聖霊と知恵に満ちた奉仕人たち
使徒の働き6章1-7節
本日は、使徒の働き6章の前半を見てみましょう。この箇所は、七人の執事たちの選出の記事です。エルサレムの教会は、ペンテコステの日に男だけで3千名が、<美しの門>での癒しの出来事で5千名が加えられました。ですから、使徒の働き6章の時点で、おそらく数万名のメンバーを抱える、メガチャーチに発展していたことになります。当時、エルサレムの人口が10万人であったと推測されていますので、何と全人口の数十パーセントがキリスト者になったことになります。短期間の内にこれだけの規模に発展したのは、まったく驚異的なことでした。
これだけの大勢を抱えることになると、いろいろな問題が出てきことでしょう。6章では、<ギリシヤ語を使うユダヤ人>の寡婦たちが、毎日の配給でなおざりにされているという苦情があったことが書かれています。<ギリシヤ語を使うユダヤ人>(ヘレニスト)とは、各地に離散していたユダヤ人の中でエルサレムに帰還して住み着いたユダヤ人のことです。彼らの中には、母国語であるアラム語が分かないものもいました。<ヘブル語(アラム語)を使うユダヤ人>(ヘブライスト)とは現地のユダヤ人のことです。二つのグループは、ユダヤ教徒の時から、別々の会堂に属していて、交流は比較的なかったと思われます。彼らがキリスト者になって一つのグループに属するようになったのですが、食糧の配給で差別が生じたわけです。このような問題を解決するために、教会が七人の「執事」(ディアコノス)たちを立てて、組織的に対応することになったのです。執事とは、教会内の実務を担当するために、公の奉仕者として選出された人々でした。今日は、この七人の執事たちの資質について考えてみましょう。
(1)執事の第一の資格
聖霊に満ちた人
そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、
御霊 … に満ちた、
……人たち七人を選びなさい。
私たちはその人たちをこの仕事に
当たらせることにします。 使徒6:3
6:3では、執事たちには三つの資質が要求されたことが分かります。第一の資質は、「聖霊に満ちた人」でした。これが最初に来ているのは、それが一番重要なものであったからと思われます。
では、「聖霊に満ちた」とはどういうことでしょうか?逆のことを考えてみると、理解しやすいと思います。 「聖霊に満ちた人」の反対は、「自我に満ちた人」と言えると思います。ここでは、この「自我」を原罪によって汚染されている心と定義しましょう。この自我を、パウロは<肉>(サルクス)と呼んでいます。言葉としては、一般的な意味の「肉」ですが、パウロは独特な意味で使用しています。
<肉>(サルクス)と<御霊>(プニューマ)の対比
さて、兄弟たちよ。
私は、あなたがたに向かって、
御霊に属する人に対するようには
話すことができないで、肉に属する人、
キリストにある幼子に対するように
話しました。 Ⅰコリント3:1
Ⅰコリント3:1をご覧ください。ここには、<御霊に属する人>(プニューマティコス)と<肉に属する人>(サルキノス)が出てきます。パウロは、<肉に属する人>を<キリストにある幼子>と言っています。ですから、<御霊の属する人>とは「キリストにある成人(成熟した人)>と言えるでしょう。<幼子>(ネーピオス)とは、「乳飲み子」のことです。
ややこしい話になりますが、先週には、<御霊を受けている人>(プニューマティコス;同2:15)と<生まれながらの人>(プシュキコス;同2:14)を考えてみました。実は、2:15の<御霊を受けている人>と、3:1の<御霊に属する人>は、同じ「プニューマティコス」という同じギリシャ語が使われています。ですから、パウロは、人間を三種類に分けていることになります。先ず、「プシュキコス」(魂的)と呼ばれる人です。これは、キリスト者でない人です。彼らは、霊的再生を受けていないで(聖霊を受けないで)、魂(精神)の機能だけで生きている人のことです。彼らの特徴は、自然理性と霊的混乱の中に揺れ動いていることは、先週触れました。第二と第三はキリスト者ですが、違いがあります。第二の人は、「プニューマティコス」(霊的)であって、聖霊に従っている成熟したキリスト者のことです。この言葉を霊的再生をした全キリスト者を意味する<聖霊を受けている人>と訳した2:15は、明らかに誤訳と思われます。第三は「サルキノス」(肉的)であって、キリスト者ではありますが、<肉>の支配をまだ強く受けている人のことです。
キリスト者になっても、なかなか成長できないことがあります。パウロは、その根本原因は「サルキノス」(肉的)であることだと言っているようです。では、「サルキノス」とはどのような状態なのでしょうか?それは、原罪に由来する古い自我(サルクス)の影響を強く受けていることなのです。ヘブライストがヘレニストの寡婦たちの配給において差別したもの、彼らが「サルキノス」であったからです。「サルキノス」を原因として、差別や偏見などのいろいろな罪がでてくるのです。彼らはキリスト者でありながら、心の中では様々な肉欲や野心が大きな力を持っていて、聖霊と肉との間で激しい葛藤が繰り広げられているのです。現代の日本人にとっての「サルキノス」の特徴は、依存性だと思います。このことについては、後で再度触れてみたいと思います。
(2)執事の第二の資質
知恵に満ちた人
そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、
…… 知恵に満ちた、
……人たち七人を選びなさい。
私たちはその人たちをこの仕事に
当たらせることにします。 使徒6:3
執事としての第二の資質は、<知恵に満ちた(人)>であることです。この<知恵>(ソフィア)は、「ヘブライ的な知恵」(ホクマ)という意味合いがあったと思われます。織田昭氏のギリシャ語小辞書によると、「ヘブライ的な知恵」とは、「神の意志と目的への霊的洞察を基礎として,日常生活の一つ一つの事柄に対して正しく適確に判断を下して行動する応用力を含む。」とされています。簡単に言うと、自ら洞察した神のことばを、日常生活の様々な課題に上手に、効果的に応用できる能力(適用力・応用力)のことだと言えます。よく信仰さえあれば、自動的に生活が祝福されると思い込んでいる場合が少なくありません。この場合、知恵が軽視されているのです。しかし、知恵が軽視されると、みことばを実践しようとしても、挫折してしまうのです。
その理由を考えてみましょう。それは、聖書のみことばは、時代や文化や民族がある程度違っても応用できる普遍性があります。その普遍性を個々の状況に適用することを、キリスト者は要請されるのです。ですから、その普遍性を演繹して、個人が自分の生活や人生に適用しなければ、具体的なことは何一つなされないのです。それはちょうど、数学の公式を覚えていても、実際の問題を解くときに、この公式を利用できない人に似ています。公式は100%覚えていても、応用問題は0点を取ることだってあるのです。公式を知っていることと、それを適用できることとは別のことなのです。
例えば、マザー・テレサの場合を考えてみましょう。彼女は、カルカッタの聖マリア学院で地理学を教え、校長の職にあったとき、「最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたと言います。それから、彼女はカルカッタのスラム街で活動を始めました。その当時の彼女のあだ名は、「祈る実業家」だったそうです。貧民救済の資金を調達するために、彼女は修道女やボランティアを動員して事業を起こしたのです。彼女にとって、愛は観念の問題ではなく、具体的な応用であったのです。彼女のこのような言葉があります。「私は社会福祉家でもなければ、慈善事業家でもないのですよ。私はキリストのためにやっているだけですから。」しかし、この言葉を裏返せば、「キリストのために」という信仰は、彼女の知恵を介して始めて、社会福祉と慈善事業として実を結んだのです。知恵が欠けている人が「キリストのために」何かをしようとしても、社会福祉や慈善事業どころか、破壊的な結果をもたらすことにもなりうるのです。
知恵の欠落による損害
利口な者はわざわいを見て、
これを避け、わきまえのない者は
進んで行って、罰を受ける。
箴言22:3
牧師という仕事は、いろいろな意味で「知恵」が要求されます。愛の実践は、知恵によって行わなければ、破壊的な結果をもたらすことになることを、何度も体験しました。また、<知恵の欠けた>ことが、致命的な欠陥になり得ることを、経験によって知りました。特に、人間関係やコミュニケーションにおいては、そうです。
私は今月ブルーベリーの苗を手に入れて、鉢植えでの栽培を始めました。ブルーベリーをどんなに愛していると思っていても、知恵がないなら、苗を枯らしてしまいます。ブルーベリーを本当に育てたいと願うなら、苗を枯らさないで生かすために、最低で三つのことが重要なのです。第一は、酸性(pH4.3-5.5)の土壌が必須であること。第二には、夏の間は決して水遣りを欠かさないこと。第三には、肥料は春の元肥と8月下旬ごろの礼肥の二回なのです。ブルーベリーを生かすためには、少なくとも最低の知恵は必要なのです。ベルーベリーの栽培では、無知は苗を枯らすだけですむことですが、人間関係の場合は、もっと深刻な後遺症を残すことになります。
夫婦関係の祝福にも知恵が必要なのです。親子関係でも、社会における関係でも知恵が必要なのです。それは、みことばに教えられたアガペーを、その関係において解釈し、適用するのが、知恵だからです。
知恵を求める祈り
あなたがたの中に
知恵の欠けた人がいるなら、その人は、
だれにでも惜しげなく、とがめることなく
お与えになる神に願いなさい。
そうすればきっと与えられます。
ヤコブ1:5
では、<知恵>を持つためには、どうすれば良いのでしょうか。ヤコブ1:5をご覧ください。ここで、ヤコブは、<知恵の欠けた人>に呼びかけているのです。<知恵>を獲得する道は、「神に願う」ことだとされています。しかし、「神に願う」には、自分が<知恵が欠けた人>だという自覚がなければならないのです。この自覚がある人は神に求めますから、<知恵>を必ずいただけるのです。この文章の中で、<だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神>という語句は、どんな人にも必ず与えられるということが強調しているのです。
