聖書から見た地球の年齢

Tim Boyle

キリスト教会が始まった当初から、いろいろの食い違いの故に、分裂が生じましたが、現代の教会内で特に分裂的な課題は地球の年齢の問題です。もし、創造の「だれ」と「なぜ」に対して間違った考えを持つなら、それは重大なことですが、その「いつ」ということに対しては、間違っているなら、自分の救いに関する影響がほとんどないはずです。しかし、伝道的に考えれば、極めて重要なことですので、また、教会内の不必要な争いを引き起こしているので、この課題を整理する必要があります。

この論文では、この課題に光を照らす重要な聖書の箇所を取り上げて、主要な二つの立場の神学的な意味をも考えます。それらは、「地球が若いと考える創造論者」(“Young Earth Creationists”=YEC)と地球が古いと考える創造論者」(“Old Earth Creationists”=OEC)です。YECによると、地球の年齢が数千年しかないことに対して、OECによると、地球は何十億年も前に造られたものだと考えています。また、これらの聖書的、神学的の課題に影響を及ぼす科学的証拠をも触れます。

この課題に光を照らす聖書の箇所を取り上げる前に、まずは簡潔な歴史的背景を考える必要があります。第一に、現在見られる激論は比較的に新しい現象で、20世紀になってから初めて現れたことです。YECの多くの人はOECが自然主義科学に順応するための妥協だと思い込んでいます。しかし、この思い込みは事実を相反するもので、実際は創世記の創造の日の解釈としては、24時間という普通の日であると独占的に解釈した時期はキリスト教会の全歴史を通して、一度もありませんでした。少数派ではありましても、初期の教会の指導者であったオリゲヌスやアウグスティヌス、や中世期のアンセルムスのような中心的な人物が創造の日を普通の日ではないと考えていました。(もちろん、これらの人物はそれらが何百万年も続く期間だったと考える理由もありませんでしたが。)

20世紀まで、YECの24時間の日を正統派的信仰の信条の一つとして考える宗派はなく、教会の歴史的の主要な信条、信仰告白や教理問答にも含まれていませんでした。天地創造に関しては、重要と考えていたのは「無からの創造」ということで、物質的世界は既存する何かからのではなく、全くの無から神によって創られたものだということでした。そのタイミングはそれほど重要なことではなく、教会はそれに対して寛容的でした。

また、創世記の英語訳を単純化した形で考えた場合、地球が6000年程度の年齢しかないことに対して、それを遥かに上回る古いものだと提案したのはキリスト教信仰を持つ初期の科学者たちで、それはダーウィン主義の進化論の登場よりかなり以前のことでした。ですから、それに対する妥協案とは言えないのです。従って、この問題点に強い感情が結びついた理由はダーウィン主義の創造主抜きの生命の起源と発展の説明の世俗的挑戦による危機感です。これはYECまたOECを問わずに、キリスト教的世界観を持つすべての者に対する挑戦です。では、この課題に関わる聖書のみことばを考えてみましょう。

聖書的見解

まずは、聖書は地球の年齢に対して、何を教えているのでしょうか。もちろん、「地球が何年前に創られた」と書いてある箇所はありません。ですから、私たちができるのは、天地創造に触れている聖書全体の教えから推測するしかありません。聖書には、天地創造に関わる20の主要な箇所があり、またその他に数多くの短い聖句があります。聖書を正しく解釈するための大前提の一つはあらゆる箇所の正しい理解は関係するすべての箇所と矛盾なく首尾一貫した形で解釈できることです。ですから、創世記1章の正しい理解は創世記2章、ヨブ記38-41章、箴言8章や詩編104編などの創造関係の箇所と矛盾なしの調和できる解釈です。その上、元の言語であったヘブライ語とギリシャ語のヌアンスを考慮した上、正しい理解を得ようとする努力が必要です。英語(また日本語)だけで読むのは場合によって、視野を狭まる結果となり兼ねません。

私はヘブライ語とギリシャ語の専門家ではないので、特定の単語や表現をどう理解すべきかは認められている専門家に頼るほかはありません。必ずしも意見が一致しないとはいえ、その専門的知識は元の言語の立場から考えた上、どのような理解が赦される範囲にあるかは特定できます。

言うまでもなく、最も重要なのは、「日」と翻訳されている元のヘブライ語の「ヨム」という単語の意味です。ヘブライ語の辞書によると、「ヨム」は3つの意味があります:1)昼間(およそ12時間)、2)24時間の一日、そして、3)不特定のある期間(「時代」や「年代」のような意味)です。(聖書時代のヘブライ語には、「年代」を意味する他の単語はありませんでした。)創世記1章の6つの「創造の日」の場合、これらの文字通りの3つの意味のうちのどれが正しいのでしょうか。これを決めるのに、その前後関係を考慮して、そして、関連している「夕べがあり、朝があった」という表現の意味をも考えなければなりません。

