十字架につけられたイエス(1)

- マタイの福音書27:3136 -

シャローム宣教会 


[マタイの福音書27:3136] 31 こうしてイエスをからかってからマントをがせて十字架につけるためにした32 兵士たちがくとシモンというのクレネ出会ったらはこのイエスの十字架無理やり背負わせた33 ゴルゴタとばれている場所すなわちどくろの場所(されこうべの場所)ると34 らはイエスにみをぜたぶどうませようとしたイエスはそれをなめただけでもうとはされなかった35 らはイエスを十字架につけてからくじをいてそのけた36 それからろしそこでイエスを見張っていた。」

 

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イエスの十字架によってかれしからだされし血潮、「罪深たちのためであったことそしてそれをたちがかつことは、「えるためです。「えることとべることはつのことですなぜなら、「べることなしにたちがかされることはないからですこれは奥義ですイエスはこうわれました

 

[ヨハネの福音書6:5356] 53 まことにまことにあなたがたにいますそのまなければあなたがたのうちにいのちはありません54 わたしのわたしの永遠のいのちをっていますわたしはわりのにそのをよみがえらせます55 わたしのはまことのわたしのはまことのなのです56 わたしのわたしのわたしのうちにとどまりわたしもそののうちにとどまります。」

 

56わたしのわたしのわたしのうちにとどまりわたしもそののうちにとどまりますとはイエスとひとつになることを意味していますイエスの十字架受難のみこころを実現するためになくてはならない重要出来事でしたたとえそれがイエスの周辺々がなしていることであってもそれらはのシナリオのにしっかりとまれておりすべてがのご計画どおりにんでいきますまたつひとつの出来事においても奥義されていますそのされた奥義今回のテキストからてみたいといます[マタイの福音書27:3136] (本文)

 

本文ではイエスが総督官邸からされてゴルゴタとばれている場所でイエスを十字架につけたことがされていますそのプロセスで兵士たちがシモンというのクレネにイエスの十字架無理やり背負わせたことイエスに(にが)みをぜたぶどうませようとしたことそしてイエスのをくじでけたことがされていますイエスにしてなされたすべてのことには意味がありますたとえそれが偶然のようにえたとしてもにおいては必然性があるのですそれをるためにはたちがなぜといういをげかけることですそうするならば必然性えるようになりますそのいかけは以下のとおりです

 

(1)シモンというのクレネ十字架無理やり背負わせられたのはなぜか

(2)ゴルゴタとばれている場所とはどこなのかそしてそれは示唆しているのか

(3)イエスはみをぜたぶどうをなめただけでもうとはされなかったのはなぜか

(4)ローマの兵士たちがくじをいてイエスのけたことにどんな意味されているのか

 

上記四点についてえてみたいといます

 

1. シモンというのクレネ十字架無理やり背負わせられたのはなぜか

 

*「クレネ地中海したアフリカの一大都市アレキサンドリアに都市でしたそこに離散したユダヤのシモンがエルサレムのりにていたのですここではクレネではなく、「シモンという焦点てます。「シモンのヘブルシメオン(שִׁמְעוֹן)ですこれはイスラエル(ヤコブ)二番目名前です新約聖書ではイエスの両親幼子イエスをにささげるためにエルサレムにれてったシメオンという老人幼子イエスをいてをほめたたえました新約聖書にはのみならずくのシメオン」=「シモン(Σίμων)名乗人物数多登場しますその名前されている奥義御子ということです

 

*「とはことです有名申命記64シェマ・イスラエル・アドナイ・エロヘーヌー・アドナイ・エハッド、「イスラエルよ。【たちの。【唯一であるという意味ですがこれはイスラエルの重要信仰告白です。「シェマシャーマ(שָׁמַע)命令形ですがうことはイスラエルのあるべき本分ですそれがシメオン(シモン)という象徴されているのですいわばシメオン(シモン)というはイスラエルのあるべき本質なのですイエスの弟子筆頭シモン・ぺテロであったということもそれをづけていますまた幼子イエスを最初いたシメオンが聖霊たされてイスラエルの(=)んでいた人物であったことも偶然ではありません幼子のうちに御救いををほめたたえていますその御救いは万民えられたものでイスラエルの光栄のみならず異邦人らす啓示としてしいそのものでしたそこにシメオンのくかかわっているのです

 

シメオン(シモン)というをより調べてくならイスラエルの全土福音えられる要所要所登場する名前であることがかりますえば、①エルサレムのシメオン、②ガリラヤで召命けた弟子のシモン・ペテロ、③ベタニアのパリサイシモン、④クレネでイエスの十字架背負ったシモン=アンテオケのニゲルとばれたシメオン、⑤サマリヤの魔術師シモン、⑥ヨッパ(ヤッファ)なめしのシモンなどです

 

