新生の経験
真の幸福をつかむために
D.L.ムーディ

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D.L.ムーディの集会

〔聖書テキスト〕

 「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない(ヨハネの福音書3:3)


〔メッセージ〕

 聖書の中で、これほど親しまれている御言葉はないでしょう。
 この御言葉が真実であるなら、私たちにとって、これほど重要なメッセージはありません。
 ところが、私たちはこの重要な問題に関してさえ、しばしば間違いを犯しています。
 キリストは明確にお教えになりました。
 「誰でも新しく生まれなければ、神の国を「見る」ことはできない」――ましてや神の国を「継ぐ」などということはできません。
 この「新生」の教えこそ、私たちの人生の土台です。また来世に関するすべての希望の基礎です。それはキリスト教のイロハなのです。
 私の経験では、人がこの教えをはっきり理解していないと、聖書の根本的な教えのほとんどすべてに関して、不健全になるおそれがあります。
 人が新生の教えを正しく理解しているなら、たとえ聖書の難解な箇所に出会っても、解決があるでしょう。
 人は新生を理解して初めて、難しいと思われた聖書の御言葉も、ひじょうにわかりやすいものとなるのです。
 聖書の新生の教えは、すべての誤った宗教をくつがえすものです。また聖書や神に関するすべての間違った意見を、くつがえすものです。
 私の友人の伝道者が、かつてこんなことを話してくれました。
 ある伝道集会のあとで、一人の男性が彼に近づいてきました。その男性は、キリスト教に関する数々の質問を表にして持って来て、言いました。
 「これらの質問に満足のいく答えをくださるなら、私はクリスチャンになる決心をしましょう」。
 そこで私の友人は、こう答えました。
 「私のもとに来るより、直接キリスト様のもとに行かれたほうが、よいと思いませんか。そうすればあなたは、自分でこれらの質問について調べることができるでしょう」
 その男性も、それが賢明な道だと思ったのでしょう。彼はキリストを受け入れました。
 キリストを受け入れてしばらくたった後、彼はもう一度その表を見ました。するとそれらの質問は、すでにみな答えられてしまったことに気づいたのでした。
 さて、キリストが「だれでも新しく生まれなければ・・・」と言われた相手は、ニコデモという人物でした。
 ニコデモはユダヤ人の指導者の一人でしたが、キリストに関するいろいろな疑問をもって、悩んでいました。
 ある夜、彼は意を決して、キリストのもとにたずねて来ました。その彼にキリストが、 「新しく生まれなさい」
 と言われると、彼は返事の意外さにびっくりしました。しかしその日こそ、彼の生涯において最もさいわいな日となったのです。
 「新たに生まれること」――これこそ、私たちがこの世において経験し得る、最も幸福な出来事です。ここで、聖書の言葉に注意してください。
 キリストはニコデモに対し、「だれでも新しく生まれなければ」と言うだけでなく、「上から生まれなければ(ヨハ3:7 新改訳注参照) 、また「霊から生まれなければ(ヨハ3:5)という表現も使われています。
 「・・・しなければ」という言葉を、3つ使われているのです。キリストはまた別のときに、こうも言われました。
 「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」 (ルカ13:3)
 「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできないであろう」 (マタ18:3)
 「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に入ることはできない」 (マタ5:20)
 これらの言葉はみな、同じことを言っているのです。
 主イエスは新生の教えを、ユダヤ人の指導者であり法律の博士であった、ニコデモに対して話されました。
 話された相手は、サマリヤの井戸端の女でも、また取税人マタイ、取税人ザアカイでもありませんでした。私はこのことに感謝せざるを得ません。
 もしこの重要な教えが、これら3人に話されていたのであれば、人々はきっと私に言うでしょう。
 「もちろんそうでしょう。取税人や娼婦は、生まれ変わる必要があります。しかし私は、正しい人間ですから、生まれ変わる必要はありません」。
 ニコデモは、エルサレムの人々の中でも、典型的な良識家であったようです。そうでないという記録はありませんでした。
 このニコデモに対して、キリストは新生の教えを説かれました。どんな良識家であっても、生まれ変わらなければ、天国に入ることはできないのです。

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 キリストが新生の教えを説かれた相手は、
ユダヤ議会の議員、また良識家のニコデモであった

 私たちは天国に入る前に、生まれ変わらなければならない――この教えを、いちいち証明する必要はないでしょう。
 神の力によって生まれ変わらなければ、誰も神の国にふさわしい者とはなれない――このことは、正直な人なら誰でも認めることでしょう。
 聖書は、人は生まれついたままでは罪ある者であり、神のもとから「失われた者」である、と教えています。私の経験も、これを裏づけています。
 どんなに立派で賢い人でも、神に背いて生きるなら、たちまち罪におちいります。すべての人は、新しく生まれ変わらなければならないのです。


