女性(デボラ)の信仰がもたらした勝利」

士師記4章1節から24節


はじめに

 私たちは、午前中は会堂で礼拝しましたが、夕べにもう一度共に礼拝したいと思います。

それで、私たちは、家庭周りの夕礼拝においては、旧約聖書を少しづつ学んでいますが、前回で、一応、ヨシュア記を終了しまして、今回から土師記に入りたいと思います。

 土師記というのは、どのようなものかと言いますと、出エジプトしたイスラエルの民が、40年間の荒野の旅の後、約束の地であるカナンの地、パレスチナの地に定住してからの200年間あるいは300年間の歴史を描いているものです。

 では、その期間は、どんな状態であったかといいますと、イスラエルの民は、約束の地カナンを与えてくださった慈しみ深い神を、しばしば忘れ、他の神々に心を寄せたのです。人間というのは心が弱いものです。真の神から大きな祝福を受けたにもかかわらず、真の神を忘れてしまう弱いものです。

 そして、イスラエルの民が真の神を忘れると、イスラエルは力が弱くなり、周囲の異教民族から攻められ、支配され、苦しむのです。そこで、イスラエルの民は、反省し、悔い改め、真の神の助けを求めるのです。すると、慈深い神は、イスラエルの民の求めをその都度受け入れ、イスラエルの民に良い指導者を与え、異教民族の支配から解放されるのです。このパターンが、何回もリピート繰り返されるのです。

 それで、そのことには霊的な真理があります。今日の私たちが、真の神を忘れて、人生を歩もうとするときには、私たちは罪の力に支配され、苦しみます。しかし、その生き方を反省し、悔い改め、神が与えてくださった救い主イエス・キリストに従うときに、私たちの人生は、罪の支配から解放されることによく似ているのです。

 それで、今日から「土師記」に入りますが、ちなみに、「土師」というのは、「裁いて治める者」という意味です。すなわち、「イスラエルに生じる問題を上手に扱って治めていく者」という意味です。一言でいえば、当時のイスラエルの指導者のことです。いろいろ問題を上手に裁いて、イスラエルをうまくまとめていく働きをする者のことで、一言でいえば、指導者のことです。

 そして、この土師記には、12人の土師、すなわち、12人の指導者が出てきますが、今晩は、デボラについてです。デボラという女性土師、すなわち、女性の指導者の信仰によって、イスラエルの人々が大きな祝福を受けるという出来事です。男性中心の家父長制の時代にあっても、信仰の豊かなひとりの女性を通して多くの人々が祝福を受けたという素晴らしい出来事です。いつの時代でも、ひとりの人の優れた信仰を通して多くの人が祝福を受けるのです。祝福の決め手は、男か女かという性別でなく、信仰です。


1.イスラエルは、真の神を忘れていました

 早速、聖書に入りましょう。あまり細かいところに入らないで大きな流れで見ていくことにいたします。さて、それで、まず、私たちは、キリスト出現より1300年ほど前のイスラエルはどんな状態であったのでしょう。すると、イスラエルの民は、真の神を忘れ、他の神々に心を寄せていました。そこで、真の神はイスラエルに懲らしめを与え、イスラエルが、地元のカナンの王のひとりのヤビンの支配下で苦しむことを許したのです。

 4章1節を見ますと「イスラエルの人々はまたも無視の目の前に開くとされること行い」と思いますが、「悪」というのは、真の神を忘れて、カナン神々に心を寄せたことを表しています。人間の行う一番悪いことは、真の神を忘れることです。そこから、他のすべての悪が出てきます。

 そこで、神様はこらしめとして、イスラエルの民が敵の支配下に置かれることを許しました。では、その時、イスラエルを20年間にわたって支配して苦しめたのは誰かといいますと、ガリラヤ湖から北へ15キロほどのところにあったハツォルという町の王のヤビンという人でした。

2節に「主はハツォルで王の位についていたカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された」とありますが、「ハツォル」というのは、イスラエルの北部のガリラヤという湖の北15キロほどの町でした。そこで治めていたのがヤビンという王でした。

 では、このハツォルの王のヤビンの力がどうしてそんなに強かったかといいますと、ヤビンにはシセラという有能な「将軍」、すなわち、司令官がいて、当時としては、最新兵器の鉄の戦車900両を自由に操っていたからです。2節に「ヤビンの将軍はシセラであって」とあり、さらに、3節では「ヤビンは鉄の戦車900両を有し」といわれています。すなわち、ヤビン王には、シセラという将軍の司令官がいて、シセラはなんと900両の鉄の戦車隊を指揮していたというのです。これは、当時としては驚くべき軍事力です。

