人生の祝福を求める祈り その三

不条理な苦難を避ける祈り

ルカ伝11章1-4節

 今日は、「人生の祝福を求める祈り」の第三弾ですが、「不条理な苦難を避ける祈り」というテーマを付けてみました。フランスの作家アルベール・カミュが「不条理とは本質的な観念であり、第一の真理である」と書いて以来、「不条理」という言葉が一躍有名になりました。不条理を世界の「第一原理」とすることで、すべてを「偶然」のなせるわざに還元させたのです。ですから、苦難に遭うのも偶然であって、それ自体に意味があるのではないとされます。世の中には、自然災害や人災を含めて、多くの不条理と思える災いがあります。実は、この「不条理」の解釈は、「人生の祝福を求める祈り」の三番目と深く関わっていると思われます。このことについては、後の方で触れるつもりにしています。

 苦難は新改訳では〈患難〉(スゥプシス)と訳されることが多いのですが、この言葉は「両側から圧力をかけて押し迫る」ような状態のことを指しています。かなりストレスが掛かりそうな言葉ですね。実は、この〈患難〉は、聖書では大きなテーマの一つで、すでに述べたように、不条理に思えるものから、積極的な意味を持たせられるもの、なかには、さばきとして与えられたものまで、いろいろな意味合いがあります。聖書では、積極的な意味を持つ〈患難〉については、祝福をもたらすものとされています。ですから、ここで「会わせないでください」と祈るべき〈試み〉とは、人に害を与えるもの、そして不条理に思える苦難のことだと思われます。今日は、この二種類の〈試み〉を避けるための祈りをテーマを取り扱いたいと思います。 

(1)〈悪〉と〈悪い者〉

〈試み〉とは〈誘惑〉

私たちを試みに会わせないでください。
          新改訳  ルカ11:4

わたしたちを誘惑に遭わせないでください。         新共同訳  ルカ11:4

 まず、ルカ114をご覧ください。ここには、〈私たちを試みに会わせないでください〉という祈りがあります。〈試み〉(ペイラスモス)とは、「試練」という肯定的な意味と「誘惑」という否定的な意味があります。「試練」とは、神が苦難などの手段を用いて人を試すものとされています。その目的は、人を罪からきよめたり、人生をステップアップするための新たな悟りを開いて、祝福のための準備をするためなのです。ですから、こういう意味の〈試み〉は、人生にとっては大いにプラスとなるものなのです。聖書は、このような意味での〈試み〉を有益なものとして、その意義を認めているのです。

 新共同訳は、〈試み〉を〈誘惑〉と訳しています。これは、相手を堕落させるという悪い意図でもって、試すことを意味します。「主の祈り」で避けるように祈るべきだと命じられているのは、この意味なのです。ここで、マタイ伝の「山上の説教」に含められている「主の祈り」を参考にしてみましょう。マタイ613をご覧ください。

マタイ版の「主の祈り」

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。        新改訳 マタイ6:13

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。新共同訳 マタイ6:13

 「主の祈り」は、ルカ伝の「エルサレム旅行段落」とマタイ伝の「山上の説教」にあります。イエスが「主の祈り」を弟子たちに何度も繰り返し教えたためと思われます。暗記するまで何度でも口述で伝達するのは、当時のラビたちの教育法でもありました。ですから、両者をともに参考にすることによって、イエスの教えの真意を知る手掛かりとなるのです。新改訳と新共同訳を併記していますが、新改訳で〈悪〉(トゥ・ポネールー)と訳しているところが、新共同訳では〈悪い者〉と訳されています。ここは、両方の訳が可能なのです。おそらく、マタイは、両方の意味を含ませていると思います。

 まず、新改訳を見てみましょう。ここでは、自分が負けてしまうような誘惑に遭遇して、〈(その)悪〉を行うことにならないように、という祈りになっています。この〈悪〉(ポネーロス)という言葉は、元来は「労苦によって圧迫されている」という意味があって、「苦痛を伴うとか、手間がかかるという意味で、悪い、邪悪な、価値なきこと」を指しています。人生において、ほとんどすべてのものが〈誘惑〉になり得ます。元々は、祝福のためにあるものでも、〈誘惑〉となることもあるのです。誘惑されると落ちてしまうという弱点というのが、誰にでもあります。弱点となるところを〈誘惑〉されて、負けることによって引き起こされる結末は、場合によっては極めて悲劇的なこともあるのです。しかも、すべての〈誘惑〉に勝利できるほど、人は強くはないのです。あの〈ダビデ〉でさえ、誘惑に負けてしまい、その結果、彼の後半生は随分と暗いものになりました。ですから、このような〈誘惑〉から救われるように祈れと、イエスは教えられたのです。

