七十人を派遣するキリスト

ルカ伝10章1-9節

 

三人の弟子候補者の問題を一人ずつ見てみました。今日の箇所は、その直後にある〈七十人〉の弟子たちの派遣に関するものです。三人の弟子候補者がイエスの教えを受け入れて、この〈七十人〉に選ばれたかどうかははっきりと書かれていません。この〈七十人〉に選ばれたのは、三人の弟子候補者がパスできなかった課題をすべてクリアしていた人たちであったことと思われます。こうして、彼らはエルサレムに行く途中で立ち寄る町や村で、イエスに先立って宣教をする任務に派遣されたのです。

 この派遣に先立って、イエスは、宣教者の心得のようなものを彼らに語られたのです。今日は、その心得の前半の部分から、「宣教のスピリット」と「宣教の祝福」を取り上げたいと思います。もっと広く考えれば、「証し人のスピリット」と「証し人の祝福」と言い換えることができますから、これは、すべてのキリスト者に当てはまると思います。

(1)収穫は多く、働き手は少ない

実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。

                  ルカ10:2

 まず、ルカ102をご覧ください。ここに、〈実りは多いが、働き手が少ない〉というのが第一の教えです。この教えは、マタイ937にもガリラヤ伝道との関連での言及があります。さらに、ヨハネ435ではサマリヤ伝道での関連でも、収穫の緊急性が語られています。おそらく、〈(宣教の)収穫が多い〉とは、イエスの基本的な確信であったと思われます。イエスによって選ばれ、イエスによって派遣された人々は、多くの収穫を期待するように導かれたのです。

 このことは、伝道が難しいと言われる日本にも当てはまることなのでしょうか?しかし、イエスが〈実りは多い〉と言われるなら、現代の日本にも当てはまると考えるべきなのでしょう。ただ、条件があります。それは、多くの収穫が約束されているのは、選抜された〈七十人〉にであって、先週詳細に触れた三人の弟子候補者にとってはそうでなかったかも知れません。ですから、収穫をまったく見ないケースにおいては、この三人の弟子候補者を反面教師として学ぶと、解決のヒントが見つかるかもしれません。第一の人は、イエスに〈私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます〉と口では言いながら、それはただ抽象的な決断、従順であって、実生活においてはイエスに従うことができていない人でした。第二と第三の人は、イエスに従うつもりだが、それは優先順位の第一ではないという人でした。このような場合、収穫のチャンスを失うのではないでしょうか。

〈働き手が少ない〉というフレーズにも注目する必要があります。〈七十人〉だけでは、「多くの収穫」に対応するには、あまりにも少なかったのです。それほどに、〈働き手〉としての条件をクリアして、宣教に派遣される準備ができた弟子たちが少なかったのです。そもそも、なり手が少なかったということもあったことでしょう。これは、現代の日本の現状でもあります。〈だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。〉というイエスのことばは、私たちにも向けられていると言えます。

(2)宣教における人間関係論

子羊を狼の中に

さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。  ルカ10:3

 次に、ルカ103をご覧ください。ここから、派遣される人の人間関係論が展開されます。まず、派遣される町や村の地域社会を〈狼〉(リュコス;複数形)と表現していることに驚きますね。〈狼〉は複数形ですから、「狼の群れ」と訳したほうがより正確です。イエスは、なぜユダヤ人の地域社会を「狼の群れ」と呼ばれたのでしょうか?二つの理由があると思われます。一つは、「狼の群れ」は血縁で繋がっているのですが、ユダヤ社会も先祖アブラハムからの血統と伝統で成り立っていたのです。彼らは、ユダヤ人に生まれたことが神に愛され救われるための条件と考えたのです。それは、個人的に神に立ち返ることで救われるとされたイエスの教えと真っ向から対立する考え方なのです。ここから、第二の理由が出てきます。すなわち、ユダヤ人社会は、イエスの教えに敵意を持ち、それを宣教する弟子たちにとって、〈狼〉となるのです。

