神への祈りを諦めない理由

ルカ伝11章5-13節

 

 これまで、「主の祈り」をご一緒に学んできました。「主の祈り」の精神を学んで祈り続けていくときに、人は神と結びつくことができのです。「主の祈り」の五項目(ルカ伝)、あるいは六項目(マタイ伝)のエッセンスを理解して、いつでもどこでも自然に祈ることができるのです。現在、いろいろなデボーションのノウハウが出版されていますが、もっとも重要なことは、「主の祈り」の精神で祈っているかどうかということなのです。

 今日の箇所も、「祈り」に関連しています。イエスは、友人関係と親子関係という二つの比喩を用いて、「祈り」が応えられるものであることを教えておられるのです。「祈り」は気休めでも、心の平安を保つためだけの営みではないということです。それは、それぞれの固有の人生において、求めるものを得て、人生を切り開くものなのです。もう一つの教えは、祈りの究極的な目標が神ご自身だということです。今日は、このようなことについて、ご一緒に見てみたいと思います。

(1)友人関係においてさえ

真夜中の来客

あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。  ルカ11:5-6

 ルカ11:5の最初の部分をご覧ください。ここから、第一の比喩が始まります。〈あなたがたのうち、友だちがいるとして〉というフレーズで始まっています。これは、自分の問題として弟子たちに考えさせるためです。もしあなたの家に〈友人〉が突然〈旅の途中〉、真夜中に訪ねてきたとします。現在なら、真夜中の訪問は非常識ですが、当時の徒歩の旅では予定よりもずっと到着が遅れることはざらにあったことでしょう。当時は、宿屋も整備されていませんでしたから、知り合いの旅人をもてなすのは、普通に行われていました。その旅人が友人であったらなおさらのことです。

 ところが、あいにくあなたには〈出してやるものがない〉とします。パンを新たに焼くには何時間も掛かります。パン生地をこねたり、発酵させたり、火を起こしてから焼いたりしていたら、5-6時間は掛かることでしょう。かと言って、お腹を空かせた〈友人〉を朝まで空腹のままにするのは、何としてでも避けたいと、あなたが考えたとします。 

友人関係の限界

彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしない  ルカ11:8

 それで、あなたは近所に住んでいる〈友人〉のことろに行き、〈パンを三つ貸してくれ〉と頼みます。ところが、彼は断るのです。こんな真夜中に、〈パンを三つ〉借りに来るとは、非常識このうえないと思ったことでしょう。いい気持ちでぐっすり寝ているときに叩き起されると、気前のいい人でも気分を害します。翌朝返してくれるのであれば、〈パンを三つ貸(す)〉のは何でもないことです。しかし、こんな夜中に起き上がるのは、彼には耐え難い苦痛だったと思います。これが〈友人〉(フィロス)の限界なのだ、とイエスは言われるのです。

 この〈友人〉という言葉は、元々は「親しい」とか「好意的な」という意味の形容詞なのです。人間的な親近感や友愛の情を表す言葉です。これと関連する名詞に、“フィリア”(友愛)があります。これは、人間の情愛を指す言葉で、“アガペー”と対をなす言葉なのです。ちなみに、フィラデルフィアという都市の名は「兄弟愛」という意味があります。真夜中に起きて〈パンを三つ〉貸すことまではしなかったこの〈友人〉は、人間的な情愛の限界を象徴しているのです。一方で、母性愛はアガペーに近いと言われることがあります。生まれたばかりの赤ん坊は、真夜中も早朝も関係なく、三時間ごとに腹を空かせて泣き叫びます。これに対応できるのは、友愛ではなく母性愛なのです。友愛は、持ちつ持たれつ(give and take)ですが、アガペーは見返りを求めないからです。

