「主があなたを呼んでおられる」

 「一行はエリコの町に着いた」。先程、司会者の方にお読み頂いた、本日の聖書の御言葉の最初の所に、そう記されておりました。ここに出て参ります「エリコの町」とは、エルサレムから見ますと、東北東に凡そ30キロメートルほど行った所に建てられていた町であります。それは、ヨルダン川流域の西側に広がる肥沃なヨルダン平原の東の縁にありまして、その平原を守る「鍵」とも言えるような位置に当たります。それが故に、古くから、その地には堅固な町が建てられ、興亡を繰り返した、と言われております。考古学的な発掘によって、紀元前7000年には、もう既に、そこに町が建てられていた事が判っておりますし、旧約聖書を見てみましても、例えば、ヨシュア、あのモーセの後継者であるヨシュアでありますが、彼に率いられたイスラエルの民が、初めてヨルダン川を渡り、そうして最初に陥落させた町が、エリコでありました。

 尤も、この新約聖書に出て参りますエリコは、その旧約聖書時代のエリコから、凡そ2キロメートルほど南西に寄った所に建てられたものであるそうです。戦争によって、その町が廃墟とされる度に、その近くに、また新しい町が建設され、そうして同じ「エリコ」という名前が付けられた。そうした歴史の中で、段々と町の位置が動いて行った、という事でありましょう。

 主イエス達一行が入られたというエリコの町は、紀元前1世紀後半、あのヘロデ大王が新たに建築したものだとの事で、ローマ式の壮大な都市であったようです。ヘロデ大王は、その町の中に、自分用の冬の宮殿を造り、また町の後方の丘には、要塞をめぐらした、とも言われます。そして、主イエス達一行が、そのエリコの町に入られた頃には、その宮殿や要塞は、ローマ軍の管轄下に置かれ、多くのローマ兵が常駐していたようでして、つまりは、非常に栄えてはいるけれども、しかし、ローマという強大な他国の支配をひしひしと感じさせられる、そういった町であったように思われます。

 ルカによる福音書などを見てみますと、あのザアカイ、徴税人ザアカイが、その仕事をしていたのも、この町であった事が判ります。壮大な都市建築が成され、見事な宮殿が建てられ、肥沃なヨルダン平原からの収穫物によって潤った町、富と力を謳われた町、しかし、そこは決して楽園ではありませんでした。ユダヤの人々は、ローマの軍事力を背景にした徴税人から、高い税を搾り取られ、そうしてまた、それが故に、彼らは徴税人を憎悪し、蔑み見ていた。そうした反目も、またそこには見られましたし、当然、そのような町には貧富の差も甚だしく現れて来た事であろうと思われます。

 実際、主イエス達一行は、恐らく、その町で一泊し、その翌朝、またそこを出立したのだと思いますけれども、その町を出ますと、その町の城門近くの道端でありましょう、そこにバルティマイという名の盲人の物乞いが座っていたのであります。どんなに豊かな町であっても、福祉などという観念の行き渡っていなかったこの時代、目が見えない、そうした障碍を抱えている人は、物乞いをしなければならなかった。物乞いをして、その日その日の食い扶持をなんとか稼ぎ出さなければならなかった。そういう事でありましょう。彼らには、その他の仕事は与えられず、ただ物乞いをして生きて行く他なかったのです。

 この50節を見てみますと、主イエスから呼ばれた盲人バルティマイは、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスの所に来た」と記されております。何故、彼は、主イエスの所に行くのに、わざわざ「上着を脱ぎ捨てた」のか。この不可思議な叙述について、幾つかの説明が試みられております。例えば、こういう事を言う人もいる。ここには、またわざわざ、この盲人の名前、バルティマイという名前が記されています。何故、その名前までが記されているのか。バルティマイという名前は、この43節の中程に記されております通り、「ティマイの子」という意味です。「バル」というのは、当時ユダヤで一般に用いられていたアラム語という言語に於いて、「子供、息子」を意味するのでありまして、その言葉が「ティマイ」という名の頭に付けられて、「バルティマイ」となっている。つまりは、それは、「ティマイの子」、「ティマイの息子」という意味である訳です。そうした名前が、わざわざ、ここに記されている。それは、何故かと言えば、その「ティマイ」という名の父親が、エリコの町では、良く知られた人間であったからではないか。そう言うのです。つまり、それなりの地位、それなりの財産を有するエリコの町の著名人であった、という事です。

