日本とユダヤ
    日本とユダヤは、こんなに密接にかかわってきた。

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日露戦争の際のロシア野戦病院の職員。
その戦争の前線のロシア医師の多くはユダヤ人であった。


 日本にとって、ユダヤ人の国 であるイスラエルは、ほぼ地球の裏側に位置し、非常に遠い国です。
 日本に住んでいるユダヤ人は、ほんのわずかしかいません。日本人が実際にユダヤ人に接することのできる機会は、非常に少ないのが現状です。
 にもかかわらず、今日、日本人のユダヤ人に対する関心は決して低くはありません。ただ、ユダヤ人に関する正しい情報の不足により、日本では今だに空虚な「ユダヤ人陰謀説」などが、まことしやかに唱えられたりしています。
 さらに、「ユダヤ=フリーメイソン陰謀説」なるものも唱えられていることは、世界的に見ても非常に奇異な現象であり、残念なことと言わなければなりません。
 今月は、日本とユダヤの関係について、とくに近代から現代にかけて、如何に両者が密接に関係してきたかを見てみたいと思います。これにより私たちは、ユダヤ人が、日本および日本人と非常に密接に関わってきた事実を知ることができるでしょう。


日露戦争で日本がロシアに勝てたのはユダヤ人のおかげ

 日本は、一九〇四年~一九〇五年にかけて、ロシアと戦争をしました。いわゆる日露戦争です。
 日本は、この戦争に勝利をおさめました。小国の日本が、大国ロシアを相手に勝ったのです。それは当時、ちょうどネズミがネコに打ち勝ったことのように思われました。
 これは、ただ日本の実力によるものであると、日本の学校教育では教えられてきました。しかし、じつはロシアに対する勝利の背景には、ユダヤ人による日本への多大な援助があったのです。 
 当時ロシアでは、激しい反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れていました。各地で、ユダヤ人虐殺も勃発していました。
 とくに、ロシアの都市キシネフで起こったユダヤ人大虐殺は全世界に報じられ、世界中のユダヤ人を激怒させました。当時のロシアはまさに、ユダヤ人からは"悪の帝国"と見られていたのです。
 したがって、日本がロシアを敵に回して戦い始めたとき、それはユダヤへの大迫害者であるロシアとの戦いであると理解されました。当時の日本人社会主義者、片山潜も、これに関してこう述べています。
 「私は戦争に反対である。しかし一日本人として私は、先般キシネフでユダヤ人を虐殺したロシアによって日本が討ち負かされることを欲しない」。
 日露戦争が勃発したとき、世界中のユダヤ人も、日本を何とか負けさせまいと動きました。
 ヨーロッパやアメリカにいるユダヤ人金融業者らは、ロスチャイルドを含め、ロシアへの援助をすることから遠ざかり、一方で日本へは喜んで援助を与えました
 日本の敗北を防ごうというこの援助は、ユダヤ人ヤコブ・H・シフを中心に始められ、指導されました。シフは、大投資銀行クーン・ロエブの頭取で、ユダヤ系アメリカ人の大物でした。
 彼は、ロシアへの起債に加わることを拒否、他の商社に対してもそうするよう説得しました。またシフは、日本の戦時国債を支援するよう各銀行を説得しました。
 彼の努力により、日本のために約二億ドルもの大金が調達されたのです。

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ヤコブ・H・シフ(1847~1920年)。
ドイツ生まれのアメリカ系ユダヤ人の銀行家。
日露戦争の際、日本の財政に多大な援助をした。

 これは海外市場の全戦時起債額の約半分に及ぶものでした。これで日本が戦争に勝つために必要な戦艦、大砲、弾薬等が用意されたのです。ユダヤ人の援助がなければ、日本が勝つことはなかったと言ってもよいでしょう。
 日本が日露戦争に勝ったとき、ハイファ(パレスチナの海港)にいるユダヤ人、ナフタリ・ヘルツ・インベルは、日本がユダヤ人虐殺のロシアを懲らしめてくれたことを讃美し、次のような詩を明治天皇に献上しました。

 「世界諸国民のための良い知らせを汝らに告ぐ。恐ろしいイワン(ロシア皇帝)は打ち倒された。
 これはキシネフの罪(ユダヤ人大虐殺)に対する報復である。あらゆる人々にこの良き知らせを伝えよう。

 イワンは我が人民の血で足を洗った。我が人民の幼児や子供を殺した。
 今やイワンは敗北に苦しむであろう。そして高い山から荒野に逃げるであろう。

 私(神)は日の出ずる所から鷲を招いた。私はイワンを倒すために、遠くの地の我が同志、日本を呼んだ。戦闘、戦争で、イワンを鎮圧するために」。

 このように、当時のユダヤ人にとって日本は、かつてバビロン帝国を滅ぼしてユダヤ人を解放してくれたペルシャ帝国のような、解放者に思えたのです。
 また日本がユダヤ人を助けてくれたことから、日本をユダヤ人の同志――イスラエルの失われた一〇部族ではないか、とさえ思って喜ぶユダヤ人もいました。ワルシャワのヘブル語新聞『ハ・ツフィラー』は、次のようなユダヤ人の言葉を掲載しました。
 「我々は日本びいきなのであろうか。ユダヤの歴史の記録の中には、日本の名前を見つけることはできないであろう。・・・・
 しかし日本びいきである私は、日本人が新しい事実に敏速に動き、それに対応していることに感心していることを白状せざるを得ない。・・・・
 私の夢は、いつか誰かが日本の土の中から、日本人がじつはイスラエルの失われた一〇部族であるという証拠を掘り出してくれることである」。


