中国の宣教の歴史


唐朝 - 元朝

中国へのキリスト教の伝播は、太宗の時代に「景教」と呼ばれたネストリウス派キリスト教が紹介されたのが最初とされる。大秦景教流行中国碑が残り、長安などに景教寺院があったことが文献に残るが、その後信者は減り、衰退した。

13世紀にはローマ教皇インノケンティウス4世に派遣されたフランシスコ会プラノ・カルピニモンゴル帝国の首都カラコルムに到着したことに続き、ニコラウス4世に派遣された同じフランシスコ会ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ大都で宣教活動を行い、多くの信徒を獲得した。フランシスコ会は宣教師を引き続き派遣し、1310年ごろには泉州にもフランシスコ会の修道院が建てられたが、その後宣教師の到来が途絶えたことで中国のカトリック教徒たちは14世紀中に自然消滅した。13世紀にはロシア人正教徒が中国に移住したが、彼らの信仰も後代には伝わっていない。

明朝 - 清朝初期

16世紀にはいると、大航海時代の流れにのってヨーロッパの宣教師たちが東アジアへ到来した。フランシスコ・ザビエルは二年半の滞日で「日本人をキリスト教徒にするには中国人をキリスト教徒にするほかない」と考え、自ら中国宣教を試みたが、果たせず上川島で病没した。東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノはザビエルの遺志を継いで中国宣教の実現を図り、ヨーロッパ人の宣教師で中国語と中国文化をマスターしたものを宣教に派遣するという大方針を立てた。この計画のために最初に選ばれたミケーレ・ルッジェーリ(羅明堅)は1579年マカオに到着して中国語を学び始め、3年後にはマテオ・リッチ(利瑪竇)がこれに加わった。

リッチらは苦労の末に中国の土を踏み、自ら中国名を名乗り、中国の儒者の服装をして中国文化の理解につとめた。彼のやりかたは後のイエズス会中国宣教師たちに引き継がれていく。リッチは1601年に念願の北京入りを果たし、知識人たちと交わった。リッチは1610年に没するまでに多くの教義書、科学書を漢訳し、没後万暦帝によって墓所を与えられた。

イエズス会士たちは以後、明朝清朝の宮廷を中心に活躍し、キリスト教を宣教しながら、西洋の最先端の科学知識を惜しみなく中国に伝えた。リッチ以降の著名なイエズス会員としては、明の宮廷に西洋科学を伝えたサバティーノ・デ・ウルシス(熊三抜)、明末および清初の宮廷で暦法を伝えたアダム・シャール(湯若望)、康熙帝の信頼厚く工部侍郎に任ぜられたフェルディナント・フェルビースト(南懐仁)、フェルビーストの後を継ぎ『康熙帝伝』を著したジョアシャン・ブーヴェ(白晋)、ネルチンスク条約締結において清朝側の代表としてロシアと交渉したジャン・フランソワ・ジェルビヨン(張誠)およびトマス・ペレイラ(徐日昇)、康熙帝の側近として20年以上仕えたドミニク・パルナン(巴多明)、実測によって『皇輿全覧図』を完成させたジャン・バプティスト・レジス(雷孝思)、三代の皇帝に仕えて多くの絵画を残したジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)、『孫子』『呉子』『司馬法』などをフランス語訳によってヨーロッパに紹介したジョセフ・マリー・アミオ(銭徳明)などがあげられる。 17世紀後半にはロシア人コサックが北京などに入植し、正教が再度伝来した。 しかし、フランシスコ会やドミニコ会などがイエズス会の適応政策を批判、イエズス会は中国における偶像崇拝を容認していると教皇庁へ訴えた。これが典礼論争である。欧州各国の王権が強まる中で国を超えて活動しながら教皇に忠誠を誓うイエズス会は危険視され、これを機会に総攻撃を受ける。典礼論争は単なる宗教問題ではなく、政治問題でもあった。1773年に中国におけるイエズス会は解散に追い込まれ、宣教活動も終止符を打つことになる。一方で、正教会は存続した。

清朝末期

19世紀に入ると、イギリス東インド会社の後ろ盾をうけたプロテスタントの宣教師ロバート・モリソンが中国での伝道を開始。モリソンはマカオで中国語辞典をつくり、漢訳聖書を発行した。プロテスタント宣教師達は精力的に中国語・中国文化の習得につとめ、相次いで聖書の翻訳が行われた。その翻訳に際しては語彙の的確性のほか、文体にまで注意が払われ、宣教師達の間で活発な論争も行われた[2]。プロテスタント宣教師による本格的な中国布教は1858年天津条約1860年北京条約以降になるが、それ以前の19世紀前半に、既に中国語訳聖書などの宣教の素地が出来上がっていた。