 しかし、その子供は、病気か、あるいは怪我をしたのか、何が原因であるかは判りませんが、或る時、視力を失ってしまった。目が見えなくなってしまったのです。そこで、その父親ティマイは、その将来を見込めなくなってしまった息子を投げ出してしまい、バルティマイは物乞いをして生計を立てる事となった。そうした過去が有ったが故に、良家で育てられたバルティマイは、主イエスに呼ばれ、その御許に出て行こうとした時、今、自分が身に付けている上着の、剰りの汚さに、それを脱ごうと考えた。そんな汚い身なりで主イエスの御前に出るのは、恥ずかしい、いえ、礼節に反すると、その上着を脱ぎ捨てた。そう考えるのです。

 尤も、そのような読み方をするのは、少し想像が過ぎるようにも思います。むしろ、このような説明の方が、まだ穏当でありましょう。この50節には、今も申しました通り、「上着を脱ぎ捨て」と記されております。しかし、その「脱ぎ捨て」と訳されております言葉は、確かに、そのような意味をも持った言葉であるのではありますけれども、一般的には、むしろ「投げ捨てる」という意味で用いられる言葉なのです。つまり、ここに於いても、やはり、バルティマイは「上着を投げ捨てた」と読む事が出来る訳です。もし、そう読む事が許されると致しますならば、その場合、バルティマイは、上着を最初から着ていなかった、という事になります。上着を着ずに、むしろ、手許に持っていた。その持っていた上着を投げ捨てた訳です。

 それでは、何故、上着を着ずに、持つような事をしていたのでしょうか。考えられるのは、恐らく、彼は、道端に腰を降ろし、あぐらを組み、そのあぐらを組んだ足の上に上着を広げていた、という事です。上着を、そのようにして広げて、そこに通行人がお金や食べ物を投げ入れてくれるのを待っていたのです。そうして、道行く人の憐れみを乞うていたのです。しかし、主イエスが、彼を呼んでいる、その事を聞いた時、バルティマイは、その膝の上の上着を投げ出してしまった。投げ捨ててしまった。そうした事が、ここに描かれている。そう考える事も出来るのです。

 どのように、この50節の言葉を読むか、理解の別れる所ではありますけれども、しかし、とにかく、エリコの町の門の近く、その道端に、バルティマイは座り、そうして道行く人々に喜捨を乞うていた。それは確かでありましょう。豊かな町エリコ、しかし、その町にも、目に障碍を持ち、それが故に、物乞いをしなければならない、物乞いをしなければ生きて行けない、そのような人間がいたのであります。

 さて、そのバルティマイが、いつものように、道端で物乞いを致しておりますと、しかし、そこにいつもとは違ったざわめきが起こった。主イエスが来られたのです。やはり当時の習慣として、ラビと呼ばれるユダヤ教の教師達が、旅を致します時、その弟子達も、当然、その後に従い、共に旅を致しました。そうして、その道すがら、教師は弟子達に教えを述べたそうです。青空学級とでも申しますか、教師と弟子、それが一団となって道を歩きながら、そこで教育が為されたのです。そしてまた、そのような際、その教師が高名な教師であったり致しましたならば、正式に認められた弟子達ばかりではなく、更に多くの人が、その教師の周りを取り囲み、その教えを聞こうとした。そういう事が有ったようであります。

 主イエスについても、そのような事が起こったのでありましょう。主イエスと、その弟子達とが、エリコの町を出立致しますと、その周りを、また大勢の群衆が取り巻いた。そうして、普段のエリコの町から出る街道には見られないようなかしましい雰囲気が、その辺りを包んだのではないか、と思います。そこで、バルティマイは、近くの人に尋ねたのでしょう。「これは何事ですか」、と。そうして、あのイエスが、今、ここを通られる、その事を聞くのです。

