ことばは人となり


聖書
ヨハネの福音書1章14~18節

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。


 世界数十カ国の大学・研究機関が参加し、各国国民の意識を調べ、これを比べる「世界価値観調査」というものが、1981年から5年ごとに行われているそうです。この中で今回皆様に紹介したいのは、神は存在すると考える人々のことです。

 神は存在すると考える人々が90%以上を占める国はエジプト、英会話のティナシェ先生の母国ジンバブエ、ナタニア先生の母国アイルランド、アジアではインドにフィリピン、それにアメリカなど26の国、非常に多くあります。
 神は存在すると考える人が50%以上90%未満の国も24カ国と多く、調査をした55の国のうち50カ国が50%以上か90%以上に含まれていました。
 日本は、神の存在を信じる人が少ない方で35%。スウェーデン、チェコ、ロシア、ベトナムがほぼ同じレベルか低いレベルにありました。しかし、興味深いのは、神は存在すると考える人がゼロどころか、20%以下という国はひとつもないことです。
 紀元一世紀のギリシャの旅行家プルタルコスと言う人は、こう書き残しています。「地上を旅行すると、学問もなく、宮殿もない国がある。貨幣や競技場や劇場のない町もある。しかし、社なく、祈りなく、誓いや占いのない町や国、つまり神を信じない人々がいない町や国は、これまで見たことがないし、これから後もないだろう」と。
 昔から、人間たちは神について考え、神に思いを向けてきました。しかし、それはあくまでも人間の側の想像や推測。言ってみれば、盲人が手で象に触るようなものでした。象の胴体に触った人は「象は壁のようなもの」と言えば、鼻に触れた人は「象はホースのようなもの」と主張する、と言う具合です。つまり、神は存在すると考えていても、その中味はてんでばらばら、十人十色でした。
 ところで、私たちが読み進めているヨハネの福音書は、イエス・キリストについて、永遠の神であること、父なる神とは別の人格をもつ神であること、この世界を愛のうちに創造した神であることを紹介してきました。
 しかし、四つある福音書の中でも、一際ヨハネ福音書の特徴となるのは、イエス・キリストを「ことば」と表現していることです。
 何故、ヨハネはイエス・キリストを「ことば」 と呼んだのか。それは、人間の側からの推測や想像ではなく、神のことを、神さま自ら「ことば」となって私たち人間に伝えてくださったのがイエス・キリストだから、でした。
 もし、本当に神を知ろうとするなら、神の「ことば」であるイエス・キリストを知り、イエス・キリストに聞くのが一番ということでしょう。この世の宗教は、人の知恵、想像や推測によって神を知ろうとするのに対し、キリスト教はイエス・キリストを通して神を知ることに徹する宗教。そのように言い表すことも出来るかと思います。
  もっとも、神御自身の作品である自然を通して、神は御自身を示しておられます。事実、人間は自然を見て、神の存在と知恵、力を考えてきました。
 朝になると大空に躍り出る太陽の恵み、思いのまま空を飛び、歌う鳥、大地を絨毯のように覆う花の美しさ、毎年芽を吹き出す大地の生命力。夜ともなれば天には無数の星が広がり、大宇宙を思う。そのほか雄大な自然を見て、人間をこえた存在、神がいますと気がつくのです。
 自然は確かに神がいますこと、偉大な存在があることを私たちの心に示してくれます。しかし、それ以上の事を教えてはくれません。
 「はたして、神は人間を愛していているのか、だとすればどのようにか。また、何のために私をこの世界に生まれさせたのか。死んだらどうなるのか」。これらのことについては、自然は何も語ってくれません。
 また、「何故病気や飢餓や天災が起きるのか。はたして、神は人間を苦しめているのか」。そう首をかしげざるをえないことが屡々あるでしょう。しかし、 自然に聞いても、そういうことはわからない。くわしい神のお心は測りかねるのです。
 こうして、物を言わない自然の他に、「ことば」となって、神のお心を正確に、わかりやすく伝える存在が必要となりました。何と神はそのために、私たち人間のために、御自身人となってこの世界に下り、人間の仲間となって、じかに人間のことばで、ご自身のこと、お心を教えてくださった、と言うのです。

