「聖霊降臨の予告」  

ヨエル書2章1節-3章5節

はじめに

 ウイークデーの祈祷会においては、通常は、旧約聖書の詩篇を取り上げておりますが、今晩は、聖霊降臨記念礼拝前、ペンテコステ礼拝前祈祷会ですので、それにふさわしい所を取り上げたいと思います。

 具体的には、今、輪読しました旧約聖書のヨエル書2章と3章を学んで奨励したいと思います。ヨエル書というのは、預言者ヨエルの語ったことをまとめたものです。それで、ヨエルという名前が、もともとは、ヨーエールと発音しますが、意味は「ヤハエは神である」、すなわち、「主は神である」という意味です。もっと分かりやすく言いますなら、イスラエルに自らを慈しみ深く啓示して、イスラエルと契約を結んで下さったヤハエだけが、まことの神であるというとても良い意味の名前です。

 そして、このヨエルは、いつの時代の預言者かと言いますと、2つの説がありまして、バビロン捕囚前800年代の人と考える立場と、580年のバビロン捕囚以後と考える立場があります。でも、ヨエル書の内容は、もちろん、どちらの立場にとっても同じでありまして、空前絶後のいなごによる大災害を主の日の審判の前兆ととって、イスラエルの民が、それまでのかたくなさを悔い改めて、生きた信仰へ戻るように求めているという点で同じです。

 それで、イスラエルの民が悔い改めれば、いなごによる大災害に勝る大収穫を与えてくださり、さらに、後には、御心の時に、聖霊を豊かに注いで、だれでも、神の言葉を親しく語れるようにしてくださる大きな霊的祝福を約束して下さったのです。そして、後の御心の時に、聖霊を注いでくださるということが、聖霊降臨の約束、ペンテコステの約束で、実際に、イエス・キリストの弟子たちに注がれて、教会が誕生しました。

 そこで、ヨエル書というのは、聖霊降臨の予言の書物です。ですから、聖霊降臨は、いきなり生じたのではなく、数百年前に、神の豊かな祝福として約束されていたものです。でも、キリストの弟子たちに、聖霊が豊かに注がれ、教会が誕生し、弟子たちは、神の言葉を親しく、かつ、力強く、1世紀の地中海世界に語り始めました。そして、21世紀の今日も教会は聖霊の力によって、神の言葉、救いの言葉、キリストによる救いの福音を、力強く語り続けていくのです。

 わたしたちの南浦和教会にも聖霊の力が働いています。人が、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて立ち上がることは聖霊の力によります。洗礼を受けて、クリスチャンになる人が起こされることは、聖霊が、働いている素晴らしい印です。また、人が、信仰生活ができるのは、聖霊の力によります。わたしたちも聖霊の豊かな力を受けています。わたしたちは、これからも聖霊の豊かな力によって、人々に福音を、いろいろな工夫と努力によって語り続け、また、信仰生活を喜んでしていきたいと思います。


1.いなごの大災害によって、民を審判することを予告しました

 それで、早速、ヨエル書に入りましょう。かなり長いので、ひとつひとつの言葉、一節一節を開設することはできませんので、ポイントをつかむ形でお話しをします。すると、まず第1のポイントは、神は、当時のイスラエルの民のかたくなさと不従順に対して怒り、いなごの大災害によってイスラエルの民を審判することを予告しました。

1節から11節がそうです。見出しとして「主の怒りの日」とありますが、これは、神が怒って審判する日を表しています。1節を見ますと、シオン、すなわち、神殿のある聖なる小さな山であるエルサレムで、羊か牛の角でできた笛を大きく吹き鳴らして、時の声、すなわち、緊急の合図をせよと命令しています。では、どんな合図をするのかと言いますと、「主の日」、すなわち、主の裁きの日が近づいていることを知らせて、イスラエルを民が、恐れおののくようにせよと言うのです。

 では、「主の日」、すなわち、主の裁きの日は、具体的にどんなものであるかと言いますと、それは、「闇と暗黒の日、雲と濃霧の日」、すなわち、光がない日です。では、どうして、真っ暗闇の霧深い、光がない日になるのかと言いますと、それは、空前絶後の無数の大量のいなごが飛んできて、イスラエルを襲うからです。

 これが、ヨエルの伝えるいなごによる大災害です。いろいろな表現で、繰り返し、繰り返し語られています。例えば、2節で、「強大で数多い民」と言われています。少し飛んで4節では、「その姿は馬のようで、軍馬のように駆ける。」また、節では、「彼らは勇士のように走り」と言われています。8節では、「自分の前に敷かれた王路を進む」と言われています。9節では、「町の中を駆け巡り」とか、「盗人のように窓から入り込む」と言われています。