今回シモンというのクレネ無理やりではありましたがイエスの十字架背負ったことに意味がありますイエスが弟子たちにしてたびたびったことばに以下のことばがあります

[マタイの福音書16:24] だれでもわたしについてたいとうなら自分自分十字架ってわたしにってなさい。」

[マタイの福音書10:38] 自分十字架ってわたしにってないわたしにふさわしいではありません。」

[ルカの福音書14:27] 自分十字架ってわたしについてないわたしの弟子になることはできません。」

 

シモンというのクレネ背負わされた十字架場面まさにこのイエスのことばをそのままにしたものとなっていますシモンは無理やり(=強制的)ではありましたがイエスの十字架背負ってついてった姿がありますルカはこの場面をわざわざイエスのからばせた(ルカ23:26)していますここに御子というシモンの本質がありますしかもそのシナリオをいたのはならぬ自身なのです

 

2. イエスが十字架につけられたゴルゴタという場所

 

イエスが十字架につけられたのはゴルゴタという場所であったことがされていますゴルゴタはイエスがのすべての背負ってなれた場所でありその正確場所ることはきな意味がありますしかしそれがどこにあったのかは聖書されていません当時ゴルゴタとばれる場所がどこにあったのかが周知のことであったからだとわれます

 

*「ゴルゴタはヘブルゴルゴッター(גָּלְגֹּתָּא)表記されますがそもそもこの語彙はヘブルひとりひとりをえる(人口調査)という意味グルゴーレット(גֻּלְגֹּלֶת)由来しますちなみにこのグルゴーレットには頭蓋骨頭蓋骨えることという意味もありますそしてこのヘブルグルゴーレットがアラム音訳されたのがゴルゴタですそのゴルゴタはどこにあるのでしょうか

 

*「ゴルゴッター(גָּלְגֹּתָּא)意味語彙ミフカード(מִפְקָד)がありますそれはえること(人口調査)意味、「められた場所」「一定場所という意味があります聖書められた一定場所とは、「のためのいけにえがほふられる場所意味しますイエスがたちをうことができたのはのためのいけにえのとしてご自身をささげられたからですそののためのいけにえを場所はどこでもいわけではありませんのいけにえは神殿祭壇かれますがのためのいけにえは神殿められた場所でほふられかれなくてはなりませんでしたその場所をヘブルミフカードの祭壇びますイエスの時代には神殿東門とオリーブとは以下のようにでつながっていました

 

今日多くのクリスチャンがイエスの足跡辿エルサレム西側にあるヴィア・ドロローサ聖墳墓教会ねますなぜならそこはイエスが十字架背負ってまれたとしてまたなれたゴルゴタとしてじているからですプロテスタントの有識者たちはカトリックの聖地である場所ではなくどくろのようなをしたさなであるという重視していますしかし現在聖墳墓教会のオリーブとは正反対西側方向にありしかも神殿から二百メートルもれていません。「同様ですところがエルサレムの神殿東門からオリーブ山山頂までの距離二千キュビトなのです結論からえば、「ゴルゴタオリーブにありますなぜならゴルゴタは東側宿営でなければならずそこは神殿から二千キュビト」(約九百メートル以上離れた場所でなくてはならないのです当時十字架刑ける極悪人をエルサレムで処刑することはできませんでした宿営執行されましたということはイエスがエルサレムのぬのはオリーブんだ雌牛のようにのいけにえとしてでなければなりませんでした

 

[民数記19:25] 2 じるおしえのめはこうであるイスラエルのらにげよまだくびきをわせたことがなくのない完全雌牛をあなたのところにいてるようにと3 あなたがたはそれを祭司エルアザルにそして宿営4 祭司エルアザルは会見天幕正面かってこの七度振りまく5 その雌牛汚物とともに祭司エルアザルはでその会見天幕(=神殿)正面かってこのたびりかけよその雌牛そのをその汚物とともにかなければならない。」

 

3. イエスがみをぜたぶどうをなめただけでもうとはされなかったのはなぜか

 

マタイは苦味ぜたぶどう」、マルコは没薬ぜたぶどう」、ルカとヨハネはいぶどうとあるように微妙表現なっていますこのいを説明することは容易ではありませんがくの注解者苦痛らげるぶどうとしていますいずれにしてもマタイの強調点イエスにするすべての出来事預言者してわれた成就しているということにけられています詩篇69にはこうありますこの詩篇はメシア詩篇です

 

[詩篇69:1921] 19 あなたはよくごじですへの(あざけ)りと恥辱(ちじょく)とをするはみなあなたの御前にいます20 りが はひどくんでいます同情めてもそれはなく めるたちをめてもつけられません21 らはわりに いたときにはませました。」

 

詩篇預言されたことがイエスに成就していますしかしここで問題にしたいのはイエスが苦味ぜたぶどうをなめた(=わった=ギュオマイ」γεύομαι)もうとはしなかったというですなぜもうとはしなかったのでしょうかそれは以下箇所されています

 

