「あなたの敵を愛しなさい」

 先週の説教の中でも申しましたように、先週に引き続きまして、また、この主日も、『ルカによる福音書』の6章27節から36節までに記されている主イエスの御言葉に聴き、学びたい、と思います。

 ところで、その先週の説教に於いて、申した事でありますけれども、ここに記されております主イエスの御言葉は、誠に具体的な、と申しますか、あるいは、現実的な、と言ったら良いでしょうか、そうした状況に向けて語られたものであります。つまり、主イエスを救い主、キリストと信じ、主イエスに従い、主イエスの教えに従って生きる者となった人達、即ち「キリスト者達」は、この『新約聖書』に収められております『使徒言行録』の記述を見ても判りますように、主イエスの昇天後、人々の敵意の下に置かれ、迫害を受ける事となったのです。その迫害はユダヤ教徒によって始まり、更には、全ローマ帝国がローマ皇帝の命令の下、施行するものともなりました。この『ルカによる福音書』が書き記された当時も、そうした迫害が、キリスト者達に加えられていた、とも考えられます。

 この27節に、「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい」という御言葉が有ります。その中の、「敵を愛し」と訳されております言葉、これは、元のギリシャ語の記述から直訳致しますと、「『あなた方の』敵を愛しなさい」となります。ただ単に、一般的に、あるいは仮想的に、「敵」というものを頭の中に思い描いて、その「敵を愛しなさい」というのではないのです。そうではなくて、誠に具体的に、「『あなた方の』敵を愛しなさい」と言われている。

 また、その中の「敵」という言葉、この言葉は、より詳しく申しますと、「敵意を持つ者達、敵対する者達」という、そういう意味を持った言葉であるのです。つまり、主イエスが、ここに於いて語り掛けている人々、主イエスの弟子となり、主イエスに従おうとしている人達に対して、「敵意を持つ者達」が現れる事となる、その事を主イエスは御存知であられ、それが故に、その御自身の弟子達に対して語られたのであります。

 「あなた方に敵意を持つ者達を愛しなさい」、と。そして、「あなた方を憎む者に親切にしなさい」、と。

 そして、正に、その主イエスの御言葉のままに、やがて、主イエスの弟子達の前には、迫害者達が立ちふさがったのです。主イエスの弟子達、キリスト者達に対して、敵意を抱き、憎しみを抱き、呪いの言葉を吐き、罵る人達が現れた。ここに主イエスの語られた事は、現実の事となったのです。そして、その当時のキリスト者達は、また、正に現実の問題として、ここに記されている主イエスの御言葉を受け止めたのであります。

 その事を、先ず、私達は、しっかりと頭に刻みつけておかなければならない、そう思うのです。何故なら、やはり、先週も申しましたように、私達は、「敵を愛せ」などという言葉を聞きますと、あたかも、その御言葉を、現実から遠く離れた、一つの理想論とでも申しますか、絵空事のように聞いてしまう。そして、聞き流してしまう。そういう事が有るように思わさせられるからであります。

 この教会堂の中にいる間は、まだ、「そのような教えを主イエスは語られたなぁ」という記憶が残っていたに致しましても、一歩、この教会堂を後に致しますと、もう、そこは、聖書の御言葉が語る理想的な世界とは違う「現実の世界」である、とでも言うかのように、その教えを捨て去ってしまう。ここに教えられている事は、「現実の、この世界に於いて為される日常の生活に於いては、全く通用しない、非現実的な理想論に過ぎない」、とでも言うかのように、一歩、この教会堂を後に致しますと、もう、その教えを捨て去ってしまう。頭の中から消し去り、忘れ去ってしまう。そういう事が有るのではないか、と思わさせられるのです。

 しかし、この時、主イエスの御言葉を聴き、主イエスに従った主イエスの弟子達にとって、あるいはまた、この『ルカによる福音書』を最初に読んだ教会の人達にとりましては、自分達に敵意を抱き、憎しみを抱き、悪口を言い、呪いの言葉を吐き、侮辱し、脅迫する、そうした人々の存在こそが現実であり、その現実の中でこそ、「あなた方の敵意を持つ者達を愛しなさい。あなた方を憎む者達に親切にしなさい。あなた方を呪う者達を祝福しなさい。あなた方を脅迫する者達の為に祈りなさい」、そう語られる主イエスの御言葉を聴き続けたのであります。

