良きサマリヤ人の喩え



ルカ伝10章25-37節

 

 先週は、〈七十人〉の宣教報告に応えたキリストの教えについて見てみました。それを傍らで聞いていた人がいたのです、それは〈ある律法の専門家〉でした。〈律法の専門家〉(ノミコス)とは、一般的に「法律家」という意味なのですが、ユダヤ社会では、〈律法学者〉(グラマチュース;これも一般的には「書記」という意味)を指していました。〈律法学者〉の大部分はパリサイ派に属していましたが、サドカイ派(祭司階級)に属する少数もいたようです。今日の箇所で登場する〈律法の専門家〉は、パリサイ派であったと思われます。パリサイ派の第一の特徴は、「律法主義」なのです。「律法主義」とは、良い行いに対する報いとして祝福、悪い行いに対する報いとして呪いが与えられる、という考え方のことです。そして、このような考えは、「原罪」の否定が大前提としてあります。すなわち、すべての人間は、アダムが創造された直後と同じように、善と悪を選択する自由を持つと考えます。この「律法主義」は、パリサイ派の根本理念でしたが、すべての宗教や道徳、さらに社会を支える常識として、普遍性があると言えます。しかし、このような律法主義では、現実の人間を救えないとされたのが、キリストだったのです。

 このように、パリサイ派とキリストとの間に、根本的な見解の相違が背景にあったことを踏まえてこの箇所を読むと、二つのことが見えてきます。一つは、キリストの宣教が巧みな対話(コミュニケーション)を駆使しながら行うものであったということです。しかも、相手が自分で答えを見つけることができるように、手助けをする形で行われたのです。これは、人間というものを知り尽くした者だけができることなのです。すなわち、イエスの宣教は、深い人間理解を前提として行われたということです。最初にこのことを見てみたいと思います。第二には、隣人愛とは何かということが、明らかにされていることです。それは、「律法主義」という枠組みを遥かに越えたものであり、また、現実の人間が達することができないほどに遥かに高いものであったのです。今日は、このようなことを、ご一緒に見てみたいと思います。

(1)神のコミュニケーション

ある律法の専門家

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。(私は)何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
           ルカ10:25

 

 「良きサマリヤ人」の喩えのきっかけとなった、ルカ1025をご覧ください。〈ある律法の専門家が … イエスをためそうとして〉とあります。〈ためそうとして〉とは、強い表現なのです。イエスに論争を仕掛けて、その化けの皮を剥がそうという、彼の強い意図を読み取ることができるのです。しかし、ただそれだけではなくて、彼の質問には真摯な求道心も暗示されていて、複雑な心理を読み取ることができると思います。

 では、25節の後半にある彼の質問を見てみましょう。〈何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。〉この質問には、〈何(か)をしたら〉救われるという、パリサイ派の根本信念が表現されています。これは、ご自分の教えとは正反対なのですが、イエスは頭から否定するようなことはなさいませんでした。このことによって、対話への道が開かれたのです。実は、質問者には、自分の信念に疑いが起こったことを窺わせるフシがあります。というのは、原語では、「私は何をしたら」という風に、自分個人のこと(一人称単数)として質問しているからです。「人は何をしたら」とか「私たちは何をしたら」とか、一般論として聞いているのではなくて、自分自身の問題として取り組んでいたことが暗示されているのです。このことが、イエスが彼と誠実に対話を続けられた理由だと思います。

接点から始める

イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」     ルカ10:26

 

 彼の質問に対して、イエスは質問を返されます。ルカ1026をご覧ください。〈律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。〉とイエスは尋ねたのです。この〈律法〉というのは、イエスとパリサイ人の共通の接点だったのです。両者ともに、それが「神の啓示」であると認めていました。すばやく、共通の接点を見つけて、その接点から質問を返されたので、対話が成立したのです。

 さらに、質問することによって、相手が自分で答えを見出す助けをしていることにも注目してください。正反対の信念を持つ相手に対して、イエスは自分の意見をそのままぶつけたり、押し付けたりすることはされなかったのです。人間関係における失敗の多くは、理解する準備ができていない相手に、一方的に自分の意見を押し付けることだと思います。〈豚に真珠〉というイエスのことばがあります。真珠の価値が分からない相手に、いきなり真珠をぶつけても、相手はぶつけられたとしか受け取ってくれないというものです。それにしても、以上のイエスのアプローチは、実に見事であるとしか言いようがありません。

(2)私の隣人とはだれか?