新生でないもの

 ここで、新生とは何でないか、についてお話ししたいと思います。
 新生とは、教会に行くことではありません。私は人にお会いすると、そのかたがクリスチャンであるかどうか、お尋ねすることにしています。
 ある人はこう答えます。
 「私はもちろん、クリスチャンです。毎週日曜日に教会に行っていますから」
 ――しかし、毎週教会に行くことが新生なのではありません。
 他の人はこう言います。
 「私は正しいことを行なうよう、つね日頃、心がけています。自分はクリスチャンではないかと思います。これが新生ではないでしょうか」
 ――いいえ、正しいことを行なうことが新生なのでもありません。
 さらに別のタイプの人もいます。「新しい生活を始めた」と称する人々です。それで新生した、と思っているのです。
 しかし、単に生活の形態を変えたことが新生なのではありません。また洗礼(バプテスマ)を受けることも、新生ではありません。
 こう言いますと、ある人は次のように言うでしょう。
 「なぜですか。私は洗礼を受けました。それで私は生まれ変わったのではないのですか」。
 しかし、洗礼を受けたことが、そのまま神の国に入ったことなのでしょうか。いや、そのようなことはあり得ません。
 あなたが教会に通って、たとえ洗礼を受けても、信仰がなければ、あなたは神の子になることができません。洗礼は、実体を伴って初めて新生になるのです。洗礼自体を新生の代わりにするのは、恐ろしい誤りです。
 私は洗礼を、否定しているわけではありません。洗礼を受けただけでは神の国に入れない、と述べているのです。
 だれでも「新しく生まれなければ」、天国に入ることはできません。もしこれを読んで、意味を誤解するかたがいれば、神がその誤解を解かれることを祈ります。
 さらに、ほかの人々は言います。
 「私は聖餐にあずかっています。私は教会の礼典に、欠かさず出席しています」。
 教会の礼典はさいわいなものです。イエス様は、「これを守るごとにわが死をおぼえよ」と言われました。
 しかしこのこと自体は、新たに生まれることでもなければ、死より生命に移されることでもありません。
 イエス様ははっきり言われます――非常にはっきりしているので、誤った解釈をする余地もありません。
 「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。
 この御言葉と、礼典と、何の関係がありましょう。教会へ行くことと新生と、一体何の関係がありましょう。
 また別の人は言います。
 「私は毎日お祈りをしています」。
 ――しかしこれもまた、神の聖霊による生まれ変わりとは異なる、と言わなければなりません。
 今私たちが当面している問題は、きわめて厳粛な事柄です。みなさん、私たちはイエス様の言われるような新しい生まれ変わりを、経験しているでしょうか。
 あなたは、死より生命に移されていますか。そのことを私たちは、熱心に、また忠実に見きわめなければなりません。


誰が新生を必要としているのか

 ある人々は、宗教的な集会というものは、不道徳な人や堕落した人を立ち直らせるのにいい、と言います。
 酔っぱらいや、バクチ打ち、またそのほか堕落した人々や、不道徳な人を改心させるのに、宗教は役に立つというわけです。そしてこう言うのです。
 「堕落した人間や不道徳な人間に、宗教は必要だが、私には必要ない」。
 けれども「だれでも新しく生まれなければ・・」の御言葉を、キリストは一体だれに語られたでしょうか。
 それはニコデモという人物に対してでした。ニコデモとは一体誰だったでしょう。酔っぱらいだったでしょうか。あるいはバクチ打ちだったでしょうか。ドロボウだったでしょうか。
 いいえ、彼はエルサレムでも指折りの道徳的な人間でした。彼は、サンヘドリンと呼ばれる由緒あるユダヤ議会の議員であり、ユダヤ教の正統的な信仰の持ち主でした。
 このエリートであるニコデモに対して、キリストは、
 「だれでも新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」
 と言われたのです。こうなると、ある方々は、問うことでしょう。
 「しかし、自分で新しい生命を造れるわけではないし、どうやって新しく生まれるというのか」。
 たしかに新しく生まれることは、あなた自身ではできません。ですから、私があなたに、自分で新しく生まれなさいと求めることはありません。
 私はみなさんに申し上げます。キリストなくして、ひとりひとりの人間を生まれ変わらせることは、全く不可能です。
 ところが人々は、自分で自分を生まれ変わらせようとしています。自分で古きアダムの性質に、つぎあてをしようとしています。
 しかし必要なのは「新しい創造」です。新生という、神による新しい創造です。新生は、神がなされる新創造のみわざなのです。
 聖書の創世記1章をごらんなさい。神が無から天地を造られたとき、人間はまだ存在していませんでした。天地は、神がおひとりで造られたのであって、人間は何もしなかったのです。
 キリストが十字架上で、私たちのために贖いのみわざをなして下さったときも、そうでした。贖いは、キリストがなされたみわざであって、人間は何もしなかったのです。
 新生も、人間のわざではなく、父なる神と救い主キリストによるみわざです。
 「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である(ヨハ3:6)
 と聖書は言っています。

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 キリストの身代わりの死によって、贖いのみわざは、すでに完成した

 エチオピア人は、自分の皮膚の色を変えることはできません。豹は、自分の斑点をなくすことはできません。
 あなたは自分で自分を清め、聖なるものにしようと、できる限りの努力をしてごらんなさい。しかしそれは、ちょうど肌の黒い人間が、自分の体を洗って肌を白くするのと同じくらい、難しいことです。
 肉(自分の性質)において神に仕えるくらいなら、月の上まで自分の足で跳び上がろうとするほうが、まだ簡単でしょう。
 肉によって生まれた者は肉です。また霊(神の性質)によって生まれた者は、霊です。 私たちは神の霊によって、新しい生命に入らなければなりません。


