「過ぎ去るもの」を見限る

第一ヨハネの手紙 2:12-17

 

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12.子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されているからである。13.父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。14.子供たちよ、わたしがあなたがた
に書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。15.世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。16.なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。17.世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

 

最後の4 行から主題を取りました。16 節では「世から出る」とヨハネが言う三つのものの虚しさに注目します。これに執着する人と対照される17 節の「神の御心を行う人」は、宗教家が信徒の前に掲げる“百点満点の理想像”ではなく、自分なりに「神の意思を行おうとして生きる人」のことです。この36 行全体の趣旨は、26 年前の「第一ヨハネ第5 講」で詳しく解説しました。―DVD 版録音全集―


まず最後の段落の「世を愛するな」に疑問を感じませんか。「世を愛するな、また世にあるものもみな……」と言うのです。この訳文では自然な呼び過ぎ去るもの」を見限るかけに聞こえます。

ただ、ヨハネ福音書の「神は世を愛された」という言葉(3:16)に接した人は、正面から矛盾するように感じるかもしれません。もちろん、ここは同じ言葉(トン・コズモン)でも、本来の「すべての人を」、「人間である限り例外なく」という第一義から離れた転義です。漢字の「世」や英語の“the world”と似た意味に受取ってください。
―織田「小辞典」326~327 頁―

「世を愛する」という意味は「世にあるもの」のことだと、ヨハネは誤解のないように言い換えます。そして「世にあるもの」の内容を、三つの言葉で代表させます。同じ生きかたの姿勢を三つの角度から表現したものです。
「肉の欲」は現代語の「肉欲」とは違って、聖書の表現では「肉」は生まれついた「人間性」ですから、「人間であるという甘えを言い訳に引きずられてしまう力」です。前回は「人間性の底から突き上げてくるもの」と訳しました。

二番目の「目の欲」はこれを「外からの魅力」として、言い直したものです。目は外界の刺激を受けて、人の興味を惹きつけます。内からの言い訳という意味では「肉」ですが、外から外観の美しさで招く意味では「目」です。もちろん耳も含まれましょう。「五感の誘惑」です。


三番目の「生活のおごり」は、このままでは「贅沢な生き方」の意味になるかもしれません。「生活」と訳してある“ヴィオス”は人の「生きざま」です。「生きる姿勢」か「生き方の哲学」と言っても宜しいでしょう。
「おごり」は豪奢・贅沢の意味よりは「驕慢」の態度です。この“イ・アラゾニア・トゥ・ヴィーウ”は昔から訳者を悩ませた翻訳の難所です。新改訳やカトリック教会訳をお持ちの方は、読み比べてみると面白いでしょう。古いところでは、105 年前に中井木莵麻呂が、ニコライ・カサトキンを助けて訳した「正教会訳」の訳語「度世の驕(おごり)」がヨハネの趣旨を汲んでいます。「度世」は「世を度る」意味でしょうが、漢学「過ぎ去るもの」を見限る者でもあった中井は中国語を参考にしたものと思います。

生き方全般に関わる、人間の分限を越えた「思い上がり」のことです。人より偉くて力があるように見せかける「こけおどし」と言えます。
こうしてヨハネの表現では、神よりも「世のほうが大事だ」という哲学は、「人間だからという甘え」、「美しく見えるものに惹かれて当然」「俺の生き方に文句あるか」という三重の「生き様の驕り」になります。「神より世のほうが大事だ」という生き方を定義すればこうなると。
同じことを、パウロならどう言ったろうか……と私はすぐに考えます。ローマ書の10 章で、イスラエルが「義の律法を追い求めていたのに」神の義を拒否して自分の義を追及したという、パウロの断定を連想するのです。ヨハネの言葉で、「神の意思より世のほうが大事だ」となるところです。ヨハネが「生き様の驕り」と言い、「俺の生き方に文句があるか」という三重の居直りと見たものを、パウロは、二つの「驕り」という形にして、それは「神への挑戦」をしているのだと言いました。
「心の中で『だれが天に上るか』と言うな。」キリストに昇ってもらうことも無かった、という思い上がりだ。「『だれが底なしの淵に下るか』とも言うな。」なにもキリストに死者の所まで降りてもらうことも無かった、という驕慢だ。どう言うのが正しいか。「御言葉が目の前にある。口と心を持つ人であれば、だれでも信仰の姿勢を言い表わせる。」
―ローマ10:6-8―


