。
 しかし、これは聖書の教えではありません。あなた自身、自分の子どもが悪いことをしたからといって、「子どもが憎い」とは言わないでしょう。
 いくら悪いことをしたところで、あなたの子どもたちへの愛が、憎しみに変わったりはしないでしょう。もし変わったとすれば、あなたの愛は何度も変転しなければならなかったはずです。
 言うことをきかなかったといって、自分の子どもでないかのように、家から追い出してしまったりするでしょうか。そんなことはしないでしょう。
 あなたは、あなたの子どもを愛しているのです。同様に、人間が罪と放浪の世界に迷い出たからといって、神が人間を憎まれることはありません。
 神が憎まれるのは、人ではなく罪なのです
 多くの人が、神は自分を愛してくださらないと思うわけは、自分の小さな物差しで神を測っているからだ、と私は信じます。
 私たち人間は、とかく愛する価値があると思える相手だけを、愛するものです。そうでなければ愛しません。しかし神の場合は違います。神の愛は、人間の愛をはるかに越えた大きなものなのです。


神の愛の広さ

 私たちの多くは、神の愛について何がしか知っている、と考えています。しかし聖書・エペソ人への手紙3:18に、神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」という言葉があります。
 私たちは、神の愛について幾分か知っているつもりでも、何十年か後になってみれば神の愛の偉大さについて、自分がほとんど何も知らなかったことに気づくでしょう。
 たとえばアメリカを発見したコロンブスが、アメリカ本土の大きな森林、湖、川、ミシシッピー渓谷等について、一体どれほどのことを知っていたでしょうか。
 コロンブスの発見したものは、実際にはアメリカ本土ではなく、アメリカ大陸に連なる西インド諸島(大西洋内)にすぎませんでした。彼は自分の発見したものについて、ほとんど何も知らないうちに死んでしまったのです。
 同じように、神の愛について私たちはいくらかは知っているでしょうが、私たちの知らない広さ、長さ、高さ、深さがあるのです。神の愛は大海原(おおうなばら)のようなもので、私たちがそれに飛びこんでみないうちは、何も知ることができません。
 パリのカトリック教会の大司教について、一つの話があります。
 彼は、第2次大戦中に投獄され、銃殺刑の宣告を受けました。もう少しで死刑が執行されるという時、獄房で、十字架の形をした窓に気づきました。
 彼はその十字架の頭に、「高さ」と書き、底には「深さ」、また両横に「長さ」と書きました。そのとき彼は、讃美歌にもうたわれた大切な真理を知ることができたのです。
 「栄(さか)えの主イエスの、十字架を仰げば、世の富、誉(ほま)れは塵(ちり)にぞ等しき」
 私たちは神の愛を知りたいとき、イエス・キリストが十字架にかかられたあのカルバリの丘を、思わなければなりません。この事実を思って、なお神は私たちを愛してくださらない、と言うことができるでしょうか。
 十字架は、神の愛を語っています。十字架が教える以上に偉大な愛は、今までに教えられたことがありません。
 神は一体どういうわけで、御子(みこ)キリストを犠牲にしてくださったのでしょう。またどういう御心で、キリストは死を遂げられたのでしょう――それは、たぐいまれな愛のゆえだったのです。
 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない(ヨハ15:13)
 キリストは、ご自分に敵対する者たちのために、命を捨てられたのです。神に背いている人々のために、命を捨てられたのです。カルバリの丘の十字架にあらわされたものは、愛です。
 人々が嘲笑したとき、また愚弄(ぐろう)したとき、キリストは何と言われたでしょう。
 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです(ルカ23:34)
 これは愛です。神は、天より火を下して人々を焼き尽くすことを、なさいませんでした。その御心の中には、愛のほか何ものもなかったのです。