いかにして神の国に入るのか

 さて、私たちはどうしたら神の国に入ることができるのでしょうか。神がお語りになる御言葉を聞きましょう。
 私たちは、「努力する」ことによって神の国に入れるのではありません。これは救いが、努力して入る価値のないものだ、ということではありません。
 もし道の途中に、川や山があるならば、川を泳いで渡ったり山をよじ登ることは、努力する価値が充分あることです。
 救いも、あらゆる努力をする価値のあるものです。しかし私たちは、自分の努力や働きによって、救いに入るわけではありません。
 「働きはなくても、信じる者に(ロマ4:5)
 救いは与えられるのです。私たちは、救われたから努力するのであって、救われるために努力するのではありません。
 十字架から出発して努力するのであって、十字架を目指して努力するのではありません。聖書は、
 「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい(ピリ2:12)
 と言っています。人が「自分の救いの達成に努める」とは、どういうことでしょうか。
 救いを達成しようと努めるためには、まず救いというものを、その人が得ていなければなりません。
 たとえば、私が子どもに、
 「百ドルを注意して使いなさい」
 と言ったとしましょう。すると子どもは、
 「じゃあ、まず百ドルをちょうだい。そうしたら注意して使います」
 と言うでしょう。まず百ドルを持っていなければ、それを注意して使うことはできません。
 救いもそうです。それを得ていなければ、その達成に努めることはできません
 私は、はじめて自分の家を離れ、ボストンに来た時のことを思い出します。私はボストンで、やがてお金を全部使い果たしてしまいました。
 それで何か良い知らせは来ないかと、1日に3度も郵便局へ行きました。郵便は1日に1回しか来ないと知りながら、何かのはずみで来ていないか、と思ったのです。
 私はついに、幼い妹からの手紙を受け取りました。それを見て、どんなにうれしかったことでしょう。
 妹は、ボストンにはスリが多いと聞いていたらしく、その手紙の内容は、大部分「スリに気をつけて」というものでした。
 しかし、すられるためには、「すられる物」を持っていなければなりません。当時、無一文だった私は、すられないよう努力することができませんでした。
 同様に、あなたは努力して自分の救いを達成しようとする以前に、まず救いそのものを得ていなければなりません。得てから、努力するのです。
 みなさん、キリストがあのカルバリの丘で、
 「完了した」
 と叫ばれた言葉は、そのままの意味なのです。
 神の側では、私たちを罪から贖い出す(救い出す)みわざはすでに成し遂げられ、完了しました。
 私たちの側ですべきことは、イエス・キリストのみわざを、ただ自分の内に受け入れることなのです。
 救われようと、あれこれ努力することではないのです。
 「じつに神秘的なことだ」と、ある人は言うでしょう。また、「どうしてそんなことがあり得ましょう」という人もいるでしょう。
 実際、それは人間の耳には奇妙に聞こえます。
 「再び生まれる?神の霊によって生まれるだって?どうしてそんなことがあり得ましょう」。
 多くの人は言います。「それを説明してください。もしよく説明できないなら、私に信じさせようとするのはやめてください」 と。
 しかし説明してくれと言うならば、私はあっさりと、「私にはできないことです」と言い切ります。なぜなら、
 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」(ヨハ3:8)
 と聖書は言っています。私はたとえば「風」について、すべてを理解することはできません。あなたが説明を求めても、私にはできません。
 北に吹く風があると思えば、違う場所では、正反対の方向に風が吹いています。この風の流れを説明しろと言われても、私にはできません。
 では説明できないからといって、風が存在しないかというと、そんなことはありません。
 もし私が、「風なんてものは存在しませんよ」と主張したら、どうなるでしょうか。そんなことを言えば、きっと幼い女の子はこう言うでしょう。
 「風は目には見えないけれど、ちゃんとあるのよ。ときどき風の音が聞こえるし、私の顔に吹きつけたりするもの。いつだったか、私も傘を吹き飛ばされてしまったわ。
 また町で、帽子を飛ばされた人を見たこともあるわ。あなたは森の中の木や、とうもろこしの畑に吹きつけている風を見たことがないの?」。
 もし、神の霊によって人が新しく生まれ変わるなどということはない、と、ある人が言うのであれば、その人はむしろ、風などない、と言ったほうがましでしょう。
 私は、ちょうど自分の顔をなでる風を感じるように、心の中に神の霊の働きを感じているのです。
 私はそれを理論づけることはできません。説明できないことは、世の中に多いものです。しかし私は、信じるのです。
 「万物の創造」ということも、決して説明できません。世界を、見ることはできます。しかし神がそれをいかにして無から創造されたかは、説明できません。
 神による創造は、信仰によって心に認められるのです。


