── 主よ,いつまでなのでしょう! ──
詩編6:1~11
只今お読み致しました『詩編』の4節に,このような言葉が記されております。「主よ,いつまでなのでしょう」。この同じ言葉を,かつて多くの教会で用いられていた古い『口語訳聖書』は,このように翻訳致しておりました。「主よ,あなたはいつまでお怒りになるのですか」。
この翻訳には,翻訳者の付け加えた言葉が含まれております。それは,「お怒りになるのですか」という言葉です。この『旧約聖書』が記された元々のヘブライ語の『聖書』には,そのような言葉は記されておりません。ただ,こう記されているだけであります。語順もそのままに申しますと。「それなのに,あなたは,ヤーウェよ,いつまで」。
「ヤーウェ」というのは,勿論,神様の御名であります。古来,イスラエルでは,「神の名をみだりに唱えてはならない」という『十戒』の戒めに基づいて,この言葉をそのまま唱えることをせず,ヘブライ語で申しますならば「アドナイ」,日本語に訳しますならば,「主」という言葉を以て言い換えてきました。私たちの用いております『聖書』も,その慣例に従い,この所の言葉を「主」と翻訳致しております。その慣例にそのまま従うなら,ここには,こういう言葉が記されているのであります。「それなのに,あなたは,主よ,いつまで」。
そこでこの言葉を,今,私たちの用いております『新共同訳聖書』は,日本語の表現として綺麗になるように少し手直しをして,このように訳出致しているのであります。「主よ,いつまでなのでしょう」。
「主よ,いつまで」,「一体いつまでなのですか」。そういう言葉がここに記されているのです。元々の言語に即して申しますならば,「いつまで」という言葉を以て,この『詩編』の詩人は言葉を失い,絶句しているのです。恐らく,この「いつまで」という言葉,この言葉を,この詩人は激しい感情の昂ぶり,いえ感情の爆発の中で叫んだ,絶叫したのではないでしょうか。「それなのにあなたは,主よ,いつまで!」と。
「主よ,あなたはいつまでお怒りになるのですか」。この古い『口語訳聖書』の翻訳が間違いであるとは言えません。この「いつまで」という言葉には,確かにそのような意味も含まれていることでしょう。しかし,この翻訳は,おとなし過ぎます。冷静に過ぎると思うのです。元々の言葉は,文章にすらなっていない,そういう言葉です。混乱の中で叫び出された,激しく訴える言葉です。
「どうして主よ,あなたは放って置かれるのか」,「一体いつまで,あなたは沈黙を守っておられるのか」,「私の苦しみに,いつになったら,あなたは目を向けて下さるのか」,「いつまで私をこの苦しみの中に放って置かれるのか」,そのような訴え,叫びが,一つになって口から迸った,迸り出た,そういう言葉なのであります。
何故,たった一つの短い文章の翻訳に,こんなにこだわるのか。それは,恐らく,もう皆さん,感じ取っていて下さると思います。そう,このようにこの言葉を見た時,私たちは思わざるを得ないのではないでしょうか。「これは,正に私の言葉であった」,あるいは,「この言葉は正に今の私の言葉である」,と。
今,アフリカや中東・中近東など,世界のあちこちにおいて行なわれている戦争や紛争を見ても,私たちは思わないでしょうか。「主は何故,このようなことを,いつまでも許して置かれるのか」,と。実際,戦地・被災地にある人達の思いは,それどころのものではないでしょう。「一体何故,神は黙っておられるのか」。「いつまで神は人間をこの苦しみの内に放置して置かれるのか」。「解決の道は,救いの道は,いつになったら開かれるのか」。「主よ,あなたは一体いつまで黙っておられるのか」。・・・「主よ,いつまで!」。
「主よ,いつまで」。この言葉は,尤も,そのような世界的な,あるいは社会的な事柄に対してだけ,発せられるものではないでしょう。むしろ,もっと個人的な事柄,そこにおいて,私たちはしばしばそのような声を上げるのではないでしょうか。何かの苦しみを負うことになった時に。そう,例えば,重い病気に罹った時などに,であります。
実を申しますと,この『詩編』は,その作者が,重い病の床にあって記したものとされております。その根拠の一つは,3節の中程に,「癒してください」という言葉が記されていることに求められます。その言葉の回りには,この詩編詩人が病の中にあって,衰弱し,苦痛に震えわななく姿が描き出されております。古い『口語訳聖書』から引用致しましょう。
「わたしは弱り衰えています」。「わたしの骨は悩み苦しんでいます。わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます」。