 それで、これらはすべていなごの大襲来を、敵の軍隊が攻めてくることにたとえています。これらがいなごを表していることは、もう少し後の25節で極めてはっきり分かります。25節を見ますと「わたしがおまえたちに送った大軍 すなわち、かみ食らういなご、移住するいなご、若いいなご、食いあらすいなご・・・」と言われていることからも明白です。

 そして、また前に戻りますが、空前絶後の山の大襲来によって、太陽、月、星の光も遮られて、イスラエル全体が暗くなるほどです。そこで、10節で、「太陽も月も暗くなり、星も光を失う」と表現しました。これは、単なる自然現象ではなく、イスラエルに対する神の怒りの審判として行われるものです。そこで、少し前の、3節を見ますと、いなごは飛んで行く前にも、火があたりを焼き尽く、いなごは飛んでいった後にも、あたりが炎で燃えていると言われていますが、「火」や「炎」は、聖書では、神の怒りの審判を表すものです。

 こうして、イスラエルの民のかたくなさと不従順に対して、神の怒りによる審判の日、すなわち、「主の日」は恐ろしいもので、イスラエルの民が耐えられないようなものになります。

 ですから、これだけのことが語られているということは、ヨエルの時代のイスラエルの民は、本当にかたくなで従順の極みにあったのでしょう。愛の神がこれほど怒るということには、イスラエルの民の罪が極値にまで達していたということでしょう。神は、いつの時代でも罪に対して怒る神です。わたたちも、罪人でですが、お祈りをして、力を与えられ、セルフ・コントロールをして、少しでも罪を犯さないようにし、罪から離れる生活をしていきたいと思います。


2.神は、同時に、悔い改めを求めました

 さて、以上のようにして、神は、イスラエルの民の罪とかたくなさと不従順に対して、いなごによる対審判を予告していましたが、神は、同時に、悔い改めを求めました。イスラエルの民が、罪とかたくなさと不従順を心から悔い改め、ご自分に帰ってくるように求めました。そこで、悔い改めの求めが122節から17節で記されています。

 12節を見ますと「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち返れ 断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく おまえたちの心を引き裂け。』とありますが、これが典型的に悔い改めの要求です。「断食し」、すなわち、食べることをやめて、反省し、悔い改めるという意味です。「衣を裂く」というのは、イスラエルにおいては、悔い改めの印とされたものです。胸元に手をかけて、下の方に数十センチ引き裂くことですが、神は、イスラエルの民が、形だけ悔い改めの印としての衣を裂くことをするのではなく、心が裂けるほど、自分の罪とかたくなさと不従順を反省し、悔い改めるという意味です。  

 また少し飛んで、15節を増すと、シオン、すなわち、神殿のあるエルサレムで角笛を吹きならして、イスラエル全体に、断食をするように命令を出し、「聖会」、すなわち、神殿に集まって礼拝を開き、全イスラエルから人々を集め、集まった人々を神に向けて清め分かち、民の指導者である長老たちを集合させ、さらに、子供たち、また、母親にだっこされている乳飲み子までも集まるようにし、さらに、何と、婚礼、すなわち、今、結婚式をしている花婿や花嫁さえも集め、全イスラエルが、罪とかたくなさと従順を悲しみ、反省し、悔い改めるように求めたのです。

 そして、また、悔い改めは、彼らだけでなく、神殿で神に仕える祭司たちも行うべきであることが求められました。祭司たちも、神殿の入り口と祭壇の間の庭で、自らの罪とかたくなさ不従順を、反省し、悲しみ、悔い改めるように求められました。そして、主に仕える祭司たちは、イスラエルの民に、もう1度、契約の主の憐れみが与えられるように祈るよう求められました。イスラエルの民が、ヤハエから捨てられ、周囲の異教の民から、嘲られることがないように祈るよう求められました。

 そうすれば、神は、いなごによる災害を哀れんでくださって、いなごによる災害に勝る産物の豊かな祝福を与えてくれるかもしれません。少し前の、11節後半に「あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富み、下した災いを悔いられるからだ。」とありまして、「悔いる」と言われておりますが、これは、人間にたとえた言い方です。神には、「自分はああいうことをして失敗した。自分は後悔している。悔いている。」ということはありません。もしそうなら、それは、神の不完全になります。後悔は、神にはありません。後悔は人間がするものです。

