救われた者はどのように生きれば
信仰生活のガイドラインである“十戒”の後半は隣人愛についての戒めです。隣人の命を尊ぶこと(第六戒)、性を尊ぶこと(第七戒)に続いて、今回は生活を尊ぶことについて学びましょう。
神は人を創造された時にエデンの園を設け「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ」られました(創世2:9)。見るからに食欲を殺ぐような味も素っ気もないものではなく、心も体も喜ぶようなものを神は用意してくださったのです。神によって備えられた生活を喜び楽しむことは、人間に与えられた特権です(1テモテ4:4)。
「盗んではならない」という第八戒は、そのように神が一人一人に備えておられる生活を侵すことです。したがって「盗み」は、単に隣人の生活を物質的・精神的に損なうだけでなく、その人に注がれた神の恵みへの侵害なのです。
今日のように複雑化した経済活動では、何が「盗み」になっているのかが極めて分かりにくくなっています。それにもかかわらず、人がいかに巧妙に隠しても正義と公正の神を欺くことはできません。「神は権威者が罰するような盗みや略奪を禁じておられるのみならず、暴力によって、または不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、利息のような合法的な見せかけによって、あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、わたしたちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとするあらゆる邪悪な行為また企てをも、盗みと呼ばれるのです」(申命25:13-16他も参照)。
このような不正がはびこる所には、必ず貧困が生まれます。多くの人々の生活の犠牲の上に、一部の力ある人々の富が築かれるからです。旧約聖書の預言者たちが、上記のような不正行為と貧しい人々の惨状をしばしば一緒に語るのはそのためです(アモス8:4-6、ミカ6:10-12等)。
隣人の生活を損なう「盗み」は、結局のところ自己愛の一つの変形にすぎません。自分さえ良ければ他人の生活がどうなろうとかまわないという自己中心性の現れです。さらに信仰問答は「あらゆる貪欲や神の賜物の不必要な浪費」もまた盗みであると指摘します。何であれ、神から託された賜物を必要以上に欲したり浪費したりすることは、神のものを盗むことと同罪なのです。
「盗み」は、単に隣人の生活を物質的・精神的に損なうだけでなく、 その人に注がれた神の恵みへの侵害なのです。
この世界に満ちる物すべては主のものです(詩編24:1)。私たちは何も持たずに生まれ何も持たずに去って行く者なのですから(1テモテ6:7、ヨブ1:21)この世の富に執着してはいけません。むしろ神から委ねられているもので満足し、それを忠実に用いる者となるべきです(ヘブライ13:5、1テモテ6:17-18)。
それでは、どのような生き方を第8戒は求めているのでしょう。「わたしが、自分になしうる限り、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行い、わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けること」だと、信仰問答は答えます。
それは一言で言って、与える生活です。自分ではなく、相手を豊かにすることで、お互いが豊かになる道です。それは単なる物質的豊かさではない、愛に基づく豊かさと言えましょう。そして、そのような生活の模範を、私たちは主イエスに見るのです。
主イエスは二人の強盗と一緒に十字架にかけられました。その事実が象徴しているように、イエスの御生涯は最後の最後まで与え尽くす生涯でした。神から盗んでいるような私たち罪人のために御自分のすべてを与え尽くすことで、私たちを豊かにしてくださったのです(2コリント8:9)。
このキリストの福音に生きる者もまた、大いなる感謝と喜びから、人に惜しみなく施す者とされるでしょう(2コリント8:2)。なぜなら、主イエス・キリストにまさる宝は無いからです(フィリピ3:8)。
特に「困窮の中にいる貧しい人々」を心に留めましょう。彼らもまた神の子らです。主イエスも自らを貧しい人々と同一視されました(マタイ25:35-40)。
私たちが誠実に働いて正当な収入を得(エフェソ4:28)、その賜物を用いて互いに助け合い、とりわけ貧しい人々の生活と尊厳が回復されて行く時に、主の栄光は現されるのです(イザヤ58:6-8)。