 ですから、この29節には、このように書き記されているのです。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」。この主イエスの御言葉を、『マタイによる福音書』、即ち、ユダヤ人に向けて記された『福音書』と言われる『マタイによる福音書』は、こう書き記しております。「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。『ルカによる福音書』は、ただ「頬を打つ」としか記しておりませんけれども、『マタイによる福音書』は、「右の頬を打つ」と、どちらの頬が打ち叩かれるのか、その事を細かに記している。

 何故、「右の頬」なのでしょう。それは、ユダヤの風習を知れば判って参ります。ユダヤの人は、その打ち叩く相手に対して、ひどい侮辱を与えようと致します時に、右手の甲でもって、右から左になぎ払うようにして、その相手の右の頬を叩いたのです。ただ単に、喧嘩などの際に、怒りに任せて相手を殴る、というのではないのです。そのような時には、手の甲を使って、相手を叩くなどという事はしない。右利きでありますならば、その右手の拳でもって、相手の左の頬を殴りつける。その打撃は強烈であるかも知れません。しかし、そうした殴り合いの喧嘩をするという事は、自分と、その相手とを同等の者と見なしている事を表している、とも言う事が出来るでありましょう。そこに「怒り」は有りましても、蔑みの思いは無いのです。

 それに対しまして、右手の甲で相手の右の頬を叩くという行為は、痛みとしては、拳骨で殴られるよりも弱いかも知れません。しかし、それは、相手に対する侮蔑の気持ちを表す行為と見なされていたのです。その相手は、見下げ果てた存在であり、殴り合いの喧嘩をするにも値しない。そうした事を言い表す時に、右手の甲で相手の右の頬を叩くという事をした。そのようにして右の頬を叩かれ、軽蔑の思いを表された人は、拳で殴られるよりも、ずっと強い屈辱の気持ちを味わった事でありましょう。ですから、当時のユダヤの法律に於きましては、故なく、右の頬を叩いた人は、左の頬を拳骨で殴った場合よりも、倍額の賠償金を支払うよう命じられてもおりました。

 そのようなユダヤの習慣というものを念頭に置いていたからこそ、ユダヤ人に宛てて書かれた『マタイによる福音書』は、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と、そのように主イエスの御言葉を書き記したのでしょう。実際、ユダヤに在っては、許され難い異端と見なされたキリスト教徒達は、右手の甲で右の頬を打たれる、という辱めを、幾度も受けたのではないでしょうか。ですから、『マタイによる福音書』の著者は、「右の頬を打たれるという最大の屈辱を受けても、それに仕返しをしようなどと考えるな。そうではなくて、その侮辱を赦し、それを黙って受け止め、なお反対側の頬をも向けてあげなさい」、そう主イエスは語られた、と書き記したのです。

 それに対しまして、この『ルカによる福音書』は、ローマ人を初めとするローマ帝国に居住する様々な異邦人達が集まっていた、そうした教会に於いて書かれた『福音書』であります。ですから、「右手の甲で相手の右の頬を叩く事が最大の侮辱を意味する」などという事を、その最初の読者達は知りません。彼らと致しましては、手の甲で叩かれるよりも、むしろ、より痛みも有れば打撲の傷もより深いものとなる、拳骨で殴られる事の方が、より厭うべき事柄であった事でしょう。そうして、実際、ローマの役人などは、キリスト者達を捕まえますと、右の頬であろうと左の頬であろうと関係なく拳骨で打ち叩く、そういう事をしたように思われます。

 この『ルカによる福音書』の著者も、そのように自分の信仰の仲間が打ち叩かれている迫害の現場を、見た事が有ったかも知れませんし、自分自身、そのような目に遭った事が有ったかも知れません。また、この『福音書』の最初の読者達も、そうした経験を持っていたかも知れません。それは判りませんけれども、とにかく一つ言えます事は、ここに記されている事は、当時の、この『福音書』、この『ルカによる福音書』の最初の読者達にとりましては、架空の事柄などではなかった、という事であります。

 そこでまた、続けて記されている29節の御言葉に目を向けて見ますと、こう有ります。「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」。この記述も、『マタイによる福音書』とは異なっております。『マタイによる福音書』は、こう記すのです。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。『ルカ』が、「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」と記している主イエスの御言葉を、『マタイ』は、「下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」と書き記しているのです。