 こうして、神は、全イスラエルに悔い改めを求めました。今日のわたしたちも同じです。わたしたちも、いろいろな罪を犯してしまいます。また、わたしたちもいろいろな時にかたくなになります。また、いろいろな時に神に対して、御言葉に対して不従順になりますが、それらのことに気がついたときには、わたしたちは、神に対して、キリストの名によって悔い改め、新しい服従を表明すればよいのです。信仰生活はこの繰り返しです。そして、この繰り返してよいのです。わたしたちは、毎日、悔い改めが必要です。毎日、悔い改めの必要のない人はいないのです。信仰生活は悔い改めの生活です。クリスチャンの生涯は、悔い改めの生涯です。天国に行ったら悔い改めることは必要なくなりますが、それまでは、日々悔い改めて信仰の道を歩んでいくのです。


3.いなごの大損害に勝る豊かな祝福を与えてくださいます

 さて、以上のようにして、神は悔い改めを求めましたが、では、イスラエルの民が実際に悔い改めるとどうなるのでしょう。すると、神はその悔い改めを喜んで受け入れ、いなごの大損害に勝る豊かな祝福を与えてくださるのです。18節から27節がそうです。

 18節を見ますと「そのとき 主はご自分の国を強く愛し その民を深く憐れまれた。」とありまして、過去形で書かれています。その意味は、全イスラエルが悔い改めれば、神はイスラエルを限りなく強く愛して、喜んで受け入れ、憐れみを与えることが確実であることを意味しています。あまりにも確実ですので、もうすでに過去に生じたことのように記しました。

 悔い改めるのであれば、穀物、オリーブの実、イチジク、ブドウ、パンの材料の麦など何でも豊かに与えられます。周囲の異教の民から嘲られることもなくなります。さらに、20節を見ますと、いなごは、「乾いた興廃の地」、すなわち、砂漠に追いやられます。また、いなごの先頭グループは、「東の海」といわれる地中海に落ち、また、いなごの後ろのグループは、「西の海」といわれる地中海に落ちて死んで、その匂いがして終わりになります。さらに、神は、豊かな収穫に至らせるために、秋の雨と春の雨を降らせてくださいます。

 そこで、25節後半と26節を見ますと、「食い荒らした幾年もの損害をわたしたは償う。お前たちは豊かに食べて飽きたり・・」といわれるほどになります。

 こうして、神は、イスラエルの民がいなごの大襲来で受けた損害に勝る豊かな祝福を与えてくださるのです。そして、イスラエルの民は、「神はほんとに素晴らしい」といってほめたたえるようになるのです。イスラエルの民は、自分たちとともに、神がおられることを確信するようになります。イスラエルの民は、まことの神はヤハエだけであることを、確信するようになります。少し飛んで、26節で「お前たちの主なる神の御名をはめたたえるであろう」というのがとてもいいですね。

 ですから、神は、悔い改めるもの喜んで受け入れ、豊かな祝福を与えてくださるお方です。そして、この姿は、主イエス・キリストを思い起こさせます。イエス・キリストは、悔い改めた取税人のかしらザアカイを受け入れました。また、悔い改めて立ち返る放蕩息子の例えで語りました。わたしたち一人ひとりが、ザアカイであり、放蕩息子です。わたしたちも、それまでの罪の人生を反省し、悔い改めて、まことの神に立ち返ったのです。そして、今は、豊かな祝福の中、永遠の生命の道を喜んで歩んでいます。


4.聖霊降臨、ペンテコステの約束が出てきます

 さて、以上のような背景を踏まえて、聖霊降臨、ペンテコステの約束が出てきます。新共同訳では、聖霊降臨の約束は、3章になっていますが、これまでの口語訳聖書は、2章の終わりの部分になっていたわけです。ヘブルも本文でも、聖霊降臨のところは3章になっていますね。どうして、これまでの口語訳聖書は2章の終わりになっていたかと思うのですが、キリスト教の歴史においてはかなり以前から、区切り方として、そうなっていたようです。いろいろ調べてみましたが、詳しく説明しているものに見当たりませんでした。

 それで、3章は見出しにもありますように、「神の霊の降臨」、すなわち、聖霊降臨、ペンテコステの約束です。それで、内容は、ヨエルの時代の旧約においては、聖霊が与えられて、神の言葉を親しく語るのは預言者に限られていたわけです。しかし、神の御心の時には、聖霊が与えられ、神の言葉を親しく語るのは、預言者だけでなく、神を信ずる者だれにでもできる豊かな時代が到来することの予言でした。