(2)〈欲〉と〈むさぼり〉

〈むさぼり〉が偶像礼拝の本質

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
      ヤコブ1:14-15

ここで、ヤコブ114-15をご覧ください。ここには、外部から心にインプットされるものを〈誘惑〉とするものが〈欲〉(エピスゥミア)であるとされています。外部にどんな〈誘惑〉になりうるものがあったとしても、〈欲〉がコントロールされていれば、問題ないのです。しかし、この〈欲〉というのは、しばしば暴走してしまうので、やっかいなのです。〈欲〉という言葉は、一般的な意味で使われ、本能という自然の生理的な欲求から、帰属欲や向上心や憧れなどの高度に精神的な欲求までも含みます。聖書は、このような〈欲〉を否定しているわけではありません。むしろ、健全な形でそれを追求することを教えているのです。食欲は健全な身体のために不可欠です。また、思春期以降、性欲は家庭を築くための強い動機となり、また、社会を維持し、次世代に歴史を継続させるために必要なものなのです。

しかし、本来の目的から逸脱して、それらの〈欲〉が暴走し始めると、〈欲がはらむ〉よううになると、〈むさぼり〉(貪欲)という〈罪〉を産み出し、破壊的な力となるのです。しかも、この〈むさぼり〉は飽くことを知りません。〈むさぼり〉の対象を無限に求め続けるものなのです。そして、パウロは、この〈むさぼり〉を〈偶像礼拝〉の本質であるとしているのです。コロサイ35をご覧ください。

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。  ヨハネ16:8

 この節に出てくる〈悪い欲〉の〈欲〉というのは、先ほどの〈欲〉と同じ言葉で、〈悪い欲〉とは、本来健全であるはずの〈欲〉が、的外れな衝動になることを意味します。さらに、〈むさぼり〉(プレオネクシア)とは、この〈欲〉がさらに暴走して、欲してはならないものを欲しがるようになることを指しています。新約聖書ギリシャ語小辞典には、「もっともっと自分のものとして取り込みたい」ほど、「人の権利を踏みにじってまで自分の所有を増やしたい」ほど、そして「取ってはならないものまで無理に手をのばして取りたい」ほどの欲望と説明されています。これはいろいろな場合があります。政治的な独裁者の心の中では、権力が偶像化して、普通の人が想像できないほどに死に物狂いで権力にしがみつきます。権力への健全な欲望は、良い政治や行政を生み出すのですが、権力への〈むさぼり〉は、国や民族にとって破滅的なのです。

 神の替りになるものを欲して、それを理想化して、それにしがみつくことで、心の平安を保とうとするのが、〈むさぼり〉なのです。しかし、その心の平安は一時的なもので失われやすいので、失わないようにと、ますますしがみつきを強めていくのです。その行き着くところは、破滅的なのです。あるものが〈誘惑〉になるということは、人の心の中で、普通の〈欲〉が〈むさぼり〉になるということなのです。ですから、〈誘惑に会わせないでください〉という祈りは、〈欲〉が暴走して〈むさぼり〉にならないように、また、〈むさぼり〉が起こったとしても、それを識別してコントロールすることができるようにという祈りでもあるのです。

〈むさばり〉を回避するために

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。  ヤコブ1:17

ところで、〈誘惑〉になり得るものが主に三つあるとよく言われます。富と異性と権力なのです。これらがそのまま罪であるわけではないのですが、それを偶像化してしがみつくようになると、〈むさぼり〉となるのです。〈むさぼり〉が悲劇的な末路になった例は、枚挙にいとまがありません。人間の自然な〈欲〉と〈むさぼり〉の垣根が低い場合、欲望が容易に垣根を越えて〈むさぼり〉になる得るのです。ですから、〈欲〉と〈むさぼり〉のボーダーラインに対して、敏感になる必要があると思います。これが、〈慎み〉なのです。〈欲〉がある限り、あらゆるものが〈誘惑〉になる可能性があります。しかし、〈欲〉に留まることにおいてのみ、幸せがあることを覚えるべきなのです。余談になりますが、葉隠の中に、こんな一節があります。「恋の至極は忍恋と見立て申し候。逢ひてからは、恋のたけがひくし。一生忍びて思ひ死するこそ、恋の本意なれ。」これを聖書的に解釈するなら、「恋の極地」とは恋愛の感情における慎みのことと言えるのではないでしょうか?