世界ののけ者ユダヤ人と日本人

 日露戦争が終わり、日本はますます強国となって、世界の列強の仲間入りをしました。
 しかし、日本が強国化することは、西欧諸国には脅威と映りました。そのため西欧諸国では、日本人排斥主義(黄禍論)が高まっていきました。
 同時に、ユダヤ人排斥主義も西欧で高まっていました。ロシア革命を指導したマルクスやトロツキーがユダヤ人であったことは全世界に知られていたので、ユダヤ人は強欲な資本家であるのみならず、共産革命を指導しているという疑惑の目が向けられたのです。
 このように、日本人とユダヤ人は当時、ともに世界の異端児、アウトサイダーと見られていたのです。
 しかし日本人は、自分たちがアウトサイダーと見られることを好みませんでした。それで第一次大戦後、日本は国際連盟に"人種平等案"を提出しています。
 人種平等の原則を国際連盟規約に入れよう、という主張ですが、この主張はユダヤ人排斥主義と日本人排斥主義が高まっていた西欧諸国からの拒絶にあい、ついに廃案となりました。
 これが日本にとって大きな屈辱であったことは、言うまでもありません。
 さらに当時、二つの偽造文書が、ユダヤ人と日本人への世界の人々の疑惑を増長させていました。その二つの偽造文書とは、「シオンの長老の議定書」と、「田中覚書」です。
 「シオンの長老の議定書」(プロトコール)は、ユダヤ人リーダーたちが世界支配のために秘密計画を事こまかに作っているとしたものです。これはユダヤ人が陰謀をたくらんでいるという説を広めるために偽造され、利用されました。
 もう一つの偽造文書「田中覚書」(田中上奏文)は、一九二七年に日本の総理大臣・田中義一が裕仁天皇(昭和天皇)に提出したとされているものです。その覚書には、
 「世界を征服するためには、我々は中国を征服しなければならない。中国の全資源が我々の思う通りになれば、我々はさらにインド、エーゲ海、小アジア、中央アジア、さらにヨーロッパをさえ征服すべく、進むであろう」
 とありました。この偽造文書は、一九二九年に中国で最初に公刊され、広く宣伝され、しばしば日本の邪悪な動機を説明するために引用されました。
 ことに一九三一年の満州事変以来の日本の侵攻、また第二次世界大戦中のそれは、この日本の世界征服計画が事実であったと確証するものとして見られました。
 [この文書が偽書であることについては、ジョン・ステファン著『田中覚書き(一九二七年)――本物かにせ物か』(一九七三年、「現代アジア研究」七巻四号)七三三~七四七頁を参照。]
 これら二つの偽造文書の存在は、当時の世界においてユダヤ人と日本人が置かれていた立場を、よく示しています。ユダヤ人と日本人は、ともに世界の"のけ者"とされたのです。


ユダヤ人を助けた日本人

 こうしたこともあったからでしょうか、ユダヤ人と日本人は互いに、今世紀において世界でも珍しいような関わり方をしてきました。
 二〇世紀の初頭から、世界中のユダヤ人がパレスチナに帰還して国を再興しようという「シオニズム」運動が、ユダヤ人の間に盛んになりました。
 このとき日本は、第一次大戦後の一九二〇年に、イギリス外相の「バルフォア宣言(ユダヤ人のパレスチナ復帰決議)を支持しました。また田中義一内閣をはじめ、多くの日本人がシオニズムを応援しました。
 そののち第二次大戦が勃発しましたが、このとき日本はナチス・ドイツの同盟国であったにもかかわらず、反ユダヤ主義をとることを拒否しました。
 一九四〇年に日本は、ドイツのヒットラー、およびイタリヤのムッソリーニと枢軸同盟(三国同盟)の条約を結びました。しかし、外務大臣・松岡洋右は、ユダヤ人実業家に対し次のような手紙を送っています。
 「私はまず第一にあなたに、日本では決して反ユダヤ主義を採用しないことを保証したい。私は確かにヒットラーと条約を結んだが、彼に対して決して反ユダヤ主義は約束しなかった。このことは私見ではなく、全日本帝国の原則である」。
 松岡外相はまた、満州国のユダヤ人砂糖製造業者レヴ・ジクマンと会った際に、反ユダヤ主義に反対しているのは単に彼だけのことではなく、天皇自身もそうであると打ち明けています。
 また彼は、もしドイツが日本に対しユダヤ人を迫害するよう要求してきた場合には、その要求に屈服するよりは、枢軸同盟を破棄するであろう、とも付け加えました。
 実際日本は、第二次大戦中に絶滅の危機にさらされたユダヤ人を救うために門戸を開いた、数少ない国の一つとなりました。
 一九四〇年の夏、北欧リトアニアの日本国領事・杉原千畝は、ポーランドとリトアニアからの約六千人のユダヤ人避難民に通行ビザを発行。彼らがシベリヤ鉄道を利用してウラジオストックまで行き、そこから日本の敦賀港に航行することを可能にしました。

