信仰は第一に…


認めること

 信仰は第一に、認めることです。すなわち、神の存在を認め、神を天地の創造主と認め、聖書を神からの啓示の書物と認め、キリストを神からの救い主と認めることです。
 これが、信仰の第一歩です。もし子どもが、親を親と認めなかったら、親はどんなに悲しいでしょう。同様に神は、人がご自身を真の神と認めることを、欲しておられるのです。
 あなたは、親を親と思うのと同じく、神を神と認めることです。また、親の手紙を親の手紙と認めるのと同じく、聖書を、神からの啓示の書物と認めることです。
 さらに、兄を兄と認めるのと同様に、イエス・キリストを、神の家族の長子、また救い主として認めなければなりません。


信頼すること

 信仰は第二に、信頼することです。キリストをあなたの救い主として心に受け入れ、罪と滅びからの救いに関して、全面的にキリストに信頼することです。
 罪の悲惨と、地獄の滅びから救ってくれるかたは、キリスト以外にはいません。いかなる宗教も、哲学も、思想も、善行も、努力も、あなたを救うことはできません。あなたは、自分の永遠にわたる救いについて、キリストに信頼しなければならないのです。
 信頼するとは、たとえば次のようなことです。ある人が、駅のプラットホームに立っています。スピーカーから、
 「東京行きがまいります」
 と放送があって、電車が入ってきます。しかし、その人は初めてその鉄道を利用するので、その電車が本当に東京へ行く電車なのか、自分の目で確かめたわけではありません。また本当に東京へ行ったのかどうか、まだ見たわけではありません。
 その人にとっては、「東京行きです」という放送を信じるしかないわけです。その人は、耳で聞いてそれを信じ、足を踏み出して電車に乗り、自分の体を電車の中にゆだねれば、やがて電車がその人を東京に運んでくれます。
 しかし、もし信じないで、自分の体をその電車にゆだねず、プラットホームに立っているだけならば、いつまでたっても目的地に着けません。
 この「電車に乗る」ということが、信頼するということです。その人は、自分の聞いたことを信じ、自分の体を電車にゆだねたのです。
 同様にキリストに信頼するとは、キリストに関する聖書の言葉を聞いて、それを信じ、罪と滅びからの救いのために、自分の全存在をキリストの御手の中にゆだねることです。
 信頼すること自体は、私たちの日常生活の中で、つねに行なわれていることです。電車の場合もそうですし、ほかにも、たとえば椅子に腰掛けること一つを取ってみても、私たちは椅子に信頼するから、それに腰掛けるのです。
 「すわったら壊れるかな」と疑っていたりしたら、腰掛けたりしないでしょう。このように信頼することは、だれにでも出来る日常的なことです。
 赤ちゃんも、母親を信頼して、その腕の中に抱かれているではありませんか。私たちは、幼な子のような心になって、キリストの御手の中に抱かれることが大切なのです。
 そこには、努力は必要ありません。善行も必要ありません。あなたの、ありのままの姿で良いのです。背伸びする必要はありません。罪人のままの姿で良いのです。気取る必要もありません。
 必要なのは、素直さです。赤ちゃんが母親を信頼するような素直さです。それだけが、救われるために唯一、必要なものです。
 神は正しいかたです。「正しい」とは、「罰すべき者を罰し、赦すべき者を赦す」ということです。神は聖書を通して、キリストを救い主と信じる者の罪を赦し、義と認める、と言われました。これは神の約束です。神は正しいかたですから、この約束を完全に果たされます。
 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しいかたですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Iヨハ一・九)
 と聖書に記されています。あなたはもう神の御前に、自分の今までの罪を言い表しましたか? その告白に対する神の答えは、これです。神はそれらの「罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる」のです。
 神の約束を、幼な子のように素直に、心に受け取ってください。そうすれば、あなたはすでに、救い主イエス・キリストの御腕の中にあるのです。
 あなたはその御腕の中で、信頼して歩んでいってください。あなたはそうすることにより、現世においては神にあって力強く人生を切り開いていくことができ、来世においては天国の至福と安息の中に入ることができるのです。


従うこと

 信仰は第三に、従うことです。すなわち、神の御教えを愛し、それに従うことです。
 あなたが神を信じ、神を愛するなら、あなたは神の御教えをも愛するはずです。神の御教え、すなわち聖書に記された様々の教えは、神が私たちを愛するがゆえに、私たちに与えられたものなのです。親は幼な子に、
 「ストーブにさわったら火傷するから、さわったらダメよ」
 「扇風機にさわったらあぶないわよ」
 などと言って聞かせるものです。これらの注意は、子どもに危険を教えるためであり、親が子を愛しているがゆえに与えられるものです。
 また親は、子が大きくなるにしたがって、様々のしつけや、励まし、助言等を行なうでしょう。神も同様に、私たちがこの世の中で悪い道に進んでしまわないよう、また神の子として歩めるよう、様々の注意や、励まし、助言、命令等を与えておられるのです。
 あなたは、これらに従わなければなりません。御教えに対する従順は、信仰にとって本質的なことなのです。
 あなたはまず、聖書をよく学んでください。そして神の御教えを知り、その教えの精神を理解し、自分の生活に反映させるよう努力してください。あなたがそれを日々繰り返していれば、あなたは確実に変化していきます。