 もう既に、エリコの町にも、主イエスの為された数々の奇跡、力ある業、そして、その権威ある教え、その噂が広まっていた、と考えられます。それだからこそ、またエリコの町を出立される主イエスの周りを大群衆が押し包んだのでしょう。その語られる言葉を一言でも聞きたい、そう思って、大勢の群衆が、主イエスの周りを取り囲んだ。そうして、主イエスも、それらの人々に御教えを語りながら、エルサレムへと進んで行こうとされたのではないか、と思います。そのようにして、人々は主イエスを中心に、街道いっぱいに広がって、進み始めたのでありましょう。

 バルティマイも、また、主イエスの噂を聞いておりました。その癒しの御業、多くの病人が、主イエスによって癒された、その噂を聞いていた。そこで、彼は叫び始めたのです。声を限りに叫び始めた。「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」、そう叫び始めた。ここで「叫んだ」と訳されております言葉は、烏が鳴き声をたてる、そのような時にも用いられる言葉でして、甲高い声で叫び声を上げる、金切り声を上げる、悲鳴を上げる、そういった意味合いをも持っている言葉です。彼バルティマイは、懸命になって、群衆の直中にいる主イエスに叫び、呼び掛けたのでありましょう。「私を憐れんで下さい」、「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」、と。

 「ダビデの子」という言葉は、「ダビデの子孫」とも訳され得る言葉です。旧約聖書の中には、あのダビデ王の子孫の中から、やがてイスラエルを真の平和の内に治める王が現れるという、そういった預言の言葉が幾つか記されています。例えば、先日、聖書通読会で読んだばかりですが、サムエル記下の7章ですとか、あるいは、クリスマスの時、しばしば読む事となるイザヤ書の9章、また11章などに記されている御言葉です。そうした預言の言葉から、やがてイスラエルに与えられるという王、即ち、メシアを言い表す、一つの表現として、「ダビデの子」という言葉が生まれたのだと思います。

 バルティマイは、主イエスこそ、そのメシアである、イスラエルに約束された真の王である、憐れみを以て、その民を養い、導いて下さる王、メシアである、そう考えた。主イエスこそ、私達の救い主である、いえ、この私を憐れみ救って下さるメシアである、そう信じた。そこで、「ダビデの子よ」と、そう呼び掛け、叫んだのでありましょう。「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」。彼は、そう叫び続けたのです。「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」。声を振り絞るようにして、喉が裂けるばかりに、彼は叫び続けた。

 しかし、その彼の叫びを、主イエスの周りを取り囲む人々は遮ろうとしたようです。48節を見てみますと、こう記されています。「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」、と。何故、その「多くの人々」は、彼を黙らせようとしたのでしょう。このように考える事も出来るでしょう。先程、申しましたように、主イエスの周りを、主イエスの御教えを聞こうと、多くの人々が取り囲んでいたのです。エルサレムへ進んで行こうとされる主イエス。その主イエスを大勢の人々が取り囲むようにして、また道を進んでいた。その主イエスを中心とする人垣の、その一番外側にいる人達は、なかなか主イエスの声を聴く事が出来ない。何を話しておられるのか、何を教えておられるのか、一言でも聞きたい、そう思って耳を澄ましても、なかなか人垣の後ろの方まで主イエスの声は聞こえなかった。そうして、イライラしている所に、後ろから叫び声が起こるのです。喧しい叫び声が、いつまでも止まないのです。そこで叱りつけた。「うるさい、黙れ、イエス様の声が聞こえないじゃあないか」、そう叱りつけた。そういった情景を想像しても良いように思うのです。