(2)友人関係を超える愛

恥知らずのしつこさ

… あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。            ルカ11:8

このように、友愛は真夜中に起きて〈パンを三つ〉貸してくれるようなことはしないが、〈あくまで頼み続けるなら、そのためには … 与えるでしょう〉とあります。〈あくまで頼み続けるなら〉というのは、古典ギリシャ語では「恥を知る心がない」という意味で、「恥を知らないしつこさ」や「厚かましさ」を指しています。このようなしつこくて、厚かましく願い続けたので、しぶしぶ起き上がって、パンを貸してくれたわけです。なぜ、彼は友人にしつこくねばったのでしょうか。それは、旅人を空腹のまま夜明けまで待たせるのは忍びないという、彼の「もてなしたい」という強い願いから出たことなのです。

ですから、旅人の状況に対してこのように判断できた、彼のセンス(感性)にまず注目すべきだと思います。なぜなら、そう判断しない場合が多いからです。自分の赤ん坊が腹を空かせて泣く時、そのような赤ん坊を愛おしくしい思ってすぐに対応する母親がいる一方で、煩わしいという感情が沸き起こるだけの母親がいるとします。この二人のい母親はどこが違うのでしょうか?それは、彼女の赤ん坊を愛おしく思うか、煩わしいと思うかの感性(センス)の違いから来たものだと思います。感性がない人に愛おしさを感じろと言っても、無駄なのです。それらしく振舞うことができるかも知れませんが、それは演技をしているだけなのです。そのように感じられるかどうかが、人生を左右するほどに重大な要素だと思います。また、感性の質というのも重要です。社会問題化していますが、暴力や暴言を浴びせながら、「お前を愛している」と言える感性が、大きな悲劇を生んでいるのです。いくら勉強ができても、感性に問題があれば、必ずそれが重大な障害になることがあります。この点については、いつか詳しく取り上げたいと思います。とにかく、旅人の友人の立場に立って、〈パンを三つ〉どうしても借りたいと厚かましくも、しつこく願ったその強い願いが、聞かれたのです。これが、第一の比喩の結論です。

あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。 ヤコブ4:2

 ここで、ヤコブ4:2をご覧ください。この節には、〈ほしがっても(むさぼっても)自分のものにならない … うらやんでも(熱心に求めても)手に入れることができない〉という経験の中で、〈人殺しをする … 争ったり、戦ったりする〉という手段に出て、欲しいものを手に入れようとする様子が書かれています。これが世間の営みなのです。世の中は、受験戦争と市場原理と美人コンテストに代表される弱肉強食の競争原理だけが支配しているように見えます。キリスト者でさも、この原理に圧倒されそうに思えることがあります。しかし、聖書はもう一つの原理を教えているのです。

 ヤコブは、そのような世間の有様を紹介した後で、もう一つの方法で〈自分のもの〉にするという道について教えているのです。それは、〈願う〉(アイトー)という単純な方法によってなのです。この〈願う〉というのは、神に願うという意味です。ただし、条件があります。それは、〈悪い動機〉からではなく、〈神のみこころにかなう願い〉(Ⅰヨハネ5:14)を願う、ということです。では、〈神のみこころ〉とは何でしょうか?それは、あなたに関する「神の摂理」に従うということです。すなわち、「神の摂理」に適う願いを持ち続けるなら、あなたの願いは叶えられます、ということなのです。なぜそのようなことが言えるのでしょうか?

 

父の愛

あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。   ルカ11:11-12

ルカ11:11-12をご覧ください。ここには、なぜあなたの願いが叶えられるのか、その答えが書かれているのです。〈あなたがたの中で〉という表現は、5節でも出てきました。これは、彼ら自身の父親としての経験に訴えるもので、聞き手が教えを自分の問題として考えやすくするためなのです。先ほど、アガペーを母性愛に喩えましたが、新約聖書には、実は「母性愛」に関する記述が少ないのです。「放蕩息子の父親」は出てきても、「放蕩息子の母親」は登場しません。これは、「父親」が「父なる神」の比喩として用いられているためなのです。これが、第二の比喩です。

