イエス・キリストの犠牲の死
イエス・キリストに結ばれた者の死は、幸いな死であると学びました。けれども、なおしばらくの間この地上を生きて行く私たちにとって、イエスの犠牲や死は何の力も持たないのでしょうか。決してそうではありません。それは第一に「この方の御力によって、わたしたちの古い自分がこの方と共に十字架につけられ、死んで、葬られる、ということ」をもたらします。
神に背を向けて自己中心的に生きている私たちの心を、聖書は「古い自分」と呼んでいます。そのような古い自分は、しかし、イエス・キリストが私たちの身代わりとして神の裁きを受けて十字架上で死なれた時、キリストと共に死んだのだと言われます。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためである」(ローマ6:6)。パウロはまた、同様のことを次のような言葉で表現しています。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:19-20)。
別に言えば、神の御子が私たちの身代わりとして死なれたことによって「肉の邪悪な欲望がもはやわたしたちを支配することなく、かえってわたしたちは自分自身を感謝のいけにえとして、この方へ献げるようになる」ということです。
罪に染まった醜い自分はもうあの十字架で主イエスと共に死にました。罪のための犠牲はもう必要ありません。それでは何のために私たちは生きているのか。それは、自分自身を「感謝のいけにえ」として神に献げるためだと聖書は言います。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。
それでも私の中に今なお残る「肉の邪悪な欲望」をどうしたらよいのでしょうか。ここで注目すべきは「支配することなく」という言葉です。確かに罪は残っています。肉の邪悪な欲望は依然として私を悩ませるかもしれません。しかし、それらはもはや支配する力を失っています。私の中で今、支配しておられるのは主イエスだからです。罪の奴隷から解放されて、キリストの僕としての自由と喜びに生きるのです!
たとい地獄を味わっても、主はそこにおられます。
そして主が共におられるなら、そこはもはや地獄ではないのです。
『使徒信条』には、イエス・キリストの生涯についてもう一つの言葉が加えられています。「陰府にくだり」という言葉です。“陰府”とは死の世界あるいは地獄のことです。ところが、イエスが陰府にくだられたとはどういう意味なのか、答えは簡単ではありません。実際、様々な誤解も生み出してきたからです。にもかかわらず、この言葉が告白文の一部とされてきたことには何か大切な意味があるに違いありません。
仮にこの言葉がなかったらどんな感じを受けるか考えてみるとよいかもしれません。つまり、主イエスが「死にて葬られ」と言うだけでは何かが足りないということです。それらはすべて事実を語った言葉ですから、神の御子の受難を否定する人々にとっては、ほとんど意味をなしません。これに対して世々の教会は、主イエスの死が本当に神に呪われた死・見捨てられた死であったことを「陰府にくだり」という言葉によって表現したかったのではないでしょうか。
地獄とは、場所と言うよりも神から引き離された状態を指す言葉です。“神も仏もない”と人々は口にします。“生き地獄”という言葉に表されるような神なき世界の悲惨、それがまさに地獄です。
本当に神に捨てられるということがどれほど恐ろしいことか、私たちには十分理解できないかもしれません。けれども、ひたすらもがき苦しむ「最も激しい試みの時」「地獄のような不安と痛み」を味わう時が、私たちの人生にはあるでしょう。主イエスは、まさにそのような地獄に堕ちたままで終わるはずだった私たちを救い出してくださいました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と筆舌に尽くし難い苦痛と恐れの叫びを、イエスが代わって叫ばれたのです(マタイ27:46)。
たとい地獄を味わっても、主はそこにおられます。そして主が共におられるなら、そこはもはや地獄ではないのです(黙示1:17-18)。