 3章1節で「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。」とありまして、「すべての人に注ぐ」と言われているのが素晴らしいね。すなわち、神を信じているものだれにでも聖霊が豊かに注がれて、神の言葉を親しく語れる時代の到来を表しています。

 そして、その「すべての人」というのが具体的にどんな人かというと、「息子や娘」、すなわち、男か女の性別に関係なく聖霊が豊かに注がれることを表しています。また、「老人は夢を見」という言い方で、老人にも聖霊が豊かに注がれることを表しています。「夢を見る」というのは、ここでは、聖霊の働きによって夢を見て、神の御心を語るという意味です。また、「若者は幻を見る」とありますが、これは、若い者も軽んじられることなく、聖霊を豊かに与えられて、幻を見させられて、神の御心を語るという意味です。こうして、年齢にも関係なく与えられます。

 さらに、社会の階級や身分にも関係なく与えられます。2節で「奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」となっていて、社会の最も低い階級、身分である奴隷にも聖霊が豊かに注がれて、神の言葉を親しく語ることができます。

 こうして、聖霊が降臨し、ペンテコステが生じた新約の時代においては、聖霊は、神を信じ、キリストを信ずるだれにでも差別なく与えられて、神の言葉を親しく語ることができる時代です。ですから、信徒の皆さんも、自分の信仰と賜物に応じ、いろいろなところで、神の言葉を親しく語るのがよいのです。もちろん、牧師も語り出す。牧師は、専門家として語りますが、信徒の皆さんも、聖霊を豊かに受けている者として、神の言葉を、自分のできる仕方で語るのが良いのです。

 それで、3節、4節は、この表現で何を表しているかというと、この表現で世の終わりを表しているのです。この表現は世の終わりの前兆を表す表現です。言おうとしていることは、やがて前兆を伴った終わりがきますよという意味です。

3節の「しるし」というのは、世の終わりのしるし、世の終わりの前兆のことです。「血」というのは、戦い、戦争で血が流されるので、国と国との戦争をあらわします。「煙の柱」というのは、戦い、戦争で火をつけられていろいろなものが燃え上がることを表しています。4節の「主の日、大いなる恐るべき日」というのは、世の終わりの神による最後の審判の日をあらわします。「太陽は闇に、月は血に変わる」というのは、世の終わりには、太陽はその使命を終わって光を放たなくなります。また、月も太陽の光を反射する役目を終わって、血のように、赤い色に変わるという意味です。

 福音書の中で、イエス・キリストも世の終わりの前兆、しるしを語りましたが、それの前兆、しるしの中には、戦争が起こること、太陽、月、星が役目を終了して光を放たなくなることが語られていました。

 そのように前兆、しるしを伴った世の終わりがくるわけですが、しかし、その前に、聖霊の豊かな働きを受けて神の言葉を語る人々から神の言葉を聞いて、神の御名を呼ぶものは救われるのです。そして、救われるものは、神殿のあるシオンの山、すなわち、エルサレムに集められると言うのです。実際に、聖霊降臨の時、聖霊を受けたペトロをはじめとする弟子たちの語る神の言葉を聞いて、エルサレムにいる人々がまず救われました。

 こうして、世の終わりが来る前に、聖霊が豊かに注がれて、神を信ずる者が親しく神の言葉を語り、その言葉を聞いて救われる人々が起こる時代が来るという予言でしたが、この予言は、ペンテコステ、聖霊降臨において実現しました。聖霊が豊かに注がれた弟子たち、すなわち、キリストの教会が神の言葉を語り始め、世界に、救われる人が起こされ始めました。

 そして、そのことは今日も続いています。今、21世紀に入りましたが、日本においても、教会は、キリスト信ずるクリスチャンは聖霊を豊かに受けて、神の言葉を親しく語り続けており、救われる人々も起こされています。ペンテコステに豊かに注がれた聖霊は、今も、豊かに働いています。南浦和教会にも働いています。これは本当に素晴らしいことで大きな祝福です。


結び

 以上のようにして、ヨエル書を見ますが、わたしたちも、さらに、ペンテコステ以来の聖霊の豊かな力を受けて、日本伝道を推進していきたいと思います。聖霊の与える知恵によって、いろいろな工夫や努力をしながら日本伝道を推進していきましょう。


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