 当時の戦車というのは、映画「ベンハー」にも出てきましたように、数頭の馬に引かせて小さな荷台のようなものがついていて、そこに兵士が1名とか2名が立って乗る仕組みのものですが、この戦車が900両もあったということは、当時としては最新兵器で驚くべき軍事力でした。900両の鉄の戦車が、砂塵を挙げて迫ってきたら、人々は震えあがって、たちまちのうちに戦意を喪失したでしょう。

 こうして、イスラエルの民は、戦車900両の大機動部隊を自由に操る有能な司令官シセラを動かすヤビン王の前に手も足も出ず、20年間にわたって支配され、苦しめられました。そこで、イスラエルの民は、自分たちがこのような苦しみを受けるのは、真の神を忘れたからであると気づき、反省し悔い改め、真の神に再び心を寄せ、助けを求めました。

 旧約聖書の詩篇50編15編にこんな御言葉があります。新共同訳よりも、これまでの口語訳の方がぴんとくると思いますので、口語訳で見ますと「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」とあります。助けを約束する素晴らしい御言葉ですね。イスラエルの民は、自分たちの力ではどうにもできない鉄の戦車隊900両による苦しみの中で、いつくしみ深い真の神に心から助けを求めたのです。

 今日の私たちの人生にも、鉄の戦車900両に匹敵する困難に出会うことがあるかもしれません。でも、そういうときには、神を呼び求めてください。神はあなたをかならず助け、一番良い道を開いてくださるでしょう。そして、あなたが神をあがめることができるようにしてくださるでしょう。これまでにもそうしてくれたでしょう。


2.神は、信仰深い女性のデボラを用いました

 さて、では、イスラエルの民が心から助けを求めた時に、神はどうしたでしょう。すると神様、2人の女性を用いました。ひとりは、女性の土師、すなわち、女性の指導者のデボラであり、もうひとりはヤエルという女性でした。

 まず、4節に「デボラ」という女性が出てきます。では、デボラとはどんな女性であったでしょう。デボラという名前そのものは、ヘブル語で蜜蜂という意味です。以前に、アメリカの女優でデボラ・カーという人がいましたが、そのデボラをいう名前も聖書から来た名前で、もともとは蜜蜂という意味です。デボラの親は、この子が蜜蜂のように勤勉によく働くようにという意味で名付けたのかもしれません。

 それで、このデボラは、夫もおり、主婦でしたが、しかし同時に、「女預言者」といわれています。すなわち、当時のイスラエルの民に神の御言葉を語って霊的に指導をし、かつ「土師」として、イスラエルの民の訴え事を適切に裁いていた女性でした。

 これはとても素晴らしいことです。旧約時代は、典型的な家父長制の時代であり、男性中心の社会でした。しかし、それにもかかわらず、神は、信仰の優れた女性、しかも、主婦であったデボラを預言者として用い、さらに、裁判事を捌いて治めるための土師として用い、イスラエルの民が、彼女の信仰と賜物を通して、祝福を受けられるようにしていたのです。これはとても素晴らしいことです。人々が祝福を受けるため、神は、男性も女性も用いるのです。今日も同じでしょう。神は、人々への祝福のため、男性も女性も用いるのでしょう。


3.男性指導者のバラクはためらいました

 さて、では、そのデボタは、イスラエルの敵900両の大戦車隊と戦うためにどうしたでしょう。すると、デボラは、イスラエル北部の指導者であったバラクという人を招いて、バラクが1万人の兵を連れ、タボルという山に陣を敷けば必ず勝てると告げたのです。しかし、イスラエル北部の指導者のバラクは、神が与えた勝利の約束を信じて立ち上がることをせず、条件をつけ、女性預言者デボラはともに戦場に出向くなら、自分も立ち上がると、しぶしぶ承諾しましたので、この後、勝利の誉は男性のバラクでなく、名もないひとりの別の女性に与えられることになるとデボラは予告しました。6節から10節がそうです。

 6節に「バラク」という人が出てきますが、この人はイスラエルの12部族のナフタリ部族の人で、イスラエル北部の指導者でした。「バラク」という名前は、ヘブル語で「稲妻」という意味です。親が、稲妻のように強い人になるようにと願って付けたのでしょう。それで、デボラを通して語られた神の約束は勝利でした。

 「行け、ナフタリ人とゼブルン人一万人を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前の手に渡してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す」というのが、デボラを通して語られた神の勝利の約束でした。