 ヤコブ117をご覧ください。ここは、ヤコブ114-15にあった〈欲がはらむと罪なる〉という〈むさぼり〉に対応しているのです。世間的には、〈欲〉を暴走させて、それをエネルギーとして生きているところがあると思います。〈欲〉が強くなければ、大成しないとも言われます。ですから、競争心丸出しで、他人を押しのけてでもものにしたものが「勝ち組」となるのです。しかし、ここでは別の生き方が提示されているのです。ここには、〈光を造られた父〉が〈良い贈り物〉をくださるとあります。この〈贈り物〉とは、「与えること」と「与えられたもの」という二つの意味があるのです。〈上から来る〉とは、神の摂理として与えられることを意味します。良いものは、〈むさぼり〉によって奪い取るものではなく、神によって与えられるものとされているのです。ですから、貪欲によって奪い取る必要はない、というのが聖書の立場です。

 しかし、それで終わりではあません。その「与えられたもの」を〈完全な賜物〉にするというプロセスが残っているのです。〈完全な賜物〉の〈完全な〉(テレイオス)とは、「円熟の極みに達した」という意味で、与えられた〈賜物〉の完成を指しています。しかも、その完成も〈上から〉、すなわち、神の摂理によって実現するのです。〈誘惑〉となり得るいろいろなものに囲まれて生きながら、〈誘惑に会わない〉ということは、自然な健全な〈欲〉のままに留まって、〈むさぼり〉にまで暴走しないということなのです。そして、摂理によって自分に与えられた〈良い贈り物〉を、〈完全な賜物〉に仕上げるのに、自分の〈欲〉を用いることなのです。これが、「誘惑を避ける祈り」の第一の意味なのです。

(3)〈悪い者〉からの救出

〈サタン〉と「不条理」

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。
   新共同訳  マタイ6:13

  次に、新共同訳が採用した訳を見てみましょう。マタイ6:13をご覧ください。〈悪い者〉には定冠詞が付いていて、これはサタンを指しています。この訳を採ると、あの手この手で誘惑して、人生を破壊する者であるサタンの手を逃れることができますようにという祈りになります。すでに触れましたが、マタイは、おそらく〈悪〉と〈悪い者〉の二つの意味を重ねていると、私は思います。サタンが誘惑者であることについては、旧約聖書のヨブ記で、神がヨブの信仰の純粋さを証明するために、ヨブをサタンの誘惑の手に委ねたことを連想します。サタンの手に陥ることは、ヨブの場合のように、不条理に思える苦難に翻弄されることになるのです。聖書では、ヨブ以外にサタンの手に委ねられた典型的な例として、受難のキリストの場合があります。これら二つの例は、極めて激しい苦難を伴いました。このように、特定の苦難を与えてから、サタンは誘惑してくるのです。ですから、この祈りは、「私はこのような苦難に耐えられるほどに強くありませんから、サタンの手に委ねないでください」という祈りなのです。不条理な苦難はサタンから来ます。しかし、それを抑制できるのは神さまですから、どうか〈悪い者から救ってください〉と祈るべきだ、というのです。

 もう一つ、「不条理な苦難」と結びつけて考えられているのが、ヨブ記にはあると思います。それは、〈レビヤタン〉という神話的な怪物のことなのです。この怪物は、人間の手に負えない「混沌」の象徴として、世界に不条理と無意味をもたらすものと、古代中東の人々は考えていたようです。ヨブ記41章では、この怪物を操り支配する唯一のお方が神であるという、自己啓示があるのです。神のみが〈レビヤタン〉たる混沌をコントロールして、世界に秩序と意味を与えるのです。このことが、自分の忍耐の限界を越えて、自分を破壊していまうような、不条理な苦難に合わせないでくださいと、神に祈ることができる理由なのです。

試練を制御する方

神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
           Ⅰコリント10:13

 Ⅰコリント1013をご覧ください。ここには、〈耐えられないほどの試練に会わせることはなさ(らない)〉神について、パウロが語っているところです。〈神は真実な方〉とありますが、〈真実な〉(ピストス)とは、「信頼に耐える」という意味なのです。それは、混沌をコントロールして不条理な苦難に襲われないようにする、という神の摂理の一側面を指していると思われます。

 もちろん、神の摂理の中ではつじつまが合っていても、人間の目には不条理にしか見えないこともあります。しかし、上記のみことばには、主観的に納得できる二つのことが書かれているのです。一つは、〈神は…耐えられないほどの試練に会わせることはなさ(らない)〉ということを、知ることができます。〈レビヤタン〉という怪物は、不条理にも〈耐えられないほどの試練に会わせ〉ようとします。しかし、神がそうさせないということなのです。二つ目は、〈試練とともに脱出の道も備えてくださ()〉ということです。〈脱出の道〉(エクバシス)とは、「出口」のことです。〈試練〉という部屋には、あなたが取り組むべき課題があり、それをクリアすると、「出口」があって、次のステップ、次の部屋に続いているということなのです。「不条理な苦難」を避けることは、人生行路においてどれほど重要なことでしょうか。祈りは、そのような悲劇を回避させるのです。

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2012y/120115.htm