もう一つの接点

すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。 …」

  ルカ10:27-28

 

 イエスの逆質問に対して、彼は27-28節で答えています。ここには、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つの教えが上げられています。これは、申命記65とレビ記1918の引用なのですが、この二つの引用句の組み合わせで律法全体の要約とするのは、当時では例がなかったようです。ですから、彼は以前からイエスの教えをかなり深く知っていたと思われるのです。

 イエスは、彼の答えに〈そのとおりです〉と言われました。このように、律法全体を総括する観点でも、イエスと〈律法の専門家〉は一致しているのです。両者は、二つの点まで共通する認識があったことが分かります。このように、両者の接点が明らかになったところで、イエスは対立点を明らかにされるのです。対立点から始めていたとしたら、彼が答えの辿り着く前に、関係が破綻したことでしょう。 

律法主義的な指示?

イエスは言われた。「 … それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」 ルカ10:28
するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」  ルカ10:37

 

 28節をご覧ください。〈それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。〉とイエスは彼に言われたのですが、これは、どう見ても「律法主義」に沿った指示ですね。このような命令が、37節でも繰り返されています。イエスは律法主義者になられたのか?そうではないのです。「律法主義」に対して疑問を持っていたにしろ、まだ十分にその欠陥がはっきり見えていない段階では、とことん追求する以外にその結果を認識するに至らないと思います。

『ミッション』という映画が1986年に公開されたことがあります。この映画は、18世紀の南米でのイエズス会の布教活動を描いた映画で、史実を元にしたフィクションなのです。主人公の一人、ロバート・デニーロが演じたメンドーサは、軍人あがりの奴隷商人であって、あらゆる罪に手を染めていた、まさに「罪人のかしら」であったのですが、罪に徹底的に染まった挙句、自分の弟までも殺害してしまい、自分がいやになって、罪の呵責にもがき苦しみ始めるのです。その結果として、回心して布教活動に加わって、有力なメンバーになるのですが、最初の印象は、自分を罪人であると本当に分かるに至るまでに、何という恐ろしい罪を徹底的に重ねたものだ、ということでした。また、罪を重ねる人間に対して、神さまは何と忍耐深く、悔い改めの瞬間を待たれることか、とも思いました。普通の人間だったら、彼などすぐに滅ぼしてしまうかも知れません。行き着くところまで徹底的にやってみないと、これこそ自分の生き方だ、と信じているものの欠陥が本当に見えて来ないのだろうと思います。このような理由から、律法主義に沿ったように思えるイエスの指示は、律法主義の限界を認識するに至るためだったのです。

(3)隣人愛とは?

パリサイ的隣人愛

しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」 ルカ10:29

 

 ところが、29節をご覧ください。〈彼は、自分の正しさを示そうとして〉とあります。〈正しいことを示(す)〉(ディカイオー)ことができるということは、律法主義者の彼が自己のアイデンティティを維持するための土台、寄って立つ重要なポイントなのです。

 イエスに〈私の隣人とは、だれのことですか〉と彼が尋ねたわけを見てみましょう。ユダヤ人にとっては、隣人とは「ユダヤ人同胞」のことでした。だから、イエスの口からも同じ回答を得られるものと期待していたのでしょう。おそらく、彼はユダヤ社会に随分と貢献していたでしょうから、「隣人愛」についてはかなりの自信があったのではないかと思われます。彼は、律法主義という枠組みの中で、「自分の正しさ」を追求して、かなりの自信を得ていました。しかし、何かが足りないと漠然と感じるところがあって、イエスの教えにそれを解決する何らかの糸口を期待するところがあったのではないでしょうか。これまでの対話で、彼がかなり複雑な心境にあったことが浮き彫りになったと思います。

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。…」  ルカ10:30

 

 すると、イエスは「良きサマリヤ人」の喩えを始めたのです。この喩えこそ、隣人愛とは何かを啓示するものなのです。〈エルサレムからエリコへ下る道〉は、ヨルダン渓谷に下る方向に28kmの距離があって、砂漠や岩地の寂しいところを通る道でした。標高差が1000mもある下り道でした。途中に「赤い坂」(マアレー・アドミーム)という場所があり、ここで強盗の被害にあって多くの血が流されたという伝説があるそうです。この喩えには、二つの重要な事実が含まれています。一つは、〈隣人を…愛せよ〉という教えを、「ユダヤ人同胞を愛せよ」というパリサイ人の常識に置き換えても、それは実践されてはいないということです。〈祭司〉と〈レビ人〉は、エルサレム神殿での儀式を行なうことを職業とする宗教人でした。彼らはユダヤ教を代表する人たちでしたが、〈強盗に襲われた〉人を見棄てたのです。

