神の御前で義とされるとは
これまで学んできたことすべてを信じることは、今の私の生活にとって大きく二つの益をもたらすと問59は教えました。一つは神の御前で義とされること、もう一つは永遠の命の相続人となることです。永遠の命という天国行きのキップを得たことが大きな恵みであることはよくわかりますが、キリストにあって神の御前で義とされるとはいったいどういうことなのでしょう。
この問いに対する少々長い答えこそ、キリスト教の歴史を大きく変えることになる宗教改革という出来事の中心にあった問題です。「ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰によってのみ」人は神に義とされる。これがいわゆる“信仰義認”と呼ばれる聖書の教理です。
いったい何が問題だったのでしょうか。『信仰問答』は興味深いことに、私たちの“良心の声”についてまず語っています。「お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」。どんなに繕おうが人の見ていないところでお前がどんなに多くの罪を犯しているか私は知っているぞ。そもそもこれまで神の戒めを完全に守ったことなど一度もないではないか。今は教会に通っているかもしれない、洗礼を受けているかもしれない、クリスチャンだと言っているかもしれないが、外からは見えないお前の心は悪い思いで渦巻いているではないか…。
この鍵括弧で括られた良心の声、これが実は当時まじめに生きていた人々の心の声そのものなのです。宗教改革の立役者マルティン・ルターも例外ではありません。彼が未だ修道士であった時、この心の声がルターをずっと悩ませていました。修道院長に相談しても、そんなに悩む必要はないと言われる。実際、はた目から見れば模範的な生活そのものでした。ところが、自分自身の良心の声がそれを許さない。それにルターは苦しみました。なぜなら、心の奥をお見通しになる神の赦しを得られない以上、そこに待ち受けているのは聖なる神の審判と永遠の滅びに他ならなかったからです。
たとい私の声が責め立てたとしても、キリストの御声が私を赦してくださる…。
これが“義認”ということです。
ところが、私の良心がいかに責め立てたとしても「神は、わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものと」してくださると言うのです。
先ほどの良心の声をまるで裏返しにしたように「あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなして」くださると言われます。
私の声が問題なのではない。キリストが私のために何をなさったのかが問題なのです。たとい私の声が責め立てたとしても、キリストの御声が私を赦してくださる。私自身をまるでキリストであるかのように、義人とみなしてくださる。これが“義認”ということです。そして、それはただ「わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけ」起こることなのです。
イエス・キリストを信じるとは、ちょうど傘の中に逃げ込むようなことです。傘の中には依然として真黒な心を持つ私たちがいたとしても、傘の上からは隠れて見えない。いくら目を凝らしても私の姿は見えない。傘しか目に入らない。
真黒な私の上にキリストの真赤な傘が覆います。私の罪を赦すために流された血潮に染まった真赤な傘が、私のすべてを覆うのです。それはキリストの愛の傘です。キリストを信じるとは、この愛の傘を信じることです。信じてここに留まることです。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ8:1)。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(1ヨハネ2:1)。わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存知である神が“安心しなさい”ととおっしゃってくださるのです(1ヨハネ3:19-20参照)。
これが聖書の“福音”です。この福音によって宗教改革が起こりました。それは、私たち人間の最も深い心の闇に与えられた救いの光の発見でした。誰にも奪うことのできないキリストにある神の平安、今日も私たちを生かし続ける神の力です。
http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_060.htm