前半はヨハネの「驕慢の哲学」と並行しますし、最後の言葉はヨハネの「神の意思を行おうとして生きる」信仰と聴聞の道と重なります。
多くの人が16 節に読み込みがちな「肉の情欲」に迷うなとか、「目に映る魅惑」に引きずられるなとか、「豊かな資産と奢侈」に溺れるなという宗教「過ぎ去るもの」を見限るの教訓話と、ヨハネの趣旨は違うのです。私自身の適用をお話しましょう。聖書の言葉を学び続けて、信仰の生き方を身につけたくて、それで一つの境地に達したような錯覚は、私は持ちたくないのです。そんなのを教えることが「説教」であれば、私は「説教」だけはしたくない。それは、ヨハネ流の言い方なら、「肉の人間にアピールするカッコよさ」です。「万人の目に魅力的に映る宗教人」です。「私は、そん所そこらの並の宗教人とは違う……という驕慢」です。
普通、そういう暗示力を持つように見える「頼りになる先生」の周りには、それにあやかりたいファンが蝟集します。しかし、ヨハネに言わせれば、それは、「神の意思を行おうとして生きる人」の姿勢とは逆だという判定です。
―いかがですか……「肉の欲、目の欲、生活のおごり」という訳文のイメージとは食い違って、ショックでしたか?


最後に、「世も過ぎ去って行く。世が引き起こす欲も過ぎ去って行く」というヨハネの言葉(:17)に、私は惹きつけられます。最近読んだ柳澤桂子さんの現代語訳「般若心経」の言葉と二重写しになるのです。ヨハネの「神」と「神の意思」、また「神の意思を行おうとして生きる姿勢」が、中国人が「空」の一字で訳した「スーニャ」と同じとは言えないでしょうが、「世も過ぎ去って行く。世が引き起こす欲も過ぎ去って行く」というヨハネの言い方()と並行する所もあります。
「お聞きなさい。形のある存在、いいかえれば物質的存在を、私たちは現象としてとらえているのですが、現象というものは、時々刻々変化するものであって、変化しない実体というものはありません……」これは「色即是空、空即是色」の訳文の一部です。物質的存在の定義みたいに聞こえるかもしれませんが、人間の目が「ある」と固く信じて追い求める価値―肉の人間に
は高貴と見えるもの、それを持てば他人とは違う一段高い境地に達したよう「過ぎ去るもの」を見限るに錯覚するもの―生きる哲学の深み、死生観の極みに達した驕慢も、「あるように見えて、実は過ぎ去るもの」なのです。「神の意思を行おうとして
生きる」人は、それを掴もうとはしないし、それに到達したように見せかける宗教人には、興ざめします。
間もなく79 歳になる私は、思いのほか長生きしたことに驚きと喜びを隠せませんが、同時に、地上の生涯の終点が見えていることも、リアルに感じます。ホテルやマンションの部屋番号も「1,2,3,5」とつける国柄ですから、「死ぬ」という当り前の終りについても、普通は触れることを避けます。口の上手な親類は、「昭さんは熱心に宗教やりはったから、悟り開いてるんやなぁ」と評します。むきに議論はしませんが、私自身は「悟って」もいないし、「従容として死を迎える」覚悟も持ち合わせが無いのです。日付が変わるのと同じくらいに自然の結末として来るものは、自分で準備したり、信念でいきり立ったりするのが滑稽に思えます。準備とか続きとかは向こう側で用意して下さるものです。自分でムキになるのは、「肉の人生観のおごり―
生きざまの驕慢」と見えます。


柳澤さんの本の表題に「生きて死ぬ知恵」とあります。「死ねるだけの知恵」という意味にとって、「色即是空、空即是色」で死を克服する力を汲み取りたいと1,200 円払う人もいるでしょうが、柳澤さんの重点は「生きる知恵……そしてついでに死ぬ」くらいの所にあるのだろうと思います。「死ぬまでちゃんと生きている知恵」です。
毎朝食事のときに、日替わりのレトルトスープと、パンとカフェ・オ・レを美味しいと感じます。輸入チーズでちょっとだけ贅沢も楽しみます。「今日も生きている」実感です。生きているのですから、自分のスタミナで許される範囲の「作業」をします。それで「神と人とに仕える」という誇りとか、自分にはまだ使命があるから、そのために天は貴重な器に力を注いでいるのだという「確信」は、持たないことにしています。宗教の「説教」をするパ「過ぎ去るもの」を見限るワーは返上しました。私自身にとって「福音」であるキリストを、使徒流に言えば「宣言」するだけにしています。
私は、ヨハネの言う「人間性の甘え」と「人の目に映るカッコ良さ」と「生きざまの驕り」の三つは「過ぎ去るもの」と見限って捨てました。私は、ヨハネが目標にした「神が願っておられること」だけをしたいと願って、それで「死ぬまで生きていたい」と思います。


《研究者のための注》
1. の中国語訳「今生的驕傲」は名訳ですが、最初の「肉体的情欲」は日本語と同じ誤訳で、意味を狭くしていると思います。第二の「眼目的情欲」も、前の訳語の先入観による連動が働いたのでしょう。

 

http://erinika.life.coocan.jp/data230/N-1Jo05.pdf