「サレプタのやもめへの祝福」
列王記上17章17節-24節
はじめに
わたしたちは、午前中は会堂で礼拝しましたが、夕べにもう1度ともに礼拝し、神に心をむけ、祝福を受けたいと思います。
それで、わたしたちは、家庭回りの夕礼拝においては、旧約聖書を少しづつ学んでいますが、前回は、列王記から預言者エリヤについてお話をしました。特に、かめの粉とと壺の油が尽きず、そのため、ききであっても、毎日、パンを焼いて食べることができたという恵みの奇跡についてお話しました。
わたしたちが預言者が得るやエリヤについて持つイメージは、どんなイメージでしょう。すると、たくましい預言者というイメージでしょう。新約聖書の中で、イエス・キリストの先駆けとして出てくる洗礼ヨハネのイメージとも重なるところがあって、預言者エリヤは、ラクダの毛ころもを身にまとい、片方の肩を露出し、腰には皮の帯をキュッとしめ、足は両太ももがニョキニョキれているというようなイメージでしょう。
いずれにしても、預言者エリヤは、イエス・キリスト出現の8百数十年前に活躍した人物です。当時のイスラエルは、エルサレムを中心とした南王国とサマリヤを中心とした北王国に分裂していましたが、預言者エリヤは、サマリヤを中心とした北王国で活躍した預言者です。
それで、先ほど読んだところは、何が語られているかと言いますと、預言者エリヤの真剣な祈りを通し、神が異教の地サレプタでやもめの子供のよみがえりの奇跡をしてくださる場面です。すなわち、当時は、イスラエルの歴史始まって以来の偶像礼拝の時代でした。王様のアハブと王妃のイゼベルが強力な偶像礼拝をイスラエル中に進めていたのですが。そこで、預言者エリヤは、一時、異教の地サレプタに避難しましたが、その異教の地においても、神は、ご自分の存在と恵みを豊かに、また、力強く表してくださったのです。
今日も同じです。慈深い神は、霊的に暗い今の時代の日本においても、教会とクリスチャンの真剣な祈りに答え、ご自分の存在と恵みを豊かに、また、力強く表してくださるのです。それゆえ、わたしたちも、今生きて、日本において素晴らしい救いと祝福の御業をしてくださる神をこれからも固く信頼し、信仰の歩みを喜んでしていきたいと思います。
1.エリヤがお世話になっている家の息子が突然死にました
さて、それで、まず、わたしたちは、イスラエルを離れ、地中海沿岸のシドンに属するひとつの町サレプタにおいて、あるやもめの家でお世話を受け、順調に暮らしていた預言者エリヤにあるとき予期せぬことが生じました。人の人生には今日でも予期せぬことが生じるものですが、エリヤも同じでした。では一体、何が生じたでしょう。
すると、エリヤがお世話になっていたやもめの大事な息子がとても重い病気になったのです。その息子は、たぶんひとり息子であったと思われます。それゆえ、そのやもめは、その息子の成長を楽しみにして、生きてきたと思われます。ところが、重病になり、そして死んでしまいました。17節で言われている通りです。
「この家の女主人」というのは、その時、預言者エリヤがお世話になっていたやもめのことです。その時、エリヤは、自分を追いかけるイスラエルの王アハブと王妃イゼベルの厳しい追及を逃れるため、地中海沿岸の都市国家シドンに属するサレプタという小さな町にやってきました。そして、その町のひとりの親切なやもめの家でお世話を受けていました。もちろん、そのやもめは、異教の民のひとり人でした。バアルという偶像を信じていたかもしれません。
しかし、前回お話ししましたように、エリヤが、壷の中の一握りの小麦粉と瓶の中のわずかな油を尽きることがなくしてくださり、毎日パンを焼いて食べることができるようにしてくれた奇跡を通し、エリヤが仕えているイスラエルの神ヤーウェこそ真の神でではないかと、次第に、心が開かれているときでした。そのままいけば、そのやもめは、真の神であるヤーウェの信仰にもう少しで導かれるというところであったでしょう。今日の言葉で置き換えれば、求道中であったと言えるでしょう。