第一の定義である「昼間」が意図されていたと考える人がいないのでしょう。「日」を比喩的なシンボルに過ぎないと考える学者もいますが、モーセが実際の期間として、この単語を使ったとすれば、それはどちらの意味を意図したのでしょうか。24時間ですか。それとも長い年代でしょうか。

共にある「夕べがあり、朝があった」という表現を考えますと、一見して、24時間の日が有力に見えます。しかし、よく考えますと、現代人の考え方と違うことが解ります。私たちが「一日」という期間は午前0時で始まって、次の午前0時まで続くと考えます。しかし、古代ヘブライ人にとっては、それぞれの日は日没で始まり、次の日没まで続くと定義しました。ですから、一日の始まりは午前0時また日の出のではなく、日没と考えていました。これは普通に期待される「朝があり、夕べがあった」という順番のではなく、「夕べがあり、朝があった」の順番に反映されています。「夕べ」と「朝」と翻訳されたヘブライ語の「エレブ」(Ereb)と「ボーカー」(Boqer)はそれぞれ「日没」と「日の出」という意味もあり、(日の)「始まり」と「終わり」という意味として解釈することができます。もちろん、日本語では、「朝」が「始まり」と「夕べ」が「終わり」として考えるのは普通ですが、ヘブライ人が日没を一日の始まりと考えていたので、その順番に書いてあります。

このヘブライ語の表現は創世記1章以外の聖書には出て来ないので、「夕べ」また「朝」が出てくるその他の聖書の箇所はこの独特な表現を正しく理解するためにあまり参考となりません。有力な可能性としては、この表現が使われたのはそれぞれの「創造の日」が(経過した時間とは関係なく)はっきりした始まりと終わりがあったということです。ヘブライ人の一日が日没で始まり、次の日没で終わると考えていたので、もし「創造の日」が24間の期間という意味の意図でしたなら、「夕べがあり、夕べがあった」(また「夕べがあり、次の夕べがあった」)という言い方を期待します。ですから、この「夕べがあり、朝があった」という表現をそのように考えるなら、それは日没と日の出の間の夜の期間だけになったしまい、そういう意味で読み取る人はまずいないでしょう。こういうわけで、「創造の日」は普通の24時間の日ではないとほのめかす一つのヒントとなります。

創世記の文書の中に、「創造の日」は普通の24時間の日ではないと示す他のポイントがあります。例えば、創世記2:4の「主なる神が地と天を造られたとき」は元のヘブライ語では、「とき」と翻訳されたことばはこの同じ「ヨム」で、直訳しますと、「造られた日に」となります。これは単数の字形で、6つの「創造の日」の全期間を意味します。この場合は、明らかに24時間の日以上の長さの日となります。その上、神が創造の仕事を離れて「安息」なさった「第七の日」には、この「夕べがあり、朝があった」という表現が含まれていません。これはこの「第七の日」には何かが違うということをほのめかします。実は、最初の「六日間」がこの表現を含むので、「第七の日」がまだ終わっていないことを包含します。創造に対して、神はまだ休んでおられます。

ヘブライ人への手紙4:1-11は神の民のための安息日を述べる時、この点を明確にします。4、6、と9-11にこう書いてあります。

「なぜなら、ある箇所で七日目のことについて、『神は七日目にすべての業を終えて、休まれた』と言われているからです。…そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、…それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。」

このみことばによると、神の「七日目」がなお続いているもので、それは6つの「創造の日」をアダムとエバの創造と共に終えた何千年ものことです。

この「安息日」は全面的な休みのではなく、創造の業からの休みだけです。要するに、神は現在新しい生物を創造していないのです。これは人類の到来以降、新しい動物の種は一つも現れたことが確認されていないという事実に裏付けられています。また、この解釈はヨハネ5:16-18のイエスのことばに支持されています。そこでは、イエスは安息日に人を癒したことを正当化して、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言いました。ですから、神はすべての業からのではなく、ただ創造のわざから休んでおられるという意味になります。イエスのことばを言い換えれば、「神が御自分の安息日に働いておられると同じように、わたしも自分の安息日にも働くのだ」と言えます。神の七日目の安息日は何千年も続いているものですので、創世記の「創造の日」も同じように長い期間続いたという結論を支持します。

この結論を裏付けるほかの聖書的証拠が多くありますが、よく聞かれる反論を考える前に、もう一つの重要な証拠を見てみましょう。創世記2章は人間の創造とエデンの園の生活に焦点を合わせます。まず、神は創られたばかりのアダムの住む所の園を「設けて」、「あらゆる木を地に生えいでさせた」と書いてあります。これは「瞬間的成長だった」という可能性は否定できないけれども、そのことばを普通に考えたら、かなりの時間がかかったことを意味します。やはり、神がアダムを園に置かれた目的はそれを「耕し、守るように」するためでした。明らかに、神はアダムが庭造りの経験から何かを学べさせたかったのです。すなわち、「人が独りでいるのは良くない」ということでした。

