あなたの信仰はどこにあるのか

- ルカ福音書8:1925 -

シャローム宣教会 


[ルカ福音書8:2225] 22 そのころのあるのことイエスは弟子たちといっしょに、「さあこうろう。」われたそれで弟子たちはした23 っているにイエスはぐっすりってしまわれたところが突風きおろしてたので弟子たちはをかぶって危険になった24 そこでらは近寄ってってイエスをこし、「先生先生たちはおぼれてにそうです。」ったイエスはがって荒波とをしかりつけられたするとまりなぎになった25 イエスはらに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」われた弟子たちはれていにった。「じになればうとはいったいこのはどういうなのだろう。」

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ルカ福音書8:1925にはつの事柄げられていますつはしい家族についてでありもうひとつは湖上大嵐出来事です一見なる出来事んでいるようにえますがルカ福音書8:118にあるまきのたとえ密接につながっています

 

1. しい家族としての共同体(ルカ福音書8:1921)

 

ひとつのいかけとしてこの箇所(8:1921)がここにかれているのはなぜかというのはマタイ124650とマルコ32135にもその並行記事がありますがコンテキストがなります

(1) マルコの場合にはこの記事まきのたとえかれていますそしてイエスはのみこころをはだれでもわたしの兄弟姉妹またなのですべています

(2) マタイとマルコはじです

(3) ルカの場合ではまきのたとえしい家族関係についてべられていますルカによればしい家族とはのことばをいてなうたちですえられています

 

+「のことばをという意味イエスがのあるきなさい」、「注意しなさいったことと関連していますつまりくとは受動的いてわかったつもりになってうことではなくまずはその意味するところ真意めることいかけて真意ることがということの意味でした

 

ちなみに、「のことばを、「それをという動詞はぞれぞれともに現在形分詞、「ける」、「けることを意味していますにあるしい共同体とはそのような共同体です得心くまでけていく共同体であり真意ってそれにっていく共同体ですイエスのるメツセージの真意めてそれをうためにばれたたちこれが血縁関係とはなるそれをえたしい家族なのです食卓にあずかりのことばの真意りながらそれをするしみにあずかる家族としての共同体です

 

2. イエスのいかけ

 

ルカ福音書8:2225こうるためにイエスがまずそのあとに弟子たちがいましたらはへとしたのですイエスはむとイエスはぐっすりと寝込んでしまいました新改訳イエスはぐっすりってしまわれた。」(23)しています。「ぐっすりってしまった、「アフュプノオー」άφύπνόωのアオリストで強調わす接頭語アポ」απο意味する「πνόω」合成語寝入ぐっすりという意味

 

ところが突然猛烈突風らにきつけましたそのためにらはをかぶり水浸しになりいました弟子たちはをかぶり水浸しになり危険していました弟子たちはにもにそうだとイエスをこしますやおらがったイエスがりつける(アオリスト)それらは(アオリスト)なぎになった(アオリスト)とあります弟子たちは(権威をもって)命令それをめられたイエスにしていて、「このとはいったいどういうなのだろういにったのでした

 

かにイエスがかってりつけ」、なぎになった現象くべきことですがそれ以上重要なことはイエスが弟子たちにられたいかけです

あなたがたの信仰はどこにあるのですか(25) この一言がなにを意味するのかそれがこの箇所瞑想われますイエスという奥義にいつもきておられてそこからなっていますですから弟子たちはその真意自分のものとすべきでしたところが突然遭遇したときらがイエスのっていることをどのようにいていたかが暴露されてしまいました

ここでのきはにもかかわらずイエスがのとも(舟尾)でぐっすりておられたということです弟子たちはこのイエスの姿よりもイエスの権威あることばでがおさまったことにきをじています

 

イエスの安眠している姿にこそのすばらしさがられるにもかかわらず弟子たちはそれについてきをしていないかのようですなぜなららが奇蹟出来事にのみわれていたからです

そもそもイエスがこうろうとされのでしたそして突風いてくるという危機われましたある意味ではこれは危機的出来事における信仰きた実地訓練ともえます遭遇した弟子たちのへの信仰(信頼)んでしまいましたところがイエスはいて御父信頼していましたそれゆえぐっすりることができたのです

 

のことばをくその目指すところはきているイエスと御父とのかかわりの秘密信頼奥義ることですそのことの重要性イエスはあなたがたの信仰(信頼)はどこにあるのですといういかけによって弟子たちにづかせようとしているのですつまり、「あなたがたはわたしのをどのようにいてきたのか注意しなさいともえられるのです

 

イエスは注意しなさいられましたがイエスのをどのようにいているかは突然襲った出来事によってらかにされてしまうということです。「いて御父信頼していたイエスはでもぐっすりることができたのですつまり信仰とはこういうことだとえようとしたのですイエスがんでいた事実こそくべきリアリティですそしてこの信仰えられてるためにしい家族としての共同体じひとつの運命共同体必要なのです

 

ダビデが息子アブシャロムのクーデターによって都落ちしたときにられたとされる詩篇3にもダビデはたえてはまたをさますがささえてくださるから。」(5)とあります。「いのちのしさをことをただひとつのいとしたダビデをしてできたことだとすればたちもダビデがただひとつのこととしてめためをらの優先的求めとしなければならないことをわせられます

安眠れをえますこのこそ永遠のいのち奥義えます

 

預言者イザヤは大国脅威えるイスラエルのして、「ってかにすればあなたがたはわれいて信頼すればあなたがたは(30:15)という約束えましたところがはそれをまなかったのです

イエスの事実(ることとうことすべて存在そのもの)のことばの現実をあかししているのですれをすイエスの信仰その信仰はどこにあるのかとイエスはたちにいかけているのです

 

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