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イスラエルのシャミル外務大臣と会う杉原千畝氏。

 彼ら避難民はその後、入国ビザのいらないカリブ海のオランダ植民地キュラサオへ向かうことになっていました。しかし彼らは、日本、とくに神戸で、旅行者として必要なだけ滞在することが許されていました。
 もし他へ行く場所が見あたらない場合は、中国・上海にある日本の統治地区・虹口に滞在することも許可されました。神戸で避難民は、現地のユダヤ人会や、ホーリネス教会の人々らから援助を受けました。
 上海でも、犬塚唯重・海軍大佐、安江仙弘・陸軍大佐等が、ユダヤ人のために好意的な働きをしました。
 この働きが知れたとき、ドイツ大使は日本政府に抗議しました。しかし日本政府はこれを無視しました。

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安江仙弘・陸軍大佐

 数多くのユダヤ人避難民は、こうして日本人の手によって、ナチスによるホロコースト(大虐殺)をまぬがれたのです。


平和国家日本をつくったユダヤ人

 最後に、第二次大戦後の日本を民主的な平和国家にするために尽力してくれたユダヤ人について、見てみましょう。
 第二次大戦後、敗戦国となった日本にアメリカの占領軍がやって来たとき、その中にはじつは多数のユダヤ人が含まれていました
 それは二〇世紀において、日本がかつて経験したことのないほど多くのユダヤ人でした。彼らユダヤ人は、日本の戦後改革、すなわち軍国主義者の追放、平和憲法の作成、農地改革、夫婦平等権、労働権等の確立において中心的役割を果たしたのです。
 連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは、日本を民主的な平和愛好国家に変えることを決意。そのために、軍人と文民からなる変革チームをつくりました。その中には、ユダヤ人が多く入っていました。
 日本の占領政策に最も影響を与えた人物として、ユダヤ人チャールズ・L・ケーディス陸軍大佐がいます。彼はアメリカの大恐慌後のニュー・ディール政策に熱心に参加した人物であり、第二次大戦直後、東京のマッカーサー司令部で中心的な役割を果たしました。

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ケーディス大佐

 ケーディス大佐は、日本から軍国主義者や超国家主義者の影響を排除し、日本を権威主義国家から民主主義国家へ変える新憲法起草のための指導をなしました。
 マッカーサーの指示した憲法九条の戦争放棄条項に関しても、その起草に彼はかかわっていました。また日本の新憲法は、彼のニュー・ディールの精神を反映し、最低限度の生活権(第二五条)と、労働権(第二七条)という、アメリカ憲法では保障されなかった二つの権利をも宣言しました。
 日本の農地改革の「父」ウォルフ・I・ラデジンスキーも、ユダヤ人でした。彼は日本の農地改革に取り組むために、熱心に地方に旅して、小作人と地主の言い分を聞いて回りました。

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ラデジンスキー氏

 ラデジンスキーの土地改革は大成功をおさめ、地方の人々の欲求不満や不安を解消しました。もし彼の働きがなかったならば、日本ではいまだに前近代的な土地制度が続いていたでしょう。
 またアルフレッド・C・オプラーは、日本占領中、法律裁判制度の改革の主要な考案者でした。
 日本で家庭裁判所、および法務省の人権擁護局が設立されたのも、彼の貢献によるものです。彼は、すでにキリスト教に改宗していたユダヤ人の両親から生まれた人でした。
 占領政策に参加したユダヤ人セオドア・コーヘンは、占領後も日本にとどまり、日本人と結婚しました。彼は、戦後の日本において労働者を抑圧から解放し、かつ彼らが共産主義に陥らないよう防止するために尽力しました。
 また、男女の社会的平等に関する規定を新憲法に取り入れるよう働きかけたのは、ユダヤ人女性ビート・シロタでした。とくに憲法二四条の夫婦平等権は、彼女の貢献によるものです。政治学者スーザン・ファーは、こう述べています。
 「ビート・シロタのごとき非凡な女性が日本国憲法草案作成に入っていなかったならば、新憲法において選挙権以外に明確に女性の権利を保障するものを入れることができたか否かは、疑問である」。

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ビート・シロタ氏(右)

 これらの事柄を知ると、連合国による日本占領政策が「ユダヤ人の陰謀」であるというあの屈折した見方は、まったくの的外れであることがわかってきます。
 当時、日本人のほとんどは、彼らがユダヤ人であることを知りませんでしたし、彼ら自身、ユダヤ人としてよりは善良なアメリカ人として行動しました。
 しかし、今日の日本があるを得ているのは、こうした多くのユダヤ人のおかげだと言っても過言ではないのです。

【参考文献】
ベン・アミー・シロニー著『ユダヤ人と日本人』新日本公法刊

 

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