「イエス」という名前の意味1
「使徒信条」の第二項のテーマは“子なる神とわたしたちの贖いについて”です。イエス・キリストについて教えられる部分が最も長いのは、このことが聖書の信仰の中心かつ最も大切な事柄だからです。キリスト教は、まさに“イエス・キリスト”にかかっています。他のことをどんなに詳しく知っていたとしても、この方について知らなければわたしたちの救いはありません。イエス・キリストについて深く知ることが根本的に重要なのです。
さて、まず取り上げられるのは、この方の名前についてです。出産が近づくと親は辞書と首引きで名前を考えます。ユダヤでも名前に特別の意味が込められることがありました。「イエス」という名前は、元々ユダヤの言葉で“ヨシュア(主は救い)”という名をギリシャ語に音訳したものです。ヨシュアと言えば、あの有名なモーセの後継者。おそらくは、彼の親たちがエジプト脱出を経験したのでしょう。私たちを主がお救いくださった。その喜びをわが子の名に表現したのかもしれません。似たような名前は他にも聖書にたくさん出てきます。「イエス」はめずらしい名ではないのです。
しかし、この方の場合は特別でした。父のヨセフや母マリアが名前を考える先に、天使が「その子をイエスと名付けなさい」と命じたからです(ルカ1:31)。主の救いをあらわす子になってほしいという親の願いではなく、この者こそが真に主の救いを実現する者であるという神の意思・神の啓示として付けられたのです。ですから、この方の救いは、多くの中の一つではなく、神が成し遂げる「唯一の救い」です。それを「ほかの誰かに求めたり、ましてや見出すことなどでき」ません。
この「イエス」という名前を、ローマ・カトリック教会では長いこと“イエズス”と呼んできました。同じキリスト教会なのに呼び方が違ったのです。まるで別の救い主を信じているようでした。しかし、聖書をプロテスタントと共同で翻訳することになった時に、カトリックはそれまでの呼び方を捨てて「イエス」に統一したのです。これは本当に大きな決断であったろうと思います。非常な違和感を覚えたに違いありません。自分の救い主がどこかへ行ってしまったかのように感じたことでしょう。それにもかかわらず、そう決断されました。
それは、たんなる言葉の問題ではなく、わたしたちにはただ御一人の救い主がおられるだけだという真理を一致して表すためでした。当り前のように用いているこの呼び名を、わたしたちは今日改めて自覚的に“唯一の救いを実現する方”という意味で用いなければなりません。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)。
イエスこそわたしの唯一の救いだという、
このことに心を定めない限り真の平安は得られないでしょう。
問30は、『信仰問答』が作られた当時の人々の誤りについて扱っています。当時の人々にとってイエスはまさに天上の存在で、手の届かない救い主でした。そのために、口先ではイエスを崇めていても、実際にはもっと手近な“救い”を手に入れようと、他のものにすがっていたのです。しかし、それは聖書の教えではない。わたしたちを救う名は教皇にも聖人にも、ましてわたしたち罪深い人間には与えられていない。主イエス以外のどこにも救いはないと『信仰問答』は主張しているわけです。
それでは今日もはやこの問いは必要ないかと言うと、そうではないと思うのです。わたしたちが本当に「自分の救いに必要なことすべてをこの方のうちに」持っているかどうか、わたしの幸せをイエス以外に見出そうとしていないか求めてはいないかと、絶えず問われる必要があります。
イエス様は信じているけどもっと他の幸せもと、わたしたちは欲張りだからです。しかし、わたしたちの幸福は神の元にあるのですから、それを人間が満たすことは不可能です。イエスこそわたしの唯一の救いだという、このことに心を定めない限り真の平安は得られないでしょう。むしろ、主イエスが唯一の救いだからこそ、他の一切は恵みとなるのではないでしょうか。
「わたしにつながっていなさい」と主は言われました(ヨハネ15:4)。この方にわたしたちの全幅の信頼を置くことができるかどうか、そこにわたしたちの救いのすべてはかかっています。