そんな大事な時に、そのやもめの息子が重病となり、手当ての甲斐もなく死んでしまいました。17節に「彼女の息子」とありますが、ひとり息子であったと思われます。どうしてひとり人息子といえるのかと言いますと、前回お話しした個所の12節を見ますと、そのやもめは「わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」と言いましたが、その「息子」は、ヘブル語で単数で出てきますので、ひとりの息子という意味です。ですから、このやもめには、何人も息子がいたのではなく、この息子ひとりであったと思われます。
それゆえ、すでに夫に先立たれていたこのやもめは、自分のひとり息子をホントに愛して大事にして、その成長を楽しみとして生きていたと思われます。当時は男中心の家父長制の社会ですから、その家を継ぐ息子として期待していたと思われます。ところが、突然の病気で死んでしまいましたので、母親であるそのやもめは、悲しみ嘆きました。そして、悲しみのあまりでしたが、ひとり息子が突然病気になって死んだのは、イスラエルの神ヤーウェを信じるエリヤが自分の家に入り込んできて罰を与えたからであると考え、不幸もたらしたとして、エリヤを激しく責めたのです。
18節に、「あなたはわたしに罪を思い起こさせ、また、息子を死なせるために来られたのですか」とありまして、「わたしの罪を思い起こさせ」と言われておりますが、これは何も、このやもめが特別な罪を犯していたと考える必要はないと思われます。これは一般的な意味で、人は皆、罪を犯しながら生きていることに対して、それに対して罰を与えたのですかという意味と考えられます。
換言すれば、このやもめは、自分は、エリヤが仕えているイスラエルの神であるヤーウェから自分の罪が裁かれのではないか、それで息子が死んだのではないかと考えて、なぜそんなことをするのかと、エリヤを激しく責めているのです。
そして、その含みは、エリヤと自分はかかわり合いにならなければよかったのに、また、エリヤが自分の家に入り込まなければよかったのに、そうすれば、息子は死ななくてすんだのに、どうしてくれるのかと、悲しみのあまり、息子が死んだ原因がエリヤにあるかのように責めたのです。
もちろんこれは完全な誤解でした。実は、それまでは、そのやもめ自身もイスラエルの預言者エリヤと出会えたこと、そして、エリヤにより、壷の粉は尽きず、瓶の油も尽きず、飢きんにもかかわらず、毎日パンを焼いて息子と共に食べることができたことを喜んでいたはずです。このやもめは、前回もお話ししましたように、あと一回パンを作って食べれば、それで食料はすべて尽きて、息子とともに餓死しようとしていたところでした。しかし、イスラエルの神ヤーウェに仕える預言者エリヤと出会って、奇跡をしてもらい、毎日息子と共ににパンを食べることができ、大喜びし、エリヤと出会えたことを感謝していたはずです。そして、その息子もエリヤと仲良しになっていたはずです。
しかし、突然独り息子が死んで、悲しみのあまり、その原因を今度はエリヤのせいにして責めたのです。人は、皆弱いもので、大きな悲しみがあるときには、誰かのせいにして、激しく責めるということがありますが、このやもめもそうでした。
こうして、エリヤは、予期せぬ出来事が生じたゆえに窮地に陥ってしまいました。このままにしておけば、その息子が死んだのはエリヤが家に来たからであると思われてしまうでしょう。また、エリヤの仕えるイスラエルの神ヤーウェがそのやもめに罰を与えたからだと思われてしまうでしょう。また、エリヤは、もはや、その家ではお世話になることができなくなるでしょう。それでは、エリヤも困るでしょう。エリヤは行くところがないでしょう。こうして、いろいろな意味でエリヤは窮地に陥ってしまいました。人の人生には予期せぬ出来事が生じますが、エリヤもそうでした。
2. エリヤは真剣に切実に熱心に祈りました
では、エリヤはどうしたでしょう。ほんとに困ったでしょう。エリヤは、イスラエルを離れた異教の地のサレプタにはもちろん知り合いもいませんでした。お金もありませんでした。でも、エリヤには素晴らしいものがありました。何でしょう。祈りです。すべてを知っておられる神への祈りです。御心であれば必ず聞かれる祈りです。祈りがある、祈りができることは、信じる者の何と素晴らしい特権でしょう。
