人生の祝福を求める祈り その一

パンを求める祈り

ルカ伝11章1-4節

 

 2012年という新しい年が今日から始まります。昨年は思いがけず大震災を経験しましたが、今年もどんな年になるのかを正確に予測できる人は誰もいないことでしょう。ただ、人々の心の中で、これまで漠然としていた未来に対する不安がだんだんと強くなって、具体的な形が見えるような気分を持ちつつあるように思えます。その上、このような不安と向き合いながらも、自分らしい生き方が見いだせるのかどうか、その解を見出すのがずいぶんと難しくなってきているように思えます。実は、キリストが教えておられた時代は、現代以上に不安定な激動の時代でした。今以上に反乱や戦争などの人災や地震や飢饉などの自然災害に人々は見舞われたのです。しかも、年金や健康保険などの社会保証は何もなかった時代です。

 キリストが教えた相手は、このような人たちであったことを覚える必要があります。今日のテーマは、「パンを求める祈り」ですが、これは「主の祈り」の後半の「人生の祝福を求める祈り」の最初にあるものです。これは、当時の生活の不安定さを反映していると思われます。すなわち、「パンを求める祈り」は、最も切実な祈りであったということです。「パンを求める」ことがそれほど切実であったにもかかわらず、「主の祈り」が「神の栄光を求める祈り」から始まっていることを、先々週見てみました。まず、このことをもう一ぢ振り返って見ましょう。

(1)「主の祈り」の前半と後半の関連

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイ6:33

 「主の祈り」では、「神の栄光」を求めた後に「人生の祝福」を求める祈りが続きます。これには複数の理由が考えられますが、その一つは、「神の栄光を求める人生」を前提としてのみ、「人生の祝福」があるということだと思います。「人生の祝福」を優先して求めるときにそれを失い、「神の栄光」を優先するときに、それに付随して「人生の祝福」も実現するというのが、キリストの教えなのです。もう一つの理由は、「人生の祝福」も「神の栄光」の一つの現れだということです。神はあなたを祝福することによって、ご自分の栄光を現されるのです。ここに、「人生の祝福」が正当化される根拠があるのです。あなたの人生は祝福されるべきです。なぜなら、それが神の栄光だから、ということなのです。

 実は、「主の祈り」の前半と後半の関係を簡潔に表現した箇所があります。マタイ633をご覧ください。この節の前半は、〈神の国とその義とをまず第一に求めなさい〉とあり、後半は、そのような追求に必ず付随して、日常のパンや衣服の必要が備えられるのだ、という教えになっています。この節の前半は、「主の祈り」の前半に相当します。この節の後半が「主の祈り」の後半に相当すると思います。

〈神の国とその義を求める〉と、二種類のものが与えられるとされています。第一のものは求めた〈神の国とその義〉、第二のものは「食べるもの」や「衣服」など、生きていく上での必要なものです。この節の直前で、〈異邦人〉は、〈何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配〉(マタイ6:31)するあげく、神に祈り求めるのは、もっぱらこのようなものばかりだが、〈あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである〉(マタイ6:32)とあります。ですから、安心して〈神の国とその義〉という第一のものを求めなさいとなっています。ですから、自分の実際的な生活や人生行路がどうなっても良いとキリストが考えておられるのではないのです。第一のものを第一とするという信仰において、必要なものは与えられるのだと、キリストは教えたのです。

(2)パンが占める位置

パンを求めるとは?

私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。      新改訳  ルカ11:3

私たちに必要なパンを、日々私たちに与えてください。 岩波文庫訳 ルカ11:3

 では、「パンを求める祈り」を見てみましょう。ルカ113をご覧ください。新改訳では〈糧〉とありますが、原語では岩波文庫のように〈パン〉なのです。これは、当時の主食でしたが、食事一般をも指す言葉です。日本では「ご飯」というと、「ご飯」だけでなく、サラダや汁物も含めた食事を指すことと同じです。また、新改訳で〈日ごとの〉と訳された言葉は難解で、岩波文庫のように「必要な」と理解されることもあります。しかし、ここで言わんとしていることは明瞭で、生きていく上で絶対条件である「日々の食事」を求めるのです。さらには、拡張解釈をして、生きる上で必要なもの全般と考えることができます。すなわち、「パンを求める祈り」とは、生計を立てることができ、それを維持できますようにという祈りなのです。  

