「見よ。わたしは新しいことをする」

イザヤ書43章18-28節 

 

 新年明けましておめでとうございます。主にある兄弟、姉妹とともに新しい年を迎え、今年も共に主を賛美し、共に主を礼拝し、共に主に仕えていくことができることを心から嬉しく思います。


 毎年の年末の説教は「今年の十大ニュース」を振り返るのですが、昨年はその機会がありませんでした。そこで昨年を振り返ると、3月11日に起こった東日本大震災につきます。日本における観測史上最大のマグニチュード (Mw) 9.0を記録し、死者行方不明者数約2万人、そのほとんどが津波によるものでした。海岸地域の町々ががれきだらけとなってしまいました。また福島原発が爆発し、放射能汚染に人々は恐れました。


 経済的にはリーマンショックから立ちなおりかけていた矢先の出来事でしたから、苦境に立たされた方々も多かったことと思います。私たちの教会の方々も仕事がなくなって苦しんだ方々もおられます。節電が叫ばれ、企業の土日操業に合わせて私たちの教会では金曜礼拝を3か月間持つこととなりました。支援金を集めて送金し、支援物資を山崎先生をはじめとして神学生にも運んでいただきました。誰もがもう二度とこのような災害が起こってほしくないと思ったでしょう。そして誰もがいつ死と直面するのかわからないという不安を持つことになったのです。速やかな復旧と復興がなされることを祈る者であります。

しかし、今朝の聖書箇所を読むと、18節 「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」とあります。どうして振り返るなと神様が語られているのでしょうか?

1.不安、不平不満の種となるから

 この御言葉は、かつての出来事をきれいさっぱりと忘れ去ってしまいなさい、という事を言っているのではありません。振り返ることによって、かつて起こった出来事のために心配したり、不平不満を言ったりする人々に語られています。「大震災のせいで私には何もなくなってしまった」「あの大震災がなければ私は幸せだったのに」「あんな恐ろしいこと起こるなんて信じられない、これから先不安でしかたがない」と不平不満を口にするのではないでしょうか。神様はそのような人たちに対して「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」と語られます。

 この聖書箇所の背景について知っておく必要があるでしょう。イザヤが語ったこの預言は、イスラエルがバビロン帝国によって滅ぼされて捕囚となって引きずられていき、奴隷のような生活を強いられていくことを預言していました。紀元前586年にエルサレムは破壊され、ゼデキヤ王以下ユダヤ人たちはバビロンへ連行されました。彼らは思ったでしょう。「神様はなぜ私たちを助けてくれないのか?なぜかつてエジプトから救い出してくださったように救ってくださらないのか、神様は私たちを見捨ててしまったのか?」とバビロンでのつらい生活やかつての神様の奇跡を思い出すと出てくるのは不平不満ばかりだったでしょう。

なぜそのような苦しい奴隷状態になったのかは理由ははっきりしています。それは彼らの不信仰の故です。イスラエルは神様の選びの民でしたが、人々は神様の守りと祝福よりも人間の王様を立てて守ってもらう安心を求めました。しかし、歴代の王たちはイスラエルを正しく導くことができず偶像の神々を拝み人々も堕落した生活を送るようになったからです。
43:22 しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。
43:23 あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえをささげて、わたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物のささげ物のことで、あなたに苦労をさせず、乳香のことであなたを煩わせもしなかった。
43:24 あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。


 不信仰が祝福も希望もない生活の理由なのに、今までの苦しみを思い返しては不平不満を神様に対して言って不信仰を重ねる。そうするとますます神様の祝福がなくなり平安がない。するとまた「昔の方が良かった」と言って不平不満を言うのです。不信仰スパイラルと言ってよいでしょう。今までの苦しかったことやかつての祝福を思い返すことによって私たちは罪を重ねてしまいます。だから神様は「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」と語られているのです。