 しかし、ただ、それだけの事として読み過ごしてしまっては、また、ならないと思う。興味深いのは、ここで「叱りつけて」と訳されている、その言葉です。それは、元のギリシャ語の聖書では、「エピティマオー」という言葉を以て、著されています。その頭に付いている「エピ」という言葉は、「何々の上に」という意味を持っています。そうして、その後の「ティマオー」という言葉は、元々は、「値を付ける」という意味の言葉なのです。つまり、ここで用いられている「エピティマオー」という言葉は、本来、「何かの上に値を付ける」、そういう意味を持った言葉である訳です。それが、人に対して用いられるようになりまして、この言葉は、全く相反すると言っても良いような二つの意味を持つようになった。即ち、「尊敬する」という意味と、「非難、叱責する」「叱りつける」、そういう意味です。

 何故、そのような事になったかと言いますと、要は、或る人に対して高い値を付ける、この人は値打ちのある人だ、と、そう考える、それは尊敬する、という事に結び付く訳であります。それに対して、或る人に低い値を付ける、この人の考え方は間違っている、この人の言葉は間違っている、この人の生き方は間違っている、そう考えて、その人の価値を低く見積もる、それは、その人を非難する、叱りつける、そういう事に結び付く。もう頭から、その人の考え方、生き方を否定して、怒鳴りつけるのです。相手の価値を認めているならば、相手に間違った事があると考えても、頭から怒鳴りつけるような事はしないでしょう。むしろ、先ず、話し合う筈です。話し合う事によって判り合える、そう考えるからです。しかし、こんな人間には何を言っても無駄だ、話し合いの余地など無い、そう相手を見下した時に、人は頭から怒鳴りつける、そうした事をする。そうした意味の言葉が、ここに用いられているのです。

 つまり、バルティマイを叱りつけた人々、いえ、怒鳴りつけた人々、彼らは、バルティマイに、何らの価値も見出さなかったのです。懸命になって、「私を憐れんで下さい」、そう叫ぶバルティマイに、人々は、主イエスの憐れみを受ける、その価値を見出さなかった。その叫び声に耳を傾けるだけの価値をバルティマイに見出さなかった。そう言って良いのではないでしょうか。

 そう読みます時に、先程、少し触れました「バルティマイ」という彼の名前が、ここにわざわざ記された、その理由が判ってくるようにも思うのです。「バルティマイ」、それは先程も申しましたように、「ティマイの子」という意味の名前です。先程は、そのティマイという名の父親が、エリコの町の著名人であったのではないか、だから、わざわざ、その名前が記されたのではないか、という、そういう説明をしようとする人がいる、と申しました。そのように想像してみる事も、決して誤りではないと思います。しかし、私は、その「ティマイ」という名前に、もう少し注目してみたい、と思うのです。

 この「ティマイ」という名前は、「ティモテオス」という名前の短縮形である、と、今日の多くの学者は考えているようです。「ティモテオス」、その名前の後半の「テオス」という言葉は、「神」を意味致します。では、前半の「ティモ」という言葉は何を意味するかと申しますと、先程申しました「ティマオー」です。「値を付ける」という事です。この場合は、勿論、「高い値を付ける」、「価値有るものとする」、つまりは、「尊敬する」、「崇める」、そうした意味で用いられている、と言って良いでしょう。つまり、「ティモテオス」という名前が意味するのは、「神を崇める者」という事である訳です。「ティマイ」という名前は、その省略形であると言われるのです。

 しかし、ただ「ティマイ」と言った場合、「ティモテオス」という名の後半の部分、即ち、「神」を意味する、その部分の言葉が削られている、とも見る事が出来る。そう見た場合、「ティマイ」という名前が意味致しますのは、「価値有る者」という事でありましょう。そこから更に「バルティマイ」という名前を見直しますならば、「価値有る者の子」、そうした意味にもなる。それは、勿論、親が自分の事を「価値有る者」と見、これは、その「子供」である、という事を言い表した言葉ではありません。「~の子」という言葉は、ユダヤでは、「~の性格を持った者」、「~という性質を持っている者」、そうした事を言い表す時にも用いられるのです。つまりは、「価値有る者の子」、その言葉が意味致しますのは、「これは価値有る者」、「この子は価値が有る人間なのだ」、と、そういう事であると言っても良いでしょう。