すべてを説明するのは不可能である

 私には説明したり、議論で説き伏せたりすることは、できません。しかし私は信じております。
 私は以前、ビジネスで旅行しているある人が、「イエス・キリストの使命と宗教は、啓示されるものであって、研究されるものではない」と言ったと聞きました。
 キリストの使徒であったパウロも、「神が・・・御子を私のうちに啓示してくださったとき・・・」(ガラ1:15)
 と述べています。キリストの生命の輝きは、頭で理解するより、むしろ心の中に啓示されるものなのです。
 ある青年の一団が、旅をしていました。彼らは、自分たちの知性でわからないことは決して信じない、と心に決めていました。これを聞いたあるクリスチャンの老人が、
 「君たちは、頭でわからないことは決して信じないそうだね」と声をかけました。すると彼らは、「そうです」と答えました。そこで老人は尋ねました。
 「そうですか。それなら、きょう汽車で運ばれて来た鶏や、羊、豚、牛などは、みな草を食べているけれども、その草がそれらの動物の毛になったり、肉になったり、卵になったりしていることを、君たちは信じるかね」。
 「もちろん信じますよ。わけがわからなくったって、信じないわけにはいかないでしょう」と彼らは答えました。老人は、
 「それならば、わしもキリストを信じないわけにはいかないのだよ」と言いました。
 老人は、自分の人生に起こった新生の体験を思うと、キリストを信じないわけにはいかなかったのです。

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草が、この羊の肉や毛になっていることを、
あなたは信じますか」。

 不幸のどん底から、すっかり立ち直らされた人をみれば、人間の生まれ変わりを信じないわけにはいきません。
 悪に染まっていた人が、その泥沼から救い出され、今は堅固な岩の上に心を安めて、幸福に輝いているのです。
 かつて彼らの口は、不満や愚痴やのろいの言葉を吐いていました。しかし今は、喜びながら神を讃美しているのです。古いものは過ぎ去り、すべてのものが新しくなりました。
 彼らは単に心が改まったのではなく、生まれ変わったのです。キリストにあって、彼らは「新しい人」となったのです。
 ある大都会で、暗い路地を入った所に、ひとりの貧しい酒飲みとその家族が住んでいました。
 「地獄」というものが、もし地上にあるとすれば、まさにそこがそうだったと思えるほど、彼の家の貧しさや困窮は、ひどいものでした。
 彼の家では、入口で足音がすると、子どもたちはさっと隠れます。子どもたちは乱暴な父親が帰ってきた、と思うのです。
 母親は、ながいあいだ病気でした。しかも、彼女はしばしば、夫から乱暴を受けていました。夫は、手向かいもしない妻の顔に、しばしば鉄拳をふるっていたのです。
 ある日、妻は忍耐深く、夫の帰りを待っていました。その頬は、前の晩に夫になぐられたために、青く腫れ上がっていました。
 妻はののしりと、獣のような扱いを受けることを知りながら、夫の帰りを待っていました。ところが夫は帰ってくるなり、こう言ったのです。
 「俺はじつは、キリストの集会に出てみたんだ。牧師さんは、俺が回心すれば、生まれ変わって新しい生活に入れるという。俺は神様と、救い主イエス様を、信じることにするよ」。
 2、3週間後、私がその家をたずねてみたとき、彼の家庭は以前では考えられなかったほど、変わっていました
 私が家に近づくと、だれかの歌の声が聞こえました。ドンチャン騒ぎの声ではありませんでした。昔の美しい讃美歌「ちとせの岩よ」の一節だったのです。
 子どもたちはもう、父親を恐れてはいませんでした。彼のひざの上に、子どもたちは鈴なりになっていました。そのかたわらで妻の顔が、明るく輝いていました。まさにそれは、生まれ変わりの写し絵でした。

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 キリストの救いによって、このような人生の変革を経験し、真の幸福を得た家庭が、じつにたくさんあります。人々に必要なもの――それは私たちの内側から良い生活に導いてくれる、偉大な神の力なのです。


新生は神の国に入る唯一の方法

 神の国(天国)に入る唯一の方法は、「新しく生まれる」ことです
 アメリカの法律では、アメリカで生まれた者しか、合衆国大統領になれません。
 アメリカにいる外国人は、合衆国大統領にはなれません。外国人はこのことに、文句を言えないのです。
 同様に神の国に生まれた者でなければ、永遠の生命を継ぐ者となることは、できません。これは神の国の法律なのです。
 生まれ変わっていない人は、天国にいると思っていても、じつは地獄にいます。たとえば堕落と邪悪にみちた人が、天国に入って、清い贖われた人々の間におかれたとしましょう。
 その人はおそらく、そこにずっといようとは思わないでしょう。もし私たちが天国で幸福になりたいなら、地上のあなたの心に、まず天国をつくらなければならないのです。
 天国というものは、天国の備えのできた人に、与えられます。
 仮に、神をないがしろにして生活しているバクチ打ちが、ニューヨークの町から天国に連れられてきた、としましょう。そして天国の透き通った道のかたわらで、「いのちの木」の木陰におかれたとしましょう。
 すると彼は、きっと、
 「こんなきれいな所はいやだ」
 と言って逃げ出すでしょう。人が生まれ変わることなく、生まれつきのまま天国に連れていかれたとしたら、その人にとって天国は居心地の悪い所でしかないのです。
 天国は、2度生まれた人々の国です。ヨハネの福音書3:14-15に、こう記されています。

 「ちょうどモーセが荒野でへびを (棒の上に) 上げたように、人の子 (キリスト) もまた (十字架上に) 上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。

 私は、この言葉からお話ししたいと思います。聖書は、まだ救いを得ていないあなたに対して、神が何をなしてくださると、言っているでしょうか。

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モーセが荒野でへびを 上げたように、
人の子 もまた 上げられなければならない。