 何故、「上着」と「下着」が、逆になっているのか。その答えは、『マタイによる福音書』が記している「あなたを訴えて」という言葉に示されています。つまり、これは、裁判を想定した言葉であると考えられる。

 例えば、先に、「貧しい人々は幸いである」という主イエスの祝福の御言葉について学びました時に申しましたけれども、当時のユダヤのキリスト者達の多くは、実際、貧しかった、と考えられます。この時、主イエスによって病を癒され、そうして主イエスを信じた人達などは、その闘病生活を続けて来た間に、ほとんどの財産を失っていたと思われますし、そうでない主イエスの弟子達も、ユダヤ社会の中に在って、迫害を受けるような生活を送る内に、皆、財産を失って行くような事となったように思われます。

 いえ、『使徒言行録』の記述を見ますならば、財産を有していたキリスト者は、その財産を同じ教会に連なる貧しい人達と分かち合うような事をしたようでありますし、また、そうした中で、逆に、主イエスを信じる信仰を本当には持っていなくても、「教会にさえ行けば、食べ物を分けてもらえる」と、日々の食べ物にさえ窮していたような極貧の人達が、教会になだれ込むようにして入って来たというような事も起こっていたようです。そのような事ともなれば、やがては、その教会内に豊かな人など一人もいなくなってしまった事でありましょう。そして、貧しくなれば、時には、借財をする、借金をする、という事も起こって来たように思います。

 しかし、借金をするにも、担保とする物が無い。そのような場合には、着ている服が担保とされました。当時のユダヤの人達も、勿論、今日、私達が身に付けている物とは、大分、異なりますけれども、下着と上着を着ていたようです。その上着が、担保とされ、お金が貸し出されるという事も有ったのであります。けれども、そこで面白い事に、ユダヤに在りましては、上着を担保として取った場合、その上着は、夜になる迄に、服を担保に借金をした人に返却されねばならない、と定められていたのです。

 何故なら、ユダヤの気候と言いますものは、日中は強烈な陽射しが有って暑い程であっても、太陽が沈み、夜となりますと、急激に冷える。とても下着だけでなど寝られるものではないのです。そのような事をすれば、風邪をひくだの、病気になる事も有るでしょうし、悪くすれば、凍え死んでしまう事も有るでしょう。ですから、律法に、こう定められた。『旧約聖書』の中の『申命記』、その24章12節以下をお読み致します。

 「もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま、床に就いてはならない。日没には必ず、担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝る事が出来、あなたを祝福するであろう。あなたは、あなたの神、主の御前に報いを受けるであろう」。

 つまり、厚手の上着は、夜、寝る時に、ふとん代わりとなったのです。それにくるまって寝れば、寒い夜をも、何とかしのぐ事が出来た。それだから、貧しい人が借金をし、その担保として服を差し出した場合には、日没前に、それを返してやりなさい、と命じられたのです。

 けれども、この律法は、「下着」を返す事は命じておりません。「上着を返しなさい」という命令の中に、もう既に、下着をも返す事は当然の事として含まれていたのかも知れませんし、そもそも、下着をまで借財の担保とする、などという事は、想定されてさえいなかったのかも知れませんけれども、いずれに致しましても、「下着を返す」という事は明言されていない。そこで、「法の網をかいくぐる」とでも申しましょうか、貧しいキリスト者が、自分の服を担保に借金をして行った場合、「日没前に、上着を返してやる」という事はしましても、しかし、「その代わりに、下着は取る」というような事が行われるようになってしまったのではないでしょうか。

 貧しいキリスト者が、生活に困り、やはり、自分の服を担保にお金を借りた、と致します。しかし、そのお金を返す事が出来ない。キリスト者であるからという理由で、仕事を得る事が出来ないなどという事も有ったでしょうし、その他の理由も有ったかも知れませんけれども、とにかく、借りたお金を返せない。そうなりますと、お金を貸した側は、法廷に訴え出るのです。そうして、「担保として、お前は自分の服を約束した。上着は、律法の命令からして、日没時には返す事にするけれども、しかし、下着は、こちらに寄こしなさい」、そう要求する。

 そのような時です。そのような時に、この『マタイによる福音書』の言葉は語るのです。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」、と。「お金を貸した人が要求する下着ばかりではなく、当然の権利として、返却され、自分の物とする事が認められていた上着をも、差し出しなさい」、そのように命じるのです。

