キリストのご降誕を祝う意義について

ルカ伝2章8-20節

 

    クリスマスを記念する礼拝がおそらく全世界で行われていることでしょう。クリスマスを祝うのは、キリスト教会だけではありません。アメリカなどでは、小売業にとっては、クリスマス商戦と呼ばれるように、多くの顧客を獲得しようとして、一年で一番忙しい時期でもあります。この時期の売れ行きが、年間売り上げの多くの部分を占めていて、景気の回復の度合いを占うと見なされているようです。日本でもその辺の事情は変わらないと思います。町の雰囲気もクリスマス一色です。このように、クリスマスが、世界的なイベントであることは間違いありませんが、クリスマスのテーマがどれほど理解されているかは心もとない話しだと思います。

 福音書の中で、キリストのご降誕を扱った記事は、マタイ伝とルカ伝にあります。マタイ伝には、主に誕生後2年目の出来事が書かれていますが、ルカ伝には誕生直前と直後の事情が書かれているのです。ですから、正確に言って、キリスト誕生の出来事については、ルカ伝しか語っていないことになります。こういうわけですから、今日は、ルカ伝2章前半を中心に、クリスマスのテーマであるキリストの誕生について、ご一緒に見てみたいと思います。

 

(1)羊飼いたちへの啓示

歴史から除外された営み

ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。   ルカ2:6-7

 キリストの誕生の経緯を先ずご紹介しましょう。ご両親であった<ヨセフ>と<マリヤ>は、<住民登録>のために、<ベツレヘム>という町にやってきました。この町は<エルサレム>の南8kmに位置し、海抜760mの丘陵地にありました。ところが、他にも<住民登録>のために旅してきた人たちが多かったのでしょう、<宿>の空き室がなく、やむなく、家畜小屋に泊まったものと思われます。実は、丘陵地であるためか、ベツレヘムには多くの洞窟があって、当時、家畜小屋として利用されたものもあったのです。この洞窟の家畜小屋で、キリストが誕生されたのです。

 おそらく、この夫婦は10代後半でした。<ヨセフ>は<大工>(テクトーン;職人)を仕事にしていました。<大工>とは、原語では「職人」を指しています。当時の「職人」(手工業に従事する者)は、中産階級に属していました。ユダヤ教の主流派であったパリサイ派は、この中産階級の出身者が多かったとされています。ただ、<ヨセフ>と<マリヤ>がまったく無名の職人夫婦であったことは、間違いありません。

さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。    ルカ2:8

 次に、<羊飼いたち>(ポイメーン)が登場します。<ベツレヘム>の東側に、現在「羊飼いの野」と呼ばれる丘があります。ここは<羊飼いたちが、野宿で夜番をし>していた場所として、観光地となっていますが、実際そうであったのかを知る手がかりはありません。とにかく、彼らは羊のオーナーに雇われて、春から秋までの乾期の間中、牧草や水を捜し求めて、野外で仕事をしていたので、安息日を守れなかったのです。それゆえに、この<羊飼い>に従事する労働者は、遊女や取税人とともに、「罪人」(ハマルトーロス)とされて、軽蔑される傾向がありました。

 キリストの誕生に関わって登場する人たちがこのような無名の人々であったことに、先ず注目する必要があるのではないでしょうか?

天使の顕現

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。    ルカ2:9

 このように差別されていた<羊飼いたち>に、<(一人の)主の使いが…来て、主の栄光が回りを照らした>のです。ベツレヘムにも重要人物や有力者はいたでしょうに、クリスマスのメッセージを携えて来たこの<主の使い>が、どうして当時顧みられなかった貧しい<羊飼いたち>に現れたのでしょうか?一般的な感覚では、まったく理解できないことですね。

 <主の栄光が(彼らの)回りを照らした>というフレーズをご覧ください。この<栄光>(ドクサ)は、神の臨在のしるしとして、<至聖所>に現れた「輝き」(シェヒナー)の訳語でもあります。ですから、神の臨在があったことを意味するのです。<天使>どころが、神ご自身が彼らに現れたということなのです。このような<栄光>の現われが何を意味するのかは、後で触れたいと思います。

 

(2)クリスマス・メッセージ

民の代表としての羊飼い

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。 … 」    ルカ2:10

 次に、<御使い>が告げたメッセージを見てみましょう。10節をご覧ください。先ず、<この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来た>と述べています。このことは、<御使い>は<羊飼いたち>を、<民全体>の代表と見なしていることを意味します。<御使い>にとって、彼らはイスラエル民族の代表としての位置付けなのです。このことを考えてみましょう。

 ユダヤ社会から<罪人>とされ、誰からも見向きもされなかった彼らが、なぜ、民の代表なのでしょうか?その理由は、罪人の罪を背負うためにキリストが来られたという点にあります。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。     マルコ2:17

 マルコ2:17をご覧ください。このみことばの背景として、<罪人>たちと会食しておられたイエスが、ユダヤ教の学者たちが非難されたことに応えているのです。ここには、<医者>(イアトロス)と<病人>との関係の比喩があります。この比喩の根底には、人間には完全に<病人>でないと言える者がいないように、<罪人>でないと言える者も存在しない、というイエスの見解があります。しかし、<羊飼いたち>を<罪人>と見下げるが、自分たちが<罪人>であるという自覚のないユダヤ教の学者たちは、救いようがないのだ、という暗示があるのです。彼らは、「招かれざる客」であり、救いの圏外にあったのです。彼らとは対照的に、自分たちを<罪人>と自覚していた<羊飼いたち>は、救いの射程にあったと言えます。医者が病人を招くように、神は自分を<罪人>と自覚した人たちを招かれるのです。

