イエスが歩んだように歩む

 

第一ヨハネの手紙 2:1-6

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1.わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。

2.この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。

3.わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。
4.「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。

5.しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。

6.神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。


ヨハネの手紙は、読み方を間違えると、前後の趣旨が食い違って、まるで矛盾だらけの文章に聞こえます。その理由は一言で言うと、昔からの「キリスト教はこんなものだ」という通念に「引きずられる」からで、それを一度消してみると、案外、素直に読めるものです。それに加えて前後の思想の流れ―文脈を無視しないで読むことも大事です。
「あなたがたが罪を犯さないようになるためです」は、公式的に訳せば、「罪を全く犯さなくなるよう」(+ アオリスト接続法)です。でもそのすぐ後に、「たとえ罪を犯しても」と続くのは、例外的「但し書き」にしても繫がりが悪く、疑問を覚えもします。訳文の拙さもありますが、前半の絶対的な否定が、無駄になるように感じられるのです。
最後の「イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」も高い目標としては、大きなチャレンジですけれど、その前にある「神の掟を守るなら」という言葉と結びつけますと、神の掟を完璧に守って、イエス様と同じくらい清く生きて、初めて信仰者と言える……という意味に聞こえて、平凡人には不可能な「きれいごと」を歌い上げているような、調子の高い言葉に戸惑ったものです。


当惑の主な原因は、全体の趣旨を読み取れなかったことですが、訳文の言葉も、もう少し知恵が必要だったかと思います。
最初の「罪を犯さないようになるためです」という文は、「罪の一つや二つ、また犯すくらいでもいい……という“居座り”を打ち切れ」という、強い呼びかけであることが、(イナ・ミ・アマルティテ)という原文の意味から分かりました。パウロのローマ書に出る、「罪の一つも犯すくらい大胆に行こうか……」(アマルティソメン)という意味に福音を曲げた連中と同じ考えを「イナ・ミ」so that you may not(thinkand act)で否定した句です―ローマ6:15。そんな人たちが、ヨハネが教えた教会にも、現れ始めたのです。

もう一つは、「神の掟を守る」という訳し方、特に「掟」という言葉の持つ響きです。むしろ「神が命じたことを本気で受け止める」こと、自分への命令として、正面から受けるのが、の意味だと思います。「守る」は、その受け止め方を変えないで「維持する」ことです。
「掟」という日本語を教会用語にした人にも責任がありますね。前回と同じく、訳語や表現のことが煩瑣に思えましたら、そんなことより、この文章全体の流れがどこに向っているか……だけでも注意してください。

ここは、「模範的な完全な信仰者になれ」という趣旨とは違うのです。ヨハネの趣旨は、3 行目からあとの5 行に集中しています。それは、イエス・キリストの持つ意味です。この方はいったいどなたか、という「福音」の宣言にあります。

それ以外のこと―あなたがどれだけ模範的クリスチャン像に近いか、生き方がどこまでイエスに似てきたか、罪を犯した数は人より少ないか、点数は合格か……とかには無いのです。

前回と同じように、ここの中心を見抜いて読み換えてみます。以下は新共同訳と少し響きも違いますし、中学校の英文和訳式とも違いますが「ヨハネの文章が私にはどう聞こえるか」自分流の言い換えです。
愛する友に書き送る。「罪を繰り返すほうが恵みが生きる」という輩と同じ考え違いをするな。しかし過って罪に足を取られた場合は、イエス・キリストがおられる。あなたが失った義しさを、彼がお持ちである。
あなたの力強い味方として、この方がいつもいて下さる。このイエス様が私たちの「犠牲」として清めの力をお持ちだ。私たちだけでなく、仲間の人間すべてを引き受けて、「犠牲」の効力を発揮なさる。


上に述べた「居直り組」とは逆に、「神を知っている」と言えるのは、神が命じた言葉を、正味自分への言葉として受け止めて、その受け止め方を変えない人である。「神を知っている」と公言するだけで、神が命じた内容を他人事のようにしか感じない人は偽者だ。真実とはおよそ関わりが無い。しかし、神の言葉を正味受け止める真剣さを変えない人であれば、神の愛は、その人の中にこそ目的を果したことになる。私たちが「神によって生きる」と言えるのは、このことで決まる。(意訳+補足)
その後にあの「イエスが歩まれたように歩む」が出てきます。ここまでの流れから外れずに読めば、こういう意味になりましょうか。
「神によって生きる」と言えるのは、天の父の意志を全部、自分の生き方に込めたイエスと同じ受け止め方で、神が命じた言葉を、正面から自分への命令として受け止めることを変えない人である。


ヨハネの思想の流れや、この文の中心点を考えずに読んでいた青年時代の私の読み方は、「掟」をどれだけ忠実に守ったか、イエスの歩み方にどれだけ近づいたか……の反省と自己評価に終始していました。それだけ「高い目標」を望んでいるつもりで、自分でも感動し、人にも恥ずかしくないように努めたと言えます。しかし、実際には、「掟」を忠実に守っている自分に信頼したり、失望したりしていたのです。


今、ヨハネが捉えた福音の中心点―イエスを私自身の義しさとして受けることができ、天の父が命じた言葉を自分への呼びかけとして聞くことができて、「イエスが歩まれたように歩む」の内容も変わりました。私は「自分の義しさの成績」を信じることは止めて、「私が失った義しさを、彼がお持ちだ。私の力強い味方としてのイエスがおられる。私を清める「犠牲」を、
私が捧げなくても、イエスがいてくださる! という、ヨハネの歩み方で自分も歩んで、喜んでいます。

 

http://erinika.life.coocan.jp/data230/N-1Jo03.pdf