 神は、あなたの救いのために必要なことをすべて、成就されました。あなたは神がこれ以上何かをなしてくださることを、待つ必要はありません。
 旧約聖書・イザヤ書5:4において、神は、
 「わたしのなした事のほかに、何かなすべきことがあるか」
 と言われました。神は人々に預言者を送られました。しかし、人々は預言者たちを殺してしまいました。
 神は愛する御子を送られました。しかし人々は、御子をも殺してしまいました。
 いま神は、私たちに罪をさとらせ、救いの道を示すために、聖霊 (神の霊) を送っておられます。先のヨハネ福音書3:14-15に言われているように、
 「人は、十字架上に上げられた主イエスによって救われる」
 のです。
 旧約聖書には、こういう話がのっています。イスラエルの民の多くが、ある日、毒蛇の大群にかまれてしまい、つぎつぎに死に始めました。
 それで指導者モーセが神に祈ると、神はへびの像を作って棒の上にかかげるよう、彼に命じられました。
 モーセがその通りにし、青銅でへびの像を作って棒の上にかかげると、それを見上げたすべての人は回復し、生きることができました
 それと同様に、罪の毒を受けた私たちが滅びず、永遠の命を得るために、神の御子イエスは十字架上にかかげられたのです。


人が滅びるとすればそれはその人が救いを拒んだから

 これについて、ある人は不満そうにこう言います。
 「人類の始祖アダムの罪が、今の私たちに対して、一体何の関係があるのか。私たちがなぜ、大昔のアダムの罪に対して、責任を負わなければならないのか」。
 しばらく前、ある伝道者がこの問題について語っていました。彼は言いました。こうした問いは、的をはずれている。
 私たちが滅びるとすれば、それはアダムの罪のためではないのだ、と。実例をあげて、これを説明しましょう。
 たとえば私が、遺伝性の肺病にかかり、死にかけているとしましょう。この病気は父あるいは母から受け継いだものです。私が不養生したために患ったものではありません。
 この私のもとに、ある日友人がやって来て、こう言うのです。
 「ムーデー君、君の肺病は重い」。
 私は、
 「それはよくわかっている。余計なことは言わないでくれ」。
 「君の病気に効く特効薬があるんだよ」。
 「いや、そんなものは信じられない。私はアメリカの医者はもちろん、この前もヨーロッパの有名な医者にかかったが、望みがないと言われた」。
 「ムーデー、君は僕をよく知っているだろう、長い知り合いじゃないか」。
 「それはそうさ」。
 「僕が君にウソを言うとでも思うのかい」。
 「いや」。
 「僕は十年前、君と同じような病気にかかっていた。医者にも見放された。けれどこの薬で治ったんだ。見てごらん。今はこんなに元気だ」。
 「それは不思議だ」。
 「そうとも不思議なことだ。しかし事実なんだ。この薬が僕を治してくれた。これを試してごらんよ。君も治る。僕はこのためにお金をずいぶん使ったが、君にはただであげよう。信じてくれ、たのむから」。
 「よいとも、君を信じよう。しかし僕の理性には合わない」。
 ここで友人は去りました。しかし今度は別の人を連れてきて、その人もまた、同じようなことを私に言います。けれども私はまだ疑っています。
 そこで彼はまた、別の人を連れてきます。次から次へと、彼らは同じことを私に言います。私と同じように重い病気だったが、その薬で治ったと言うのです。
 友人は私に薬をくれます。しかし私はそれを地面にたたきつけてしまって、その癒しの力を信じようとしません。
 結局私は死んでしまいます。私は特効薬を飲むことを、拒んだからです。
 同じように、もしあなたが滅びるとすれば、それは始祖アダムの責任ではありません。あなたが救いの特効薬を、拒んだからです。あなたが光より暗黒を好んだからです。
 そんな偉大な救いをないがしろにするようなことがあって、ほかにどんな救われる道があるでしょうか。
 特効薬をないがしろにして、望みはありません。傷をながめているだけでは、何の良いこともありません。
 もし私たちが、イスラエルの荒野のキャンプでテントの中に入ってきたあの恐るべきへびの一匹にかまれた場合、傷口をながめていても何にもなりません。傷口を見ていたところで、決して助かりはしないのです。
 あなたのなすべきことは、特効薬を受け入れることです。あなたを罪と滅びから救う力のあるかた――イエス・キリストを、「あおぎ見る」ことなのです。


あおぎ見れば救われる

 イスラエルの陣営を見てみましょう。多くの人々が死にかかっています。かわききった荒野に、低く小さな墓が立ち並んでいます。
 多くの子どもが、恐ろしいへびにかまれて死にました。大人もたくさん死に、家族が葬っています。