 1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。大宇宙の造り主の神が、宇宙のチリのような小さな人間の形を取って、この世界に来たという驚くべき宣言です。
 あるインドの詩人の話として、このようなものがあるそうです。この詩人が川岸を歩きながら考えていました。それはキリスト教のことでした。こんな風にです。
  「私はキリスト教を尊敬するが、一つだけ納得できないことがある。それは神が人となってきたことだ。この広大な宇宙の造り主の神が、こんな地球に人の形を取って来られたということだ。それがイエス・キリストで、その誕生を世界中の人々がクリスマスとして祝っているということだ。
 はたして、天地の創造主の神が、こんな我々の中に人間となってこられるなどということがありえるのか。どうしても、この一つの事がわからない。これがわからないとキリスト教がわからない」。
 この様な問題を考えながら、川岸の道を歩き続けていたというのです。そして、詩人は考えに夢中になったので、ひょいと道ばたの蟻塚につまずいてしまいました。すると、蟻塚に住んでいたたくさんの蟻がぞろぞろと出てきて、大騒ぎとなります。
 心優しい詩人は、「すまないことをしてしまった」と、しきりに蟻たちに向かって謝罪の意を表明します。「すみません。私はあなた方に決して危害を加えようとしたのではないのです。ただ、考え事をしていたので足をかけてしまっただけなのです。」
と、一生懸命弁解しました。
 しかし、蟻に人間のことばがわかるはずもありません。「この人間め、何か我々に身害を加えるつもりか」と、騒ぎ立てるばかりです。
 その時でした。詩人は大声をあげます。「わかったぞ!」と叫んだのです。「そうだ。この蟻たちに人間である私の考えや気持ちのわかるはずはないのだ。私が私の心を、この蟻たちに知らせようと願うなら、私自身が蟻になって、蟻の仲間となって、蟻のことばで語り告げなければならないのだ。
 わかったぞ。私たち人間には神がいかなるお方であるか。また、私たちにどのようなお気持ちをもっていらっしゃるかを十分に知ることが出来ない。それは、ちょうど蟻が人間の思いをわからないのと同じことだ。
 私たちは神のお心を誤解しているのではないか。神は私たちを大切に思うからこそ、御自身がどんなお方であるかを知らせようとして人となられたのだ。これで長い間の問題が解けた」。そう言って、大喜びしたという話です。
 人間は蟻になることはできません。しかし、神は事実人となって、人の仲間入りをし、人の友となり、人のことばでご自身のことを、その思いを語ってくださった。
 ここまで人間のためにへりくだり、人間を愛してくださったイエス・キリストについて、ヨハネはこう言いました。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 ヨハネの福音書の特徴の一つは、イエス様とともに生活し、身近に接したヨハネの経験、感動が満ちている、ということです。
 「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」とは、キリストが行った数々の奇跡を指すとも、キリストが弟子達の目の前で栄光に輝く姿へと変った、変貌山の出来事をさすとも考えられます。いずれも、神であることのしるしでした。
 しかし、ヨハネの心に残ったのは、イエス様が本当に力ある神であることだけではなかった様です。恵みとまことに満ちたその生き方にも魅了されたのです。
 ここで「恵み」とは、イエス・キリストの行い、特に十字架の死によって表された愛を言います。他方、「まこと」は、イエス・キリストの教えを通して明らかにされた真理を意味しています。
 イエス・キリストは、恵みを強調して真理を説かない、いわゆる優しいだけの人ではなかった。と同時に、恵みなしに真理だけを宣告する冷たい裁判官でもなかった。
 むしろ、その恵みはどんな人の罪をも赦す程深く、どんな弱き魂も神の真理に立って生きる者へと変える程強力だったのです。
 次に、ヨハネは自分の師匠バプテスマのヨハネのことばを引いています。

 1:15「ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」

 バプテスマのヨハネと言えば、当時ユダヤで最高に尊敬されていた預言者。このヨハネをして『私のあとから来る方(イエス・キリスト)は、私にまさる方である。』と語らしめたとすれば、イエス・キリストについて、これに勝る証言はなかった事でしょう。
 なお、日本語では少し分かりにくい表現ですが、「私より先におられた方」というのは、「私が生まれるよりはるか以前、永遠の昔よりおられる方」つまり永遠の神、という意味になります。
 当時、最高の預言者、尊敬する師匠であった人も、キリストを神と信じて揺るがなかったこと。それは、どんなにヨハネや他の人々の支えとなったことでしょうか。
 さらに、イエス様と身近に接したヨハネと弟子達の経験が語られます。

