キリスト教ってどんな教えですか

――簡単に教えてください――



聖書がただ一つの教典 (イザヤ書の死海写本)


教典はただひとつ『聖書』

 キリスト教の教典はただひとつ、『聖書』です。
 キリスト教会は、幾つかの教派に分かれていますが、どの教派もただ一つの書物――『聖書』を信奉しています。
 ある教派は慈善事業に力を入れ、ある教派は伝道に、ある教派は信徒のきよめに力を入れ――こうして互いに足りない所が補われているのですが、どの教派も『聖書』を唯一の教典としているのです。
 聖書は、キリスト以前に記された『旧約聖書』と、キリスト以後に記された『新約聖書』とを合わせたものです。おおまかに言えば旧約聖書は、救い主キリストの到来を、人々に予告するために書かれたものです。
 また新約聖書は、キリストが世に来られてからなされた事柄や教えについて記したものです。
 今日私たちが『聖書』と呼ぶ書物は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、計66巻に及ぶ書物群を、一つにまとめたものです。
 聖書を記した人々は、たとえば新約聖書を例にとってみると、27巻すべてがイエス・キリストの直弟子たちによって記されています。キリストと寝食を共にした弟子や、その教えと人格にじかに触れた人々が、直接記したものなのです。
 じつは歴史的には、『聖書』の中に収められなかった『外典』『疑典』と呼ばれる書物群も存在するのですが、これらはすべて、キリストの直弟子ではない人々が書いたものです。あるいはキリストの時代より、数百年以上も後に記されたものです。
 キリスト教会は、こうした後世の書物は、「正典」から厳しく除外しました。このことは、シャカより5~6百年以上も後の時代の僧侶たちが記した書物を『仏典』と呼んで信奉している仏教とは、著しく対照的です。
 18世紀から20世紀初頭にかけて、懐疑的な人々は、聖書の中に記された様々な物語を、単なる空想的な「神話」として片づけようとしました。
 しかし今日では、20世紀に入って相次いでなされた目覚ましい考古学上の諸発見によって、聖書の記述はすべて事実に則して書かれたものであることが、確認されています。


神は超越者だが遠いかたではない

 キリスト教の神が、「創造者」「絶対者」「超越者」「無限者」であることは、よく知られています。
 しかしそれだけでは、聖書の示す神について、半分しか理解したとは言えません。
 確かに、神は「超越者」であって、宇宙の外におられるかたです。しかし神は、宇宙の外におられながら、同時に宇宙の内側にもおられる、と聖書は述べています(詩篇139:7-10)
 神は、宇宙を超越しつつ、宇宙に内在し、宇宙自然のいたる所におられます。これを、神の「遍在」と呼んでいます。


 神は宇宙を超越しつつ、内在しておられる。

 ですから、神は宇宙の外におられる、と言うだけでは間違いです。また逆に、神の遍在ばかり強調して、「宇宙自然のいたる所に神がおられる、いや宇宙自然がそのまま神なのだ」と言ってしまっては、また間違いです。この後者の「宇宙即神」と見る考え方は、「汎神論」(はんしんろん)と呼ばれるものです。
 大乗仏教の中には、汎神論的な考え方が多分にあります。
 しかし聖書の示す神は、単に宇宙の超越者でも、また汎神論の神でもありません。どちらも、かたよった理解なのです。
 神は、宇宙の外に追いやられるかたではなく、また宇宙の内側に閉じ込められるかたでもありません。
 神は人知をこえた偉大なかたであって、宇宙を超越しつつ、同時に万物に遍在され、私たちの身近におられるかたなのです。


神は父性的だが母性的なものも持っておられる

 聖書の神は、「天の父なる神」と呼ばれています。クリスチャンは、お祈りのときに「天のお父様」とお祈りします。
 一方、仏教の寺に行くと、「観音像」というのがあって、やさしい女性的な姿をしています。そのためか、ある人々は、キリスト教の神は「厳父」のようで、仏教の仏は「慈母」のようだ、 というイメージを持っているようです。
 しかしこのイメージは、正しくありません。
 観音は、女性的な姿をしていますが、本当は男性なのです。観音(観世音菩薩)とは、「菩薩」(仏に準じた存在)の一種で、仏教の教理によると、仏も菩薩もみな男性です 。
 それに対しキリスト教の神は、「天の父」と唱えられる一方で、母性的な面も持っています。預言者ダビデは聖書の詩篇の中で、次のようにうたいました。
 「乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように、御前におります」(詩篇131:2)
 ここでは神は、「母親」のような存在として言われています。またキリストは言われました。
 「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか」(マタ23:37)
 このように神は、母親のような愛情と慈悲、また抱擁力を、ともに具有しておられるかたなのです。