[ヘブルへの手紙2:915] 9 ・・イエスはしみのゆえに栄光れのけられましたそのみによってすべてののためにわわれたものです10 くのたちを栄光くためにらのいの創始者くのしみをして完全とされたのは万物存在目的でありまた原因でもあるふさわしいことであったのです11 とするとされるたちもみな一人からていますそれゆえイエスはらを兄弟ぶことをとせずにこうわれます12 わたしはあなたの御名兄弟たちに会衆であなたを賛美しよう。」 13 また、「わたしはこの信頼さらに、「わたしとがわたしにさったたちわれます14 そういうわけでたちがみなっているのでイエスもまたじようにそれらのものをおちになりましたそれはすなわち悪魔をご自分によってぼし15 恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた々を解放するためでした。」

 

この箇所されているイエスの受肉目的、「すなわち悪魔をご自分によってぼし恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた々を解放するためですそのためには最初のアダムをわらせるという贖罪的死不可欠でした同時ここではイエスが兄弟たちの長子となるために(そのようなかかわりをもたらすために)しみをまともにわわれたということですそしてそれはふさわしいことでありうだけの価値があったということですイエスが経験した永遠一度たれたことのないわりのいのちがたれるという経験でしたたちがその経験理解することは不可能ですイエスがわったことによってがイエスにえられた兄弟たちの長子となって栄光くという重要だったのです

 

4. ローマの兵士たちがイエスのけたこと

 

最後いはローマの兵士たちがイエスのけたことにどんな意味されているのかということです詩篇22(これもメシア詩篇です)以下のことが預言されています

 

[詩篇22:1618] 16 どもが 悪者どものれがいて 手足にかみついたからです17 自分をみなえることができますらはらしています18 らは衣服 をくじきにします。」

 

詩篇22わがわがどうしてをお見捨てになったのですかという冒頭びだけでもこの詩篇がメシアについて預言された詩篇であることがかりますこの詩篇22はメシアの全体像できわめて重要詩篇でありくの時間をかけてぶべき価値のある詩篇ですこの詩篇にはから見捨てられた(メシア)がおりだけでなく周囲々からも裏切られて完全見捨てられた孤立無縁(メシア)がいますそして16ではどもがんでいますユダヤというをするのは、「異邦人してですそのことをえるなら複数どもとはローマの兵士たち預言していることになりますそしてまさに預言どおりにらは衣服をくじきにしますということがイエスにおいて成就しているのです

 

イエスの衣服はどんなマントよりも霊的をもっています。「衣服された語彙はギリシアではヒマティオン(ἱμάτιον)複数形ですなぜ複数なのかといえば上着だけでなく下着んでいるからです上着いましたが一枚られた下着くことをせずにくじきにしたようですマタイはそのようなかなには関心はなくくじをいてそのけたしています。「けたことにどんな意味されているのでしょうかそれはという語彙されています

 

イエスのには霊的があることがじられていました。「このれさえすればわれるっていた長血(マタイ9:21)だけではなくくのにでもさわらせてやってくださいと懇願したほどで、「さわったたちはみなやされたのです(マルコ6:56)そうしたイエスのがはぎられ恥辱りをけましたのヘブルベゲド(בֶּגֶד)ですがその語源となる動詞バーガド(בָּגַד)には裏切」「見捨てるという意味がありますイエスはメシアとして自分られたにもかかわらずユダヤたちがイエスを十字架につけろ拒絶したことはする裏切行為ですピラトがあのがどんないことをしたのか説得しようとしてもをもたずますますしく十字架につけろけたのですそして裁判権限放棄したピラトにしてはみなその(責任)たちやたちのどもらのとまでったのですこれはマタイ21にあるぶどう農夫のたとえのようにする裏切以外のなにものでもありませんでしたかつローマの兵士たちがイエスのけたことはユダヤのみならず全人類けたことを象徴する行為意味するのですしかし視点からすればメシアにする裏切行為重要なご計画一部なのです完全拒絶されるということこそそれがイエスの受難意味する重要なポイントですそれはすべてのがふさがれて全世界のさばきにするため(ローマ3:19)であり、「ただみによりキリスト・イエスによるいのゆえになしにめられる(3:24)ためなのです

 

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本文イエスの十字架受難にかかわるつの出来事のご計画かさと必然性てきました聖書不思議書物です。「聖書わたしについてししているもの(ヨハネ5:39)とか、「わたしはのことをめから(イザヤ46:10)とか時系列超越してられる啓示預言れていますそれもそのはずそれは聖書のシナリオが歴史超越したによってかれているからにほかなりません聖書のシナリオライターはマタイでもマルコでもありませんルカでもヨハネでもなく自身なのですですから黙示録2122実現することが創世記1啓示されていたとしてもなんらくことではないのですむしろそうした視点聖書くことが大切です歴史わりにけられていますそのことをって理解することが聖書べるということですめられた永遠のご計画とみこころみむねと目的自分としてべることによって美味しくかつじられるのですそれがいとじられないのは理解しようとしているからですイエスはわたしのことばはでありいのちですわれました聖書べるならそれはとなりますしかしべるならそれはとなるにいありません


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