 1:16「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」

 イエス・キリストの恵みがいかに豊かなものか。ここには、それを直接経験し、味わった者の感激と讃美の声が聞こえてくるようです。
 事実、「雷の子」と仇名されるほど気性が激しく、短気だったヨハネは、後に愛の使徒と呼ばれるほど、愛に満ちた人物となりました。また、あの十字架の夜、キリストの弟子であることを否定し、情けなさに涙した弱きペテロは、後に初代教会を支える大黒柱、文字通りのペテロ、岩(いわお)と化したのです。
 「私もペテロも、私たちが変えられたのは、キリストの溢れる恵みを受けたこと、受け続けたことにある」と語ってやまないヨハネの姿が眼に浮かぶようです。
 さらに、キリストの恵みの豊かさを思うと、ことばがとまらない様子のヨハネは、旧約聖書の律法と比べて、こう宣言しました。

 1:17「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 モーセは旧約聖書を代表する人物。あの十戒を中心とする律法、神の命令を神から受け取ったことで有名です。このことばについては、もう一度触れたいと思います。
 そして、最後は、もし本当に神を知りたいなら、神について想像したり、推測したりするのではなく、人となられた神、父なる神に愛されたひとり子の神、イエス・キリストを見よ、イエス・キリストを知れ、と勧められます。

 1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

 この後私たちは、イエス・キリストにより、神とはいかなるお方か、神様の思いはいかなるものかを、具体的に教えられることになるのです。
 さて、今日の箇所を読み終えて、私たち確認したいことがふたつあります。一つは、神のへりくだりの愛を心に覚えて生きる者となりたいということです。
 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。世界の造り主が被造物である人間のひとりになるということ、それも救いがたい罪人である私たちに神の愛を伝えるため者となるために、人の仲間となってくださったこと。これが、どんなに凄いへりくだり、自分を低くすることであるか、分かるでしょうか。
 世間の人の眼はみな上を向いています。少しでも、人の上に立ち、有利な立場に立とうとして、努力を重ねるというのが普通でしょう。
 しかし、神のへりくだりの愛を知る私たちは逆の生き方を目指したいのです。社会で高い立場を恵まれた人は、低き立場、弱き立場にある人々の心を思い、そのような人々のために自分を用いることに力を尽くしたいのです。
 有能な人はそれを恵まれない人々に仕えるために自分の能力を、健康な人は病に苦しむ人のために自分の健康な手足を、それぞれ活用したいと思います。自分には社会的立場も、能力も、健康もそれ程ないという人は、イエス・キリストの愛をいただいて、悩む人々の仲間、友となることにつとめたく思います。
 二つ目は、私たちは律法ではなく、イエス・キリストの恵みによって生きる者とされたことを喜ぶということです。
 アウグスチヌスという人が言っています。「律法は恐れを与えても人を助けず、命令しても癒さず、弱点を指摘してもそれを取り去らない。ただ、恵みとまことをもって罪人を助け、癒し、弱点を取り去るイエス・キリストの準備をするためのものである。」
 もし、聖書全体が「殺すな。盗むな。姦淫するな。偽りを言ってはならない。貪ってはいけない。」こんな律法ばかりだったとしたら、どうでしょう。こうした点において、心の中のきよさまで求める神の命令で満ちていたとしたら、どうでしょう。
 まさに、私たちは神を恐れるばかり、弱点を指摘されても自力では解決できず、思い悩むことしかできなかったでしょう。しかし、イエス・キリストの十字架の恵みは、私たちの心から恐れを消し、神が罪人をいかに愛したもうか教えてくれました。
 私たちの罪を赦し、心を癒し、神の真理に立って生きる思いと、力とを与えることのできるイエス・キリストの恵み。この尊い恵みによって生きる者とされたことを喜んで日々歩みたく思います。今日の聖句です。

 詩篇119:88「あなたの恵みによって、私を生かしてください。私はあなたの御口のさとしを守ります。」

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