 この「父なる神の愛」は無限であり永遠ですから、人はその全体像を理解することはできません。「親の心、子知らず」とも言いますが、神と人間の関係はなおのこと「神の心、人知らず」なのです。しかし、無限であり永遠なるものを教えるときに、イエスはアナロジー(類似するもの、比喩)という優れた方法を用いたのです。無限・永遠なる神を人間に伝達するには、アナロジーを使う以外の方法はないのです。アナロジーは真理そのものではありませんが、真理を指し示すものなのです。人が理解できるのは、ここまでです。ヨブ記を読まれた方は、真面目に神を信じてきたヨブに対する悲惨な災厄を、きっと納得されないでしょう。神は、ヨブの人生の幸せよりも、ご自分の主張が証明されることを優先されるのか、と思う方もいることでしょう。ヨブ自身も神の仕打ちが理解できなくて深く悩むのです。人が確認できるのは、永遠のうちのほんの一瞬、無限のうちのほんの一部だけなのです。それは、推理小説の一部だけを読んで、結論を言うのと等しいのです。しかし、人が理解できないはずの「神の愛」という永遠なるもの、無限なるものを、イエスはアナロジーによってその特徴を伝えようとされたのです。

 自分の子どもが〈魚〉を欲しがっているのに、〈蛇を与えるような父親〉はいない、また〈卵〉を欲しがっているのに、〈さそり〉を与えることもしない。実は、〈魚〉と〈蛇〉、〈卵〉と〈さそり〉は形状が似ているのですが(さそりが丸くなると、卵状になる)、両者は「良いもの」と「害になるもの」で中身が全然違いますね。人間の父親でさえ、子どもの願いを聞き入れようとするのだから、「父なる神」はご自分の霊の子どもたちが欲しがっているものと逆のものを与えるようなことはしないのだ、とイエスは教えたのです。このような神の「父親としての性質」(父性)が、願いを叶えていただける基盤としてあるわけです。しかし、その基盤は決して揺るがないということです。もし願いが叶えられないとすると、求めるものが害になるような、例えば〈魚〉と〈蛇〉、〈卵〉と〈さそり〉の区別がつかないままで、〈蛇〉や〈さそり〉を求める祈りの場合です。実は、自分が求めていることが、大きな害になることがあるからです。

(3)祈りの主要な原理

受け、見つけ出し、開かれる

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 ルカ11:10

 次に、ルカ11:10をご覧ください。ここには、〈求める〉(アイテオー)、〈探す〉(ゼーテオー)、〈たたく〉(クルーオー)の順に、求め方がより強く、そしてより深くなっているように思えます。そして、すべて継続の意味があります。すなわち、「求め続ける」、「捜し続ける」、「たたき続ける」ということです。最初の〈求める者〉は、求める対象がはっきりしている人のことを指していると思います。すなわち、特定の何かを〈求める〉ということです。〈捜す者〉とは、自分の行くべき道や生き甲斐や自分のアイデンティティなど、未だに答えが見つからないものを捜し求める人のことだと思います。〈たたく者〉とは、自分に行きべき道は見つかったが、それを実現しようとして苦闘している人のことだと思います。

 このように、人の願望には、〈求める〉〈捜す〉〈たたく〉というレベルがあります。イエスは、かれらの願望が叶えられることを教えておられるのです。なぜなら、神との親子関係という揺るがない基盤が、そのことを保証するからです。 

究極的な願望

とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。  ルカ11:13

 神に求めることによって願いを叶える人たちが、最終的に辿り着くところについて、最後に見てみましょう。ルカ11:13をご覧ください。ここには、〈求める人たち〉と書かれていますが、原語では、「彼(天の父ご自身)を求める人たち」となっているのです。ですから、「父なる神」こそが、究極的に求めるものであり、究極の憧れ、究極の希望ということなのです。いろいろなものを人は欲しがりますが、神に求めて祈る人の願望が高められて辿り着くところは、「父なる神」なのです。〈聖霊を下さ(る)〉とは、〈聖霊〉を介して「父なる神」があなたの人生に臨在されることを意味します。

 神がともにいます(インマヌエル)ということこそが、究極的に「願い」のすべてとなるのです。なぜなら、「神がともにいます」(インマヌエル)ことこそが、すべての祝福の源であり、また、すべての祝福にまさるということです。詩篇73:28をご覧ください。この詩の作者は、このような願望の高みにまで登った人の典型なのです。

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2012y/120129.htm