 何故、そこまでしなければならないのか。この主イエスの御言葉の背後に考えられますのも、迫害です。『マタイによる福音書』が記された当時のユダヤに住むキリスト教徒達の多くは、本当に貧しさの中に置かれていたのでしょう。そうして、そのキリスト教徒達に対して、良からぬ思いを抱いていたユダヤの人達は、そうした貧しさに苦しむキリスト教徒達を助けようとは、勿論、考えなかった。同じユダヤ教徒でありますならば、時には、援助のお金を差し出したりする事は有っても、しかし、キリスト者達を助けようとはしなかった。そして、キリスト者達が、借金を申し出て来た時には、お金は、確かに、貸してあげるのです。しかし、その後、誠に厳しい取り立てをした。ユダヤの律法に従い、「担保の上着は返して」も、その代わりに、下着を要求するような、非道とも言えるような取り立てをした。つまりは、それも、迫害の一つの姿であったのです。

 しかし、その迫害の中で、キリスト者は、どのように振る舞うべきであるか。「『上着を返しなさい』という律法の定めは、その前に、当然の事として、『借金の担保として下着を要求する』などというような事を禁じている筈である」、と、法廷に於いて議論する事も出来るかも知れません。「どうして、上着でさえ、返すように言われているのに、下着を求める、などという非道な事が許されるか」と、法廷で論じる事も出来たかも知れない。しかし、主イエスの御言葉は、それを禁じるのです。それどころか、当然の所有権が認められている「上着」をさえ、「差し出しなさい」と言われる。

 それはつまり、そのユダヤの人々による迫害を、嫌がらせを、黙って受け止めなさい、という事であります。ただ単に、「迫害を受け止める」、「迫害に耐える」と言いますよりも、むしろ、「こちらから、更に自分に出来る事を相手にしてあげる」。つまり、その場に於いて、自分に対して憎しみを向け、嫌がらせを仕掛けてくる相手に対して、愛を示しなさい、という事でありましょう。

 そのような『マタイによる福音書』の記述に対しまして、この『ルカによる福音書』は、「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」と書き記すのです。「上着」と「下着」が逆になっている。これは何故か、と申しますならば、やはり、「頬を打ち叩かれる」場合と同じです。

 この『ルカによる福音書』の著者や、その最初の読者達が暮らしていたローマ世界に在っては、ユダヤのように、「上着だけは、何が有ろうとも、人が生きて行く為の最低の条件として、その所有権が認められなければならない」などという、そうした決まりなど在りませんでした。また、法廷に訴えて服を奪い取るなどということも、そうそう起こる事では無かったように思います。それよりも、より直接的に、「あれは憎むべきキリスト教徒だ」という偏見の下、ローマ世界に在っては、キリスト者が襲われる、という事が、しばしば起こったように考えられます。

 道を歩いておりますと、幾人かの人に取り囲まれ、嘲られ、袋叩きにされるなどという、そのような目にも遭う事が有ったのではないでしょうか。そうして、金目の物を持っていたならば、それを強奪される。何も金目の物を持っていなければ、それなりの金額で売れた上着をひっぺがし、それを持って行く、という事が行われた。そのような事が行われれば、普通でありますならば、抵抗も致しますし、後になって、その強奪をした相手が判れば、取られた物を取り返そう、とも考えるものでありましょう。何よりも、先ず、そうした事をして来る相手に対して、怒りと憎しみを感じるものなのではないでしょうか。

 しかし、そのような場に在って、この主イエスの御言葉が語られ、聴かれたのです。「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」。つまり、やはり、その迫害を、そのままに受け止めなさい、という事であります。いえ、「そのままに」どころか、むしろ、相手が強奪しようとする物を越えて、それ以上の物をも差し出しなさい、と言うのであります。つまり、ただ被害に遭って、それを耐え忍ぶというのではなく、その被害を与える相手、その加害者に対して、愛を与えなさい、と言うのであります。

 先程から、繰り返して申しておりますように、実際に、そうした強奪を受けるような状況の中に生きている、そのような教会の中で、この主イエスの御言葉は記され、そして読まれて来たのです。絵空事などではない。机上の空論なんかではない。非現実的な理想論なんかではないのであります。現実の中で、この御言葉は読まれ、そして、この御言葉に、当時のキリスト者達は生きたのです。その為にこそ、『マタイによる福音書』は『マタイによる福音書』の記されたユダヤの状況に合わせ、また『ルカによる福音書』は『ルカによる福音書』の記されたローマ社会の状況に合わせて、主イエスの御言葉を「訳し直す」ような事さえされているのです。