 言い替えますならば、そのバルティマイという子供が生まれた時に、その親が、この子は「価値有る者」、本当に私達にとって「価値有る者」、そう考えた。そう考えて、その名を付けた。そう考えても良いように思われるのです。もし、その、目の障碍が、生まれながらのものだと致しますならば、その名前に、どれ程の両親の思いが込められているか、思わざるを得ない。この子は、目が見えない。そうした障碍を抱えている。健常者と同じように働く事は出来ない。でも、この子は、価値が有る存在だ。この子の価値が低いなんて、そんな事はない。この子は掛け替えのない価値を持った人間だ。両親は、そう考えた。そう彼の事を見た。そこで「バルティマイ」という名を付けた。そのように考える事は、想像のし過ぎでありましょうか。

 いえ、いずれにしろ、彼のその名前の中には、「価値」意味する言葉が含まれているのです。神に価値を帰すると言う意味なのか、それとも、この子には価値がある、そういう意味が込められているのか、いずれにしろ、価値という意味を持った言葉が、その名前の中に含まれているのです。そして、その価値を打ち消すかのように、主イエスの憐れみを求めて叫ぶ、彼バルティマイを、人々は叱責するのです。怒鳴りつけるのです。お前は黙っていろ。お前には、イエスに叫び求める価値はない。お前には、イエスの言葉を聞こうとする私達を邪魔するだけの価値は無い。そう言うのです。

 しかし、その時に、主イエスは立ち止まられるのです。主イエスは、彼の叫びを聞き、立ち止まられるのです。そうして、彼を呼ばれるのです。「あの男を呼んで来なさい」、そう言われるのです。この主イエスの言葉は、また興味深いものです。これは、元のギリシャ語の聖書から直訳致しますならば、「あなた方は、彼を呼べ」、あるいは、「あなた方が、彼を呼べ」という言葉です。そこで言われる「あなた方」とは、一体、誰を指した言葉でしょう。他でもない、あのバルティマイを叱りつけた、その人達だと思うのです。

 何故、そう思うのか。それは、可笑しな事を言うようですけれども、主イエスが、わざわざ、バルティマイを御自身の許に、呼び寄せておられるからです。バルティマイは、目が見えないのです。目が見えなくて、座り込んでいるのです。座り込んで、ただ叫ぶ事しか、彼には出来なかった。人の助けなくして、人混みの中を立って歩く事、いえ、人混みの中に分け入って行く事など、彼には出来なかった。恐くて、そんな事は出来なかったのです。その彼の状態を考えますならば、主イエスの方が、彼の方に近付いて行かれても良かったのではないでしょうか。しかし、主イエスは、立ち止まったままでおられるのです。立ち止まったまま、しかも、遠くから大きな声で、「こちらに来なさい」と直接にバルティマイに語り掛けるのではなく、わざわざ、命じられるのです。「あなた方が、彼を呼びなさい」、と。

 主イエスのこの言葉に、人々は、はっとしたのではないでしょうか。バルティマイを価値の無い者と決めつけ、その叫びを無視しようとした、無視し続けた、その誤りに気付かされたのではないでしょうか。そうして、彼らは、バルティマイに言うのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」、と。「安心しなさい」。この言葉は、元々は、「勇気」とか「大胆さ」を言い表す、そうした言葉が変化して出来たものです。ですから、「勇気を持ちなさい」、「大胆でありなさい」、そのようにも翻訳出来る。実際、この同じ言葉が、ヨハネによる福音書16章33節などでは、「勇気を出しなさい」と、そう訳されております。

 尤も、「勇気を出しなさい」という翻訳には、少し問題が有るかも知れません。むしろ、今も申しました通り、「勇気を持ちなさい」、そう翻訳すべきであろうと思います。何が違うかと申しますと、ここで言われる勇気とは、自分の中から出て来るものではない、という事です。「恐くて仕方がなくても、しかし、その恐さの中で、自分の中から懸命になって、勇気を絞り出す」。そんな事が、ここで言われているのではないのです。つまり、勇気の根拠は、自分の中に有るのではない、という事です。「あなたの中には、充分な力があるではないか。立ち上がれるだけの力が有るではないか。だから、勇気を出しなさい」。そういった事が言われているのではない。