マリヤとイエス。神は母性的なかたでもあられる。

 天の神は、理知的で厳格な父としてご自身を現すことがあるのと同じく、優しく愛情深い「慈母」のようなかたとしても、ご自身を現されます。
 かつて預言者モーセは、天の神が慈母のようにイスラエル民族を扱われたことについて、こう語りました。
 「あなたがたは・・荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た」(申命1:31)
 また聖書には、
 「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる」(ヨエ2:13)
 と言われています。天の神は、厳父であるとともに、慈母のようなかたでもあるのです。
 決して「単性的な」かたではありません。
 聖書は、神は「ご自身のかたち」に似せて人を男女に造られた、と述べています(創世1:27)
 そうであれば、男と女を創造された神には、もともと父親的なご性質と母親的なご性質の両方があった、と考えてもおかしくありません。
 神は、父親の偉大さと、母親の偉大さとを兼ね備えた、大きなかたなのです。


人を罪人と見るが「神のかたち」を持っているとも見る

 聖書は、人間はみな神の前に「罪人」(つみびと)である、と指摘しています。これは「事実」の指摘です。
 病人に、「あなたは病気です」と指摘するのは当然でしょう。もっとも、治らないことがはっきりしている病気――たとえば末期ガンなどの場合は、本人に病名を告げない、ということはあります。
 しかし、治る可能性がある病気の場合は、医者は病名を告げて、幾つかの指示を本人に与えるでしょう。そして病人は、治りたいと思うなら、薬や、食事の仕方、睡眠、運動などについての医者の指示を、よく守らなければなりません。
 聖書が「人間はみな罪人である」と指摘するのは、人間がそれから治る可能性があるからです。
 そして、治って救われてほしいから、そう指摘するのです。
 この「罪」という病気は、放っておけば、やがて人を死と滅びに追いやってしまいます。
 「罪の支払う報酬は死である(ロマ6:23)
 と聖書は述べています。
 自己中心な心、利己的な心、人を思いやらない心、憎しみ、ねたみ、好色、姦淫、盗み、神を忘れた心、神に従わない心――こうした罪が、神と私たちとの間を隔て、神からの「永遠のいのち」を受けることを妨げ、私たちを滅びへ追いやるのです。
 聖書はこのように、人間は「罪人」であると指摘します。ところが一方では、人間はみな「神のかたち」を持っているのだ、とも述べています。
 「神のかたち」には幾つかの意味がありますが、その最も基本的な意味は、人間には「神に似た性質」が与えられている、ということです。
 たとえば、子どもは親に似た性質を持っています。同様に人間には、神に似て、自由な知性・心情・意志が与えられているのです。
 だからこそ、人は神と交わることができます。
 「神のかたち」は、人間が堕落して世界に罪が入ったときに、完全に失われたわけではありません(創世9:6 ――人間の堕落後も「神のかたち」が問題にされている)
 もし、そのとき完全に失われてしまったのなら、今日、信仰を抱いて救われる者は一人もないでしょう。
 人が信仰を抱くことができるのは、少なくとも「神のかたち」が根底にあるからです。
 「神のかたち」は、今日では完全なものではないにせよ、すべての人のうちに多少なりとも残っています。それは現在もすべての人の内にあるが、罪のゆえに汚染されているのだ、と見ることができます。
 私たちが聖書の言葉を聞き、イエス・キリストの福音を耳にして、信仰心を起こすことができるのは、この「神のかたち」が根底にあるからです。
 いくら良い種を蒔いても、土壌が悪ければ種は芽を出しません。「神のかたち」は、神の言葉という良い種を受けて、それを発芽させる心の中の「良い土壌」なのです。
 ですから、その良い土壌の上に乗っかっている「神を否定する心」という被いを取りのけて、素直に神のみ言葉の種を受け入れるなら、だれでも信仰を抱いて救われる可能性があります。
 あとは、神の聖霊の助けがありますから、芽は大きく育ち、豊かな実を成らすに至るでしょう。