「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、
何をしているのか自分でわからないのです」。



神の愛は変わらない

 聖書を研究すれば、神の愛は変わることがない、ということがわかります。
 世間では「人の心と秋の空」と言います。以前愛していた人も、今は冷たく背を向ける――それが世の常です。人の愛はたびたび、憎しみに変わります。
 しかし神の愛は、そうではありません。聖書に、イエス様は十字架の前夜、
 「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された(ヨハ13:1)
 と記されています。イエス様は、ご自身を敵に渡そうとしているユダをあらかじめ知りながら彼を愛し、またペテロがご自身を否(いな)むことを知りながら、彼を愛されたのです。
 ペテロの心を砕いて、悔い改めて主の御足もとに導いたのは、じつにキリストの愛でした。
 3年半の間、イエス様は弟子たちと共におられ、御愛を教えてくださいました。その教え方は、ただ単に言葉によるものではなく、実際に愛して、教えてくださったのです。
 主はご自身の渡される晩、水だらいを持ち、手ぬぐいを用意して、しもべのようになって弟子たちの足を洗い清められました。変わらぬ愛を、弟子たちに確信させようと思われたのです。
 このキリストの御愛について記したヨハネの福音書14章以上に、私が親しんでいる箇所はありません。またこれ以上、幸いな聖句もありません。
 読みあきないのです。主イエスが弟子たちに、ご自身の心を開いて何と仰せになったか、聞いてください。
 「その日には、わたしが父(神) におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は、わたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします」 (ヨハ14:20-21)
 天地を造られた大いなる神が、あなたをも、私をも愛しておられる――このことを考えてごらんなさい。
 「だれでもわたしを愛する人は、わたしの言葉を守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます(ヨハ14:23)
 私たち人間は小さなものですが、この偉大な真理をにぎれるよう、厳粛に願うものです。偉大な真理とは、御父および御子なる神が私たちを愛しておられるということ、そして私たちと共に住むことを願っておられる、ということです。
 いずれ機会を待って、などというのではありません。すぐにでも私たちの心の中に住もう、と願っておられるのです。
 さらに、もっと驚くべき言葉が、ヨハネの福音書17:23にあります。
 「わたし (キリスト) は彼らにおり、あなた (神) はわたしにおられます。それは彼らが全うされて、一つとなるためです。それはあなたがわたしを遣わされたこと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです」。
 これはイエス様の唇からもれた、最も注目すべき御言葉の一つです。
 イエス様は一度も父なる神の律法を犯さず、少しでも全き服従の道からおはずれになることは、ありませんでした。一方私たちの場合は、これと全く違って、愚かにも神に背いています。
 こんな私たちであるのに、キリストを信仰していれば、神は、キリストを愛するように私たちをも愛してくださるのです。なんと不思議な愛、驚くべき愛しょうか。
 神が御子を愛するのと同じように、私たちをも愛されるなどということは、話があまりうますぎて、人々はなかなか信じることができません。しかしそれが、聖書の教えなのです。
 罪人(つみびと)が、変わらぬ神の愛を信じるようになることは、難しいことです。人々は、人間は神のもとから迷い出てしまったのだから神は人間を憎む、と思ってしまっているのです。
 しかし罪と、罪人は区別しなければなりません。神は罪を憎まれますが、罪人は、愛しておられます。
 罪が人生をそこなうので、神は罪を憎まれるのです。神は罪人を愛しておられればこそ、罪を憎まれるのです。


神の愛は確かである

 神の愛は変わらぬばかりか、確かです。聖書・イザヤ書49:15-16に、
 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい女たちが忘れても、このわたし (神) はあなたを忘れない
 見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻んだ」
 とあります。
 私たちの知っている愛の中で、一番強いのは母の愛でしょう。
 いろいろなことが、夫婦を別れさせます。父は子に背を向け、兄弟姉妹は敵同士になることがあります。夫は妻を捨て、妻は夫を捨てることがあります。
 けれども母の愛は、すべてに打ち勝つのです。良いうわさにも、悪いうわさにも、たとえ世間の裁きに直面しても、母の愛は、変わらずに子どもに向けられるのです。
 赤ん坊の時の笑顔、子どもの時の笑い声、また頼もしかった青年時代を思い起こして、たとえ今どんなに子どもが悪かろうと、決して取り柄(え)のない者とは思わないのです。母の愛は死よりも強し。死も、母の愛を消すことができないのです。
 病気の子を看病する母親を、あなたは見たことがあるでしょう。たとえ自分が病気になっても、もし子どもの命を助けることができるなら、喜んでそうしようとさえするのです。何週間も寝ずの看病をして、子どもの世話を、決して人にまかせたりしないのです。


