宣教報告を受けるキリスト

ルカ伝10章17-24節

 先週は、これから宣教に派遣されようとしていた〈七十人〉の弟子たちになされたキリストの教え(宣教の心得)について見てみました。彼らは、遣わされた町や村での宣教活動を終えて後、イエスのところに帰って来て、宣教報告をしたのです。この弟子たちの宣教報告は、後で詳しく触れますが、随分と偏った印象を受けます。

 この報告を受けて、彼らに語られたイエスの教えが、今日の箇所なのです。その内容には、幾つかの重要な教えが含まれていますので、今日は、ご一緒に見てみたいと思います。

(1)七十人の宣教報告

宣教報告

さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」            ルカ10:17

 まず、ルカ1017をご覧下さい。ここには、弟子たちの宣教報告が異例の短さで書かれています。しかも、その内容は随分と主観的に偏っている印象があり、ほとんど報告の態を成していないのです。イエスは、この報告に暗示されている問題点を鋭く見抜かれたのです。一般的に、宣教報告とは、宣教活動の全体を総括している必要があります。しかし、彼らの報告は、彼らが関心を寄せていた事柄だけが強調されていたのです。

 彼らのレポートの内容は、〈あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。〉ということでした。まともな宣教報告なら、どこどこの村ではこのように伝道をして、病と悪霊から癒され人々は、このように変わりましたなどと、宣教の全体像が語られるはずですが、彼らは違ったのです。ギリシャ語の原文での順序は、「悪霊どもさえ、従います、私たちに、あなたの御名において」となっています。彼らが最も感心があったのは、人々が悔い改めて神に立ち返ることとか、悪霊や病気から癒されて、人々はこう変わったとか、隣人愛的なものではなかったのです。何に関心があったかというと、悪霊どもを従わせる自分に、彼らの関心は集中しているように思えます。〈あなたの御名を使うと〉は、文の一番後ろに来ているのです。自分たちもイエスのように悪霊を追い出すことができたのだということが、他の何よりも嬉しかったのだと思います。

イエスの対応

だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。       ルカ10:20

 しかし、イエスは、彼らのこの大きな喜びを〈喜んではなりません〉と否定されたのです。中には、自分の「喜び」にまでケチを付けられたと、感情を害した弟子もいたかも知れません。しかし、その人が何に対して「大きな喜び」を感じるのかは、何を大切に思っているかというその人の価値観に関わっているので、見過ごせなかったのだろうと思います。

 人が何に最も喜びを感じるかを知ることは、その人自身を知ることでもあります。キルケゴールは、人生を地下一階、地上二階建ての家になぞらえて、地下から地上一階、地上一階から二階へと、段階的に上ることによって、人生が完成するのだと考えました。地下一階は、「美的感覚の人生の段階」であって、ほとんどの人々がここで暮らし、死んで行くとしました。それは、物欲や肉欲や名誉欲や権力欲や金銭欲などが満たされることを喜ぶ段階に留まる人生なのです。ネット上には、様々なショップがあります。買えないものはないほどに豊富な種類の商品が比較的安い値段で販売されています。モニターでそのような品物を見ていて、物欲が目覚めた経験をした人は少なくないでしょう。どんなものを手に入れて喜ぶかで、その人が分かります。また、それらの物を自分のものにすることだけしか感心がないなら、利己的なのかも知れません。しかし、それらを誰かに差し上げて、もらった人が喜ぶのを見て喜ぶなら、その人は「与えることの幸せ」を知っている人なのです。ですから、何に対して本当に喜んでいるかは、その人の本性を知る上で重要なのです。

(2)キリストの決断によって開かれた成果

サタンを転落させたキリスト

イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。 … 」    ルカ10:18

 では、〈悪霊どもが(自分たち)に服従する〉ことを喜んではいけない理由は何なのでしょうか?第一の理由は、彼らが悪霊を従わせることができたのは、「イエスの御名において」なのに、あたかも自分たちの功績であるかのように喜んでいたからです。「自分がそうできた」ことが、彼らには重大であったのしょう。しかし、「自分が自分で……を成し遂げた」と言って完結させる資格を持つ人間は、誰もいないのです。人間は、圧倒的な神の恵みの中で生かされています。人間の努力も業績も、神の摂理によって産み出され、用いられ、生かされているものなのです。 