 しかし、何故、そこまでして、私達キリスト者は、「敵を愛さなければならない」のでありましょうか。「敵を愛する」事を命じられているのでありましょうか。この32節には、このような主イエスの御言葉が書き記されております。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方に、どんな恵みが在ろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している」。この御言葉を、また主イエスは、33節、34節に於いて、別の表現、より具体的な表現をも用いて、繰り返し、言い換えておられる、と言って良いでしょう。

 ところで、その主イエスの御言葉を、きちんと読む為には、そこに繰り返される「罪人」という言葉について、説明をしなければならないでありましょう。ここで「罪人」と言われておりますのは、何らかの、謂ゆる「犯罪」を犯した人、という事ではありません。むしろ、ここで「罪」と言われている言葉の、その根源的な意味にまで立ち返って考えた方が良いかも知れません。その「根源的な意味」とは、「的を外す」という事であります。

 この日本にも弓道というものがありますし、それ程、本格的でなくとも、例えば、温泉街などに参りますと、弓を射るような遊技場が有ったりも致します。その的を思い起こして頂くと良いでしょう。一番、真ん中に、白く塗られた丸があり、その周りに、黒い帯の円があり、更に、その外側には、白い帯の円が描かれている。そうして、黒の円と白の円とが交互に繰り返されて描かれるのです。言葉で説明しようとすると、少々、難しいですが、恐らく、皆さん、頭の中に、弓道で用いる「的」を思い描けて頂けたか、と思います。

 とにかく、その「的」に向けて矢を射まして、そうして、その真ん中にあります白い丸に命中すれば、「的中」という事になるのでありましょう。正に、「的を射る」のであります。それに対しまして、ここで「罪」と訳されている言葉が元々、意味致しました「的を外す」と言いますのは、「射抜くべき的を外してしまう」という事であり、本来、真ん中に行くべき物が、真ん中に行かない事である、という事であります。聖書は、そのような言葉遣いでもって、神さまと人間との関係を言い表すのです。

 つまり、私達人間は、神さまをこそ中心にして生きるように創られたのであり、そう生きるべきであるのです。しかし、そう生きていない。神さまを中心にしようとしないで、自分をこそ、中心にして生きようとしてしまう。神さまに創られた存在である私達人間は、神さまを中心とし、神さまの御心をこそ中心として生きるべきであるのに、そうしないで、自分を中心とし、「自分が何をしたいか」、「自分がどう在りたいか」、自分の事ばかりを考えて生きるようになってしまった。中心が狂って来てしまったのです。それが、つまり、「的を外す」事、聖書に於いて、「罪」と呼ばれている事柄なのであります。

 より簡単に言い替えますならば、神さま無しに生きている事である、と言っても良いでしょう。神さまこそが、この私達をお造りになり、神さまこそが、私達の「主」である事を知らないのです。それを認めようとしないのです。ですから、自分が「主」になってしまって、常に、自分を中心に物事を考えようとする。「自分」が何をしたいか。「自分」は何を望んでいるのか。「自分」はどう感じ、「自分」はどう思うのか。自分ばかりを巡ってしか、物事を考えられない。

 そのような「神さま無しに生きているような人達」と申しますのは、当時のローマ世界に在りましては、つまりは、普通の人達です。一般の人達です。そのような人達でさえ、自分を愛してくれる人を愛している。

 「それならば、この私を通して神さまを知ったあなた方は、勿論、それとは別の愛に生きている筈である」、主イエスは、そう、ここに語っておられるのではないでしょうか。そうして、その「別の愛」というのは、「自分を愛してくれる人を愛する」というに留まらず、更に、「自分を愛してくれない人を愛する」、「自分に敵意を抱いている人をも愛する」という、そういう事になるのではないか、と、主イエスは、ここに語っておられるのではないでしょうか。