この「悩み苦しむ」という言葉を,ある聖書学者は,「わななき,もだえる」と訳しております。その翻訳の方が,この詩編詩人の状態をより良く伝えているように思われます。病床にあって,衰弱し,骨がその痛み苦しみによって,震えわななくのです。その魂が,悶え苦しむのです。その苦しみが如何程のものであったか。5節,6節を見ますと,この詩人は,その苦しみの中で,死を覚悟しなければならなかった,死を予期せざるを得なかった,そのことが判ります。
また,7節に記されている言葉,これは平静な状態にある人間にとっては,余りに大袈裟な表現であります。ここに言われていることはつまり,その絶望的な苦しみと,呻きの中で流された涙によって,その彼の横たわっているところの寝床が浮き上がり漂い始め,またその涙によって,その寝台が溶かされる,ということです。元々のヘブライ語の聖書では,そのような言葉がここで用いられています。それは,余りに滑稽な,馬鹿らしい程に大袈裟な表現であると,笑うことも出来るでしょう。
しかし,そのような表現を以てしか言い表わすことの出来ない,苦しみ,悩み,辛さが彼を苛んでいた,そのことを私たちは,ここに読み取るべきでありましょう。彼は,その痛み,悲しみ,不安の中で,一人,涙を流し続けたのです。布団の中で,人知れず,泣き続けたのです。
更に9節と11節には,興味深いことが記されております。それは,そのようにして病床にある彼の回りに,「悪を行う者」,「敵」と呼ばれる者たちがいた,ということであります。それは一体,どのような者たちであったのか。そのことについては,学者,注解者の間に一致した意見が有りません。ただ,文脈からしまして,それは,神の救いを信じない者たちであった,ということは出来ると思います。何故なら,この詩編詩人の祈りが神によって聞かれた時,彼らは「恥じる」と記されているからであります。それでは一体何故,彼らは神がこの詩人を助けられることを信じなかったのでしょうか。
彼らが神を信じない「不信仰者たち」であったと考えるのは少し単純過ぎるでしょう。何故なら,この詩編詩人の周りにいた人々もまたユダヤ人であったと考えられるからです。ユダヤ人でありますならば,基本的に皆,ユダヤ教徒であり,ユダヤの唯一の神を信じていたと思われる。そして,その「神」は,時には,病者を憐れまれ,その祈りを聞き,病を癒して下さる事も有る,それくらいの信仰は持っていたと思われるのであります。
それでは一体何故,彼らは神がこの重い病に苦しむ詩人を助けられることを認めようとしなかったのでしょうか。
その一つの可能性として考えられることは,この詩人が犯した罪の故に,「神が彼を顧みることはない」と信じたということです。実際,この詩編詩人自身,自分の罪を否定していません。自分が罪を犯した,そのことの故に神の正当な裁きが下り,今,自分は病を負うことになった。そのことを,彼は認めております。それは,この2節の言葉から明らかです。
そこに於いて,彼は,彼の病気の原因を,神の「怒り」に置いております。この2節には,二度,「怒り」を表わす言葉が出て参ります。「怒って」という言葉と「憤って」という言葉です。ついでに申しますと,この二つの言葉は,元の言語,ヘブライ語に遡りますとやはり別々の言葉で表わされていることが判ります。
最初の「怒って」と訳された言葉は元々,「鼻」という言葉から来たものであります。日本でも,「鼻息が荒い」という表現が,意気込んだり興奮したりした時に用いられますが,それに似たような感覚から生れた言葉でしょう。怒りの余り鼻息が荒くなる,或いは,鼻が赤くなる,そういう所から来た言葉であると思われます。
また後の方の「憤って」という言葉ですが,これは,「熱」に関係した言葉です。烈火の如く怒る,そういう熱を発するまでの怒りを表わす言葉です。「激怒」,「憤怒」と訳しても良いかも知れません。それだけの神の「怒り」が,今,この詩人の上に注がれていると言うのです。
そして,勿論,神は故なく怒られる方ではありません。それだけの怒りを受けるだけの罪を,この詩編詩人は犯したということであります。そのことを,この詩人も認めているのです。だからこそ彼はこの5節で,このように言うのです。「あなたの慈しみにふさわしく,わたしを救って下さい」,と。