 彼らは、神殿での仕事に差しさわりがあるので避けて通ったのだという説がありますが、31節には〈祭司が…下ってきた〉とありますから、〈エルサレム〉での仕事を終えてから〈エリコ〉に帰宅する途中であったと考えるのが妥当です。すなわち、助けるに何の障害もないのに、助けなかったのです。このように、ユダヤ教を代表する人たちでさえ、同じユダヤ人への同胞愛を実践していないという事実を、イエスは指摘されたのです。では、この喩えにパリサイ人がなぜ出て来なかったのでしょうか?それは、対話の相手への配慮からだろうと思います。

良きサマリヤ人

 

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。  ルカ10:33-34

 

 そこに、〈あるサマリヤ人〉が登場します。〈サマリヤ人〉とは、ユダヤ人と外国人との混血であって、ユダヤ人が異端者と見なした人たちでした。彼らは、地理的には隣の地域に住む人たちでしたが、決して〈隣人〉などではなかったのです。このような〈サマリヤ人〉を、イエスはなぜ登場させたのでしょうか?〈祭司〉と〈レビ人〉の登場で、ユダヤ教を代表する人たちが隣人愛を実践していなかったことを示した後に、今度は対外的には隣の民族ともひどく憎み合っているという事実を示したかったというのが、理由の一つではないでしょうか。ユダヤ人は、異邦人(非ユダヤ教徒)を「野良犬」と呼んで軽蔑していましたが、サマリヤ人に対してはそれ以上の憎しみを持っていたと言われています。サマリヤ人の方もまた同じであったと思われます。そのような憎しみや偏見は、ユダヤ社会で(もちろん、サマリヤ人社会でも)の常識でした。これが現実だったのです。「あなたがたは隣人愛を行っている」と自信あり気に言うが、現実はこうではないかと、イエスは、彼らが隣人愛に欠けている事実を指摘されたのです。

 さらに、〈サマリヤ人〉を登場させた二番目の理由を見てみましょう。〈祭司〉や〈レビ人〉は、人が見ていたら、助けたかも知れません。見棄てたことが世間に知れると、一大スキャンダルになったことでしょう。〈サマリヤ人〉は、そのような世間の圧力はまったくなかったのです。被害者は、敵対していたユダヤ人ですし、場所も旅先で立ち寄ったユダヤなのです。彼を見棄てて非難されることはまったくありませんでした。むしろ、助けたならば、利敵行為だとして同胞から非難されたかも知れません。しかし、そのような世間の諸々の事情よりも、〈かわいそうに思(う)〉(内臓(心情)までが動かされる)という「主体的な心情」に彼は従ったのです。この「あわれみ」(慈愛)という「主体的な心情」に突き動かされることが、隣人愛の本質とされているのです。37節では、〈律法の専門家〉が、〈サマリヤ人〉の行動を〈あわれみをかけてやった〉と表現しています。〈あわれみ〉(エレオス)や〈かわいそうに思う〉という言葉は、「ラハミーム」(あわれみ、慈愛)というヘブライ語が影響したと考えられているのです。これは、元来、妊娠した母親がわが子を思う心情とされています。それは、母子が一体化するような、完全なるシンパシー(同情)なのです。このような心情を動機とした主体的行動が、「隣人愛」なのです。

 

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。  ルカ10:36

 

 最後に、〈サマリヤ人〉を登場させた三番目の理由を考えて見ましょう。36節をご覧ください。ここには、〈隣人になった〉という表現が使われています。ユダヤ人は、誰が「隣人である」かを議論して、隣人でない人を切り捨てていました。彼らの考える隣人愛は、閉鎖的な愛、条件的な愛であったのです。しかも、そのような彼らの隣人愛でさえ、実践できていないことが示されたのです。しかし、イエスは隣人愛とは、これまで「隣人でなかった人」、しかも、隣り合う民族同士が歴史的に敵対して、憎しみの連鎖の只中にある時さえ、その相手と「隣人になる」という主体的な営みであると教えられたのです。

 実は、このような「隣人愛」を実践した〈サマリヤ人〉とは、キリストなのです。あなたの隣人になるために、キリストは人となって来て下さったのです。〈サマリヤ人〉が〈強盗に襲われた〉人に近寄り、介抱してその傷を癒したように、あなたの罪の深さにまで、そして、あなたの傷の深さにまで来てくださり、あなたが受けている呪いのすべてを十字架で背負ったのです。ですから、「良きサマリヤ人」の喩えで啓示された隣人愛は、十字架において完全なあり方で表されたのです。それゆえに、この十字架の元でこそ、多くの方々が「罪の赦し」と「心の傷の癒し」を受けたのです。

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2011y/111127.htm