 先ほどのマタイ6章では、〈まず第一に求め()〉のは、「パン」ではなく〈神の国とその義〉であるとキリストは教えました。これは、優先順位の問題で、パンを求めて祈るな、という教えではないのです。ただ、「神の栄光」を優先して求める人生が前提とされていて、その上で、「パンを求める祈り」があるということなのです。この「パンを求める祈り」は、三つの「人生の祝福を求める祈り」の最初にありますので、それだけ重要であると、イエスが見なしておられたのです。なぜなら、この祈りが叶えられないと、人生の基盤が失われるからです。あるいは、別の悪い方法でパンを手に入れることになるかもしれません。ですから、個別の人生が成り立つためには、「パンを求める祈り」が聞かれることが必要なのです。もう一つ「パンを求める祈り」が重要なのは、「神の栄光」は個別の人生において具体的に現れるからなのです。「パン」(職を含めた生計を支える社会活動)が具体的に満たされるプロセスにおいてこそ、個別の人生において「神の栄光」が現されるのです。ですから、「パンを求める祈り」は、「神の栄光」が具体的に現れることを求める祈りでもあるのです。  

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。  詩篇90:10

 「パンを求める祈り」が求めているのは、「生計を立てて、それを維持する」ということだと思います。ルカ伝の「主の祈り」では、〈毎日お与えください〉となっています。ですから、生きる限り生計が維持されることを求める祈りなのです。しかし、「生計を立てる」ことは、そう容易いことではありません。この点でみなが苦労するのは、今も昔も変わりないのです。それで、「生計を立てる」ことが大変だから、神を信じる余裕などないと考える人もいます。

詩篇9010をご覧ください。これは「神の人モーセの祈り」という表題があります。40年間の荒野での生活を振り返ってみて、「生計を維持する」のが如何に困難であったのかを、告白しているところだと思われます。砂漠やその周辺にあるステップ地方で生きていくことは、現代人の予想を越えるほどに困難なことでした。ちょっとした判断ミスが民族全体を死に至らせることもありました。しかし、モーセは生計を維持することが困難だから、神を信じる余裕はないと考えたのではなかったのです。むしろ、生計を維持することが困難だからこそ、神に信頼しようと考えたのです。「生計を立てたり、維持したりするのは大変だ」という現実を前にして、二つの選択肢があります。だからこそ神を信じる余裕はないとする選択と、だからこそ神に信頼するという選択なのです。〈私たちの日ごとの糧を毎日お与えください〉と祈る人は、モーセと同じ見解に立つ人なのです。ここに、「パンを求める祈り」を神に捧げる意義の一つがあるのです。このことを、もっと深く考えてみましょう。エレミヤ213をご覧ください。

湧き水の泉かこわれた水ため

わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。       エレミヤ2:13

 ここには、二つの比喩があります。神が〈湧き水の泉〉、それ以外の〈多く〉を〈水をためることができない、こわれた水ため〉とされています。〈泉〉は自らが水源であり、水がこんこんと湧き出て、絶えず住民の命を保ったのです。〈水ため〉は人工的に掘られた貯水槽のことで、雨を貯めたり、近くに適当な水源があれば、そこから水を引いてきて利用されたのです。ところが、〈水ため〉は究極の水源ではないので、どこかから水が供給される必要があります。また、水漏れが起これば、速やかに水が失われて干上がってしまうこともあります。

 この人工的に掘られた〈水ため〉とは何のことでしょうか?それは「神の代替となるもの」すべてを指しています。偽りの神々(偶像)だけではありません。当時のユダの人たちが頼りにしてきたオリエントの超大国を含む「人間のわざ」のすべてをも指しています。しかし、エレミヤはそれらは〈こわれた水ため〉になるだろうと預言したのです。あなたがたが国を守るために、優先的に取り組むべきことは、〈湧き水の泉〉である神に立ち返ることであったのに、あなたがたは嘲ってそうしなかった。エレミヤのこの言葉は、個人的な人生の「生計を立てて、それを維持する」という営みにおいても、言えることだと思います。  