愛しています私の子ですもの

 しばらく前のこと、私の友人がある家庭をたずね、多くの友人に会いました。彼はそこから帰る途中、忘れ物に気づいて、それを取りに戻りました。
 そこで彼は、心打たれる光景に出会いました。その家の主婦である富んだ婦人の前に、ルンペンのようなみじめな男が、ちょうど来ていたのです。この男は、じつは彼女の子どもでした。
 ルカの福音書15章に語られた「放蕩(ほうとう)息子」のように、遠くさまよっていたのですが、そのとき戻って来たのです。母は、
 「私の子ですもの、愛しています」
 と言いました。
 たとえ10人子どもがいても、その1人が迷うと、母は余計その子が可愛いといいます。母の愛は、すべての子どもに対して向けられるのです。
 また、ニューヨークのある有名な牧師から聞いたのですが、ひじょうに性根(しょうこん)の悪い父親がいて、母親は、息子が父の悪に染まらないように細心の注意を払っていました。
 しかし父親の感化力はそれにもまして大きく、その子をいろいろの罪に誘い、ついに最も凶悪な犯罪に走らせてしまいました。彼は人を殺したのです。
 彼は裁判にかけられました。裁判の開かれている間、すでに未亡人になっていた母は、ずっとそこにいました。証人が不利な証言をすると、その子より、母の方が痛みを感じていたようです。
 彼に対する有罪が決定し死刑の宣告が下されたとき、人々はその宣告に満足しました。けれども母の愛はたじろがず、赦(ゆる)しを懇願(こんがん)しました。
 それは受け入れられませんでした。ついに刑が執行され、その後母は、遺体の下げ渡しを願いました。それも許されず、遺体は習慣にしたがって、監獄の庭に葬られました。
 しばらくして母は亡くなりました。しかし彼女は臨終の時、自分が息子のかたわらに葬られることを願いました。こうして彼女は、自分が殺人犯の母と知られることをも恥じなかったのです。
 また私は、スコットランドのある若い女の話を思い出します。
 彼女は家を出て、グラスゴーの町に行きました。そしてその夜の街で、彼女は身をもちくずしました。
 彼女の母は、娘を見出そうと方々を探しましたが、無駄でした。しまいに母は、自分の肖像画を描かせて、ミッドナイト・ミッションの部屋の外に、掲げさせることにしました。


彼女はグラスゴーの町に行き、その夜の街で身をもちくずした。

 ミッドナイト・ミッションとは、そうした女性たちにキリストの福音を伝道する目的で、開設された所です。
 通りすがりの多くの女性たちがその絵を見ましたが、ちらっと見るだけで、通りすぎてしまいました。しかしひとりの女が、その絵のかたわらを、行きつ戻りつしていました。
 その絵の中の母は、自分が赤ん坊のとき、大切に腕の中に抱いてくれたときの母の眼差(まなざ)しと同じだったのです。
 母は、罪を犯している子を、忘れもしませんでした。さもなければ、こんな所に肖像画がかけられているはずがありません。今にも唇が開いて、
 「お帰り、ゆるしてあげるよ。あなたを愛しているのよ」
 と言うかのようでした。かわいそうな娘は胸が張り裂けそうになり、泣きくずれてしまいました。彼女は心から罪を悔い、悲しみと、恥じる心で家に帰り、もう一度母の心と結ばれたのです。


神の愛は母の愛に優る

 しかしどんなに母の愛が強くとも、神の愛の前には比べものになりません。
 母の愛をもって、神の愛の広さ、深さを測ることはできません。この世の母親で、神が私たちを愛されたように愛した者は、だれもいません。
 十字架上で死なれる御子を自ら世に下された、父なる神の愛を考えてごらんなさい。
 私は以前、父なる神のことより御子キリストのなさった事柄のほうが大切だ、と思っておりました。キリストは、厳正な審判者である神と私たちとの間をとりなし、神の怒りをしずめてくださったのだ、という理解しか持っていなかったのです。
 しかし今は、私も父になり(長年たった一人の子どもしかいませんでしたが)、父なる神が御子を世に与えてくださった時のことを、考えてみました。私はそのとき、自分が子どものために死ぬより、自分の子どもを人々のために与えることのほうが、もっと大きな愛を必要とすることが、わかったのです。
 「神は、じつにそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハ3:16)
 ああ、私はこの御言葉によって、人々に「説教」することができません。私はたびたび説教しようと決心したことがありますが、その内容のあまりの高さに、私が達することができなかったのです。それでこの御言葉をただ述べて、他の話をしました。
 「神はご自分の御子を、世にお与えになったほどに、世を愛された」という御言葉の深さを、だれが知り得るでしょうか。私たちに神の愛の高さ、深さを完全に測り知ることは、決してできないでしょう。
 パウロは、神の愛の高さ、深さ、長さ、広さを知り得るよう、祈っています。けれども神の愛はあまりに大きく、私たちの知り得る範囲を越えています。神の愛は、はかりしれないのです。