2.神様も思い出されないから

 そして過ぎたことを振り返らない二つ目の理由は、神様も私たちの罪をもう二度と思い出さない、と言われるからです。
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。
イスラエルに対する罪の赦しの宣言です。しかし、先ほどの御言葉はイスラエルの罪を神様が責められていたのに、なぜ急に赦すと言われるのでしょうか?義であるはずの神様が何の良いところのない罪人の罪を赦すという事は成り立たないのではないでしょうか?罪人を赦して天国へ入れることは神様は罪を裁かれない不正な神となってしまうことになります。ではなぜ神様は罪深いユダヤ人たちを赦すと言われるのでしょうか?それは、この御言葉の中にイエス・キリストの十字架の救いが啓示されているからです。罪が赦されるためには、その人自身が死ぬか、身代わりと言う方法しかありません。しかし死んでしまっては意味がありません。身代わりと言う方法しかないのです。その人間の身代わりとなりえるのは動物ではなく、人間であり、それも罪のないお方でなければなりません。罪人は罪人の身代わりとなりえないからです。

 

ですから神様は、救い主イエス・キリストをベツレヘムに生まれさせ、十字架において私たちが受けなければならない罪の刑罰を身代わりに受け死なせ、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えることを神様は御計画されていました。将来必ず果たされる十字架の贖いのゆえに「罪を思い出さない」と語られているのです。神様が私たちの過去の罪を思い出さないと言ってくださるのですから、私達もかつての罪の生活や祝福のない生活を振り返って愚痴をこぼすべきではないのです。

3.新しいことをしてくださるから


 三つ目の理由は、19節の御言葉です。
43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
 これはバビロンにとらわれているイスラエル人たちを解放し、祖国へ帰還させることを神様が約束されているのです。バビロンから、祖国イスラエルのカナンの地までの荒野に道を設け、荒れ地に川を設けて神様はイスラエル人を祖国へ連れ戻すと約束されています。そして歴史はその通り実現しました。神様はバビロンを裁き、ペルシャ帝国によって滅ぼされました。そのペルシャの王クロスはユダヤ人たちを解放したのです。
Ⅱ歴代36:22 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。
36:23 「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、【主】がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」


 クロス王がこのような御触書を出した理由の一つには、側近として仕えていた預言者ダニエルの功績と証しがありました。そしてその後ろ盾はもちろん全能の神様の働きでした。預言されたとおり最初の捕囚から70年後にイスラエル人は祖国に戻ることを許されたのです。

 同じように神様は信仰の民である私たちクリスチャンに対して祝福を与えてくださいます。新しいことをしてくださり、私たちが歩むべき道を備えてくださいます。昨年がどれほど暗い年であったとしても主の用意される道には必ず渇きを潤す水が用意されます。新約聖書のことばに置き換えるなら、脱出の道です。
Ⅰコリ 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

 今年、私たちの教会は新しい歩みを始めようとしています。この教会を開拓され33年間牧会してくださった山崎先生ご夫妻と、伝道師の依田先生ご夫妻によって岡崎市での開拓伝道が始まります。これまでのお働きに最大限の感謝と敬意を払いつつ、開拓伝道の祝福をお祈りしたいと思います。しかし、私たちの教会にとっては指導者が4名も抜けることはとても大きな穴となります。今までしてくださった奉仕をどうしたらよいでしょう。教会学校や通訳、交わりなど、また私が病気になったときの説教はどうしましょう。ギリギリできりぬけてきた教会会計は大丈夫でしょうか。・・

 

人間的な心配をしていたら胃が痛くなり白髪になってしまいそうです。しかし今までの事にとらわれて振り返ってばかりいたなら、かならず不安があり、不平不満が出てくるでしょう。そして何事も前進できません。
 19節の「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」と言う御言葉を私自身をはじめとして皆さんも覚えてほしいと思います。主が成してくださる新しいことに期待しましょう。神様が道を備えると約束されています。
神様がそのように道を備えてくださる目的はなんでしょうか?・・21節に答えがあります。
43:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。


 私たちが備えられた道を歩み、喜びと感謝のうちに神様の福音を宣べ伝えるためです。今まで説教者が三名もいて本当に神様の恵みでした。その恵みを岡崎市に住む人々に分かち合うことは素晴らしいことです。イエス様の福音が広められることは重要な神様の御心です。新しいことをしてくださる全能の主に期待して歩む年といたしましょう。

 

http://bcjapan.com/messagetext/20120101.html