 この49節の最後の言葉、「お呼びだ」という言葉は、やはり直訳致しますならば、「彼が、あなたを呼んでいる」、という言葉です。「彼があなたを呼んでいる」。「主イエスがあなたを呼んでいる」。だから大丈夫だ。だから勇気を持ちなさい。そう言うのです。言い替えますならば、「主イエスの許に、あなたが勇気を持って立ち上がる事が出来る、その根拠があるではないか」、そう言っている、そのように言う事も出来るでありましょう。

 「私達は、あなたに価値を見出さなかった。あなたに価値を見出さず、あなたの叫びを無視した。あなたの叫びに耳を塞いだ。しかし、主イエスは、あなたの叫びを聞かれた。主イエスは、あなたの叫び声を無視されなかった。主イエスはあなたに価値を見出した。だから、あなたは何が有っても大丈夫だ。勇気を持ちなさい。勇気を持って立ち上がり、歩み出しなさい」。そう語り掛けている。そう言っても良いように思うのです。そのように語り掛けながら、人々は、バルティマイを助けたのではないでしょうか。

 50節を見てみますと、彼バルティマイは、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスの所に来た」と記されております。先程、申しました通り、「上着を脱ぎ捨て」と訳されているのは、むしろ、「上着を投げ捨てた」、膝の上に広げていた上着、道行く人からお金やパンなどをもらっていた上着、それを投げ捨てた、そういった事を言い表しているのかも知れません。いえ、むしろ、躍り上がるようにして立ち上がった時に、その膝の上に広げていた上着が、弾け跳んだ、そういった状態を言い表しているのかも知れない。意識して投げ捨てた、というよりも、主イエスが呼んでおられる、この自分を呼んでおられる、その事を知った時に、その膝の上に置いていた物を全く忘れてしまい、勢いよく立ち上がった。そうして、地面に散らばってしまったものを惜しんで、また拾い集めようとする事なく、彼は真っ直ぐに主イエスに向けて歩み出した、そういう事が、ここに言われている、そう読んだ方が正しいようにも思うのです。

 主イエスが、バルティマイの叫びを聞き、彼を呼ぶように言われた。その時に、主イエスとバルティマイの間にいた人々は、脇に退き、主イエスとバルティマイの間を遮る人は、誰もいなくなった。その中を、バルティマイは、見えない目で、よろけながらも、人々の見守る中、主イエスに向けて進んで行ったのでありましょう。いえ、あるいは、バルティマイを呼びに行った人々、「安心しなさい。勇気を出しなさい」、そう呼び掛けた人々が、またバルティマイに手を差し出したのかも知れません。勢いよく躍り上がるようにして立ち上がったバルティマイ。目が見えなければ、当然、そのような事をすればふらつく事でありましょう。倒れそうになったかも知れない。その彼を、人々は抱き留めた。抱き留めて、一緒に、主イエスの許へと、みんなで進んで行った。そう考えた方が良いのかも知れません。

 そうして主イエスの許に辿り着いたバルティマイに、主イエスは言われるのです。「何をして欲しいのか」、と。バルティマイは答えます。「先生、目が見えるようになりたいのです」。この言葉を口にした時の、バルティマイの思いは、どのようなものであった事でしょうか。その望みを口にする事が出来た。その願いを、主イエスの御前に出て、口にする事が出来た。どんなに嬉しかった事であろうか、と思うのです。大胆に、勇気を持って、主イエスは、この私の声に耳を傾けて下さる、そう信じて、その思いの丈を口にする事が出来た。「この方は、私を価値のない者とは見做さない。この方は、私を本当に大切な、価値有る者と見て下さる。そうして、この私の叫びに耳を傾け、この私の願いに耳を傾けて下さる」。彼は、その事を知り、それが故に、大胆に勇気を持って、主イエスに全ての思いを吐き出す事が出来た。主イエスに全ての思いをぶつける事が出来た。その時の彼の喜びが如何ほどのものであった事か、思わさせられるのです。