キリストの十字架は神の愛を語る

 キリストの十字架ほど、神の愛を如実(にょじつ)に語っているものはありません。
 私と一緒にカルバリの丘に来て、十字架にかかられた神の御子を仰ぎ見てごらんなさい。あなたは、死を間際にした御子の唇からこぼれる、刺すような叫びを聞かれるでしょう。
 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)
 このような叫びを聞いて、なお神は自分を愛してくださらない、と言える人があるでしょうか。まことに、
 「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ15:13)
 イエス・キリストは、敵のために、命をお捨てになったのです。
 さらに考えてみましょう。神は、私たちがまだ神から離れているときに、私たちを愛してくださったのです。


十字架を思って、なお神は
私を愛してくださらない、と言えるだろうか。

 聖書には決して、私たちが神を愛するまで神は私たちを愛して下さらない、とは書いてありません。ヨハネの第1の手紙4:10に、
 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」
 とあります。私たちが、神を愛するという考えに及びもつかないうちに、神は私たちを愛してくださったのです。
 あなたは、子どもがあなたの愛を理解する以前から、子どもを愛しておられたはずです。それと同じです。神について少しも考えたことのない私たちを、神は御心にとめてくださったのです。
 放蕩(ほうとう)息子(ルカ15章参照) を家に帰らせたのは、父が自分を愛してくれている、という思いでした。自分は捨てられたのであり、もう父に愛されていない、という思いがもし彼の心にあったら、はたして彼は帰ったでしょうか。
 おそらく帰らなかったでしょう。しかし父はまだ自分を愛してくれている、という考えがふと心に浮かんだとき、彼は飛ぶようにして家に帰ったのです。
 アダムの不幸と罪によって、神の愛が明らかになりました。神は、アダムが堕落したとき彼に近づき、憐れみをもって彼をとり扱われました。
 人が滅びるとすれば、それは神が愛されないからではありません。その人が神の愛を拒んだからなのです。


人の心が天国にひかれる理由

 人の心を天国に誘うもの――それは真珠の門や、純金の大通りでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。
 私たちは天国で、"ご自身のひとり子をお与えになったほどに私たちを愛されたかた"のみそばに憩うことができるからです。
 一体、人が家庭に心ひかれるのは、なぜでしょう。美しい家具、りっぱな部屋のゆえでしょうか。いいえ、これらのものがみなそろっていながら、墓場のように暗い雰囲気の家庭もあります。
 ブルックリンの町でのこと、ひとりの母親が、病気のために死に瀕していました。母親は絶対安静が必要だったので、やむをえず、彼女から子どもを離しました。子どもは何もわからず、母親の休息を邪魔するからでした。
 子どもは、隣の家に移され、そこで眠りました。子どもは母親のところに帰りたくて、毎晩のように泣きました。しかし母親の病状は悪くなる一方で、子どもを家に戻すことはできませんでした。
 とうとう母親は亡くなりました。死後も柩(ひつぎ)の中の母親を、子どもには見せませんでした。埋葬がすんだのち、子どもは自分の家に戻り、
 「ママ、ママ」
 と叫びました。またつぎの部屋に行って母を呼び、家中を探しまわりました。しかし母はいません。それがわかったとき、子どもは「隣の家に探しに行く」と言い出したのです。
 子どもが求めたのは、"母親の存在"でした。それと同様に、私たちが天国に心ひかれるのは、そこで、私たちを愛するがゆえに十字架にかかられた"キリスト"にお会いできるからです。
 どうして神は私たちを愛されたのか、と尋ねられても、私にはお答えできません。私の考えでは、神はまことの父であられるので、愛することが神のご本質なのだと思われます。ちょうど太陽の本質が、照らすことにあるように。
 神は、ご自身の愛のうちに、あなたが憩うことを望んでおられるのです。ですから不信仰なことをして、神から離れるようなことをしてはいけません。
 自分は罪人だから、神が愛し守ってくださることなどあり得ないなどと、思ってはいけません。絶対に神は、そんなかたではありません。
 神はあなたを救い、あなたを祝福することを願っておられるのです。
 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました(ロマ5:6)
 この御言葉は、神があなたを愛しておられると確信させるのに、充分ではないでしょうか。あなたを愛しておられなかったら、あなたのために、死んではくださらなかったでしょう。
 あなたの心は、この神のご慈愛にさからって進み、はね返し、また軽んじ得るほど固いものなのでしょうか。あなたにはそうすることができるかもしれません。しかしそれは危険なことです。
 ある人は心の中で、
 「もし私が神を愛すれば、きっと神は私を愛してくださると思います。神は道徳的に潔癖(けっぺき)で、宗教的に清い人を愛してくださるのだと思います」
 というかもしれません。しかしみなさん、神は清い人ばかりでなく、不敬虔な者をも愛しておられるのです。
 「私たちがまだ罪人(つみびと)であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ロマ5:8)
 神はキリストを、全世界のために死ぬようにと、お遣わしになりました。あなたは、キリストの十字架にあらわされた神の御愛を受け入れるとき、その御愛の中に安息することができるのです。