このために神がアダムの前に既に創られた動物をつれてきて、それらを観察して名前をつけてもらいました。それぞれの動物に適切な名前をつけるのに、その動物を注意深く調べてどういう特徴があるかを見極めてから初めて意味のあることになります。アダムの庭園づくりの経験も、畜産業の経験も数時間の内に済ますようなことではないはずです。

この同じ「日」の内に、神がアダムを深く眠らせ、手術を受けさせて、そして、そして、回復してから、新しく創られた連れ合いを紹介しました。アダムがそれに対して「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と反応しました。「ついに」と翻訳された元のヘブライ語も「長い時間がかかった」という意味があります。もし、これらのことを全部24時間の普通の長さの日の最後の数時間のうちに起きたとすれば、アダムとエバが与えられた地球に対する自分の役割を果たすための訓練の準備期間としての意味がまったくなくなります。これら、また聖書に見られるその他の証拠は創世記の創造の日が24時間の日より遥かに長い時間だったと証明します。

これだけでは、これらの「長い時間」は「何百万年」だったとはもちろん言い切れません。聖書のみ考えれば、これらの期間は何ヶ月間、何年間という比較的に短い時間だった可能性もあったはずです。また、古代教会の指導者数人が提案したように、それぞれの創造の日は千年の期間だったかもしれません。これはペテロの手紙二3:8に書いてある「主のもとでは、一日は千年のようです」というみことばからヒントを得た考えでした。もし、このように「長い創造の日」を許すことは「人間の堕落以前の何百万年もの死と苦しみ」に繋がっていくという恐れがなければ、どのクリスチャンでも、偏見なしで、聖書に書いてあることをよく読めば、創世記の創造の日は24時間の普通の日ではないと必ず結論すると私が確信しています。

よく使われる「長い創造の日」に対する反論

おそらく、24時間の日の解釈を裏付けるために一番よく使われる聖句は出エジプト20:11です。ここでは、モーセを通して、神が安息日を守るという戒めの根拠を説明しているところです。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

イエスは「安息日は、人のために定められた」と教えました(マルコ2:27)。仕事から休憩の時間をとることは私たちの人間性の本質的なことで、働き過ぎると、体に悪影響を与えます。十戒を通して教えられている原理は、神が彼の七日目に創造の働きから休まれたと同じように、私たちも七日ごとに休むべきです。人間にとっては、その「日」は24時間の普通の日です。しかし、それで、神の創造の日は同じであると限りません。確立されたパターンは七つの内の一つです。レビ記25:3-4には、この同じパターンは農業の畑に当てはめます。それによると、イスラエル人が畑を6年間栽培して、そして、一年間休ませるように戒められました。人間にとっては、適切な期間は一日です。畑の場合、それは一年間です。神様にとっては、休まれる「一日」は御自分が選ぶ期間で、聖書に示されているのは、それが何千年も続いている期間です。

原理的には、神は、人間の到来のために地球を準備していた全期間をいくつもの期間に分けることができたはずです。自然界には、一日、一ヶ月、一年を定める指標はあるのですが、一週間を定める自然現象はありません。聖書の読者のほとんどは、一日を24時間という通常の日と思い込んで、神が六日働いて七日目に休まれたので、一週間が制定されたのだと見なしてきました。しかし、神のみことばと自然界の双方からの証言が指し示すことは、神が創造した人間にとって七日間というサイクルが一番理想的であり、このこととのアナロジーとして神の創造のわざが描写されたのだと私は思います。このような理解は、必然的なものではありませんが、聖書の資料と合致しています。また、それは自然界からの得られた資料とも合致するばかりか、それを額面通りに受け取ると必然的になります。また、このような見解は、それぞれの「日」がすべて同じ長さで、重複せずにはっきりと区別できる期間だという仮定を現実のデータと無理やり合わせようとする必要がなくなります。以上のことが意味するのは、創造の六つの各日に描かれている創造のわざは、その日が特定する期間の主要なものであるということです。換言すれば、例えば,植物のすべてが第三の期間(創造の三日目)に創造され、他のいかなる期間(創造の日)にも一つも創造されなかったことを意味するのではありません。

もう一つのよく聞かれる反論は長い創造の日が罪による人間堕落以前の死を意味することになり、それは福音のメッセージを無にすると言われます。この課題に多くの面がありますが、簡単に言えば、この反論が有力ではない一番重要な理由はアダムとエバの罪が世にもたらされた死は肉体的な死ではなく霊的な死だったことです。これはローマ5:12に明言さらえています。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」神にかたどって造られたのは人間だけで、神に対して罪を犯せるのも人間だけです。この聖句に説明されているのは明らかに人間の死で、これは神から永遠的に離れる意味の霊的な死です。福音のメッセージはキリストがご自分の人間としての命を捧げたことによって、罪の報酬である霊的な死からの救いへの道を開いてくださったということです。