清朝末期に勃発した太平天国の乱洪秀全によって組織された宗教団体太平天国が引き起こしたものであったが、モリソンの漢訳聖書の影響を受けたといわれている。ただし、太平天国はキリスト教の影響を受けてはいるものの新興宗教の一種であり、キリスト教の一教派とはふつう看做されない。 義和団の乱に際して、北京の正教徒が多数致命者となった。ロシアから中国への移住者が増えるにつれて、主流派正教徒の人口が増加し、中国人の帰正者も現れ、漢口、上海、新疆省などに正教会が出現した。正教古儀式派教徒も中国東北部および新疆省に移住し始めた。

近現代

ロシアの満州および新疆への進出、そして、ロシア革命以降の動乱により、ロシアに存在していた数多くの教派の信徒が中国に到来し教会を建設した。

第二次世界大戦後、中華人民共和国を樹立した中国共産党は、国内に外国の勢力の影響を受けた宗教団体の存在を認めず、キリスト教については政府主導により三自愛国教会を組織し、外国人聖職者を国内から去らせた。

特にローマ教皇を絶対視するカトリック教会は認めず、教皇大使のリベリ大司教を追放し、 国内のカトリック教会を政府公認組織である中国天主教愛国会を通じて支配下に置こうとした。政府の公認教会である中国天主教愛国会では、ローマ教皇にのみ認められる司教の選任と叙階を独自に行っている。最近では政府の公認教会の司教もバチカンと政府の両方の認可を受ける例も出ている。政府支配下の教会への協力を拒否し、教皇に忠誠を誓う聖職者や信者の教会を地下教会というが、こちらは今もなお政府から迫害を受けている。

また、中国国内のプロテスタント系教会諸派は、「三自愛国運動」方針を示し、共産党と協議の上「中国基督教会宣言」を表明して、中国基督教三自愛国運動委員会を組織し、さらに文化大革命のキリスト教弾圧を経て、中国基督教協会を設立した。だがいまだに非公認の地下教会(家の教会)は迫害されている場合がある。

エキュメニカル派は中華人民共和国政府公認の三自愛国教会と交わり、福音派は家の教会と交わっている[3]

このため福音派との交流は認められていない[4][5][6][7][8][9]2010年には中華人民共和国のクリスチャン200人が世界中の福音主義者が集まる福音派第3回ローザンヌ世界宣教会議に招待されたが、政府非公認の地下教会(家の教会)のクリスチャンは中国政府によって出国を禁じられ、パスポートを没収された[10]。中華人民共和国政府は福音派のローザンヌ誓約とローザンヌ運動を拒否しており、また、ローザンヌ側は中華人民共和国政府公認教会の指導者を招待しなかった[11]

中華人民共和国政府および三自愛国教会の発表では聖書は足りているとされるが、実際は制限があり、不足しているため福音派の宣教団体が持ち込んでいる[12]

2010年12月25日には、ローマ教皇ベネディクト16世バチカン市国サン・ピエトロ広場クリスマス恒例の説教を行った際、先2010年11月より中国政府・中国共産党による、バチカン未承認のカトリック司教の任命やバチカン公認司教の弾圧を含めた中国国内におけるカトリック信者の弾圧について、「宗教と良心の自由に対する制限があっても心を失うことなく、キリストと教会への忠誠を保ち、希望の炎をともし続けるよう」訴え、また「政治・宗教指導者に、信教の自由を尊重する考えがもたらされることを願う」との異例のメッセージを述べた。[13][14]

バチカンの声明に対して、中国国家宗教事務局は「極めて無礼で根拠がない」と反論し、中国天主教愛国会の劉柏年名誉議長もバチカンを非難した[15]。しかし、中華人民共和国政府公認の中国天主教愛国会は、バチカンのみならず、日本をはじめ、各国司教評議会にも正統なカトリック組織とは認められていない。


http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99#.E7.8F.BE.E4.BB.A3.E4.B8.AD.E5.9B.BD.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E5.AE.97.E6.95.99.E6.94.BF.E7.AD.96