 そして、主イエスは言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」、と。主イエスは言われるのです。「行きなさい」、と。あなたは、もう一人で歩ける。一人で自由に歩く事が出来る。あなたの信仰があなたを救っている。主イエスは、そう言われるのです。あなたは、この私が、あなたの事を掛け替えのない、大切な人間と見、あなたの声に耳を傾け、必ず、あなたを救う事を信じた。その信仰によって、あなたは、もう恐れる事はない。一人で立って、一人で自由に生きる事が出来る。どんな時にも、あなたは立つ事が出来る。どんな時にも、あなたは生きる事が出来る。「さあ、だから、あなたは行きなさい」。主イエスは、そう言われるのです。

 しかし、どこに行けと言われるのでしょう。ここで目を向けるべきは、以前、学びました、あの一人の財産を持った男性に、主イエスが言われた言葉です。このマルコによる福音書の10章21節に、こう記されています。「行って、持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」。「それから私に従いなさい」。その所に於いて主イエスが言われた「行って」という言葉、その言葉と、この52節で「行きなさい」と訳されている言葉、これは同じものです。以前、その21節を学びました時に申しましたけれども、これはただ「行く」事を意味する、そんな言葉ではありません。「下に行く」、「下に持って行く」、そういった意味を持った言葉であるのです。

 財産を持った男性に対して、主イエスは、その財産を売り払い、それを持って、自分より下にいると思われる人、そういった人の許に赴きなさい、と教えられました。貧しさの中、貧困の中にある人、それこそ物乞いをしなければ生きて行けない、そうした貧しさの中にある人、そのような、あなたが今まで目を向けて来なかった人々、あなたが今まで目を向ける価値など無いと思っていた人々、その人々の許に行きなさい。そうして、あなたの持ち物を分け合いなさい。そう教えられた。バルティマイの場合には、元々、持ち物など有りません。彼自身が物乞いであったのです。ですから、彼には、勿論、持ち物を売り払って貧しい人々に与えなさい、などという事は言われません。しかし、また、同時に、あなたは今や、一人で生きて行ける。一人で生きて行けるのだから、一人で生きて行け。そうも言われないのです。一人で生きて行ける、その自由を以て、あなたも下へ向けて歩み出しなさい、主イエスは、そう言われるのです。

 今や、あなたの下にいると思われる人がいるではないか。あなたは今や、見えるようになった。しかし、今なお、目が見えず、あなたが今まで苦しんできた、その苦しみに生き続けている人がいる。あなたは今や、救いを得た。しかし、未だ、救いを知らず、自分の価値を知らず、自分が愛されている事を知らず、苦しみ、悲しんで、暗闇の中を生きている人がいる。その人達の許に行きなさい。その人達の傍らに赴きなさい。今あなたの持っている喜び、今あなたの持っている慰め、今あなたの持っている救い、それを持って行きなさい。そのようにして、この私に従う者となりなさい。主イエスは、そう言われるのです。

 そこで、最後に目を向けたいのが、52節の終わりの言葉です。「なお道を進まれるイエスに従った」。この最後の「従った」という言葉は、先の21節の主イエスの言葉、「私に従いなさい」という言葉と同じ言葉です。あの財産を持った男性は、主イエスから、こう語りかけられ、しかし、それが出来ませんでした。その財産を手放す事が出来ず、主イエスに従う事が出来なかった。しかし、バルティマイは、「従った」と言うのです。「なお道を進まれるイエスに従った」、と言うのです。そこで言われる「道」とは、十字架に到る道です。主イエスが、御自身の命を、私達を救う為の身代金として、投げ出して下さった。あの十字架に到る道です。

