この意味するもの

- ルカ福音書22:3546 -

シャローム宣教会 


本文にはつの内容されていますひとつはこれからこる事態えるべきこともうひとつはゲッセマネでのイエスのりです

 

1. たな事態えるべきこと(3538)

 

イエスは弟子たちにこれからこる事態えるための指示えますそれはイエスにかかわることがこれから実現するためです具体的にはイエスが罪人たちのえられた預言されていたことが成就するからですイエスはこれまで何度ってきたようにエルサレムにおいて宗教指導者たちによってえられしめられてられされることをっていましたそのために当然イエスの弟子たちにもぶことを想定されての指示でした

 

これまで弟子たちが宣教わされるときにはたずにくようにとイエスはりましたなぜなら弟子たちをれてくれるずいるという確信があったからですしかしこれからはその保証はありませんいて弟子たちをれてくれるとはらないと事態けているという状況、「財布のある財布じく(護用のための)のない着物ってでもうように指示されたのでした

 

つまりイエスは弟子たちにまでとは状況一変することをえようとしたのでしたそれをいた弟子たちは、「このとおりここに二振りありますうとイエスはそれで十分われましたこのそれで十分(新改訳)された箇所原文では十分という形容詞ヒカノス、「~ですという意味動詞エイミー使われているだけのことなのですが問題なにが十分なのか」、その理解仕方によって以下のようになったとなるいわば難解箇所です

 

新共同訳】 「それでよい

フランシスコ会訳】 「もうそれでよい

柳生訳】 「そのはもうよい

バルバロ】 「もうよい」 (脚注には、「イエズスは弟子らが自分理解できなかったのを中止、『もうよい』」われたとあります

岩波訳】 「(そのようなことで)十分なのかという皮肉めいた

 

2. イエスのったことばーこのという意味

 

*イエスのこのという言葉かりましたこれまでの理解という意味りの」、「さばきのという意味理解していましたが最後晩餐れにあるとしてえるときあるいは過越というへブル的視点からこのえるときしいえてきます

 

*イエスと弟子たちが過越食事をしたことが14からされていますちなみにルカ22には4、「されるポテーリオン」ποτηρίονてきます(17202042)すべて言葉ですマタイの福音書20:22ではわたしがもうとしているがあることをべていますヨハネの福音書18:11ではそのがわたしにさった表現されていますそれはイエスにとってはどうしてもまなければならないでしたここでいうというのは、「というそのものではなく中身重要なのですそこでユダヤ(へブル)視点から理解するならば、「このとは、「過越食事まれる第四意味しているのではないかとえられます。「第四とは過越食事完了でもあり同時賛美ともなるものです<脚注>

 

*ゲッセマネでのりにおいてイエスはこの第四すなわち小羊であるキリストによってばれるしい契約成立するためには完了意味する第四さなければなりませんでしたしかしそれは壮絶しみをわわなければならないでありゲッセマネのりにおいてイエスはそのしみのゆえに躊躇していますとてもせるようなではなかったのですそれゆえに御使いたちがからイエスにわれてイエスをづけたとあります(ルカ福音書22:43)

 

*それでもイエスはしみもだえていよいよられのしずくのようにちたとありますしかしそのりがけたことによってイエスはがりましたこのがるという動詞ステーミ」 άνίστημιいわば復活用語ですまさにイエスはりにおいてすでに勝利以後敢然とひるむことなく捕縛され受難まれるのですしかし最後最後すなわち十字架上において、「わが御手にゆだねますってられたことにより22;42このされましたつまり過越食事最後である完了されたのですこのしたのはイエスただひとりでした

 

< 脚注 >

 

*伝統的過越食事では、「つのにぶどうがれそしてまれますそのつのとはエジプト6:6, 7わたしは・・・するというつの約束づいているとわれています

[エジプト6:6-7] 6 それゆえイスラエルわたしはであるわたしはあなたがたをエジプトの苦役から労役からばしたいなるさばきとによってあなたがたを7 わたしはあなたがたをってわたしのとしわたしはあなたがたのとなる。」

 

英語表現すると恩寵としての意志えます

 I will bring you 

 I will rescue you

 I will redeem you 

 I will take you / and I will be your God

これらにづきそれとの関連においてつの以下のようにばれています

 

(1) めの」 過越食事聖別されはじまるまれる

 

(2) 感謝」 エジプト10災禍場面朗読されるたびにぶどう一滴だけそして最後杯目このさばきのともわれます詩篇113114りとして朗読される

前半儀式的食卓わりここで食事となる

 

(3) いの」 夕食第三にぶどうたすここから後半儀式的食卓がはじまるつまり聖餐式起源となっている部分であるイエスはされるパンを感謝してこれをかれたここでのパン(マッツァ)食後のデザート(アフィコーメン)としてっておいた三枚重ねのマッツァのことです

 

*「これはあなたがたのためのわたしのからだであるわたしを記念するためこのようにいなさい。」(マルコ福音書14:22) イエスはマッツァを弟子たちにされたここで全員アフィコーメンをべるそれをべたイエスは第三、「わたしの御国あなたがたとしくむそのまでわたしはもはやぶどうのったむことはありません。」(マタイ福音書26:29) 、「これはわたしの契約ですすためにくののためにされるものです。」(マタイ福音書26:28)ってされて各自はここで三杯目します

 

イエスと弟子たちは食事むとらはハレル詩篇いながらケロデンのこうつまりオリーヴかれイエスはられたのですまだ最後第四されてはいないのですもしここで第四されたならばこのあとの受難への出来事意味がなくなります

 

(4) 賛美」、「完了」 過越食事における第四賛美したあとにまれるものですマタイもマルコもイエスと弟子たちは賛美歌ってオリーブへとったことをしていますユダヤの伝統的過越食事エルサレムの城壁うことがめられていましたですからイエスと弟子たちがエルサレムの城壁ひとのないオリーブへとったということは尋常のことではなかったのです

 

オリーヴかけるイエスと弟子たちは賛美歌っていますここでの賛美歌とはハレル詩篇です(おそらく詩篇115118および詩篇136)ルカは賛美歌ったことはしていませんが伝統的過越食事式次第(ハガダー)って詩篇ったとえていといます最後詩篇118メシア的詩篇復活預言したてたたちのてたそれがになったこれはのなさったことだたちのには不思議なことである(118:2223)という箇所有名です

 

さて問題過越食事最後まれる第四についてですどの共観福音書にも食事でそれをんだとはされていないことですしかしどの共観福音書にもゲッセマネにおいてイエスがこのをわたしからりのけてくださいっていることは共通してされているのですしたがってここでのこのとは当然れとして、「過越食事最後意味しているとえるのが自然です

 

実際過越食事における第四されたのはイエスが十字架においてわが御手にゆだねますってられた(ルカ福音書23:46)ですヨハネはこれをイエスが完了したってれてをおしになったとしています(ヨハネ福音書19:30)つまりイエスは翌日(過越はニサンの14翌日夕方まで)午後3時頃十字架においてただ一人過越食事における第四まれたのですちなみに午後3神殿において祭司たちが過越時間とピッタリと一致しているのですなんというくべき計画でしょうかられた小羊なるキリストによって、「しい契約えられて実現したのです弟子たちはこのをだれひとりとしてんではいません

 

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