「偶像から創造主に立ち返る」

おはようございます。高原剛一郎です!

 さて、今年2012年はロンドンオリンピックが開催されますね。ところでオリンピックのメダル授賞式で必ず演奏される曲があります。それは金メダリストの国の国歌です。日本の場合は「君が代」が演奏されますね。いま世界に約200の国々がありますが、ほとんどの国々は国歌を持ってるんです。そしてこの国歌の歌詞に出てくる言葉で一番多いのは「自由」という言葉です。第二位は「神」、第三位は「平和」だそうです。どうして「自由」という言葉が一番多いんでしょう。多くの国々は支配されている状態から独立を勝ち取って建国したからですね。自由っていうのは人間が求める根源的な欲求だと思います。ところである方がこんなことを語っていました。「不自由な国では自殺する人はあまりいないが、自由な国ほど自殺者が多い」と。政治的自由が保障されていても人間を窒息させてしまうものはやはりあるのです。聖書はそれを罪と語るんですね。ある時キリストがこうおっしゃいました。

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「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」

人間の自由を奪う罪とは

 ここでキリストはとても挑発的な宣言をなさいました。
 第一に、人間は皆罪の奴隷であると言うのです。ところで罪とはなんでしょう。聖書を見ると最も頻繁に罪として指摘されているものに偶像崇拝というのがあります。偶像というのは英語で「アイドル(idol)」ですね。神以外のものを神のように崇拝することを偶像崇拝って言うんです。そして偶像崇拝こそは人間を奴隷状態に落とし込む罪なのだと言うんです。
 例えば、もし結婚相手を自分の人生の土台に据えるならどんなことが起こるでしょう。その人は相手に依存し、相手によって人生を振り回されることになります。過剰に嫉妬深くなったり、支配的になったりします。相手を自由にさせることが出来なくなるんです。もし子供を自分の人生の土台に据えるなら子供が偶像です。どんなことが起こるでしょう。その人は子供を通してでしか人生を経験することが出来なくなります。そういう家に育った子供は、自分にしがみついてきた親を最終的には憎むようになります。あるいは自分というものを持たない、いや持てない大人になります。自立できないまま同じことを自分の子供にするようになるのです。

偶像礼拝がもたらす悲劇

 もし自分の人生やアイデンティティを仕事の上に置くなら、仕事がその人にとっての偶像です。その人は仕事中毒になり、仕事のためなら自分の健康も、家族との交わりも、友情も、平気で犠牲にします。仕事が順調な時にはすこぶる上機嫌ですが、仕事が行き詰まると人生そのものに懐疑的になり、ひどく落ち込みます。仕事と人生がイコールになっているからです。もし人生の土台を快楽に据えるならその人は快楽を得るためなら不道徳なことを平気でやるようになるでしょう。一瞬の幸せのために、長期的展望に立った人生を設計したり、大義のために人生を用いることはなくなります。そして動物的な、感覚的な、欲望に支配された人生になっていきます。それはたいていの場合人生の難題から逃げていく生き方になってしまうのです。

創造主こそ人間が真に礼拝すべき方

 もし人生の目的や意味や土台を個人的宗教心や芸術に置くなら、その人は自分が崇拝している考えに合わない、あるいは合わせてくれない世界や人々を見下すようになります。とても鼻持ちならない、高慢な、独りよがりの人間になります。世界を善と悪の二つに分類して、自分をいつも正義の代理人の立場に置いて考えるようになるでしょう。そういう人は敵を沢山作りますが、その敵がいることが自分の存在意義になってしまうのです。
 財産も、友人も、仕事も、宗教も、人間が拝むにはレベルが低すぎるものなのです。それは人間を束縛します。なぜなら人間は自分が崇拝するものによって支配されてしまうからです。人間がどれ程崇拝しても、人間を人間未満におとしめることがない方は本物の神だけです。神を神として崇拝し、その主権を認めるということは人間を神未満の全てのことから解放してくれるものになるんですね。罪を行うものは罪の奴隷です。偶像を拝む者は偶像の奴隷です。しかしキリストは同時にこうおっしゃったのです。

「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」

 キリストは人間を罪とその結果から自由にするために来てくださったのです。いったいどのようにして罪から自由にしてくださるんでしょう。

自由を与えるために準備された神の計画

 第一に、十字架に架かって私たちの罪の結果を身代りに引き受けてくださったことによって、私たちを罪の結果から自由にしてくださったのです。先日、私は群馬県の高崎駅の階段を重いキャリーバッグを持ちながら下りて行きました。ところが2,3段下りたところで急に持ってる鞄が軽くなったんです。思わず後ろを振り返ってみると、私を構内で見かけた友人が何も言わずに持ち上げてくれたんですね。彼は私の重荷を代わりに持ってくれたのです。だから私は重荷から解放されたのです。キリストは私たちの人生を押しつぶす罪の重荷を身代りに背負ってくださった方です。だからキリストだけがあなたを自由にすることがお出来になるのです。
 第二に、キリストは死後三日目によみがえり、天に帰ってあなたのために執り成しの祈りをしてくださっている方です。キリストを信じる者には神の子供とされる特権が与えられています。この特権を受け取るようにと、キリストは今この瞬間もあなたのために祈り執り成しをしておられるのです。
私は子供の頃母親にしつこいほど同じ質問をしたことをよく覚えています。それは「僕のこと好きか」ということです。「好きやで」と言ってくれるんですけどそれでも安心できないですね。何度も何度もくどいほどに確かめようとしたのです。どうしてそんなにしつこくしつこく聞いたんでしょう。言葉を知らない私は好きかと聞いたのですが、実は本当に聞きたかったことは「永遠不滅、完全無欠の愛で愛してくれますか。」と聞きたかったのに違いないのです。そんな愛を持ってる人間は世の中にはいないでしょう。しかし私は神しか持っていない愛を母に尋ねました。最も愛してくれそうな人は母親だったからです。しかし母と言えども人であって神ではありません。私のこの愛に飢え渇く欲求は、キリストを知った時に初めて満たされたように思うのです。そしてキリストによって心満たされているということが罪を手放していく力となってきました。それは私が人生に向かって挑戦していく勇気を与えてくれるものとなったのです。
 どうぞあなたもイエス・キリストを信じ受け入れてください。この方の中にすべての力と勇気の源泉があるからです。心からお勧めしたいと思います。

http://biblegospel.org/zen2/z619.html