彼は自分の正しさを主張出来ません。神様に対して,「自分の受けているこの境遇は不当なものである」と訴えることが出来ません。彼は,その神の「怒り」,神の裁きの正しさを認めざるを得ないのです。そうしますと,彼が救いを求める,その根拠は,自分の内には無いことになります。自分の罪を考えるのなら,彼はこの苦しみの中にあって,死ぬことになっても仕方がないのです。神に見放されて当然なのです。
しかし,彼は,そこで,神にしがみつくのです。神の「慈しみ」にしがみつくのです。「慈しみ」とは,それを受けるに値しない者への愛であります。「自分は,神に愛される資格のない,値打ちのない者である。しかし,どうかそのような者をも,あなたの豊かな慈しみによって,愛して下さい。憐れんで救って下さい。それが神様,『あなたの慈しみ』,『あなたの人間とは比較にならない広大にして豊かな慈しみ』に相応しい事ではありませんか」。「あなたは,それだけの慈しみを以て,苦しむ人間を顧み給う方ではありませんか」。そうこの詩人は神に訴えるのであります。
その姿を見た時,彼の回りにいた人々が,「彼に神の助けなどあるものか」と語ったと考える,その考え方も決して的外れなものではないと思わされるのであります。「お前の罪を考えてみるが良い。あれだけの罪を犯しながら,尚も神の慈しみにすがろうと言うのか。それは余りに身勝手な考えではないか。神の慈しみがそんなお前に与えられる筈が無い」。そう,彼の回りにいた人々は彼を非難した。
しかし,その非難に反して神は彼を憐れまれ,慈しみを与えられた。そのことによって,彼の回りにいた人々は,神の慈しみの豊かさ,その大きさを改めて知らされる事となり,そうして,神の慈しみを余りに小さく見計らった自分達を恥じる事になった。そう読む事も出来るのであります。
しかし,私は,別の読み方をしてみたいと思うのです。何人かの注解者は,ここの「悪を行う者」,「敵」という言葉について,あのヨブの友人たちを思い起こしております。『ヨブ記』に記されているヨブの物語は皆さん,良く御存知でありましょう。
ヨブという名の,ある正しい人があった。彼はまた神に嘉せられ,幸福な生活を送っておりました。そのヨブの上に突然,数々の災難が襲いかかるのであります。財産は強盗達によって奪い取られ,子供たちは皆,災害で死に,彼自身,全身腫れ物で覆われるような,恐ろしい病に罹ります。その彼の許に,三人の彼の友人が訪ねて来るのです。彼らは,友人であるヨブを慰め,励ますために来たのですが,そのヨブの惨状を見て言葉を失い,ただ泣き声を上げ,一週間もの間,何も言えず黙って座していたと記されております。そして,ヨブの言葉に促されて,遂に語り出すのです。
その言葉は,・一週間もの長い期間,何も言えず,それでもヨブと共に居た,ヨブの傍らに座していた・という程に友愛の情に厚い友人達の口から出て来た言葉と致しますと,私たちの想像を裏切るものであったと言えるかも知れません。つまりそれは,ヨブに悔い改めを迫るものであったのです。彼らは言うのです。「これだけの災難を受けるからには,それだけの罪を犯したに違いない。その罪を神に詫び,悔い改めて,神の赦しを願うが良い」,と。彼らはそう言って,ヨブに迫ったのです。
尤もそれは,確かに,ヨブに対する友情から出た言葉と言えるのかも知れません。つまり,彼らは,ヨブの回復を願ったのではないでしょうか。ヨブが自分の犯した罪を悔い改め,そうする事によって,神の赦しを得,再び以前のヨブに戻る事,健康を回復し,幸せな生活を取り戻す事,そうした事を彼らは願った。その願いから,彼らはヨブに悔い改めを迫った。そうも言えるのではないかと思うのです。
しかし,ヨブ自身には,そのような罪を犯した覚えはありません。そこで,彼と友人たちとの間に,議論が戦わされることになります。その議論を通して,その『ヨブ記』の著者は,「何故この世界に苦しみがあるのか」,「因果応報という考え方は本当に正しいのであるか」,語って行くのでありますが,そのことに今は触れるつもりはありません。とにかく,そのヨブの友人たちに,幾人かの注解者たちは,この『詩編第6篇』の著者の回りにいる人たちと同類のものを見出そうとするのであります。
しかし,私は,むしろ,ヨブの妻に目を向けたいと思うのです。彼女は,ヨブが先に申しましたような災難に襲われた時に,こう,夫であるヨブに向かって語ったと記されているのであります。「あなたはなおも堅く保って,自分を全うするのですか。神を呪って死になさい」。
「神を呪って死になさい」。誠に恐ろしい言葉であります。しかも,この言葉は,しばしば誤解されるように,憎しみから出た言葉ではないでありましょう。彼女は,夫ヨブを愛するが故に,こう言わざるを得なかったのではないでしょうか。