人が「修行」によって救われるのは不可能とみる

 仏教は根本的には、自分の「修行」によって仏になろうとする考えです。そしてその「修行」は、純粋に自力でする、というのがシャカの説いた本来の仏教でした。
 しかし、そう一口で言っても、これは大変なことです。
 仏典にも、人は仏になろうと決心してから仏になれるまで、じつに「三阿僧祇百大劫」(さんあそうぎひゃくだいこう)という時間がかかると書かれています。これは約1兆年の1061倍という、途方もない時間です。
 でも、「人はそんなに長く生きられないではないか」と思う人もいるでしょう。もっともです。
 これは仏教が輪廻(りんね)説に立っているためで、人が仏になるためには、何度もいろいろな世界に生まれ変わって、長い長い時間修行しなければならない、という考えなのです。
 では、もし、「輪廻」ということがなかったら、どうでしょう。人は修行によって救われるのは不可能、ということになります。
 聖書は、
 「あなたがたの救われたのは・・決して行ないによるのではない(エペ8:9)
 と述べています。聖書ははじめから、人は自分の修行によっては救われない、と説いているのです。
 あなたは「バベルの塔」の話(創世記11章) を知っているでしょう。人々は高い塔を建て、天にまでも届かせようとしました。


天にまで届かせようとしたバベルの塔

 その塔は、当時の世界に台頭しつつあった帝国主義の象徴として、建設されようとしたのです。
 しかし神は、彼らの傲慢を砕き、その建設の野望を断たれました。
 人が自分の修行によって救いに到達しようという試みも、ある意味では、このバベルの塔と同じように、傲慢なことです。
 人は、どんなに努力しても天の高みにまで達することはありません。
 私たちを真に救済できるかたは、神のもとから来られたイエス・キリスト以外におられません。
 キリストは神と一体のおかたでありながら、人の姿をとり、人間となってこの世に降誕されました。ユダヤのベツレヘムの小屋の飼い葉桶に降誕されたのです。
 救いの道は、「下から上に向かって」築かれたのではありません。「上から下に向かって」築かれたのです。
 私たちは、バベルではなく、ベツレヘムに行くべきです。
 キリストは、地上を神の御旨に従って歩み、やがて旧約聖書に予言されていた通り、十字架にかかって死なれました。それは、私たちの罪の贖いあがない 救い) を全うし、私たちに罪の赦しを与えるためです。
 キリストは十字架の死の後、聖書によると「よみ」(死者の世界) に下り、3日目に死人の内より復活して、40日間地上にいたあと、再び天に帰られました。
 こうしてキリストは、天と、地の下のよみとの間に、大きな「Vサイン」を描かれたのです。
 神は、この勝利者イエスを、私たちの「主」また「救い主」として立てられました。
 聖書は、主イエス・キリストを信じ、その救いに信頼し、その教えに従っていく者は、だれでも救われる、と約束しています。


現世と来世をともに大切にする

 念仏などの仏教では、「厭離穢土・欣求浄土」(おんりえど・ごんぐじょうど)といって、現世を厭(いと)い捨てて、来世を慕いました。
 反対に最近の仏教系新興宗教などでは、来世よりも、現世御利益を求める傾向が強くあります。
 しかしキリスト教では、現世も来世も、ともに大切にします。どちらかにかたよったりすることはありません。
 キリスト者には、二つの大きな戒めが与えられています。神への愛と、隣人への愛です(マタ22:37-39)
 私たちは神を愛するゆえに、早く神のみもとに行きたいと願いますが、隣人をも愛していかなければなりません。
 だからこそ、この世にとどまって、人を愛することを学んでいるのです。
 また、「この世に生を受けた以上、そこには神に与えられた目的があるはずだ」とキリスト者は考えます。今、自分が置かれている場所で、この私がするべき何かがあるはずです。
 キリスト者にとって、この世は「空」でも、夢・幻でもありません。それは現実です。そしてこの現実の世に働きかけていくことは、大きな意義がある、とキリスト者は考えます。
 キリスト者にとって、この世における人生の長い短いは、さほど問題ではありません。
 大切なのは、この世で何をなし、何を思い、何を学んだかです。キリスト者にとっては、
 「ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願い」(第2コリ5:9)
 なのです。


