主イエスはいつでも共に


 キリストの昇天は「わたしたちのため」であったと前回学びました。私たちのためにキリストは弟子たちから離れて天に昇り、世の終わりまでそこにとどまっていてくださる、と。キリストは霊においてはどこにいてもいつも共にいてくださるわけですが、それでも”天に”おられるということには、どんな益があるのでしょう。『信仰問答』は、少なくとも三つの益があると教えています。

 第一に「この方が天において御父の面前でわたしたちの弁護者となっておられる」ということです。近寄り難い光の中に住まわれる天の神は、罪に対しては激しくお怒りになる至高の審判者であることを忘れてはいけません。神は憐れみ深い方ですが、ただしい方でもあられるからです(問11)。そのような神に相対する罪人は、イザヤが叫びましたように、ただ滅びるしかありません(イザヤ6:5)。私たちは元々そのような存在なのです。

 けれども、今やキリストが天にお昇りになりました。滅びるばかりの罪深い私たちのために命を捧げて償ってくださった方が、天の御父の面前におられる。かつては地におられ、私たち人間の苦しみ・悩み・病、一切のことを味わい知っておられる方が天におられる。あたかも私たちのために御父の御前で立ちはだかっておられるように、私たちの弁護者となっておられます。

 キリストは地上に愛想をつかして天にお帰りになったのではありません。地上を這うようにして生きている私たち人間のことを御存知である方が、言わば私たちのことを御父に告げ、その怒りをなだめ、和解をもたらすために御父のもとへと帰られたのです(1ヨハネ2:1)。

    昇天されたキリストは、天と地とを結びつける引力なのです。

 第二に、この御方が天に昇られたのは、「わたしたちがその肉体を天において持っている、ということ。それは、頭であるキリストがこの方の一部であるわたしたちを御自身のもとにまで引き上げてくださる一つの確かな保証」となるためでした。キリストの復活が私たちの復活の保証となったように、キリストの昇天もまた私たち自身の昇天の保証となったということです。

 死んだら”天国”に行きますと簡単に人は口にしますが、そのようなことは罪人には不可能です。少なくとも”神の”御元に行くことはできません。しかし、主イエスに結ばれている人は、死後、主がおられる所に行くでしょう。それが天であれば天に、御父の元であればそこに行くのです。いつまでもこの方と共にいるためです(1テサロニケ4:17参照)。キリスト者が”天国”に行けると言うのは、そこに主イエス・キリストがおられるからにほかなりません。

 弟子たちと過ごされた最後の晩、イエスはあなたがたのために場所を用意しに行くとおっしゃいました(ヨハネ14:2)。移住する家族のためにまず父親が先に行って住む場所を用意し、一度帰ってきてから家族を連れて新しい土地に移り住むように、私たちは今主の帰りを待っています。

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 キリスト昇天の第三の益は、「この方がその保証のしるしとして御自分の霊をわたしたちに送ってくださる、ということ。その御力によってわたしたちは、地上のことではなく、キリストが神の右に座しておられる天上のことを求める」ということです。主イエス・キリストに結ばれている者は、その心も主と結ばれていることでしょう。父親の帰りを切望する家族の心は、たとい身体はこちらにあっても、父親の元にあるものです。それと同じように、キリストを切望する者もまた地上のことではなく、天上のことを慕い求める。これがキリストの霊が与えられているという証です。肉体を持つ私たちは言わば地上に縛られていて、地上のことを考えずに生きては行けません。にもかかわらず、その霊においては、キリストのおられる天上のことを求めることができるのです(2コリント1:21-22)。

 天におられる主イエスは、私たち地上で苦しむ者のためにいつも心注いでくださる。地上にいる私たちもまた御霊によって天上の主イエスを慕い求める。こうしてやがて、天にあるものと地にあるものとが、主イエス・キリストのもとに一つにまとめられる完成の日が来る、と聖書は約束しています(エフェソ1:10)。昇天されたキリストは、天と地とを結びつける引力なのです。


http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_049.htm