チャーリー・ロスの誘拐

 聖書・ヨハネの黙示録1:5に、私が大切にしている一つの御言葉があります。
 「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち・・・」
 という御言葉です。
 みなさんの中には、神はまず私たちを罪から洗い清め、そののちに愛して下さるのだと、思っている人があるかもしれません。しかしそうではありません。
 神はまず私たちを愛してくださったのです。
 数年前、チャーリー・ロスという4歳の子どもが誘拐された事件で、国中が大騒ぎをしました。馬車に乗った2人の男が、チャーリーとその兄に、「お菓子は欲しくないかね」と誘い、兄を残してチャーリーだけ連れ去ってしまったのです。
 長い間、あらゆる州、あらゆる土地にわたって探し、イギリス、フランス、ドイツにまで捜索の手を伸ばしましたがダメでした。
 チャーリーの母は、せめてもう一度彼に会いたい、と今も思い続けています。ガーフィールド大統領が暗殺された時を除けば、国中がこれほど大騒ぎした事なないでしょう。
 ところでこのチャーリーの母が、ある集会に出た、としましょう。牧師の話を聞いている間に、会衆の中に自分の失った子どもを発見した、とします。
 仮にその子どもが、貧乏くさくて、きたなくて、ぼろぼろの着物を着ている、しかも靴はないし、上着もなし、といった有り様だったら、母親は一体どうするでしょうか。
 その子がきれいな服を着るのを待ってから、わが子と認めるでしょうか。いや、すぐにその子のところに行って抱きしめ、その後、わが子を洗ってきれいな服に着替えさせてあげるでしょう。
 神のなさることも同様です。神は私たちを愛し、その後に洗い清めてくださるのです。
 しかし、神が私たちを愛しておられるなら、なぜ無理にでも私たちを正しい者にしてくださらないのか、と思う人もあるでしょう。
 神が天国に迎えたいと思っておられるのは、機械でも奴隷でもなく、息子、娘たちなのです。私たちの頑固な心をつぶすこともできるでしょうが、神はそれよりも、愛の絆(きずな)でみもとに引き寄せたい、と思っておられるのです。
 神はあなたが、小羊(キリスト)の婚宴(こんえん)の席に共に座することができるように、あなたを清め、雪よりも白くしたい、と願っておられるのです。あなたが主イエスと共に、はるかなる幸福の世界――天国の水晶の道を歩むことを、望んでおられるのです。
 神はあなたを、神の家族の一員に加えたいのです。天国の息子、娘にしたいのです。
 さあ、あなたは神のご慈愛を踏みにじろうとしますか。それともご自分を、神にささげますか。