 そこで、また目を向けたく思いますのは、ここに繰り返されております、「どんな恵みがあろうか」という言葉であります。通常、この言葉は、「どんな恵みが、神さまから与えられるだろうか」という意味に採られているように思います。つまり、この32節の御言葉から申しますと、「自分を愛してくれる人を愛したところで、その報いとして、どんな恵みが、神さまから与えられると言うのか」と、そのように読むのです。しかし、ここに於いて、果たして、主イエスは、「報い」としての「恵み」についてなど、語っておられるのでしょうか。

 そのような疑問を起こさせますのは、何よりも、ここに用いられている動詞の時勢にあります。「時勢」と申しますのは、要するに、「過去」か「現在」か「未来」かという事でありますけれども、もし、ここで主イエスの語っておられますのが、「報いとして与えられる恵み」であると致しますならば、ここで用いられる動詞は、未来形になる筈であります。つまり、「今、ここに於ける生活に於いて、あなたは、このような愛に生きたから、あなたは、やがて、神さまから恵みを受ける事となる」と、そのように、未来の事として、「恵み」が語られる筈なのです。

 しかし、実際は、そうではありません。この『ルカによる福音書』の著者は、この文章を現在形で書き記しているのです。その事が言い表しておりますのは、神さまの「恵み」は、「もう既に、ここに在る」という事であります。「あなた方には、恵みが既に与えられている」、そう主イエスは言われるのです。

 そして、「もし、あなた方が、『自分を愛してくれる人を愛する』だけの愛に生きているとするならば、あなた方に与えられている筈の神さまの恵みは、どうしてしまったのか。一体、あの恵みは、どこに行ってしまったのか」、そう主イエスは問われるのであります。「あなた方には、神さまの恵みが与えられている。その事をあなた方は知っている筈である。それなのに、そのあなた方が、『自分を愛してくれる人を愛する』という、神さまを知らず、神さま無しに生きている人達と同じ愛にしか生きていないとするならば、あなた方に与えられている筈の、あの神さまの恵みは、一体、どこに行ってしまったのか」、そう主イエスは問われるのです。

 それでは、その「神さまの恵み」とは何か、と申しますならば、それは、神さまの御救いであります。この時、直接、主イエスから語り掛けられた人達には、その事は、あるいは、良く判らなかったかも知れません。主イエスによって病を癒して頂いた民衆は、その病の癒しという「救い」を恵みとして、ただ思ったかも知れない。あるいは、主イエスが、御自身のはらわたがねじ切れるような痛みをさえ感じて、病気を病む人々の苦しみをご覧下さり、そうして、どんなに疲れ果てようとも、しかし、その人々の癒しの為に働き続けられた事を、『マタイによる福音書』などは書き記しておりますけれども、その主イエスの憐れみを、この時、主イエスの御前に集まっていた、主イエスによって病を癒された民衆も、感じ取っていたかも知れません。そうして、その主イエスの人々に対する憐れみ、どこまでも、その苦しみを共にしようとされる、その主イエスの憐れみが、どこに行き着くのか、予感した人も、もしかしたら居るかも知れない。

 いえ、誰一人、それを予感せず、理解しなかった、と致しましても、主イエスの、その憐れみは、あの十字架へと至るのです。主イエスの、私達人間と、どこまでも共に在ろうとする、その憐れみは、この私達の罪を、私達に代わって担い、私達の代わりに裁きを受けて、私達の為に死ぬ、という、あの十字架の死へと至るのであります。そうして、その主イエスの死によってこそ、この私達に救いが与えられたのです。

 神さまによって創られた者にして、神さまのものである私達が、しかし、その神さまを認めようとせず、神さまを御心を思わず、神さまの御心である「愛」に生きようとせず、ただ自分の為に、自分の事ばかりを考えて生きて来た。その私達の生き様は、私達が神さまによって創られた、その創造の意図から、全く外れたものであり、それが故に、私達は、存在の理由を失った、と言っても良いでしょう。つまりは、私達は、滅ぼされるべき者となったのです。いえ、そのような簡単な事ではない。私達は、その自ら犯す罪によって、自分自身を汚し続けた。その汚れは、滅ぼされるべきものであるのです。滅却させられるべきものであるのです。

 しかし、そのような罪に汚れた私達人間を、神さまは憐れんで下さったのです。愛して下さったのです。そうして、救おうと意志して下さった。その神さまの御意志のままに、主イエスは、私達の許に来て下さったのです。神さまの御子、神さまの独り子であられながら、私達と同じ一人の人間となり、私達と、共に生きる者となって下さった。そして、この私達の罪、汚れ、それを、私達に代わって、一身に担って、裁きを受け、父なる神さまにさえ捨てられて、地獄に投げ込まれて下さった。ただ、その事の為に、主イエスは、私達の許に来て下さったのです。