ここでは、動物の肉体的な死に関しては、またそれが神が造った「よい」天地創造に含まれていたかどうかに対して、何も言及されていません。肉食性行動に伴われる「残酷さ」が「良い」とは言えないという反論は私たち人間の感情に訴えられるもので、論理的には成り立ちません。まず、この理解を支持する聖書の箇所を考えましょう。多くの箇所を取り上げられるのですが、おそらく一番強く支持するのは創世記1章を相似する「創造の詩」である詩編104編です。最初のことばに、地球そのものの創造を言及し、地球全体を覆う海があったと教えます。ちなみに9節によると、神が乾いた地を造ってから、「境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた」と書いてあります。地球全体のノアの大洪水というYECの教えを正当化するために、彼らはこの話がノアの大洪水のだと言わざるを得ません。しかし、この詩全体は素晴らしい天地創造のために神をほめたたえる詩で、そのような意味は著者の意図だったとは考えにくいことです。ここでは、地球全体が海に覆われていたということは初期地球のことで、第3の「創造の日」に陸地が作られる前のこどでしょう。

この最初の創造には、神によって造られたすべての動物が含まれていました。それには草食動物ばかりでなく肉食動物も含まれていました。21節によると、「若獅子は餌食を求めてほえ、神に食べ物を求める。」また、27-28節ではすべての動物についてこう言われています。「彼らはすべて、あなたに望みをおき、ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。あなたがお与えになるものを彼らは集め、御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。」もし肉食性行動が神の最初の「良い創造」に含まれていなかったならば、詩人がこのことのために神を賛美しているのはなぜでしょうか。この詩が「創造の詩」であることは30節で証言されていますが、そこでは動物の死(または絶滅)が言及されてから、こう書かかれています。「あなたは御自分の息を送って彼ら(動物)を創造し、地の面を新たにされる。」神が人間のために地球を準備する過程において、動物の死が役割を果たしたということが、この詩の自然な読み方です。

もう一つの重要なポイントはアダムには動物を名付ける役目が与えられていたことです。ヘブライ語では、獅子という名は、「暴力」を意味する単語に由来しますが、明らかにこの動物の特徴と関連しています。このことから明白なことは、堕落する以前に、アダムが暴力的な肉食性行動を目撃していたことがほのめかされているということです。その他の肉食動物のヘブライ語の名にも、同じような語源的由来が見られるものがあります。

生態学的なバランスにおいて特定の役割を果たすために、肉食動物と草食動物の双方が神によってデザインされています。肉食動物に殺されて食べられる動物がある程度の苦しみを受けるのは間違いないことですが、もし草食動物の増殖に歯止めをかける肉食動物がいなかったら、草食動物は食料資源を食べ尽くしてしまうために遥かに多くの苦しみを受けることになるでしょう。ですから、結局健全的な個体群を維持するために、肉食動物は重要な「サービス」を与えているのです。(この結論を回避するためには、それぞれの動物が最適な個体数に達したらすぐに繁殖を止めて、いつまでも草や葉をムシャムシャ食べられて、この上なく幸せに生きられるという、その場しのぎの仮定をしなければならないのですが。)

さらに、肉食動物は植物を唯一の栄養源として食べるようにはデザインされていないのです。濃縮された栄養分(すなわち肉や果物)を主食として食べ続けないかぎり、長く生きられないのです。もし、ティラノサウルス・レックスの摂食行動が果物を一個ずつつまんだり、昆虫(YECでは、昆虫は聖書的な意味で「生き物」ではないとの主張がしばしばなされます)を捕まえたりすることに制限されていたなら、長く生きられなかったでしょう。彼らは草や葉を貪ることはできませんでした。なぜなら、彼らの消化器はそのような栄養分の少ない食べ物を消化できるようにデザインされていなかったからです。また、サメは何を食べたのでしょうか。昆布でしょうか。さらに、もし最初の創造において肉食性がなかったとすれば、多くの生物に見られる巧妙なカムフラージュは何のためにあったのでしょうか。

このジレンマの唯一な解決策は、人間が堕落した後、このような生物は急速に進化してこれらの防衛システムを身に着けたというような、何の実証的な根拠がない、その場しのぎの憶測ぐらいなものでしょう。しかし、「六日目」以降神は新しい種を創造されていないので、堕落以降そういうものが出現したとすれば、自然的プロセスのみによります。実は、これは、ノアの箱舟の限られたスペースに収容されたオリジナルの「動物種」が、洪水後、生命の歴史において地球上に一度かあるいはそれ以上出現した膨大な数の動物種に分かれていったことの説明に使われているメカニズムなのです。例えば、箱舟に乗せられた一つがいの「猫類」は、ライオンや虎やチーターやこれまで出現した他のすべての猫類が出現したことを説明するのに十分であるという仮定がなされているのです。皮肉なことに、このようなその場しのぎのシナリオは、どんな「無神論的進化論者」をも遥かに凌いで、自然的プロセスによる進化の力に対する信仰を証言しているのです。もし、自然的プロセスによる進化に数百年という極めて短い期間にそのような大変化を起こす力が実際にあるとすれば、「何百万年」という年代がなぜ大きな脅威となるかは理解できます。それなら、創造主を考えないでも、単純な単細胞の「祖先」が我々人間に進化したという話が可能となるのかもしれません。しかし、実際には進化にはそのような力はありません。進化はバクテリアが抗生物質に対する耐性を高める程度の説明にはなるかもしれませんが、バクテリアの起源そのものは説明できません。ましてや、人間がどこから来たかを説明できません。