「あなたのその苦しみに満ちた姿を,私はもう見ていられません。それ程の苦しみに落とされながら,どうしてあなたは,なおも神を信じようとするのですか。神を信じて,生きる努力を続けようと言うのですか。
もう良いでしょう。もうあなたは十分すぎる程に苦しんだじゃあないですか。
もし神がいるとしても,あなたをそれ程の苦しみに落としておいて顧みようともしない,そんな神などどうして拝む必要がありますか。
どうして,神を信じて,『神が必ずこの自分を顧みて,救いを与えてくれる。この自分に与えられた苦しみについて,その意味を教えてくれる。自分の苦悩に解答を与えてくれる』と,そう信じて,生き続ける必要が有りますか。
もう十分です。『神などいない』,そう言って,神を呪って死にましょう」。
── これが,ヨブの妻の言葉の意味であったと思います。
それは,誠に深い苦しみの中にある者にとって,蜜のように甘い言葉ではないでしょうか。苦しみの中で,痛みの中で,悩みの中で,悲しみの中で,呻き,のたうっている,震えわなないている人間にとって,これはどれ程,強い誘惑の力を持った言葉でしょうか。自分を愛してくれている人間の口からこの言葉が発せられたとしたら,尚更であります。一体,誰がこの言葉に抗し得ようかと思われる程であります。
「人は,どんな時にも希望を見出そうとするものだ」と言われます。しかし,絶望するということが限りなく甘美に思われる,そのようなこともあるのではないかと思わされるのであります。
この『詩編』の詩人も,そのような誘惑を受けた。そう考えることは深読みのし過ぎでありましょうか。しかし9節の言葉,「悪を行う者よ,皆わたしを離れよ」という言葉,古い『口語訳聖書』では,この言葉は,「すべて悪を行なう者よ,わたしを離れ去れ」と訳されておりますが,この言葉の激しさに,彼を絶望へと誘う強い誘惑の存在を思わされるのです。ただ彼の罪を指摘し,「お前に神の救いなどあるものか」と愚弄し嘲笑する相手に対する言葉としては,この言葉は余りに強すぎる,激しすぎる,そう思わされるのであります。
もし,彼が,今申しましたような絶望の誘惑に駆られていたと致しますと,そのことはまた,彼がこの時,どれ程の苦しみの中で生きていたか,そのことを示してくれるでありましょう。人の目からすれば,どうにも救いのない,癒されようのない状態に彼はあったのではないでしょうか。絶望して当然,神を呪って当然,そう思われるような状態にあったのではないでしょうか。
いや,私の想像が当たっているにせよ,そうでないにせよ,この『詩編』の詩人が,今,深い絶望に陥るその穴の縁に立たされていることは,確かでありましょう。その絶望と希望,信仰と懐疑の狭間に立って,この詩人は,「主よ,いつまで!」と叫び,絶句したのではないでしょうか。
この「主よ,いつまで!」という叫びを口にしてから,彼が,どれだけの間,沈黙したのか。そうして,心の中で,どれだけの祈りの戦いをしたのか。それは判りません。ただ言える事は,この4節と5節の間には,長い時が横たわっていたであろうという事です。長い,声にならない,祈りの挌闘の時が過ぎた筈だという事です。
そして,彼の信仰が勝利しました。彼は,神の慈しみに,全てを賭けたのです。この5節の言葉,これは面白い言葉です。「主よ,立ち帰り,わたしの魂を助け出して下さい」,彼は再び,そう声を出して祈り始めたと記されている。ここに,「立ち帰り」という言葉があります。これはヘブライ語で,「シューブ」という言葉です。それは方向転換を表す言葉でして,しばしば『聖書』の中では「かえりみる」とも翻訳されております。しかし,この言葉が人間に充てて用いられた時,この言葉は,普通,「悔い改める」と翻訳されるのです。
それですから,ここの言葉も,敢えて訳そうと思えば,「主よ,悔い改めて下さい」と翻訳する事も出来るのです。それは,可笑しな訳であります。悔い改めるべきは,罪を犯したこの詩人であって,神ではありません。しかしこの言葉には,こういう意味が込められていると言っても良いのではないでしょうか。つまり,
「神がこの罪ある人間の低さにまで身を屈めて下さらなければ,私には救いがないのだ」,と。 「神がこの人間の低さにまで降りて来て下さらなければ,私には救いがないのだ」,と。 「神が,この悔い改めるべき人間と共に立って下さらなければ,私には救いがないのだ」,と。 「神が,この罪ある人間,この私と同じ所に立ち,この私と共に罪を負って下さらない限り,私には救いがないのだ」,と。