母の手

 恐ろしい南北戦争が行なわれている時のことでした。ある母親が、息子がウィルダーネスの戦いで負傷した、という知らせを受けました。彼女はすぐに一番列車に乗って、息子の所に急ぎました。
 しかしすでに陸軍省から、婦人はそれ以上戦線の中に入ってはいけない、という命令が下っていました。しかし母親の愛の前に、命令が一体何でしょう。
 彼女は涙と懇願のあげく、戦線を通り越し、ウィルダーネスへ向かいました。彼女はついに、息子のいる野戦病院を見つけました。そして軍医のところに行って、
 「病室で子どもの看護をするのを許してください」
 と頼みました。軍医は、
 「今、息子さんを眠らせたところです。ひじょうに危険な状態にありますから、もし起こして興奮するようなことがあると、死なせてしまうかもしれません。少しお待ちになったらどうでしょう。あなたの来られたことに少しずつ気づくまで、外にいらっしゃったほうが良いと思います」
 と言いました。母親は医者の方を見て、
 「先生、もし息子が二度と目を覚まさなかったら、私はもう生きている息子を見れないことになってしまいます。ただそばへ座らせてください。起こしたりはしません」
 と言いました。
 「話をなさらないならよろしい」
 と軍医は許しました。
 母親は寝台にそっと歩み寄り、息子の顔を眺(なが)めいりました。ああ、どれほど彼に会いたい、と願ったことでしょう。息子の顔に見入っていた母親の目は、どんなにかうれしくあったことでしょう。
 母は近づいたときに、手をふれずにはいられませんでした。やさしい愛の手を息子の額(ひたい)に伸ばしました。
 顔に手がふれると、息子は目を開かないで、
 「お母さん、いらっしゃったのですね」
 と言いました。彼は愛の手の感触を、よく知っていたのです。その手には、母の愛と同情がこもっていました。


イエスのやさしさ

 罪ある人よ、もしあなたがイエス様の愛の御手に触れるなら、その御手がいかに優しさに満ちたものであるかを、知るでしょう。世間はあなたに、不親切であるかもしれません。しかしキリスト様は違います。
 あなたはこの世に、彼以上の友を持つことはできないでしょう。今日、今、あなたが主イエスのみもとに行くこと――それが必要なのです。
 主の御手に抱かれ、主のみそば近くにおいでなさい。そうすれば主は、大いなる御力をもって、あなたを支えられるでしょう。主はあなたを守り、あなたの心をご慈愛で満たしてくださるでしょう。
 「主のみもとに行くと言っても、どうすればいいのですか」
 と言うかたもあると思います。母の所に行くのと、同じようにすればよいのです。あなたは今まで、母の心を傷めたり、悪い事をしたことがありますか。もしあったら母の所に行って、
 「お母さん、ゆるしてください」
 と頭をたれなさい。キリスト様に対しても、これと同様にすればよいのです。
 今すぐキリストのみもとに来て、神様を愛していなかったことを、すべきことをしていなかったことを申し上げて、罪の数々を告白しなさい。そうして神がいかにあなたを祝福されるかを、ごらんなさい。


リンカーンの赦免

 もう一つのことが思い出されます。それは軍法会議で銃殺の宣告を受けた、少年の話です。
 少年が銃殺刑に処せられるという知らせが、両親のもとに届けられました。両親は、心が張り裂けんばかりになりました。
 その家に一人の少女がいました。その子は、アブラハム・リンカーンの伝記を読んだことがあったので、
 「もしリンカーン大統領が、お父さんお母さんがどんなに兄さんを愛しているかを知ったら、きっと兄さんを銃殺にはさせないでしょう」
 と言いました。そして父親が息子の命乞いにワシントンに行ってくれたら、と思ったのです。しかし父は、
 「いやもう駄目だろう。法律は守らなければならないだろうから。軍法会議で宣告を受けた幾人かの赦免(しゃめん)願いも、拒否された。大統領といえども、それに立ち入ることはできないのだよ。軍法会議で宣告を受けた以上、その結果を受けなければならないだろう」
 と言うだけでした。父も母も、子どもが赦(ゆる)されるだろうと信じるだけの、信念がなかったのです。
 しかしその少女は、大きな希望を持っていました。彼女はバーモントから汽車に乗って、ワシントンへ出かけました。
 ホワイト・ハウスに着いたとき、兵士たちはその子を、中に入れようとしませんでした。しかしそのかわいそうな話を聞くと、通るのを許してくれました。秘書室でも、秘書は大統領の私室に入れてくれませんでしたが、話を聞くとすっかり心を打たれて中に入れてくれました。
 少女は、リンカーンの部屋に入っていきました。そこでは合衆国の上院議員、将軍、有力な政治家たちが、戦争のことで重大な決議をしていました。