死と腐敗は神が「良い」とされた創造の欠かせない部分で、それは人間の感傷に左右されるものではありません。それは、神が創造された自然法則によって保証されているもので、宇宙はその自然法則の下で絶えず支配されているのです。「熱力学の第二法則」は熱の流れを支配するもので、それはどんな種類の物理的な作用にも必要です。これは明らかに人間の堕落以前から存在していました。罪がこの世に入り込んだ時、物理的法則は何も変わりませんでした。しかし、YECの見解は、「熱力学の第二法則」によって支配されている死と腐敗が人間の堕落の故に初めて存在するようになったということです。しかし、エレミヤ書33:25によると、「天と地の定め」は不変なのです。罪という霊的な問題は、神によって定められた自然法則を変えるのではありません。しかし、罪は、私たちの日常生活においてその不変の法則が働くあり方に悪影響を与えます。創世記3章が示すのは、堕落の結果としてアダムの快適な仕事が労苦となり、エバの出産の苦しみがとても大きくなるということです。明らかなことは、罪がこれらを初めてもたらしたのではなく、ただそれらに伴う不快感の大きな増加をもたらしたということです。

人間が与えられた自由を悪用して、罪の罠に落ちるということを神が初めからご存知であったことは明白です。実は、これは神の万物のための全計画の一部でした。エバを誘惑するためにサタンがエデンの園に入るのを許したのは、神ご自身でした。神学者や哲学者は何世紀にもわたって悪と苦悩という難問について議論してきました。これに対して、単純な答えはありません。ある人が不公平な苦痛を受けた場合は特にそうです。にもかかわらず、悪の存在が許されていることに関連して、神の全体的な目的について一般的な理解を得ることができます。まず、自由な選択ができず、強制的にただ御自分に従うプログラムされたロボットのようなものではなく、自由な道徳的行為者を創造するのが、神のご意志でした。やはり、神への反抗を選択する可能性を排除して自由意志を持つ行為者を創造することは、全能の神にとっても不可能なのです。このことは、「四角い丸」を造ることに等しいもので、論理的に不可能なのです。神を愛して彼に従う自由は必然的に神に逆らう自由にもなります。こういうわけで、宇宙の目的は二つあります。第一に、肉体的な生命と霊的な生命が合体した人間の存在が可能となるために、神はこのような宇宙を創造する必要がありました。そして、第二の目的は、従順を意味のあるものにする被造物の自由意志と妥協せずに、悪の問題を永遠的に克服することです。

もし、アダムとエバがサタンの誘惑に負けないで、神に従うことを選択していたら、園で永遠に生きられたのだろうかと思案する人がいるのでしょう。神は、最初はエバが、次にアダムが誘惑に負けることを予知していたので、これは仮定上の質問であって、明確な解答があるわけでありません。しかし、創世記3:22に記されている「手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生る者となるおそれがある」という記述が示すように、アダムとエバ(とその子孫)が園で肉体的に永遠に生きる可能性は理屈としてはありました。こういうことになったとすれば、地が「満たされた」状態となったら、動物と同じように一種の「産児制限」が必要となったはずです。このような世界が神の御旨であったならば、それはもちろん可能でした。しかし、「命の木」というシムボルは肉体的な永遠の命が本来的にアダムとエバに備わっていたわけではなかったことをも示すのです。つまり、永遠に生きるためには、神が用意してくださった「命の木」から食べ続けなければなりませんでした。その「命の木」は神の目的のためにはもはや役に立たなくなったので、アダムとエバは園から追放され、「自分の園」を作るのに必死に働かなければならなくなったのです。

この課題に関連しているもう一つのポイントはYECのパラダイムは神が計画を変更しざるを得なかったことを必要とします。つまり、「人間の堕落の故に、元の「第一計画案」を一時的に断念して、その目的に達するために「第二計画案」に切り替えなければならなくなってしまったことです。マーク・ウォートン博士が「パラダイスに潜めていた危険」(Peril In Paradise)という本には、これらの二つのパラダイムを分かりやすく説明し、それぞれを「完全な目的のパラダイム」と「完全なパラダイスのパラダイム」と名付けています。「完全な目的のパラダイム」は神が初めから計画していた「第一計画案」で、人間の罪によって、その計画を余儀なく変えさせられたのではないと主張します。かえって、その人間の堕落を通して、神が初めからお決めになった目標に確実に進めて行っているのです。」