エリヤは、自分の窮地をすべて率直に残らず包み隠さず、慈愛深い天の神に心から真剣に祈ることにしたのです。19節から21節がそうです。エリヤの祈りの特色を4点見ましょう。第1点は、神様への祈りに集中するため、死んだ息子を抱いて1人だけ屋上の部屋に上って、神に向かい合いました。「屋上の部屋」とは、外からの階段で上がっていく平たい屋根の上にあった部屋のことだと思われます。エリヤはその部屋を自由に使わせてもらっていたのでしょう。そこで、その部屋に死んだ息子を抱いて上り、自分のベッドに横たえました。死んだ息子の母親のやもめおよび他の人が来ることを許さず、1人だけで屋上の部屋に入ったことは、神への祈りに心を集中させるためでした。祈るときは、目に見えない神を強く意識し、ひとつしかない自分の心を神に集中することが今日でも大切です。
では、エリヤの祈りの特色の第二は何でしょう。すると、神への信頼です。エリヤは、窮地にありましたが、しかし、神への信頼を失うことはありませんでした。20節を見ますと「主よ、わが神よ」と呼びかけました。21節でも「主よ、わが神よ」と呼びかけましたが、「わが神」というのは、もちろん、わたしの神よという意味ですが、わたしの神という1人称単数の呼びかけは、わたしたちの神という呼びかけと共に、これまた神への信頼を表すもう一つの素晴らしい表現です。
旧約聖書の詩編の中にも、窮地に陥った作者が、神へ、わが神、わが神と一人称単数で呼びかけ、助けを求めていますが、それは、窮地にあっても神を深く信頼していることを表しています。後に、イエス・キリストも十字架の上という窮地の中の窮地にあっても、わが神、わが神と呼びかけ、神への深い信頼を表しました。今日のわたしたちも、祈るときには、神を心から信頼して祈りましょう。
では、エリヤの祈りの特色の第三はなんでしょう。すると、自分の窮地をすべて包み隠さず率直に神に申し上げ、苦しみを恵みに変えてくださるようにお祈りしました。20節で「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか」とあります。そして、「その息子の命をお取りになるのですか」という表現は、ヘブル語では、もともとは「子供を死なせるのですか」ですが、訳はともかくとして、エリヤは、自分がお世話になっているやもめの子供が死んだことで、その責任が自分とされ、窮地に陥っていることを包み隠さず率直にすべて祈りにおいて神に申し上げています。
わたしたちたちが最もよく知っている賛美歌312番の「いつくしみふかき」にも、「こころの嘆きを包まず述べて、などかは下さぬ負える重荷を」と、主イエス・キリストに対して、心の嘆きを包まず述べることが言われておりますが、預言者エリヤは、この時、すべてを包み隠さずいつくしみ深い神に、親しく近づき、信頼してすべて述べたのです。
そして、苦しみが恵みに変えられるように率直に祈りました。21節で、「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」がそうです。もともとの言い方は、「この子供の魂を元に返してください」という言い方です。死は、体と魂が分離することです。セパレートすることです。そこで、エリヤは、その子供が生き返るために、体から分離した魂がもう一度体に戻るように祈ったのですが、この祈りは、苦しみ恵みに変えてくださるようにとの祈りです。今日のわたしたちをも同じことをいくらでもするでしょう。全能の神は、苦しみを恵みに、悲しみを喜びに、辛さをうれしさに、失望を希望に、いくらでも変えることができる全能の神です。実際に、わたしたちの人生においても、これまでにも、何度も変えてくださったでしょう。ですから、これからも、神を信頼して祈れるでしょう。
では、エリヤの祈りの第四の特色は何でしょう。それは、三回も祈った、すなわち、真剣に切実に熱心に祈ったということです。21節で「彼は子供の上に三度身を重ねてから」とありますが、三度とわざわざ記されています。これは、その時エリヤが真剣に切実に熱心に祈ったと表しています。子供の上に体を重ねるというのは、死んで冷たくなりつつあるその子供にエリヤの温かい体を押し当てて、再び、その子供の体が暖かくなって生き返ることを願う動作をしたことを表しますが、ただお祈りをしただけでなく、そのような動作をしたこと、しかも三回も繰り返したことは、エリヤが、そのことをホントに真剣に切実に熱心に祈ったことを表しています。このことを神に聞いてもらわなくては本当に困る、ぜひとも聞き入れてくださいという願いが伝わるでしょう。三という数字は聖書においては十分、完全を表します。エリヤの祈りは、真剣さ、切実さ、熱心さにおいて十分であり、完全であったことを表します。今日のわたしたちも、重大な事柄に対しては、何回も祈るでしょう。真剣に切実に熱心に祈るでしょう。そして聞かれるでしょう。