 しかし、稲妻という意味の名前のバラクは、その約束を信じませんで、条件をつけたうえでしぶしぶ従いました。すなわち、女性預言者のデボラも自分とともに戦場に出向くことを条件として、しぶしぶ受け入れたのです。8節で「あなたが共に来てくださるなら、わたしは行きます。もしきてくださらないなら、わたしは行きません」。これが、イスラエル北部の指導者のバラクの答えでした。バラクは、神による勝利の約束を信じ切れていないことがよくわかります。そこで、デボラは、バラクに言いました。9節「あなたは栄誉を自分のものにすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです」と語って、神による勝利の誉れは、条件をつけてしぶしぶ従ったバラクでなく、名のないひとりの女性に与えられることを予告しました。

 私たちはここを見まして、「バラクは、だらしがないなあ。率直に信じて立ち上がればよいのに、何渋ってんの、なんで条件付けてるの」と思うかもしれません。でも、私たちが、実際に、バラクの立場であったら、ホントに率直に信じてすぐ立ち上がれたでしょうか。無敵の鉄の戦車900両の大機動部隊に対して立ち上がれたでしょうか。どうでしょう。それはとりも直さず、今日、私たちが、自分の人生において、鉄の戦車900両に匹敵する大困難に出会ったときに、私たち一人ひとりが神を信じて立ち上がれるかどうかということと同じでしょう。でも、私たちは、立ち上がりたいですね。


4.生きて働く万軍の主を信頼して行動する人は、必ず勝利します.

 さて、しぶしぶでしたが、バラクは、一万人の兵を率いて、デボラとともに、ガリラヤ湖から東南の方向200キロほどの海抜588メートルのタボル山に登って陣を敷きました。この作戦は、神ご自身が与えた作戦でとても良い作戦でした。なぜなら、山の上に陣を敷いていれば、さすがの戦車隊も登って来ることができないからです。

 他方、900両の鉄の戦車隊を誇る司令官シセラはどうしたでしょう。すると、今度も戦車隊を縦横無尽に走らせ、イスラエルを蹴散らしてくれるとばかりに、余裕をもって売って、900両の戦車隊とその他の歩兵を繰り出し、タボル山のそばを流れるキション川の河原に大集結させて陣を敷いたのです。

13節で「すべての戦車、すなわち900両に及ぶ鉄の戦車に加えて自分に属するすべての軍隊を招集し、ハロシュト・ハゴイムかキション川に向かわせた」と言われている通りです。それでここに「キション川」とありますがキション川というのはタボル山その他を水源とする川で全長37キロメートルです。地中海に流れていきます。今日もキションはありますが、今日のキション川はほんとに小さな川で、小川のようなものです。私は写真で見たことがありますが、あまりの小さな川にびっくりします。しかし、土師記の時代のキション川は大きな川であったと思われます。いずれにしても、司令官のシセラはキション川の河原に大戦車部隊と歩兵を集結させ、自分の勝利を信じて疑わなかったと思われます。しかしそこに大きな誤算がありました。シセラが相手にしていたのはイスラエルの民だけではなく、万軍の主であったからです。いつの時代でも、万軍の主を相手にして勝てる人はだれもいないのです。勝利は、万軍の主に就く人になります。

 さあ、いよいよ戦闘が始まりました。イスラエルの兵一万人は、神による勝利を確信し、バラクの指揮の下、山の上から、川のそばにいる戦車隊を目指しました。それは、次の5章を読み合わせますと、星の輝いていた夜であったと思われます。また、イスラエルの兵が900両の戦車隊に近づいたときに、何と、急に、大雨が降り出しました。そして、あたり一面が水浸しになりましたので、河原は一泥沼となってしまいました。そのため、イスラエルの塀の攻撃に気づいても、900両の戦車隊は泥沼にはまって動かなくなりました。そこに、イスラエルの兵一万人が突入してきましたので、戦車隊は不意を突かれ、戦車隊は動かなくなり、パニック状態なり、さすがの大戦車隊も総崩れになりました。そのため、司令官のシセラも戦車を捨てて逃げたほどでした。

 15節で「主は、シセラそのすべての戦車、すべての軍勢をバラクの前で混乱させられた。シセラは車を降り、走って逃げた」と言われている通りです。戦車隊ということを聞きますと私たちは思い出すことがあります。その時から、200年あるいは300年前に、イスラエルの民が出エジプトしたとき、エジプトの戦車隊が追いかけましたが、紅海の藻くずと消えて壊滅打撃を受けたことを思い出しますが、今回はシセラの大戦車隊が壊滅しました。生きて働く全能の神の力は、900両の鉄の戦車隊など目ではないのです。私たちが心から信頼すべきは、今も生きて働く前の全能の神です。