ご自分の創造は「極めてよかった」と神が言われたことは、私たち人間が「パラダイス」と考えているイメージと異なる何一つのなかった「完璧さ」(具体的には動物の死がなかったこと)があったと意味に取るべきではありません。その意味は神の天地創造にはすべてのことが神に定められた目的を果たしているということです。それは、上記に書いてあるように、神の究極の目的である、人間の自由な意志を犯すことなく、悪の問題を永遠的に克服することです。やはり、キリストは「天地創造の時から、屠られた子羊」(ヨハネの黙示録13:8)でした。この聖句と同様、他の多くの箇所が教えるのはこれが初めからの計画だったということです。再創造されるエデンにその元の「第一計画案」の目標を取り戻すことではありません。それを遥かに優れる新しい天地を約束しています。

神のみことばと神の世界

既に述べたように、正しい聖書釈義の大前提の一つは、どの聖句の解釈も関連している他のすべての聖句と首尾一貫したものでなければならないということです。もう一つの根本的な前提は、神のみことばに啓示されている真理と神が創造した自然界で啓示されている真理との間に同じような首尾一貫性があるはずだということです。科学というものは、神が自然界を通して啓示される事実を解釈する人間の試みで、それが間違っている可能性があります。今まで、そうした人間の試みである科学は間違っていたことがよくありました。これと同じように、聖書を通して神が啓示された真理を正しく理解する人間の試みである神学も間違うことがあります。しかし、同じ神様がもたらしたものであるみことばと自然界の事実そのものが矛盾することは、論理的にあるはずがないのです。したがって、私たちの聖書に対する解釈と自然界を解き明かそうとする科学との間に見掛け上の矛盾があるとすれば、当然あるべき一貫性が見られるように、科学上の解釈か神学上の解釈かのどちらか一方、あるいは両方とも調節する必要があるのです。

YECの聖書解釈と科学の本流による自然界記録の「標準的」解釈との間に大きな矛盾があるとだれでも認めることでしょう。この二つが整合性を持つためには、重大な調整が必要であることは明らかです。しかし、その調整はどちら側に必要でしょうか。両者ともに修正を必要とする重大な過ちがあると、私は確信しています。

若い地球の創造論者が正しく指摘するように、科学の本流は、自然主義的な哲学に支配され、非論理的にも唯物論的な因果関係に制限されています。しかし、このようなことは最近になって科学活動に割り込まれた現象であることを指摘する必要があります。というのは、現代科学それ自体の起源は、キリスト教的世界観に基づいているもので、初期の科学者はほとんどすべて敬虔なクリスチャンだったからです。聖書的世界観を持っていた人たちを除いて、古代人は基本的に、自然現象は様々な神々の気まぐれに支配されているか、あるいは神々の相互関係のような目に見えない霊的世界での出来事の結果であると信じていました。このような世界観は、自然現象が普遍的な自然法則によって記述されることを前提とする根拠を持たないので、科学の芽生えを確実に中断させてしまったことでしょう。こういうわけで、宗教的儀式や魔法的呪文などを通して自然現象を司る神々に影響を与えることばかり考えられていたのです。ですから、自然現象が創造主によって制定された自然法則に支配されていることを人々が明確に理解して初めて、現代科学が可能となったわけです。

問題はどこにあるかと言いますと、普通の「経験科学」(直接的な観察や再現可能な実験が可能な分野)にあるのではなく、過去に起こった観察も再現もできない現象の研究である「過去の出来事に関する(あるいは起源に関する)科学」にあるのです。生命の歴史を研究する時、優秀な「歴史家」ならそうするように、地質学的記録などで観察される証拠を偏見なしに分析し、すべての証拠を最もよく説明する仮説を立てるべきです。

ダーウィン主義のように、初めから超自然的要素の排除を前提としないなら、客観的な証拠から読み取れる明白な結論は、超自然的な設計者が宇宙を創造し、生命が存在可能になるように宇宙のあらゆる要素を微調整したということです。同様に、客観的証拠は、生命の起源や少なくとも「カンブリア紀の爆発」のような爆発的放散現象(化石記録に「祖先」が明らかに見当たらない数多くの新しい生物が突然に現れること)のための自然主義的なシナリオが成立する余地を与えません。実は、大進化を支持する説得力のある化石の証拠は何一つないのです。ですから、すべての種は神の直接的介入によって創造されたと結論することは不合理だとは言えないのです。(ただし、特に細菌のような下等生物の場合、自然過程だけで限定的な種分化が起こることは、除外できません。)

神が生物を創造したことでは、あらゆるタイプの「創造論者」が一致していますが、それらの創造の時期やメカニズムにおいては意見が異なります。すでに述べたように、聖書的な証拠は、長い期間の「創造の日」説に少なくとも余地を残します。私の意見では、創造の時期に関する聖書的な証拠の首尾一貫した唯一の見解は、創造の「日」が長い期間であることが本当に必然的であるということです。もちろん、それだけで、それらの期間が何十億年、あるいは何百万年になるわけではありません。実は、現代科学が私たちに自然界の記録を分析するための道具を提供するまで、宇宙の創造が何十億年も前であったことを想像できた人はいなかったのでしょう。