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十字架のイエスをあおぎ見ることによって、救われる

 人々は涙にむせび、愛する家族の死骸を取り囲んで、嘆きの声をあげています。全陣営が嘆きの声と、悲しみの涙におおわれています。
 さらに幾千の人々が、死のうとしています。災疫は、あちらからこちらへと、拡大を見せています。
 あるテントの中で、一人の死にかかった青年が、母親に抱かれているのが見えます。その青年は、人生の花も咲きそめる年頃になっていました。
 母は、息子の額にしたたる死の汗をぬぐっています。息子の目はやがてうつろになり、光を失っていきます。生命の炎が急速に衰えていくのです。
 愛する息子に先立たれる母親の心は、張り裂けんばかりです。そのとき、突然キャンプの中に大きな音が聞こえます。
 何でしょう。それは人々の大きな叫び声でした。彼女はテントの外に出て、通りすがりの人に尋ねます。
 「あの騒ぎは一体何なんですか」。
 「あなたは、キャンプに来たあの良い知らせを知らないのですか」。
 「いいえ知りません。良い知らせとは何ですか」
 「神が救いの道を開いてくださったんですよ」。
 「へびにかまれたイスラエル人のためにですか。おお!それはどんなものか教えてください」。
 「神様はモーセに、青銅でへびの像を作らせ、それを棒の上にかかげて、キャンプの真ん中に置かれたんです。そして『それを見る者は、みな救われる』と言われました。
 あなたの聞いたあの大きな音は、かかげられたへびの像を見た時の人々の叫び声なんです」。
 母はテントにもどり、
 「お前、良い知らせよ。もう死ななくてもいいんだよ。生きられるのよ」。
 と言いました。しかし息子はすでに体がしびれていて、すっかり弱っています。テントの出口に行くことすらできません。
 母は息子を抱きかかえ、連れ出して言います。
 「向こうをごらん。右の丘の、少し下のほうを」
 しかし息子には何も見えません。
 「何も見えないよ、お母さん」。
 母は言います。
 「じっと見てごらん。きっと見えます」。
 ついに息子は、棒の先にかかげられた像が輝くのを、ちらっと見ることができます。すぐに彼はいやされました。人々の回心も、多くはこれに似ています。ある人は、
 「私はそんな突然の救いは信じません」。
 と言います。しかしこの青年がいやされるのに、どれだけ時間がかかったでしょう。へびにかまれたイスラエル人をいやすのに、どれだけ時間がかかったでしょう。
 一目見るだけでよかったのです。それですべては良くなったのです。


理解するより信じることがあなたを救う

 いやされたこのイスラエル人の青年は、ちょうど若い回心者と同じです。私はその後の彼を、次のように想像します。
 いやされた青年は、走っていって、へびにかまれた他の人を見つけて、こう告げるのです。
 「君は死ぬ必要はないのだ」。
 「私は生きられない。出来ないことだ。イスラエルに私を治す医者はいない」。
 ――この人は自分が死ぬ必要のないことを、まだ知らないのです。
 「君はあの知らせをまだ聞いていないのか。神様が救いの道を開かれたんだよ」。
 「それはどういうことだ」。
 「神様はモーセに、青銅のへびを作ることを命じられた。そしてそれを見る者は生きる、と言われたんだよ」。
 私は、死のうとしているこの人について、少しばかり想像をめぐらせます。この人は知的な人物なのです。この人は、良い知らせを持ってきてくれた若い回心者に対して、こう言います。
 「私は、そんなことを信じるなんて考えられない。イスラエルの医者が私を治せないのに、青銅なんかで作ったへびの像が、棒の先で私に何をしてくれるというんだ」
 「だって僕は、君と同じくらいひどかったのに、治ったんだよ」。
 「もう言うな」。
 「いや言うよ」。
 「驚いたな。それならその哲学を説明してくれ」。
 「私にはできない。私が知っているのは、見たら治った、ということ。ただそれだけだよ。母がキャンプで受けた良い知らせを、私に話してくれたんだ。私は母の言うことを、ただ信じた。それで完全に良くなったんだよ」。
 「そうか、きっと君は、私ほどひどく噛まれはしなかったんだよ」。
 青年は自分の袖をまくって言います。
 「これを見てくれ。この傷あとを。君よりひどかったんだよ」。
 「なるほど、医学的にそれを説明できたら、信じたいね」。
 「納得しているひまはないんだ。ただ仰ぎ見て生きなさい」。
 「けれど君は、私に筋道の通らないことをしろ、と言うのか。たとえばその青銅をけずって傷にすりこむと、その中に何かの薬効成分があって治る、とでも言うのなら私にもわかるが、一体本当はどうなんだ」。
 ――私はしばしば、このような話し方をする人に会ったことがあります。この人を助けようとしている青年はさらに、いやされた友人2人をテントに呼んで、
 「主がいかにして君たちを救って下さったかを話してあげてくれ」
 と言うと、彼らは同じ話をしました。また他の人を連れてくると、その人も同じ話をしました。
 それらの話を聞いても、この人は不思議なことだと言って、なかなか信じようとしません。
 「もし神がモーセに命じて、薬草か木の根をとり、煎じて薬にするように命じられたとか言うなら、その中に何かがあったのかもしれない。しかし、かかげられたへびを見よ、などというのは自然じゃない。私にはそんなことはできないよ」。
 最後に母親がやって来て、
 「お前、世界で一番良い知らせがあるんだよ。ひどく病んでいた人がキャンプに何百人もいたのに、みな良くなってしまったのだよ」。
 彼は言います。
 「私もよくなりたい。死ぬなんていやだ。私も約束の土地へ行きたい。荒野で死ぬなんて恐ろしいことだ。しかし私には救いの薬がわからない。私の理性に合わない。一瞬で治るなんて信じられない」。