そうこの『詩編』の詩人は,訴えているのではないでしょうか。ただ,神様の慈しみに取りすがって,そう訴えているのではないでしょうか。
それは,余りに身勝手な祈りでありましょうか。いえ,この詩人は語るのです。
「主はわたしの泣く声を聞かれた」,と。
「主はわたしの嘆きを聞かれた」,と。 そして,「主はわたしの祈りを受け入れて下さる」,と。
主は,聞いて下さるのです。この私たちの声を。この泣く声を。この嘆きの声を。この祈りの声を聞いて下さるのです。神は立ち帰って下さるのです。神は,その身を屈めて下さるのです。私たちの傍に臨んで下さるのです。私たちを慈しんで下さるのです。
私たちは,どのような苦しみの中にあろうとも,どのような罪にあろうとも,絶望してはいけません。絶望すべきではないのです。何故なら神が,私たちを慈しんで下さるからです。神が私たちを救う為に,絶望の傍にいる,いえ絶望の淵,絶望のどん底にいる私たちの許にまで,その身を屈み込ませて下さるのです。
それこそ,正に,主イエス・キリストが為して下さったことでした。主イエス・キリストは,あの十字架において私たちの罪を全て負って下さったのです。私たちの受けるべき絶望を,主イエスが,あそこで私たちに代わって負って下さいました。
あの苦しみ,あの絶望,それは如何に深いものであったことでしょうか。神の子たるキリストが,罪人として神に捨てられる絶望をその身に負われたのです。その為に主イエスは,あのゲツセマネの園に於いて,血の汗を流す程の祈りの戦いをされました。そうして,あの十字架の上で,主イエスは叫ばれた。「わが神,わが神,どうして私をお見捨てになったのですか」,と。神の御子が父なる神に叫ばれたのです,「なぜ私をお見捨てになったのか」,と。その苦悩は,如何に深いものであった事でしょうか。
一体,主イエスは,神の御子は,いえ,神は,どこまで身を屈めて下さったのでしょうか。この『詩編』の詩人は,神に向かって,「死の国へ行けば,誰もあなたの名を唱えず,陰府に入れば,誰もあなたに感謝を捧げません」と語りました。しかし,主イエスは,その死をもくぐり抜けて,陰府にまで,そう,宗教改革者マルティン・ルターの言葉を借りますならば,地獄にまで,地獄の底にまで,その身を屈めて下さったのであります。
主イエスは私たち全ての人間の罪を担って,一人の罪人として,父なる神に捨てられたのです。全ての人間の罪を担った全き罪人・最悪の罪人として,父なる神に捨てられたのです。しかし,その神の御心を十字架の上に在って主イエスは受け止められた。主イエスは,その祈りの挌闘の果てに,父なる神に全てを委ねて御旨のままに地獄にまで降られたのです。「わが霊を御手に委ねます」と,そう祈って主イエスは十字架上に死に,地獄の底にまで降られたのです。
そして,その主イエスが,今や復活せしめられ,天に在って私たちの為に執り成しを為して下さると共に,御霊に在って私たちと共にいて下さる。
それ故,私たちに絶望はありません。主が,主イエス・キリストが,私たちと共にいて下さるのです。私たちの為にならば,十字架にかかって死の底にまで,地獄の底にまで降りて下さる神が,私たちと共にいて下さるのです。私たちの為に絶望の極みまで味わい尽くして下さった神が,それ程までに私たちを慈しんで下さる神が,私たちの傍にいて下さるのです。「私があなたと共にいる」と言って下さるのです。そうして,私たちの声を,私たちの嘆きを,私たちの祈りを聞いて下さるのです。
それは,私たちの病が直ちに癒えるという事ではないかも知れません。私たちの悩み,苦しみが直ちに取り除かれるという事ではないかも知れません。しかし,確信を以て言えます事は,神は必ず,私たち一人一人にとって善い事を為して下さるという事です。生も死も貫いて,私たちにとって最善の道を神様は,私たちの為に拓いて下さる。その為にこそ,主イエス・キリストは,神の御子であられながら,神と等しい身であられながら,人間としてこの世界に生まれられ,十字架にかけられ,地獄にまで降られたのです。その全ては,この私たちが救われる為だったのです。その全ては,私たちが救われる事を願われた,神様の慈しみによる出来事だったのです。
この慈しみを知る事は,どのような絶望をも追いやる事の出来る力です。どのような艱難をも乗り越えて希望へと私たちを導く力です。
この力を私たちに与えて下さる神に,賛美と感謝を今日,また新たに捧げたいと思うのであります。お祈り致します。
http://homepage1.nifty.com/Makarioi/ps060111-2.html