 「あなたがたは、そのような〈狼(の群れ)の(真っ只)中に…送り出〉された〈子羊〉なのだ」とイエスは言われたのです。〈子羊〉は野生の現実の中では実にか弱い存在です。生き残るためには、羊飼いの保護を必要とする依存的な存在なのです。「これから、君たちが向かうのは狼の群れであって、しかも、それに対して、君たちは何の対処もできない子羊のようなものだ」と言われたら、どんなに勇気のある人でも恐怖に囚われます。しかし、派遣されようとしている弟子たちを怖気させるために、このような表現を用いられたのではありません。地域社会に対して、あなたがたは〈子羊〉のような弱い存在であるが、恐れる必要はない。〈子羊〉には必ず羊飼いの世話があるように、あなたがたには神の守りと導きがあるのだから、というのは、イエスの真意であったのです。すなわち、神が共にいてくださるから、狼の群れのような地域社会に派遣されたとしても大丈夫なのだよ、とイエスは励ましておられるのです。

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」  ヘブル13:5-6

 この二番目の教えは、現代の社会に生きる私たちにも当てはまります。自らが関わっている社会が、〈狼〉の群れのように感じることがあるのは、派遣された〈七十人〉だけではありません。江戸時代のことわざに、「男は閾(しきい)を跨げば七人の敵あり」というのがあります。この「七人」というのは、字義通りではなく、「多くの人々」という解釈があるそうです。また、「その七人のうち六人は社内にいる」という穿った見方をする人もいるようです。企業間の競争があり、さらに社内での競争がある、男はそのような中で、生き残っていかなければならない、というわけです。現代社会では、女性も同じような環境にさらされていると思います。

 このような人間関係の渦の中で、自分の未熟さをいやというほど思い知らされながら、解決の糸口さえないままに延々と生きていかなければならないのです。一体、無間地獄のような環境の中で、どこに救いを求めることができるでしょうか?ヘブル135-6をご覧ください。ここに、〈わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない〉という神の約束があります。これは、神が〈助け手〉(ボエーソォス)となってくださるということなのです。〈助け手〉とは、「悲鳴を聞いて駆けつける人」という意味です。助けを求める祈りに、神は応えてくださるということです。このことを確信する度合いに応じて、心に平安が増すのです。塚本虎二というキリスト教(無教会主義)の指導者がこのような意味のことを書いていました。「(人間関係を横の関係、神との関係を縦の関係とすると)横の関係が幸いなものになるためには、縦の関係を優先しなければならない。」私はしばらくこの言葉について考えさせられました。そして、本当にそうだと今は確信するようになりました。人間関係を無条件に優先すると、それに埋没させられて振り回されるようになります。しかし、そのような人間関係の中にも、生きて働かれる〈助け手〉である神のみこころを最優先とすることにより、隣人との関係が本来の位置に調整され、結果的に適切な人間関係が築かれることになります。

真実な人間関係

だれにも、道であいさつしてはいけません。    ルカ10:4

どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。 ルカ10:5

 さらに、人間関係に関してのイエスの言及が続きます。ルカ104の後半をご覧ください。〈道であいさつしてはいけません〉とあります。前後関係を無視してこれだけ読むと、随分非常識な教えのように思えます。不快に思っている人とたまたま道端で会うと、知らん振りして通り過ぎることもあると思いますが、誰に対しても〈あいさつ〉するなとなると、随分困った教えに思えます。しかし、そういう教えではないのです。この〈あいさつ(をする)〉(アパスパゾマイ)とは、出会ったときの挨拶ではなく、「別れの挨拶」なのです。ですから、出会ってすぐ分かれるような表面的な人間関係に満足してはならないという教えだと思われます。

 さらに、5節をご覧ください。ここには、〈道で〉会って、〈(別れの)あいさつ〉をして終わる表面的な人間関係でなく、〈家に入(る)〉ほどの深い人間関係が書かれているのです。今日でもそうだと思いますが、当時としては、家に入れてもらえることは、交流関係がそれなりに深まったことを意味します。食事にあずかることは、さらなる交流を意味したのです。そして、まず(プロートス)なすべきことは、〈この家に平安があるように〉と言うことでした。〈平安〉(エイレーネー)はヘブライ語の「シャローム」の訳語で、健康、安全、仲が良いこと、成功、繁栄など幸せの条件をすべて含むのことです。道端でのあいさつで終わる交わりではなく、心からその家の「シャローム」を祈るほどの交わりの深さに達することを、イエスは〈七十人〉に要求されたのです。

もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。            ルカ10:6

 実は、この「シャローム」という言葉は、ユダヤ人の間では一般的に挨拶に使われる言葉です。朝も昼も夜も、そして、別れの挨拶も「シャローム」で済ませます。しかし、派遣された者の「シャローム」を求める祈りは、表面的な挨拶で終わるものではあります。それは、隣人の祝福を願う真実の祈りであり、その人の人生において実現するものだと、イエスは教えられたのです。このようにして、派遣された者は、隣人に祝福を与える者となるのです。

 ただ、〈もしそこに平安の子がいたら〉というフレーズが気になりますね。これは、祝福の伝達は家族単位ではなく、個人的に神に聞き従う人に与えられるということです。〈その人の上に(シャロームが)とどまる〉とは、あらゆる祝福の可能性が開かれているということなのです。祝福の可能性が開かれるのは、エルサレムで成就されようとしていた十字架での贖いによることは、もちろんのことです。愛する隣人の人生が具体的に祝福されることほどの喜びは、他にはありません。

(3)イエスの経済論

何も持たないでも

財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。       ルカ10:4

その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。   ルカ10:7

 最後に、経済についての教えを見てみたいと思います。イエスの経済観は、ここの他にも、福音書の中で複数の箇所で紹介されています。ルカ104をご覧ください。〈財布も旅行袋も持たず〉とは、コインや食料や水を携帯しないということです。〈くつもはかずに〉とは、当時は極限的な貧しさを意味しました。普通は、旅に送り出すときには、お金と食べ物と水をもたせて、旅用のサンダルを履くのが常識でした。ですから、これも字義通り取るには少し無理があるように思えます。おそらく、何もかも準備が整ったら派遣に応える、ということではなく、イエスが行けと命令されたのであれば、何もなくても神の備えに委ねて行きなさい、という教えではないかと、思われます。

 ルカ10:7をご覧ください。ここでは、〈飲み食い〉が、伝道活動の〈報酬〉として与えられることが書かれています。何も持たずに出て行ったとしても、それが神の導き従ったのであるなら、その働きには〈報酬〉が必ずあります、ということなのです。実は、この〈報酬〉(ミスソォス)とは、働きに見合って支払われる対価のことです。新約聖書では、〈報酬〉ではなく、〈恵み〉(カリス)が強調されています。〈恵み〉とは、〈報酬〉とは正反対の概念なのです。〈恵み〉とは、何の働きもないのに、一方的な親切によって与えられるものだからです。人が救われるのは、良きわざに対する〈報酬〉ではなく、一方的な〈恵み〉なのだというのが、プロテスタントの根本的な聖書理解です。では、〈恵み〉と〈報酬〉の関係は、どうなっているのでしょうか?聖書においては、圧倒的な〈恵み〉が基本にあって、〈報酬〉とは〈恵み〉に付属するものに過ぎません。なぜなら、世界に満ち溢れる神の〈恵み〉によって、人は生かされているからです。この〈恵み〉なしには、〈報酬〉となり得るどのような「わざ」をも為し得ないのです。神に従う者に対する〈報酬〉もまた、〈恵み〉に応答する信仰に対する、神の〈恵み〉なのです。

必要の満たし

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。  マタイ6:33

 マタイ633をご覧ください。ここに、〈神の国とその義〉を〈まず第一〉(プロートス)の優先として求めるなら、それらが与えられるばかりか、それらに加えて、食料や衣服という必需品も〈すべて与えられる〉という教えです。〈神の国(主権)とその義を…求める〉とは、神のみこころを求めつつ、それに従うことです。

 この節は、〈そうすれば〉(カイ)という接続詞が、前後の文章を繋いでいます。〈求めなさい〉という前半の条件を満たせば、〈すべて与えられます〉という後半の結果が得られるという、従順に対する神の応答の確かさが教えられています。神に従うことを第一の優先とする時に、生きるための必要が満たされるとは、何という〈恵み〉でしょうか?派遣された〈七十人〉の多くは貧しく、おそらく何も持たないで町や村に出掛けて行って、イエスの教えを実践したことでしょう。そして、来週見てみますが、その結果は、大きな収穫のゆえに喜びながら返って来たのです。あなたの前にも、「証し人」になる道が開かれています。それは、あなたの必要の〈すべてが与えられる〉祝福への道でもあることを覚えましょう。

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2011y/111113.htm