十字架のキリストをあおぎ見なさい

 結局この人は、不信仰のゆえに死にました。あなたもこの人のようにしますか。 神は、へびにかまれたイスラエルの人々に救いの道を用意して、
 「見上げよ、そうすればあなたは生きる」
 と言われたのです。それは、私たちに対する言葉でもあります。永遠の生命は、すべての哀れな罪人のためにも用意されているのです。
 見上げなさい、そうすれば今でも救われます。神は特効薬を備えておられるのです。それは、すべての人に差し出されているのです。
 困ったことに、多くの人は「棒」を見ています。棒を見る必要はありません。棒は教会です。教会を見る必要はありません。
 教会は良いけれど、あなたを救うことはできません。棒のかなた、十字架につけられたおかたを見上げなさい。
 カルバリの丘を仰ぎ見なさい。イエス様がすべての人のために、死んでくださったことを心にきざみつけなさい。
 牧師を見る必要はありません。牧師は、伝道のために神が選ばれた器にすぎません。救いの薬は、イエス・キリストご自身なのです。
 友よ、人から目を離し、教会から目を離しなさい。むしろ世の罪を取り除くイエス様に、あなたの目を向けなさい。その時から、あなたには生命があります。
 私たちは、「ものを見る」方法を習わないでよいことを感謝しましょう。少女も、少年も、また本を読めない4歳以下の子どもも、少なくとも「見る」ことはできます。
 お母さんがたは、ご主人が家に帰ってくると、赤ちゃんに言います。
 「ほーら、見てごらん。お父様が、帰ってきたわよ」。
 赤ちゃんは、1年もたたないうちに「見る」ことができるようになります。この「見る」ことこそ、救われる道なのです。救いは、世の罪を取り除く神の小羊キリストを「見る」ことにあるのです。
 見ようとする者には、今でも永遠の生命が用意されています。ある人々は、
 「どうしたら救われるか知りたい」
 と言います。しかし救われる方法は簡単です。神の御言葉(聖書)を聞いて、御子キリストをこの日・この時・この瞬間に信じることなのです。
 キリストを信じる者は、みな救われます。
 「私はそうしたいと思いましたが、自分のかまれた傷を充分感じません。罪人であることは知っていますが、ただそれだけのことで、かまれた傷を感じないのです」
 という人もいるでしょう。しかし、神はあなたがその傷に気づくことを、どれほど望んでおられることでしょうか。
 私がベルファーストにいたときのことです。そこに、ある医者がいて、彼は有名な外科医を知っていました。
 彼が話してくれたところによると、その外科医は手術をするとき、必ず患者に向かって、こう言うのだそうです。
 「傷口をよく見て、つぎに私をじっと見なさい。終わるまで私から目を離してはいけませんよ」。
 このことは、良い例ではないでしょうか。
 あなたはまず、罪によって膿んでいる自分の傷口を、じっと見るのです。それから、目をキリストに向けなさい。そしてのち、キリストから目を離してはなりません。

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   まず自分の罪の傷を見なさい。
つぎに目をキリストに向け、離してはなりません

 傷口を見るより、救い主を見るほうが良いのです。あなたがいかに哀れな罪人であるかをまず見て、そののち、世の罪を取り除く神の小羊(キリスト)をごらんなさい。
 彼は不信心な者や罪人のために死なれた、ということを心に受け入れなさい。神は、カルバリの丘のキリストにあなたが目を向けることを、助けて下さるでしょう。
 イスラエル人があのへびを見上げて、いやされたように、あなたも見上げることによって、生命を得ることができるのです。


キリストの十字架は私たちが永遠の生命を得るため

 ピッツバーグ上陸戦争の後、私はムルフリスボロの病院にいました。私はある日、真夜中に起こされました。収容所の一人が私に会いたがっている、という知らせを受けたのです。
 私がそこへ行くと、その人は私をチャップレン(従軍牧師)と呼んで――私はチャプレンではありませんでしたが――安らかに死ぬ道を教えてください、と言いました。そこで私は言いました。
 「できることなら、私が君を抱き抱えて天国に運びたい。しかし私にはできません。君の死のお手伝いは、私にはできないのです」。
 すると彼は、
 「では誰ができるのですか」
 と聞くので、
 「主イエス・キリストがお出来になります。彼はそのために世に来られたのです」
 と言いました。しかし彼は首をふって、
 「キリストは私を救うことはできません。私は一生罪を犯してきたのです」
 と言いました。私は言いました。
 「しかし、キリストは罪人を救うために来られたのです」。
 じつはこの人の両親は、遠く北部に住んでいました。両親は今彼が死のうとしていることを、知りません。
 そこで私は、彼が安らかに息をひきとれるよう、最後まで彼と一緒にいることに決めました。
 2度、3度と祈り、私はできる限りのことをしました。彼は、数時間ももちそうにありませんでした。
 私は聖書を読んであげたいと思って、ヨハネ福音書3章を開きました。その箇所は、霊魂の問題に悩んでいたニコデモに対して、キリストがお話しになった会話でした。
 彼の目は、聖書を読む私に集中していました。14~15節のところに来ると、その御言葉が彼をとらえました。
 「モーセが荒野でへびを上げたように、人の子(キリスト) もまた、上げられなければなりません。それは信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」。
 彼は私の読むのをさえぎり、
 「そう書いてあるのですか」
 と聞きました。そうだと言うと、彼はもう一度読んでくれと言うので、私は繰り返して読みました。
 彼は、一方の腕をベッドからもたれさせ、私の手をにぎって言いました。
 「もう一度読んでください」
 と。そこで私は3度読んで、次を続けました。読み終わったとき、彼は目を閉じ、手を組み、さらに顔には微笑みさえ浮かべていました。それは何という、美しい微笑みだったことでしょう。
 一体どんな変化が彼に起こったのでしょう。彼の唇はふるえていました。私の心にも、天からの美しいささやきが、こだましていました。
 「モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」。
 彼は目を開いて言いました。
 「充分です。もう読まなくて結構です」。
 彼は2~3時間、この御言葉にすべての思いをゆだねていました。こうして彼は、やがて天の御使いにむかえられ、キリストの御車の一つに乗って、天国における座を得るために、去って行きました。
 キリストはニコデモに、
 「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」
 と言われました。
 あなたは、いろいろな国を見ることができるでしょう。しかし、あのジョン・バニヤン(天路歴程の作者)が幻の中に見たビューラの地は、ただ一つしかありません。
 それはキリストによって新たに生まれた者以外は、見ることはできないのです。
 あなたは窓の外を見て、多くの美しい樹木を見ることができるでしょう。しかし、救い主を信じて、目を清くされない限り、天国にある「いのちの木」を見ることはできません。