 ユダヤ教の主流派の見解に反して、皮肉なことに、人間には<罪人>しかいないのです。ただ、自覚があるかどうかの違いがあるだけなのです。そのことを知らないで、<羊飼いたち>を<罪人>として見下し、自分たちを<義人>(罪なき者)と考える限り、ユダヤ教の指導者たちは、救いの可能性が閉ざされた<罪人>なのです。

救いは個人的な出来事

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
                ルカ2:11

 <羊飼いたち>が民の代表とされた理由を見てきました。しかし、11節を見ると、ここには、<あなたがたのために>とあるように、そこにいた彼らに重点が置かれています。最初は、キリストの誕生は<民全体>のためという表現でしたが、そこにいた<羊飼いたち>という、具体的な個人へとメッセージの宛先が特定されているのです。

 <民全体のために>とは、救いの普遍性を言い表しています。後には、キリストによってユダヤ民族全体から諸民族全体にとグローバルに拡張されることになります(ヨハネ10章など)。キリストの誕生は、全人類の救いのための普遍的な原理です。しかし、救いの具体的な実現は、<羊飼いたち>のように、特定な社会的背景や特定の事情を抱えた個人を通して行われるのです。

…救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。  ルカ2:11

 もう一度、11節をご覧ください。<救い主>(ソーテール)とは、元々は、プトレマイオス朝の王たちやローマ皇帝に与えられた称号なのです。彼らは、民を外敵から救済し、国民の生命と繁栄を保障する「世界の救い主」(ホ ソーテール トゥ コスムー)と呼ばれたのでした。

 しかし、<主キリスト>(クリストス キュリオス)はそのような政治的な救世主としてではなく、罪と死から人を救うという意味での<救い主>として、紹介されているのです。<救い主>の誕生は、まさに「人の罪を背負う」ために必須であったのです。<キリスト>は、あなたの罪を背負うために、この世界の罪に満ちた歴史に現れたのです。

 

(3)天使たちの賛美

第一の賛美

いと高き所に、栄光が、神にあるように。  ルカ2:14a

 最後に、14節の天使たちの賛美を見てみましょう。この賛美は二つの部分からなりますが、キリストの誕生を受けた賛美であることに注目する必要があります。それは、キリストが誕生されたまさにそのタイミングに、完全にふさわしいものであったのです。そして、その時に語るべきもののすべてを言い尽くしたものなのです。

 では、具体的にその賛美を見てみましょう。第一の賛美は、<いと高き所に、栄光が、神にあるように>というものです。これは、原語の語順では、「栄光あれ、いと高き所では、神に」となっています。<栄光>(ドクサ)が文頭にあって、強調されているのです。この<栄光>は、9節では<羊飼いたち>の回りを照らしたと書かれていました。それは、どのような<栄光>なのでしょうか?それは、民の代表である<羊飼いたち>、すなわち<罪人>としての人間を照らした栄光でしたから、最もふさわしい解釈は、「神のアガペー」(無償の愛)だと思われます。天使たちは、人の世を照らす「神のアガペー」を賛美していたのです。神が卑賤の人となられたこと、そして、人類の罪を背負うであろうことが、天使たちが賛美した「神のアガペー」なのです。

第二の賛美

地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。 ルカ2:14b

 第二の賛美を見てみましょう。原語の語順は、新改訳と同じになっています。<地の上に>というフレーズが強調されていると思います。<地の上に>とは、人間が活動したり生きたりする世界と歴史を指しています。というよりも、個々の地域と個々の時代において、個々の事情を背負って生きる個々の人々の全体を指しています。

 第二の賛美で注目すべきことは、後半の<平和が、御心にかなう人々にあるように>というところです。<平和>(エイレーネー)とは、「神との和解とそれによってもたらされる祝福の回復」を指しています。それは、人間が本来受けるべき祝福が回復されることなのです。そして、そのことが<御心にかなう人々>に限定されているのです。注目したいのは、この点なのです。なぜ、特定の人々にだけ限定されているのでしょうか?

わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。    イザヤ57:15

 旧約聖書イザヤ57:15がこの疑問に光を当ててくれると思います。ここには、神が一人称で語られたところですが、天使たちの賛美と完全な対応関係にあるのです。ここに、<心砕かれて、へりくだった人>とありますが、これが<御心にかなう人々>に対応しているのです。そのような人々と和解し、ともに臨在される神がここに啓示されているのです。

 多くの方々は、天使たちはなぜ「地の上に、平和が、人類全体にあるように」と賛美しなかったのか、と反論されます。人類全体に及ぶ「普遍的な和解」を主張する「万人救済説」は近年盛り上がってきて、一般受けが大変に良いようです。救済が万人に開かれていることは確かです。しかし、救済の具体的な実現は、自分が罪人であることを深く認識して、自分の罪を背負うために人として来られたキリストを救い主として受け入れる人だけに起こるのです。これが天使たちの賛美の内容なのです。さて、あなたはどうでしょうか?自分を一人の<羊飼い>として、すなわち、自らの罪を深く自覚した人として、その罪を背負うために来られたキリストを受け入れるでしょうか?それとも、民の指導者たちのように自己正当化の道を歩み続けるのか、その決断が迫られているのです。

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2010y/101219.htm