 悪霊が弟子たちに従った理由も、弟子たちのパワーによるのではありません。18節をご覧ください。ここに、その理由が書かれているのです。それは、〈サタンが、いなずまのように天から落ち()〉からだと、イエスは解説されました。〈サタン〉とは、「敵対者」という意味のヘブライ語ですが、聖書では神の敵として現れます。彼は、神の御座に近づいて、人間の悪行を神に訴えます。そして、人間が「神の国」に相応しくなく、サタンの支配にこそ相応しいのだと主張するのです。サタンの主張は、キリストを考慮しないなら、まったく正しいし、まったく合法的なのです。この合法性が、サタンが〈天〉に留まることができた理由なのです。

 しかし、イエスがエルサレムへの旅を決意されたことで、事情が変わったのです。なぜなら、罪人が赦される道が、イエスの決意によって確定したからです。これまでは、預言書やイエスご自身のことばで予告はされていました。予告されていたことが、エルサレムへの旅を決意することによって、具体的なものとなったのです。それで、人間を訴える〈サタン〉の立場は根拠を失い、彼は座を追われたのです。何を言いたいかというと、〈七十人〉の宣教の成果は、イエスの決意によって開かれたものである、ということなのです。もちろん、イエスのみこころを受けて、彼らが宣教に出掛けたことが、具体的な成果に繋がったことは確かです。そのことは評価されるべきなのです。しかし、イエスの決意があってこその彼らの成果であって、まず、彼らはイエスを讃美し、感謝すべきではなかったのはないでしょうか。これは、キリスト者の人生における態度として、これができているかどうかは、霊的な成長において、霊的であるか肉的であるかの重要な分岐点であると思います。

使徒パウロの場合

私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。        ローマ15:18

 彼ら〈七十人〉とは対照的なのが、パウロなのです。パウロの認識は、見事なほどにキリストに近いのです。ローマ1518をご覧ください。ここには、〈キリストが … この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうとはしません〉と言っています。なぜなら、〈キリストが…成し遂げてくださったこと以外〉は、語るに足りない、何の価値もないと、彼は信じていたからです。当時の時代のキリスト教において、パウロほどの業績を残した人はいませんでした。彼は、誰よりもイエスの思想を理解する思想家であり、キリスト教史における最初にして最大の神学者でした。アウグスティヌスやカルヴァンなどの偉大な天才が後から出ましたが、彼らはパウロの思想を再解釈したに過ぎないのです。また、世界宣教に対する貢献もまた偉大でした。病弱な体でありながら、多くの弟子を養成し、世界的な規模で、幾つもの地域教会を開拓した偉大な使徒でもありました。彼の業績のうちただの一つしか達成できなかったとしても、偉大なことを成し遂げたことになったはずでした。ですから、彼の業績の総体は、メガス(大きい)でもギガス(巨人的)でもなく、テラス(怪物的)であったと言えます。

 しかし、彼がさらに聡明であったのは、自分を神の摂理によって生かされていることを深く認識していたところです。ですから、「俺はこんなに偉大なのだ」とうそぶいたりして、傲慢になることなどなかったのです。功績を積んだほとんどの人が陥る罠は、「俺が…をしたのだ」と思い込んで、神の摂理を見ないことなのです。これは、サタンが陥った重大な罪なのです。

(3)真実な喜び

神の摂理と人間のわざ

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。        詩篇127:1

 「神の摂理」と「人間のわざ」の関係には、幾つかの考えがあります。一つは、「人間のわざ」がすべてで、現実の生の現場には神はいない、だから、「神の摂理」もないと、「神の摂理」を全面否定する立場です。この立場は、無神論者にも有神論者にもあって、現代では最も人気があると思います。二番目は、「人間のわざ」がほとんどすべてで、「神の摂理」とは、人間が一所懸命にやった後で祈れば、「人間のわざ」によって得られた成果に、少し付け足しをしたような運の良さだとする立場です。「人間のわざ」が主で、「神の摂理」が従という立場です。三番目は、「神の摂理」がすべてで、人間の努力はすべて空しいとする、「棚から牡丹餅式」の神任せの立場です。「神の摂理」が全部で、「人間のわざ」はゼロに等しいとする立場です。四番目が聖書の立場です。すなわち、「神の摂理」がすべてを主導して、「人間のわざ」も「神の摂理」に含まれるという立場です。