 この私達は、皆、罪の支配下に落ち、罪を犯さずには生きられない者となっている。そうして、罪の結果としての滅びを逃れられない者となっている。しかし、主イエスは、その私達を救うために、御自身を差し出された。神の御子として、罪を犯す事なく、完全に父なる神の御心に自分を委ね、義に生きられた、その主イエスが、その御自身の命を、この私達を滅びから救い出す、その代償として差し出された。それが、あの十字架の出来事です。あの十字架に於いて起こった出来事です。その十字架に到る道、その道に、バルティマイは従って行った、と言うのです。それは、勿論、バルティマイも主イエスと共に十字架にかかって死んだ、などという事ではありません。勿論、そんな事ではない。

 しかし、こういう事は言えるのではないでしょうか。彼は、十字架に向かう主イエスに従い、十字架にかけられた主イエスを見た。そうして、彼が主イエスに対して叫んだ、その叫びを越える叫びを、主イエスが叫ばれるのを聞いたのです。あの主イエスの十字架上の絶叫を、彼は聞いた。バルティマイの叫びは、主イエスによって聴かれたのです。その願いは、主イエスによって聞き届けられたのです。しかし、主イエスの叫びは、聴かれなかった。バルティマイの叫びを聴き、彼の目を癒し給うた神の御子、主イエス。他でもないその主イエスの叫びは、しかし、聴かれなかったのです。その聴かれない主イエスの叫びに、主イエスの苦しみに、主イエスの死に、彼バルティマイは、一体、何を見たのでしょう。彼は、そこに何を見出したのでしょう。最も低く、誰よりも下に、最低、最悪のところにまで降られた神の御子の姿を見た。その価値を徹底的に否定され、苦しみの極み、孤独の極み、地獄にまで投げ捨てられ給う神の御子の姿を見た。そう言って良いのではないでしょうか。

 何故、主イエスが、そのような死を、そのような苦しみを受けなければならなかったのでしょうか。この私達を救う為にです。あなたを救う為にです。あなたを愛する、その愛の故にです。あなたに、「あなたは価値がある」、そう言って下さる為にです。主イエスは、この私達を救う為に、御自身の生命を身代金として支払われたのです。「それだけの価値が、あなたには有るのだ」、主イエスは、自らの生命を投げ出して、そう教えて下さったのです。「他の誰が、『お前には価値など無い』と、そう言おうとも、いや、あなた自身が、自分の中に生きる価値を見出せなくなったとしても、私は言う。あなたには価値がある。あなたは私の目に、高価で尊いものなのだ。私はあなたの為に生命を棄てる」。主イエスは、そう言って下さるのです。そう言って、十字架の上で、その生命を差し出して下さるのです。

 その主イエスの愛の許に、この何があろうとも決して変わる事のない愛の中に、バルティマイは自分が生かされている事を知った。そこに、確かに、生かされている事を知った。そうして彼は、勇気を持って、大胆に、「下に行きなさい」との主イエスの御言葉に生き始めたのではないか。主イエスが教えられたように、自分の負うべき十字架を負って主イエスに従う、その歩みに彼は踏み出したのではないか。そう思うのです。そして、その事をマルコは知って、こう最後に書き記したのではないかと思う。「彼は見えるようになり、そして彼に従って行った。その道の中を」、と。「その道の中を、彼は主イエスに従って行った、どこまでも従って行った」、そうマルコは書き記したのです。この後のバルティマイの生涯が、この言葉に表現され尽くしている、そう言って良いように思うのです。そして、また、そのバルティマイの中に、この私達の姿が映し込まれている、そう言っても良いように思うのです。

 本日の説教題を、「主があなたを呼んでおられる」とつけさせて頂きました。主イエスは、バルティマイだけではない。「あなた」を呼んでおられるのです。バルティマイの物語は、また、あなたの物語、私の物語でもあるのです。主イエスは、「あなた」を価値有る者と見、「あなた」の為に、その生命を投げ出されたのです。その事を知る心の目を、主が、今日、開いて下さる事を祈りたいと思う。そうして、私達の生涯も、「その道の中を、彼は主イエスに従って行った、どこまでも従って行った」という、そのようなものとなるように祈りたいと思う。いえ、主が、そのようなものとなして下さるように祈りたい、と思うのです。祈祷致します。

 

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