こうして、エリヤは、祈りました。エリヤは、その時無一物で何も持っていませんでした。しかし、持っているものがありました。それは、すべてのことをご存じである全能の神への祈りです。エリヤは祈りを軽んじることはしませんでした。今日のわたしたちも、すべてのことをご存じである全能の神へ、自分のこと、家庭のこと、仕事のこと、教会のこと、伝道・宣教のこと、日本の社会のこと、その他の何でも恵みを求めて日々祈りたいと思います。
3.神はエリヤの祈りを聞いてくださいました
さて、エリヤの祈りに対して、神様はどうしたでしょう。すると、エリヤの祈りに答えて、大きな恵みを持って、そのやもめの子供を生き返らせてくださったのです。22節に「主は、エリヤの声に耳を傾け」とありますが、もともとの言い方は、「主は、エリヤの叫びに耳を傾け」という表現です。すなわち、神は窮地に陥ったエリヤの助けを求める叫びを無視することなく、本当に聞いてくださったことを表しています。
そこで、エリヤは、生き返えらされ子供を抱いて、下へおり、不安な思いで待っていたであろう母親であるやもめに渡しました。すると、そのやもめは、生き返ったことが一目でわかり、その顔はみるみる喜びと感謝で満ち溢れ、エリヤが真の神に仕える本当の預言者であり、人に災いをもたらす者ではなく、祝福をもたらす者であること、また、エリヤがこれまで自分に語り聞かせてくれた言葉はすべて、真理であり、真実であり、信頼できることをすべて悟って、何と、エリヤを通して教えられた真の神への信仰を告白したのです。こうして、このやもめや、バアルという偶像を信じていたであろう異教の民のひとりでしたが、今や、救われ、真の神ヤーウェを信じる者として歩むことになったのです。こうして、霊的暗黒の地異教の地のサレプタに真理の光が差し込んだのです。神の栄光は異教の地においても表わされたのです。
24節の「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」というのは異教のやもめの立派な堂々の信仰告白です。「神の人」というのは、偉大な力を持った真の神に仕える預言者であることを十分認めた表現です。また「主の言葉は真実です」というのは、エリヤを通してこれまで聞いてきたイスラエルの主であるヤハウェという神の言葉こそが、真実で、信頼できることを十分認めた表現です。
このやもめはバアルという偶像を信じていたであろう異教の民のひとりでしたが、しかし、大きな恵みを受け、真の神ヤーウェの信仰者となってこれから歩んでいくことになったのです。異教の地にあって、真の神これヤーウェを信仰してこれから歩んでいくことには、いろいろな困難も当然予測されたはずですが、しかし、このやもめの心には、それらを超える信仰の強い確信と喜びがあったのです。このやもめの心には、神の御霊が豊かに、そして、力強く働いていたのです。
こうして、真の神ヤーウェは預言者エリヤが、さらに、これからも喜んでご自分に仕えていくことができるように道を開いて下さったのです。
結び
以上のようにして、本日のところを見ます。神は、異教の霊的暗黒の地サレプタにおいても、ご自分のいますことと自分の恵み深いことを表してくださいましたが、今日も同じです。神は、霊的に暗い日本においても、ご自分のいますことと恵み深いことを、キリストによる素晴らしい救いといろいろな豊かな祝福を通して、表してくださっています。神は、日本においても生きて働いておられ、教会とクリスチャンのために道を必ず開いてくださいます。わたしたちは、祈りつつ、信仰の道を歩んでいきましょう。
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