日本の宣教
私たちにとって、今、最大の関心事のひとつが日本の宣教です。どのようにしたら、この日本により効果的に福音を伝え、より多くの人々を救いに導き入れ、堅固な教会を建て上げて行くことが出来るでしょうか。そのことに的を絞って、少しばかり考察してみましょう。
A.伝えられた福音から文化的要素を峻別する
すでに述べてきたことではありますが、日本の宣教ということを真剣に考えるとき、もう一度しっかりと確認しておかなければならないのが、私たちに伝えられた福音は必ずしも聖書が教える福音ではなく、伝えた国の人々の文化と織り合わせられた、混ぜ物入りの福音であるということです。そして、これから私たちが日本において効果的に宣教を推し進めていくためには、外国の文化と混同した福音ではなく、聖書が教える福音を語って行かなければならないのです。てんぷらにされた海老が本当の海老だと思っている人は、本当の海老を知りません。海老とは衣の部分だと思っているかもしれません。衣の中の部分だと知っていても、あのように揚げられてしまったものが、海老だと思っているかも知れません。本当の海老を教えるためには、裸の海老が必要です、料理されていない海老、できたらまだ水の中で生きている海老を見せるのが一番良いかも知れません。日本に伝えられた福音の海老は、西欧の好みに合わせて西欧流に料理された海老です。しかも、海老の中にまで、しっかりと西欧のスパイスがしみこんだ海老です。多くの日本人は海老が大好きなのですが、西欧流に料理され、西欧好みのスパイスがたっぷりと浸み込んだ海老は、どうしてもいただけない人が多いのです。
1.日本人が福音を受け入れない理由
日本人がなかなか福音を受け入れないわけは単純ではなく、いろいろな理由があることでしょう。しかし、少なくても、その最も大きなものの一つが、福音が外国の文化と一緒に、あるいは「より優れた外国の文化」として語られているからだと考えられます。宣教師たちは、福音と自分たちの「キリスト教国の文化」とを区別できないままに、すなわち海老と衣とを区別できないまま、西洋てんぷらをもち込み、日本の宣教を進めて来ました。日本人たちは宣教師たちによって語られた福音の、どの部分が本物の福音でありどの部分が文化なのか、識別出来ないまま聞き、見分けがつかないまま拒絶し、あるいは区別をつけることなく、丸ごと受け入れて来たのです。日本人の伝道者たちは、自分たちが受け入れたままの福音、つまり、西欧キリスト教文化の衣をまとった福音を、衣を着せたまま、これが福音であると語ってきたのです。一般的な日本人は、当然、より優れた文化を持ってきたと思い込んでいる宣教師には、西欧人の思い上がりとずうずうしさを感じます。それに追従する日本人の牧師たちには、日本の文化を自ら卑しめている貞操感の喪失を見るのです。
a.福音を宗教もしくは文化と考えている
ですから一般の日本人は、福音を「キリスト教文化」というひとつの文化と考えています。良くても精々、ひとつの宗教であると理解しているのです。人々は、救い主であるキリストという人格を持ったお方、愛と憐れみと恵みに満ちたひとりのお方を見ず、キリスト教という宗教、あるいはキリスト教文化というものを見ているのです。ですからクリスチャンになるということも、キリスト教の信者になるということであり、キリストというお方を信頼し、そのお方に従うのとはまったく別のことなのです。それでは、たとえキリスト教文化を受け入れ、キリスト教を信奉したとしても、本当の救いには与っていませんし、聖霊の力も体験しないままになっているのです。知的に福音を理解することがあったとしても、神の愛を自ら体験して感動に涙することもありません。そのようなキリスト教の信奉者には、自らの生活を変える力も、神が意図されたような形で社会を変える力もありません。人々を救いに導く力などなおのことです。
b.自分の文化に誇りを持っている
宣教の歴史で明らかにされていることですが、世界中のどこにおいても、しっかりした自分たちの文化、あるいは宗教というものを持ち、それを誇りとしている人々の間では、宣教は困難を極めています。
インドは長いプロテスタントの宣教の歴史にも拘わらず、一部の例外を除いては、まだまだキリスト教は弱小宗教です。それが高度に発達した宗教であり哲学であるかは別として、ヒンズー教という宗教と、その世界観や価値観があり、そこに住む人々はそれを深く信奉し、誇りとして生きているからです。イスラム教の世界では、福音が拒絶されたままです。多くの場合、イスラム教が国教とされキリスト教の伝道は禁止されていますし、禁止されていない場合でも、イスラム教徒は自分たちの信仰と文化に強い誇りを持ち、イスラム教徒であるということに自分たちのアイデンティティーを見出しています。仏教の影響が強いインドシナ半島の国々においても、キリスト教はなかなか受け入れられないままです。彼らの仏教は、日本の「葬式仏教」と陰口を叩かれるような仏教ではなく、日常生活の中で生きている仏教であり、国民の大部分が仏教徒なのです。日本もまた、宗教的には仏教国であるか神道の国であるか、はたまた唯物論の国なのかはっきりしませんが、それらが渾然と一体化した、「日本の文化」と言われるかなり特殊で明白な文化を持っていて、キリスト教文化を拒み続けているのです。
一方、文化的にも宗教的にも混乱している状態、あるいは未発達な状態にある土地では、キリスト教は非常な勢いを持って勢力を伸ばしてきました。信仰形態が基本的に土着のアニミズムの域を出ていない、まだ信仰の体系が整っていない土地、また、文明もまだ発達しておらず、自分たちの文化に強い誇りを持てないでいる土地では、人々は容易に他の文化を受け入れ、大挙して文化的移転をします。自分たちの文化に意義を見出せない人々、自分たちの文化に疑問を感じている人々、西欧の文化を自分たちの文化よりも優れたものとして、憧れを持ち、受け入れようとする人々の間では、キリスト教文化は歓迎されるのです。アフリカ諸国のキリスト教宣教にそのような例が多く見られます。イスラム教の中でも、たとえばインドネシアなどは、イスラムの教え一点張りではなく、国家もまた柔軟な立場を取っているために、人々の多くはイスラムと土地のアニミズムとの混合信仰を持っていますが、このような中では、宣教はかなりの成功を収めています。人々が、自分たちの宗教と文化に対して強い誇りを持たず、自分たちの宗教と文化を自らのアイデンティティーとする度合いが低いからです。
...........................
.........................
http://www.geocities.jp/tillich37/missiology.sasaki12.html