5.神は、女性ヤエルを用いて、みわざをしてくださいました

 さて、最後のポイントになりますが、900両の戦車隊を失って逃げ出した司令官のシセラはどうしたでしょう。すると、9節で、「主はシセラを女の手に売り渡されるからです」と言われてきましたように、ひとりの知恵のある勇敢な女性によって死んでしまうのです。すなわち出エジプトの指導者のモーセの妻の父の子孫であるカイン人のひとりの女性のヤエルという人の手にかかってしまうのです。17節から20節がそうです。

17節に「シセラは、カイン人ヘベルの妻ヤエルの天幕に走って逃げてきた」といわれていますが、「カイン人」というのは、モーセの妻チッポラの父の子孫です。戦いの場から近いところに住んでいたこの女性のところに、司令官のシセラは疲労困憊して助けを求めて逃げてきました。そこで、ヤエルは、疲労困憊していたシセラを「布で覆いました」、すなわち、毛布のようなものをかぶせて休ませたのです。すると、安心した司令官シセラは、のどが乾いて水が飲みたいと言いましたが、ヤエルは、単なる水ではなく、「ミルク」、すなわち、体力がつくように牛かヤギの乳を差し出したので、シセラはますます安心しました。そして、疲れがどっと出たのでしょう。シセラは安心し切って眠りました。

 すると、シセラが熟睡したころ、ヤエルは、テントを止める木でできた長い釘を木の槌で、シセラのこめかみに打ち込んだのです。こうして、シセラはひとりの女性によって死に至らせられたのです。21節で「・・・ヘベルの妻ヤエルは天幕の釘を取り、槌を手にして彼のそばに忍び寄り、こめかみに釘を打ち込んだ。釘は地まで突き刺さって、疲れ切って熟睡していた彼は、こうして死んだ」と言われている通りです。

 当時、天幕、テントの釘を打つのは、女性の仕事であったといわれていますが、ヤエルは、自分が日常生活でしていることで司令官シセルを倒しました。ヤエルは女性ですから、男のように刀や槍を使うことには慣れてはいませんでした。しかし、テントの釘を打つことは女性の仕事で慣れていましたので、自分でできる仕方でシセラを倒したのです。それで、実は、「ヤエル」という名前は、ヘブル語では「野性のやぎ」という意味ですが、まさに、野性のやぎのようにヤエルは機を見て敏しょうに行動しヤエルを倒したのです。

 それで、私たちは、このカイン人ヘベルの妻ヤエルは、イスラエルの民と同じくまことの神を信じていた人なのかどうなのかと思うのです。真の神を信じていたので、イスラエルの敵は自分の敵として司令官のシセラを信仰に立って打ち取ったのかと思うのです。そこで、私もかなり調べてみましたけれども、この点はなかなかハッキリしません。カイン人の宗教がどのようなものであったかはどれにも書いていないのです。注解書をみれば、こちらが知りたいことは何でも書いてあるというわけでもないのですね。

 しかし、このヤエルいう女性は、次の5章24節でとても称賛されています。読みますと、「女たちの中で最も祝福されるのは、カイン人ヘベルの妻ヤエル。天幕にいる女たちの中でもっとも祝福されるのは彼女。」と言われていて、「最も祝福される」とあります。聖書の中で「祝福される」といえば、信仰ゆえに真の神に祝福されるということでしょう。ここを手掛かりにすれば、ヤエルは、真の神を信仰していたことを前提していると言ってよいのかもしれません。私たちは、今は、ヤエルも真の神を信仰していたと考えておきましょう。

 いずれにしても、こうしてデボラとヤエルの二人の女性の信仰を通して、イスラエルに勝利が与えられたのです。旧約時代は、男性中心の家父長制の時代でありました。しかし、2人の女性の信仰を通して、イスラエルの人々が豊かな祝福を神から受けたのです。神は男性も女性も用いるのです。神を信仰して、行動すれば、男でも、女でも祝福されるのであり、その祝福は周囲に及んでいくのです。

 このことは、新約時代になっても同じです。ヘブライ人への手紙11章6節で、「 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」と言われているとおりで、今日も同じです。


結び

 以上のようして、今日の個所を見ます。神は、男性中心の家父長制社会においても、信仰深い女性を用いて、神の民の祝福をなることを行いました。こうして、神が喜ぶのは、男か女かでなく、どのような状況にあっても、今生きて働く万軍の主を信頼し、行動する人です。それゆえ、今日のわたしたちも、自分が男であれ、女であれ、今生きて働く万軍の主を信頼し、行動して、自分や自分の家族や自分の属している教会や自分の周囲の人々の祝福となるように、日々歩んでいきましょう。


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