少女は、ひとりリンカーンの
部屋に入っていった。

 大統領は、ふと目を上げると、戸口のところに小さな少女いるのに気づきました。彼は、
 「何の用かね。ここへ来て話してごらん」
 と言いました。
 彼は人の子の父でした。少女の話を聞き、大きな涙が、リンカーンの頬(ほお)をつたって流れ落ちました。
 彼は軍隊に急報を送り、その少年をワシントンによこすように命じました。少年が到着すると、大統領は少年としばらく話した後、銃殺刑を取り消させました。
 また少年を服役させる前に、彼に特別に30日間の保釈を許し、少女と一緒に家に帰して、両親の心を喜びに満たしたのでした。
 ちあなたは、キリスト様のみもとに行くにはどうしたらよいか、知りたいと思いますか。ょうど暗この少女が、リンカーンの所へ行ったようにすればよいのです。あなたはいは話をお持ちかもしれませんが、それをみな主にお話ししなさい。少しでも隠していけません。
 リンカーンが少女に同情して切なる願いを聞いてあげたのに、主イエス様があなたの祈りを聞かれない、とでも思いますか。リンカーンなり、他の人なりが、キリスト様以上の憐れみを持っていると思いますか。
 キリスト様は、いかなる人間よりも慈愛に満ちておられるのです。たとえ誰もあなたをかえりみないような時でも、主はあなたを心にかけてくださいます。どんな時でも同情し、あわれんで下さいます。
 まっすぐ主のみもとに行って罪を告白し、願いを申し上げれば、救ってくださるのです。


囚人の釈放

 2、3年前、ひとりの男が、イギリスを離れてアメリカへやって来ました。彼は英国人でしたが、帰化して米国の市民となったのです。
 しばらくするうちに、彼はアメリカに不安と不満を感じて、キューバに渡りました。そのキューバで、たまたま内乱が起きました。1867年のことです。
 不幸にも彼は、スペイン政府によってスパイに間違えられ、捕らえられてしまいました。そして軍法会議にかけられ、有罪、さらに銃殺刑の判決を受けました。
 ところが、審理はすべてスペイン語でなされたため、かわいそうなこの男は裁判の間中、何がなされているのかほとんどわかりませんでした。判決を受けてから初めて分が銃殺刑に処せられることがわかったのです。
 彼はアメリカとイギリスの領事を呼び、全経過を語って、自分の無罪を立証し、保護を求めました。領事たちは事件を調べ、彼が実際に無罪であることを確かめました。そしてスペインの将軍のところへ行って、
 「彼は死刑判決を受けたが、本当はこのように潔白だ。彼は無罪である」
 と談判(だんぱん)しました。しかしスペイン側では、
 「法律によって有罪と認められた以上、死刑は執行されなければならない」
 と答えるだけでした。そこには海底電線の設備がなかったので、領事たちは本国政府と相談することができませんでした。
 処刑の朝、男は車に乗せられ、刑場に着きました。墓が掘られ、馬車に積んできた棺桶(かんおけ)が出され、ふたが開けられました。若いその男は黒い帽子で顔をおおわれ、兵士たちは銃の準備をしました。
 その時でした。
 アメリカとイギリスの領事が、馬車で乗りつけました。イギリス領事は馬車からとび出すと、ユニオン・ジャックの英国旗を、処刑台の男にかぶせました。
 アメリカ領事も彼に星条旗をかぶせて、スペイン士官に向かってこう叫んだのです。
 「あの旗を撃てるものなら、撃つがいい」
 彼らはついに、旗を撃つことができませんでした。その旗のうしろには、2つの大きな政府があったからです。それが事件解決の鍵になりました。
 「私の上に翻(ひるがえ)るあのかたの旗じるしは、愛でした(雅歌2:4)
 神に感謝しなさい。望みさえすれば、どんないやしい罪人でも、きょう、神の御旗(みはた)のもとに来ることができます。


彼の背後には、二つの大きな政府があった。

 神の愛の御旗は、私たちをおおっているのです。何とさいわいな福音、恵みに満ちた良い知らせではありませんか。きょう信じて心に受け、新しい生涯にお入りなさい。
 聖霊(神の霊)によって、神の愛を心に満たしなさい。暗きは去り、憂鬱(ゆううつ)は払われるでしょう。罪は除かれ、平安と喜びが、あなたのものとなるのです。

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