聖書を信じるとは


 人間は始祖アダムを通して堕落して以来、すべての人が悲惨の中にあること。そして、すべての人の救いはただイエス・キリストを通してのみ成し遂げられることを学びました。さてそれでは、キリストを通して文字どおり「すべての人が」救われるのか。それが今回の問いです。

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 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)。神様は御自分のお造りになった人間が滅びることを決してお望みになってはいません(ヨナ4:10-11)。それにもかかわらず、すべての人が“自動的に”救われるわけではない、ということもまた聖書の教えです。「まことの信仰によってこの方(キリスト)と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです。」

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 このことは何か神様の大きな愛と矛盾する、あるいは不公平だと感じるかもしれません。けれども、よく考えてみますと、決してそうではないことに気づくでしょう。ちょうどアダムがロボットではなく、自分の意志を持つ人格的存在だったがために堕落したように、救いもまた自動的に与えられるものではありません。何の関心もない人も、誰かれかまわずエスカレーターで運ばれるように救われるわけではないのです。

 確かに、主イエスの救いはすべての人に、何の差別もなく無償で提供されます。けれどもそれは、安っぽいポケットティッシュのようなものではなかったはずです。独り子の命を犠牲にしてまでも私たちを救おうとされる計り知れない神の愛のプレゼントです。そうであればこそ、このプレゼントを大切に受け取ってくれる人の“心”が求められるのです。その人の心がキリストと「結び合わされ」て初めて、愛は伝わるものだからです。

どんな無神論者でも、ある時、絶対的な神の存在への信仰に導かれることがあります。主イエス・キリストの十字架の前にひざまずくことがあるのです。

 それで、その心は「まことの信仰」と呼ばれます。聖書の教える信仰は、“イワシの頭も信心”といったものではありません。信仰問答は、この信仰に二つの面があると教えています。御言葉に基づく「確かな認識」と「心からの信頼」です。私たちが神の救いのプレゼントを正しく受け入れるためには、この二つがどうしても必要だと言います。

 それは、第一に、プレゼントの意味を知る必要があるからです。それが何のためか、どれほどの思いが込められたものなのかを知ることです。
 「まことの信仰」は、私たちの勝手な思い込みであってはなりません。神が知らせようとなさっているそのメッセージを正しく受け止めることです。神様からのラブレターである聖書を読む・聞く・学ぶ・黙想する・心に蓄える。そのようにして、私たちは、聖書に書かれている事柄がありうるか否かというだけではなく「真実である」との確信へと、導かれて行くのです。

 第二に、その確信は、ほとんど同時に聖書の真の著者であられる神御自身に対する「信頼」へと私たちを導きます。聖書の言葉を信じるとは、究極的に、その言葉をお語りになる神を信頼することに他ならないからです。

 全知全能の創造者なる神がこんなちっぽけな「わたし」を救うために御子をさえ犠牲にされたと、聖書は語ります。その「福音」がある日、本当に喜ばしい音信として受け止められる時が訪れます。「神がおられるとは本当だった。イエスという方は本当にわたしのために十字架にかかってくださったのだ!」と信じられる時が来るのです。その時、神が用意してくださっていた「罪の赦しと永遠の義と救い」のプレゼントは、真に「わたし」のものとして与えられるのです。
 これは本当に不思議なことです。どんな無神論者でも、ある時、絶対的な神の存在への信仰に導かれることがあります。主イエス・キリストの十字架の前にひざまずくことがあるのです。これはとても人間の業とは言えません。まさに「聖霊がわたしのうちに起こしてくださる」一つの奇跡です。

 私たちは崖を上るようにして救いをつかみ取るのではありません。良いことの報いとして救われるのでもありません。「それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです」。自分の力ではない。全能の神が、ただ一方的に私を救ってくださった。救われた者は皆そのように告白します。“ただ恵みによって(ソラ・グラティア)!”これは喜びの告白です。そして、それは真実なのです(エフェソ2:8-9)。


http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_020-021.htm