唯物論者は、古代ギリシャにおいてさえ、哲学的な理由から世界を永遠的なものと考えました。なぜなら、始まりを持つ宇宙は、彼らの世界観と両立しない創始者を論理的に必要とするからです。しかし、大多数の人々は、宇宙創造が数千年また数万年前のことであると考えていたのです。

地球の年齢を約45億年(また、宇宙の年齢として、およそ137億年)であることを一貫して示す、文字通り何百もの別個の証拠があります。一方で、若い地球創造論者が吹聴している、数千年の地球の年齢を支持する多数の「証拠」のそれぞれには、重大な欠陥があります。これらの主張を詳述した他の著作がありますので、ここで述べることは割愛させていただきます。(例:http://www.godandscience.org/youngearth/yeclaims.html#he4)

外観上の年齢という論点

若い地球の創造論者は、自ら解釈した「聖書的」な地球の年齢よりも遥かに古い年代を支持する直接的証拠に直面すると、通常「外観上の年齢」という反論に訴えます。神は、アダムを成人として創造したと同じように(創造の直後にアダムは明らかに0歳に見えなかったのです)、進化して機能できるようになるための時間を必要とせずに、地球をも「成熟」した形で創造したと言います。従って、地球には「外観上の年齢」しかありません。しかし、よくよく調べてみると、この反論は崩れて行きます。アダムが創造された時に20年(あるいは、他のいかなる「外観上の年齢」)の時間が経過したかのような消耗(傷、汚点など)が彼に付与されていたかどうかを、本人を呼んで確認することはできません。しかし、そうではなかったと結論しても問題はないと思います。同じように、アダムにはへそがなかったことをも推測できます。「飾り」としてつけたとすれば、それは既存の人間から生まれたという誤った印象を与えることになるからです。

この「外観上の年齢」説の真実性を確かめるために、自然界の記録を調べることができます。年代測定の最も直接な方法としては、木の年輪を数えることです。世界で最も古い木はカリフォルニアとネバダ州に見られる“ブリストルコーン・パイン”(Bristlecone Pine)という松の一種で、9000年分以上の年輪を直接、数えることができます。YECのモデルによると、このことが意味するところは、4000年間成長していたそれらの木々は、5000年ほど前の全地球に及ぶノアの大洪水によって一掃されたはずだということです。

他にも数多くの年代測定が研究されてきましたが、それらはYECの文献で主張されている6000~10000年の地球の歴史を遥かに越える年代を証明しています。その中で特に有力な方法は、サンゴが成長することによってできる年輪のようなしま模様を利用することです。サンゴのユニークな特徴は、年ごとにできる層の中に、毎日できる365枚の極めて薄い層があるということです。YECモデルによると、もし地球の自転速度が著しく減少していなければ、どの年代のサンゴでも常に一年分の層の中に同数(365枚)の薄い層があるはずです。

このサンゴによる年代測定、あるいは数多くある他の年代測定が含意するものを注意深く考慮すれば、二つの可能性のうちどちらかが真実であることになります。すなわち、すべての年代測定が指し示す古い年代が真実なのか、それとも、「外観上の年齢」を与えるだけのために故意に上書きされたものかのどちらかしかありません。地球の自転速度の減少率を測定すると、過去100年において、一日当たり0.0015~0.0020秒長くなりました。もしこの減少率が一定であれば、一日の長さは6000年間でおよそ0.12秒だけ違うことになります。「何千年も前の減少率を測定するのは不可能であった」わけですから、若い地球の創造論者は、自分たちのモデルを救済する必要があれば、自転速度の減少率は以前には遥かに高かったのだと、またしてもその場しのぎの主張を持ち出すことも確かに可能ではあります。

なぜこれが重要かと言いますと、サンゴの古い化石には一年の層の内部に410の一日の層が見られるのです。一年間の長さは変わらないので、その時代には一日が21時間22分の長さしかなかったことを意味します。このサンゴの化石は「デボン紀」の地層から取られたもので、別個の多様な年代測定法によって、おおよそ3億6000万年前~4億1000万年前と年代決定されています。この年代は、その時代においても地球の自転速度の減少率が現在と同じであるとして予測される一日の長さと大変良く合致しています。月が地球から少しずつ離れているので、その時代の地球の自転速度の減少率は現在より少し高かったはずです。この微小な効果の他には、YECモデルが主張するように一日の長さにこんなに大きな差をもたらす、古代の急速な自転速度の減少率を説明するメカニズムは、絶対に存在しないのです。

創造主が「私たちの信仰を試す」ために、このような「外観上の年齢」を示す「偽証拠」を植え付けたと、私たちは想定すべきでしょうか。そのような概念は聖書に啓示された神とは絶対に無縁のものです。聖書の神は、完全な信頼の置ける存在であり、真理がその本質そのものであり、偽ることのできない方です(テトスへの手紙1:2)。しかし、神が被造物に偽りの「外観上の年齢」を与えたという主張により意図せずしてもたらされた結論は、神を嘘つき呼ばわりすることなのです。