(3)人生設計を求める祈り

神の作品としての私

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
       エペソ2:10前半

  次に、「パンのための祈り」を献げる二番目の理由を見てみましょう。エペソ210前半をご覧ください。ここには、〈私たちは神の作品〉とあります。私たちが〈作品〉(ポイエーマ)であることが、「パンのための祈り」を神に捧げる第二の理由なのです。先日行われた「芸術と福音」というテーマでのワークショップでは、絵には作者の何らかの感情や思想やメッセージが表現されているということでした。人類すべてという広い意味でも、キリスト者という狭い意味でも、人は〈神の作品〉であって、何らかの神からのメッセージを表現するものなのです。しかも、そのメッセージは、すべての人に共通したものもありますが、その人固有のものの必ず含まれているのです。ここに、個性的でその人固有な人生が担保されるのです。人は皆同じでなくても良いのです。もちろん、人間としての共通するものがなくてはいけないのですが、神の摂理によって、あなた自身しか生きられない道、しかも、あなたらしい生き方があるはずなのです。

 去年は、アジアのある国での少数民族の生活をサポートする活動の報告をしていただきました。いろいろな意味で大きな犠牲が伴う大変な奉仕活動だと思いました。しかし、スタッフの方はそれが自然な生き方であって幸せを感じておられるようでした。なぜなら、その方がそのような生き方に召された〈神の作品〉だからなのです。自分は何をしたらよいのですか、と問う人に対して、ある方は「答えはあなたの内部にあります」と答えました。なぜなら、あなたが何かをするために造られたという刻印が、あなたの中にあるからです。私の場合、牧師という仕事を続けられたのも、これが私らしい生き方であったからです。また、収入が保証されているわけではないが、それが私にとって「神の国」を求める生き方であるから、必ず生計も立てられる、それが私の確信でした。

神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。  エペソ2:10後半

 さらに、エペソ210後半をご覧ください。〈良い行いをするために造られた … その良い行いをもあらかじめ備えてくださった〉とあります。この〈良い行い〉の〈行い〉(エルゴン)とは、第一に仕事や行為を意味します。第二にその仕事や行為によって生み出された結果をも意味するのです。ですから、芸術や商業や学問の作業の結果として生み出された「作品」とも訳される言葉なのです。人生において何らかの「作品」を生み出すような〈神の作品〉、それがあなたなのだ、ということなのです。

 しかも、そのような意味での〈良い行い〉は、神が〈あらかじめ備えてくださった〉とあります。ですから、人間の意志や思惑を超えたところにあるものなのです。と同時に、既に述べたように、自分の内部に刻印されているものでもあるのです。ですから、自分にとっての〈良い行い〉が具体的に何なのか、自分の内側を探りながら、神にその答えを求めることができるのです。そして、その道を選択して進んだら、困難にぶつかったり、迷ったりする度に、その道を維持できるように祈るべきなのです。「パンを求める祈り」は、このような「人生の大枠」を支える祈りなのです。  

隣人の祝福を求める祈り

私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
               ルカ11:3

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。       Ⅱコリント9:10

 最後に、「パンを求める祈り」が、個人のレベルから分かち合いのレベルに広がることを見てみましょう。ルカ113を一度ご覧ください。ここには、〈私たちの日ごとのパン〉とあるように、自分だけの〈パン〉ではなく、〈私たちのパン〉を求めているのです。家族のため、他のキリスト者のため、そしてさらに社会的な広がりを持つものなのです。これは、地域や国のくらしや経済、そして、それが安定的に守られるために平和を求める祈りでもあるのです。もちろん、国の枠を越えて連帯する祈りでもあります。 

 Ⅱコリント910をご覧ください。神が〈蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる〉と書かれています。ここでは、〈良い行い〉が「種を蒔くこと」に喩えられています。秋に種を蒔くと、春には何倍、何十倍もの種が実ります。それは、あなたの隣人と分かち合うためのものなのだ、ということなのです。例えば、親が自分の子どもに蒔いた愛という種は、将来大きな収穫となって親と子どもの大きな財産となって返って来るものなのです。〈私たちの日ごとの糧を毎日お与えください〉という祈りは、このように大きな広がりを持つ祈りなのです。今年一年間、この祈りをもって、みなさんが祝福されることを願います。

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2012y/120101.htm