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   私たちを天国に導くことのできるかたは、
キリスト以外におられない。

 あなたは、地上の美しい河の数々を見ることはできるでしょう。その流れにそって行くこともできるでしょう。
 しかし新たに生まれない限り、天の神の御座より流れ出る「いのちの水の川」に安らぐことは、できません。
 人がこう言ったのではありません。神が言われたのです。あなたは新たに生まれなければ、神の国を見ることができません。
 この世の王や、貴族にまみえることは、できるでしょう。しかし新たに生まれない限り、「王の王、主の主」であるかた(キリスト)に、まみえることはできません。
 あなたがロンドンにいれば、塔に行って王冠を見ることもできるでしょう。それは数千ドルを払って、兵士たちによって護衛されています。
 しかし新たに生まれなければ、あなたは、あなたに与えられる「いのちの冠」(永遠の生命)を見ることはできないのです。


あなた自身が新生しなければならない

 あなたには、「シオンの歌」(天国の歌)が聞こえるでしょうか。その一つ「モーセと小羊の歌」(黙示15:3)は、新たに生まれない人の耳には決して聞こえない歌です。そのメロディは、新たに生まれた者の耳だけを喜ばせるのです。
 世の多くの人の望みは、華麗な邸宅に住むことにあるでしょう。しかしキリストが備えてくださった天の邸宅は、新たに生まれた者たちだけが見、また住むことができるのです。
 神がそう言われるのです。この世で私たちは、万を越える美しいものを見るでしょう。
 しかし、かつて信仰の父アブラハムが待ち望んでいた地、またこの世にあって自分を「旅人」と考えた人々が待ち望んだ地――天国を見るのは、新たに生まれた者たちのみなのです(ヘブ11:8-16)
 あなたは、結婚式にしばしば招かれるでしょう。しかし新たに生まれない以上、「小羊イエスの婚姻の晩餐会」(天国の祝宴)には列席できません。
 愛する友よ、こう言われるかたは神なのです。またあるかたは今宵、何年か前に亡くした自分の母の顔を、夢に見るかもしれません。あなたは、お母さんがあなたのために祈ってくれているの感じるでしょう。
 しかしあなた自身が新たに生まれない限り、あなたは永遠に、ふたたび母の顔を見ることはないのです。
 臨終の床にある母の枕もとにすわり、母に天国で会いましょうと言われ、それを約束した若いかたもあるかもしれません。ああしかし再び生まれない以上、母に会うことはできないのです。

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私たちは、地上の美しい景色を見ることはできる。
しかし自分が新たに生まれない限り、天国の光景を見ることはできない。

 私は、新たに生まれる必要などないという不信の者になるより、ナザレのイエスを信じる者になります。
 人の親である方々よ、以前に亡くしたあなたのお子さんに会いたいと思うなら、あなたも神の霊によって生まれ変わらなければなりません。
 つい先頃、愛する子どもの葬儀をすまされたかたもあるでしょう。ご家庭は何と暗いでしょう。
 もはやお子さんに会うことはできないのです。もういちど一緒になりたいなら、新たに生まれなければなりません。
 私の話しかけている方々の中には、愛する者をかなたに送ったかたもおられるでしょう。愛する者の声を聞くことができるとしたら、その声はこう言うでしょう。
 「この道を来て
 と。あなたは信仰ある友を、かなたに送られましたか。若い人よ、光の国に住む父母をお持ちのかたはおられますか。あなたの父母の声はこういうでしょう。
 「子よ、この道を来なさい」
 「娘よ、この道をいらっしゃい」。
 ご両親に会いたいと思われるなら、信仰をもって、新しく生まれなければなりません。
 私たちはみな、一人の兄を持っています。神の家族の長子であるイエス・キリスト様です
 彼は今から約1900年前に十字架につけられて、天の岸辺より、みなさんを呼んでおられます。
 私たちは世のものに背を向けましょう。世に対して、目が見えず、耳の聞こえない者になりましょう。十字架の上なるイエス様を仰ぎ見て、救われましょう。
 そうすれば私たちはいつの日にか、天の御国で、うるわしき君なるイエス様にお会いし、再びそこを去ることはないのです。
               

(レムナント1992年1月号、2月号より)

 

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