 そのような「恵み」が、ここに与えられている事を、主イエスが直接、語り掛けられた民衆や弟子達は、その時には、悟る事は出来なかったかも知れません。いえ、悟る事が出来なかった事でありましょう。しかし、主イエスの死と復活、そして昇天の後に、彼らは、その事を知った。誰よりも、この『ルカによる福音書』の最初の読者であった、当時の教会の人達は、その「自分達に既に今、与えられている『恵み』」を知っていた筈であります。そして、その後の、この『福音書』の読者も、その「恵み」を知っている。私達も、その「恵み」を知っているのであります。

 「その『恵み』を知っているあなた方が、どうして、神さまを知らずに、神さま無しに生きている人達と、同じような愛、『自分を愛してくれる人をしか愛さないような愛』にだけ、なお生き続けようと言うのか」、主イエスは、この御言葉に於いて、そう問い掛けておられる。そう言って良いように思うのであります。

 この35節の後半から記されている主イエスの御言葉が、それを明らかに致しております。つまり、主イエスは言われるのです。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」、と。

 ここに言われる「恩を知らない者」、そして「悪人」。これらの人について、「それは誰を指しているのだろうと考えている内は、この主イエスの御言葉は判らない」と、或る人は記しておりました。つまり、それらの言葉が言い表しておりますのは、この私達です。私達自身です。

 この神さまの恩を知らず、悪に生きている私達。つまりは、神さまを中心にして生きようとしないで、ただ、自分の思いのままに生きようとしている私達。神さまから、どれ程、愛されていても、その愛を知らず、その愛を認めようとせず、神さまに「敵対」するような生き方をし続けて来た私達。私達に救いを与える為に来られた神さまの御子をさえも、それと認めようとせず、嘲り、叩き、裸にし、十字架につけ、殺すような事をした私達。

 この私達を、しかし、神さまは憐れみ、赦し、なお愛して下さったのです。愛し続けて下さっているのです。そうして、御子の命を、私達の罪の贖い代として、私達を救うという「恵み」を与えて下さった。

 その神さまの情け深く、私達を受け止めて下さる事を思う時に、また、私達も、ただ自分を愛してくれている人に愛し返すだけではない。そこから、一歩を踏み出すのです。この自分に愛を与えてくれない。愛を求めても、それを与えてくれない人に、しかし、愛を示す。愛に生きようとする。その一歩を踏み出すのであります。それが、この私達、父なる神さまの憐れみと、その御子、主イエス・キリストの愛によって、罪を赦され、滅びから救い出された私達の生きるべき、在りようなのではないでしょうか。主イエスは、その事を、ここに私達に対して、訴え掛けておられるのではないでしょうか。

 それは、単なる理想論でありましょうか。単なる、絵空事でありましょうか。先にも申しましたように、この『福音書』が書き記された当時のキリスト者は、この御言葉に生きたのです。いえ、そんなに遠い過去の事ばかりではない。今日に至るまで、綿々と、この御言葉に生きた人達がいた。現代に生きるキリスト者達の中にも、この御言葉に生きる人達がいる。それは、私達とは無縁な、私達から懸け離れた人達なのでしょうか。私達には生き得ない理想に生きている、そういう人達であるのでしょうか。

 最後に、ルーサー・キング牧師の言葉を御一緒に聴きたい、と思います。ほんの三十数年前まで、この私達が生きる世界、この同じ世界に生きていた一人の牧師、一人のキリスト者の言葉です。主イエスの御言葉を説き、「頬を打つ者に、もう一方の頬を向ける」生き方を選び取り、そして殺された一人のキリスト者の言葉です。お聴き下さい。

 「我々を刑務所に放り込むがよい、それでも我々はあなた方を愛するであろう。我々の家庭に爆弾を投げ、我々の子供らをおどすがいい、それでも我々は、なお、あなた方を愛するであろう。覆面をした暴徒共を真夜中に我々の社会に送り込み、我々を打って半殺しにするがいい、それでも我々は、なお、あなた方を愛するであろう」。

 祈祷致します。

 

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