遠い彼方にある恒星や銀河から届く光の到達経過時間は6000年を遥かに超えています。一番近い恒星でさえ、その光が地球に到達するのに、4年以上かかります。ですから、若い地球の創造論者は、最初の人間が初めから星を見ることができるように、神はそれぞれの星から地球に向かう途中の光を造ったのだと、提案してきました。しかし、このことが意味することは、6000光年以上離れている超新星爆発のような出来事を観察する場合、それは幻想に過ぎないということです。それは、実際の出来事を見ているわけではないことになります。なぜなら、6000年以上も前に起きた実際のできごとによって生じた光は、地球にまだ到達していないはずですから。当然ながら、YECの信奉者の主張は、光が通常通りに地球に到達したかのように星の光を見ることができるように、途中の光の粒子(フォトン)を神が創造したからといって、神が人を欺くことにはならないというものです。しかし、光が実際にその距離を進んだかどうかを示す光の伝播距離効果が存在します。それで、その距離を実際に進んで来たように見せ掛けるために、神がフォトンを創造したというのは、人を欺くことになるでしょう。理屈としては、創造主はそういうことができるでしょうが、それは聖書に啓示された神の属性に合致しないのです。

この「外観上の年齢」という考え方に対して、もう一つ指摘すべき点があります。古い年代を示す自然界の証拠の言い逃れとしてこの論拠を主張する人たちは通例、同時に地球の若い年代を支持するいろいろな証拠に訴えます。しかし、この点に関しては、両者の成立を不可能にする論理的に明白な過ちがあるのです。もし、神が被造物に実際の年齢と一致しない外観上の年齢を与えたのなら、論理的には地球が若いことを示す有効な証拠がないということになります。そして、その反対に、もし、自然界の証拠が本当に地球が若いことを示すなら、地球に外観上の年齢が与えられていないことになるはずです。両方の主張が同時に有効であることはあり得ません。

聖書の教えは神が天地創造を通して真実を語っていることを証言しています。「不義によって真理を妨げる人間のあるゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマの信徒への手紙1:18-20)

同じように、詩編19:1-4が教えるように、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」

これらの聖句や他の多くの聖句が明白にするのは、神は自然の記録によって私たちに示す事柄において欺くことをされないということです。真実な年代を隠す「外観上の年齢」を、神が創造した自然に与えることは、聖書に啓示されている神の属性とは決して両立できません。神は被造物全体に御自分の「指紋」を残しておられるため、人間の側の注意深い分析によって、神の創造のわざに関して、その時期をも含めた真実な情報が得られるのです。

実は、YECの「外観上の年齢」説において見られるような動きが、無神論的進化論者の内にも見られるのです。その場合は「外観上のデザイン」と呼ばれていますが、この二つのグループは正反対の極端にいるのにもかかわらず、その動きは本当によく似ています。

例えば、生物学者リチャード・ドーキンズ博士が書いた『盲目の時計職人』(The Blind Watchmaker)という本の冒頭にはこんなコメントがあります。「生物学は何かの目的のためにデザインされたかのような外観を持つ複雑なものを研究する学問です。」同じ無神論的な学者であるサー・フランシス・クリック博士は自伝の中で生物学者に警告を発しています。「生物学者は自分の目で見ているものはデザインされたものではない、進化したものだと絶えず自分に言い聞かせなければなりません」と。クリック博士のことばをYECに当てはまるように言い換えれば、こうなります。「聖書を信じるクリスチャンは自分の目で見ているものは古くはない、若いものなのだと絶えず自分に言い聞かせなければなりません。」両陣営は、先入観をもって予想した世界観に合わないために、証拠を偏見なしに調査することによって導き出されるはずの明白な結論を否定しているのです。要するに、「彼らは証拠それ自体が導く行き先には行かないのです。」

聖書の証拠と神によって創造された自然界からの証拠の双方を公平で筋の通った評価をすれば、創造のプロセスの全期間において神が自ら直接的に介入していたことが示されると、私は確信しています。若い地球の創造論者はこのことそのものには同意することでしょう。しかし、神が聖書において語っておられるのは、人間の歴史が宇宙の歴史よりもほんのわずかだけ、すなわち六日だけ若いということだと、彼らが言うでしょう。

しかし、これは神が被造物に残した証拠と矛盾し、そして、聖書的な証拠にも合致しないというのが私の意見です。もし、この見解のどんなところでも間違っているところがあれば、訂正することを私は受け入れます。そして、キリストにある兄弟姉妹である若い地球の創造論者の皆さんに、この論点に関する自らの見解を再評価してくださるように訴えます。この問題に関して現在の教会に存在する不一致が「井戸に毒を混入し」続けて、失われた世界にキリストとその救いをもたらすという共通のゴールに至るのを妨害し続けるのを放置する、いかなる理由も決してないのです。私たちは皆、神のみことばと神が創造した自然界の双方に関する自分の見解の真偽を確認する必要があります。「すべてを吟味して,良いものを大事にしなさい」(テサロニケの信徒への手紙一5:21)