 詩篇1271をご覧ください。ここに、「人間のわざ」と「神の摂理」という対極にあることがらをどう調和させるかについてのヒントがあります。まず、ここには、〈主が家を建てる〉と〈主が町を守る〉という「神の摂理」が書かれています。一方で、〈建てる者の働き〉と〈守る者の見張り〉という「人間のわざ」が書かれているのです。ここでは、「主の摂理」がなければ、「人間のわざ」は〈むなしい〉とされています。では、逆に「人間のわざ」がなければ、「主の摂理」は〈むなしい〉となるのでしょうか?決して、そういうことではありません。このことは後で見ることにしましょう。

の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。  箴言10:22

 このテーマについてもう一つ、箴言1022をご覧ください。これは、〈人の苦労〉を全面否定する第三の立場のようにも思えますが、実際はそうではありません。〈主の祝福〉という「神の摂理」の中で、「人間のわざ」がどのような位置を占めるのかを知る必要があります。これまで、「神の摂理」と「人間のわざ」を分けて見てきましたが、聖書では、努力や情熱を含めた「人間のわざ」でさえも、「神の摂理」のなせるわざとしていると思います。「人間のわざ」が「神の摂理」に含まれることで、「人間のわざ」は意味と価値が持っているのです。

 「瞬きの詩人」と呼ばれた水野源三さん(1937-1984)というクリスチャンがおられました。小学校4年生のとき赤痢に罹ったときに、高熱のために脳性麻痺の後遺症が残るという、気の毒な境遇を生きてこられたのです。クリスチャンになったのは、12歳のときに母親が置いた聖書を読んだことがきっかけでした。そして、18歳で詩を作り始めたそうです。現在、四冊の詩集が残されていますが、第一詩集の題は、『わが恵み汝に足れり』なのです。自分の境遇を「神の摂理」として深く認識して、しかも、「神の恵みは私に十分ある」と感謝するほどにその摂理を肯定的に受け入れておられたのです。この方の証しでは、「神の摂理」(人生における導き)と「人間のわざ」(多くの詩作活動)との関係が明白です。後遺症を背負う人生体験の中から生み出された「多くの詩作」(人間のわざ)こそが、「神の摂理」そのものであったのです。そして、その証しと詩によって、健康なキリスト者が一生掛けて頑張ってもできないほどの人々に、勇気と希望を与えたのです。

真実な喜び

ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。 ルカ10:20

 最後に、彼らの喜びが否定された第二の理由を見てましょう。20節の後半をご覧ください。ここには、本当の〈喜び〉について書かれているのです。〈名〉(オノマ)とは、存在そのものを指しています。〈名が天に書きしるされている〉とは、「神の子」としての身分をすでに回復してずっとその関係が継続していることを意味しています(完了形)。神との関係の回復は、「あなた」という個性に、あるいは個別の人生に根源的な支えを与えます。これが、水野源三さんを支え、その人生に意味と価値を与えたものなのです。これこそが、個人のアイデンティティを根底から支え、個別の人生に確かな意味と価値を与えるものなのです。

神とあなたとの間に「親子関係」が成立したとしたらどうでしょうか。しかも、「天の役所」において、「子としての身分」を公式に登録されたのです。それは、神が所有するあらゆる祝福を正式に相続する立場です。何と喜ばしいことでしょうか?この神との関係が、「真実な喜び」の理由なのです。水野源三さんの第一詩集に、『わが恵み、汝に足れり』というタイトルが付されたのも、このことが深く認識されていたからではないか、と思います。そして、それはすべてのキリスト者にとって、尽きることのない「真正な喜び」の源なのです。

 

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2011y/111120.htm