教会の一致と多様性
Ⅰコリン12:1227
「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」 (Ⅰコリン12:2527)
教会の正しい理解のために,その多様性と一つの起源が明らかにされる。教会には多様な賜物,奉仕,働きがあるが,それを分与される方は,一人の御霊,一人の主(キリスト),一人の(父なる)神である.父․御子․御霊は一致しておられるから,結局,教会の賜物․奉仕․働きは一人なる方に由來するのである.本文は教会の一致 と多様性を体のたとえで教える.(Ⅰコリン12:46, 1227)
1.教会はキリストと生命的に結ばれた霊的な真のキリストの体なのである.
(參照;Ⅰコリン1:2,エペソ1:23, 4:3,コロサ1:18)
「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス․キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト․イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス․キリストは、この人たちと わたしたちの主であります。」(Ⅰコリン1:2)
「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エペソ1:23)
「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」(エペソ4:3)
「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。」(コロサ1:18)
2.教会は人の体のように一致と多様性を合せ持つ.
- それは,単なる比喩ではない.入信時․受洗時に,すべての人が御霊のバプテス マを受け,御霊をわがものとし,御霊によってキリストの体なる教会に結び合さ れたのである.
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(Ⅰコリン12:12-13)
3.特定の賜物,奉仕,働きを持たない人が,「自分のような者はキリストの体である教会に属していないのだ」と考えるべきではない.
- それは,神が知恵深く備えて下さった肢体の多様性を否定することである.
「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。」(Ⅰコリン12:1719)
4.逆に,自らの賜物,奉仕,働きを誇る人が他を見下して,「お前は教会に不要である」と言うべきでもない.
- それは,教会が弱い者を含めて一つにされているということを否定することである.
「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。(Ⅰコリン12:2021)
- むしろ,弱いところ,見栄えのしないところが必要な肢体であり,また,かばう
べき部分である.
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」(Ⅰコリン12:2224)
* こうして教会は,分裂とは逆に,互いがいたわり合い,他の肢体の苦しみと誉れを共に味わうようにされているのである.(Ⅰコリン12:2527)