ところが、<知恵の欠けた人>は、普通その自覚がないことが多いのです。むしろ、高慢にも自分は賢くやっていると思っていることが多いのです。私は牧師としてあまりにも知恵がないと思うことが多いのです。しかし、その自覚が神に求めることに繋がりますから、救いとなっているのです。先程、依存性の問題に触れました。依存性の根底には、自立に失敗したことが原因で定着した分離不安があるのです。この分離不安の度合いによって、依存性の度合いも決まるように思えます。本人をパニックに陥らせるほどの強い分離不安がある場合、人間関係にしがみ付く度合いが大きくなるのです。そして、「愛がない」とか「交わりがない」という訴えが、頻繁に出てきます。しかし、本心には「なぜしがみ付かせてくれないのか」という切実な訴えがあるのです。このようなケースで厄介なのは、悩みの原因が本人の依存性にあるのに、周囲の人に責任転嫁を延々と繰り返すことです。しかし、自分の分離不安が原因であることを自覚することがあれば、解放させる可能性が出てくるのです。依存性に苦しむ人が救われる道はただ一つ、自分の悩みの根本原因が、周りの人にではなく、当たり前のものとして、人生の大前提として思ってきた自らの依存性なのだと、気づくことなにです。このような知恵が長年彼を苦しめてきた悩みから解放するのです。
古代には依存性の問題は現代ほど顕著ではなかったかも知れませんが、人格の未熟性に由来する別の問題があったことでしょう。ですから、当時の<執事>は、食事の配給などの奉仕において、人間関係に関する知恵が要求させたことでしょう。<知恵に満ちた人>であることを、執事の条件とした使徒たちの判断は正しかったのです。
(3)執事の第三の資質
選ばれるということ
そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、
…… …
評判の良い人たち七人を選びなさい。
私たちはその人たちをこの仕事に
当たらせることにします。 使徒6:3
執事の第三の資質は、<評判の良い人>であることです。これは、<御霊と知恵とに満ちた>ということが、会衆によって認められることを意味します。自己評価だけではなくて、会衆の中でそのことが証明されなければならないということなのです。これは、その人の社会性が問われているということです。人間関係における視野の幅が問われていると言えると思います。ですから、<評判の良い>というのは、教会内だけではなく、もっと広く社会的に<評判の良い>と理解した方が良いと思います。成熟した社会性がまだ育っていない人は、執事にはふさわしくないということなのです。
また、教会外の人々にも
評判の良い人でなければいけません。
そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。
Ⅰテモテ3:7
Ⅰテモテ3:7をご覧ください。ここには、<監督>(長老)の資質が言われているところですが、<教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません>と書かれています。教会内ではもちろんのこと、教会外でも、すなわち、教会と家庭と社会で、<評判の良い>という意味なのです。これは、良好な人間関係を築くことができていることを意味します。すなわち、社会性の幅が十分にあって、コミュニケーションを行う能力が育っていることです。そういう人でなければ、普通<評判の良い人>にはならないでしょう。
逆に、社会性の幅が十分にないとは、どういうことでしょうか?人は自分のことばかり考える乳幼児から始めて、周りの人やことに関心が向くようになります。こうして、自分のことから隣人のことまで、関心の幅が広くなるのです。これが、社会性の幅なのです。この社会性の幅が狭い人は、関心がほとんど自分のことにだけ向いています。自分のことだけに関心が向くと、自分だけしか通用しない世界に済むようになります。ですから、一般に周囲の評判もよくならないのです。
社会性の幅が狭い人は、自分の現実には関心があっても、隣人の現実には関心もないし、対応しようともしないのです。これが、社会性の狭さからくる弊害なのです。<悪魔のわな>とは何か明らかではありませんが、その人が奉仕をすればするほど、隣人や教会の人々を躓かせることではないでしょうか?そして、結果的に自分も躓いてしまうのです。
使徒による承認と任命
この人たちを使徒たちの前に立たせた。
そこで使徒たちは祈って、
手を彼らの上に置いた。 使徒6:6
最後に、教会の中で公に<執事>として任命される段階を考えてみましょう。先ず、会衆によって、<御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち>が選ばれました。そして、会衆が選ばれたその人たちを、<使徒たちの前に立たせた>のです。それは、会衆の選出を承諾するかどうかが、使徒たちの判断に委ねられたことを意味します。使徒たちは按手によって彼らを<執事>に任命しました。 このように、<執事>たちは、会衆の選出と使徒たちの承認と任命によって、奉仕に臨んだのです。
<執事>たちに要求された資質は、<御霊と知恵に満ちた、評判の良い>ということでしたが、これはキリスト者の人生の祝福のために普遍的な意味合いを持っています。ですから、執事の三つの資質を自らに当必要があります。聖霊に自らを明け渡して、聖霊に満たされているかどうか、あるいは、家庭や社会や教会などでの具体的な課題に、十分な知恵を得ているかどうかを、自分を吟味する必要があるのです。
http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2009y/090621.htm