宿命ではなく「主の導き」を信じる

 最後に、キリスト者は、「宿命」ではなく「主の導き」を信じる、ということを述べておきましょう。
 「宿命」という言葉は、もともと輪廻説によって広まった言葉です。
 古代インドには、「カースト制」という厳格な階級制度が存在していて、自分がどの階級に生まれるかは「前世の業(ごう)」によって決まる、とされました。つまり輪廻説です。
 ですから、自分がたとえ奴隷階級や、賤民の子として生まれたとしても、それは前世の業のゆえだから、と言ってあきらめさせられました。
 「宿命」という言葉も、こうしたところから生まれたのです。
 しかしキリスト者は、そのような「宿命」は信じません。キリスト者は、自分の現世の生涯に、過去世の因縁がからみついている、とは考えません。
 仏教では、「縁起」(えんぎ)ということを説き、AがあればBがあり、AがなくなればBはない、というかたちの因果律を説いています。人生はすべて、この因果律で決まるというのです。
 たとえば現在の不幸は、過去世あるいは現世での悪い行ないの結果であり、現在の幸福は、過去の良い行ないの結果だ、と解されます。
 ですから、仏教の「縁起」の教理を徹底してしまうと、人生は冷たい因果律によって支配されているだけで、人間の力ではどうしようもないものなのだ、という結論になってしまいます。
 しかし、「キリスト教でも、歴史は神の意志によって動いている、と説いているではないか」
 という人がいるでしょう。その通りです。
 歴史には神の摂理が働いており、最終的には神がお定めになった目的に向かって歴史が動いている、とキリスト者は信じています。
 それだけではありません。キリスト教でも、「因果律」ということは説くのです。聖書に、
 「人は自分のまいたものを刈り取ることになる。すなわち、自分の肉(罪の性質)にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊(神)にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラ6:7-8)
 とあります。これは、悪い原因は悪い結果を生み、良い原因は良い結果を生む、という因果律です。
 しかし、これが仏教の教理と違う点は、人の人生に働いているのは、単に冷たい因果律だけではない、ということです。
 私たちは、因果律を超えた永遠の神の導きによって、人生を力強く切り開いていくことが可能なのです。
 たとえば、ここに砂ばかりの土地と、堅い岩盤のある土地があったとしましょう。
 ある人は、砂の土地に手っ取りばやく家を建てました。もうひとりの人は、一流の建築家のアドバイスを聞いて、堅い岩盤の土地に、礎のしっかりした家を建てました。
 しばらくして、風が吹き、大雨が降って洪水が押し寄せました。そのとき砂地の家は、もろくも崩れて押し流されましたが、岩地の家は、びくともしませんでした。
 ここで、砂地の家が倒れたのも、岩地の家が残ったのも、ともに因果律にしたがっています。
 悪い原因が悪い結果を生み、良い原因が良い結果をもたらしたのです。
 しかし岩地の家を建てた人は、専門家のアドバイスを聞いて、その土地を選び、家を建てました。
 同様に、私たちは人生の設計をするとき、永遠の神のアドバイスを聞くことができます。神のアドバイスには、決して間違いがありません。
 しかも、神はアドバイスなさるだけではなく、不思議な方法で、単なる冷たい因果律を超えて、あなたを導かれるでしょう。聖書は言っています。
 「神を愛する人々、すなわちご計画にしたがって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ロマ8:28)
 「すべてのことを・・益としてくださる」のです。
 私たちは人生の中で、良いことだけでなく、悪いことや辛いこともたくさん経験するでしょう。そのことが起こったその時点では、人生にとってマイナスだとしか思えないようなことも、たくさんあります。
 しかし神は、「すべてのことを働かせて益として」くださるでしょう。これが、神の導きです。
 たとえ困難が続いても、つねに主に信頼して歩んでいくなら、あなたはやがて、「主は私に対して、つねに良くしてくださった」と告白することができるでしょう。  

 

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/021kirisutokyo.htm