神の子どもとされる特権


ヨハネの福音書1章6~13節
1:6 神から遣わされたヨハネという人が現われた。
1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
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 新約聖書に登場する四つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。イエス・キリストの生涯を描くこれら福音書のうち、他の福音書に無いものを補い、広く全世界の人に向けて救い主を知ってもらいたいと願って書かれたヨハネの福音書は、全福音書の完成と言われます。

 その福音書において、イエス・キリストは、先ず「ことば」と紹介されました。神のみこころを伝える「ことば」、神のみこころを実現する「ことば」という意味です。
 先回は、この「ことば」イエス・キリストが、天地創造より前に存在しておられたこと、父なる神とともにいて、愛の交わりをしておられたこと、キリストご自身神であること、この世界の全てのものは、キリストによって造られたことを確認しました。
 マタイとルカは、イエス様誕生から筆を起こし、マルコはイエス様の宣教活動から書き始めたのに対し、ヨハネはこの世界の初めからイエス様のことを語りだす。永遠的、天上的な福音書とされるヨハネの、面目躍如とも言うべき冒頭の五節でした。
 さて、今日は、神がことばなるキリストをこの世界に送るにあたり、ひとりの証し人、紹介者を遣わしたという六節からのくだりです。

 1:6、7「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。」

 三月にブラジル長老教会を訪問した時、愛知県の知多半島でブラジル人教会の牧師をしているイナワシロ・ジョーゴ兄弟が行く先々で、私と、同行した小林先生を紹介してくださいました。
 イナワシロという名前からわかるとおり、ジョーゴ兄弟のお祖父さんは福島県生まれの日本人。そのイナワシロさんがブラジルに渡り、ブラジルの女性と結婚し、定住。ジョーゴ兄弟は日系三世ということになります。
 私たちの事も、日本の事も知り、ブラジル長老教会にも沢山の知り合いがいるイナワシロ・ジョーゴ兄弟が行く所、行く所で紹介役を引き受けてくださったので、本当にスムーズにブラジルの兄弟姉妹と交わりを持つことが出来たと思います。
 神も同じことをされました。神の御子、ことばであるキリストが人となるにあたり、一人の証し人、つまり紹介者をお立てになったというのです。それがヨハネでした。
 ヨハネはこの福音書の著者と同名ですが、人物は異なります。こちらは洗礼者ヨハネとかバプテスマのヨハネとして登場するヨハネで、この人が光について、つまりイエス・キリストについて証し、紹介するために現れた、というのです。
 このヨハネ。らくだの皮をマントにし、いなごや野生の蜜を常食にする荒野の人で、イエス・キリストが登場する前、罪の悔い改めとそのための洗礼、バプテスマを説いて、その影響はユダヤ全国に及ぶという大活躍をした預言者でした。イエス様も「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより優れた人はいない。」(マタイ11:11)と惜しみなく賞賛しています。
 しかし、そんなヨハネもイエス・キリストについて聞かれると、「私はあの方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません。私なんか、水で洗礼、バプテスマを授けているだけですが、あの方は人の心をきよめる聖霊のバプテスマを施すことが出来る方だからです。」(マタイ3:11)と言い、ひれ伏したのです。
 そして、「あの方はさかんになり、私は衰えねばなりません。」と語って、紹介の仕事が終わると、人々の前から去ってゆきました。
 イエス・キリストを真打とするなら、ヨハネは前座。イエス・キリストを真昼の太陽になぞらえれば、ヨハネは曙の光。前座は真打の登場に向けて、曙の光は真昼の太陽に向けて人々の心を備えさせるのが仕事ですから、それが終われば退場となります。

 1:8「彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」

 何もバプテスマのヨハネに限りません。イエス・キリストを救い主と信じ、心の罪赦され、きよめていただいた者はすべて、キリストを人々に証しし、紹介するため生かされているのではないでしょうか?
 18世紀初めの江戸時代。日本のキリスト教禁令、鎖国政策は世界に知れ渡っていました。しかし、それを知った上で日本宣教を志したのがイタリア人宣教師シドッチ。
 シドッチは死を覚悟して日本に渡りましたが、やがて捕らえられ、神に祈ることのみ許された状態でキリシタン屋敷に幽閉されます。宣教活動こそ出来ませんでしたが、その学識と人徳は、キリスト教反対の立場に立つ日本人役人にも大きな影響を与えました。
 ある日、冬にもかかわらず薄い夏服を着ていたシドッチを可哀想に思い、一人の役人が着物を差し出そうとすると、それを断り、彼はこう言ったそうです。
 「私が日本に来たのは、皆様にイエス・キリストを知っていただくため。それなのに、日本に来てからと言うもの、私は皆様に迷惑をかけてばかりで、大変心苦しく思っています。その上、着物までもらうわけには参りません。それと、冬になり、毎日雪が降る寒さの中、多くの人が私を警護してくださるのが誠に申し訳ない。昼間はともかく、夜は私を鎖で縛って、皆様はゆっくりお休みください。私は絶対に逃げたりはしませんから」と。
 これを聞いて、キリスト教とは凄いものだと感心した役人の何人かが、密かにキリスト教に改心し、シドッチに洗礼を願ったとも言われます。
 シドッチの正式の名前はジョン・バッチスタ・フォン・シドッチ。ジョンはヨハネ、バッチスタはバプテスマで洗礼者のこと。つまり洗礼者のヨハネ、シドッチさんでした。
 シドッチの例は特別かもしれません。しかし、私たちも自分の名を上げるためでなく、自分のような罪人を救い、きよめ、尊い生き方をなす力を与えてくださるイエス・キリスト、この救い主の善さ、すばらしさを人々に証しすることを生涯の使命に出来たらと思わされます。
 「~さんは、ただイエス・キリストを証しするために生きたのである。」と言われる人生。「私のようなものが、イエス・キリストを証しすることが出来て、嬉しく思います。それが喜びです。」と告白できる人生。そんな人生を目指したいのです。
 ところで、洗礼者ヨハネが現れ、人々に証しする前から、神のことばであるキリストは、真の光として世界中を照らしておられた、と聖書は語ります。

 1:9,10「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」

 光の源、太陽は世界中のすべての人に、民族、社会的立場、貧富などの差別なく、光と熱をもたらしています。同じく、イエス・キリストも世の初めから、生き物にいのちと健康と食物を恵み、人間にはそれに加えて道徳心、良心を与え、さらに世界という環境を支えてこられました。
 太陽の光、水に空気。豊かな食物。人間だけが持つ知恵や理性、そして良心も。しかし、恩知らずの人間は、恵みには関心を持ち、それを手に入れても、恵みの与え手である神ご自身にはてんで無関心、感謝のかの字もなく過ごしてきたのです。むしろ、造られた物を拝むという偶像崇拝で、神の御心を痛ませてきました。
 そして、そんな人間の心の闇は、イエス・キリストがご自分の国、ユダヤにお生まれになった時、頂点に達したのです。

 1:11「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」

 あのアブラハム以来、ユダヤは特別な民族、神の選民でした。彼らは神のことばである聖書を持ち、預言者に教えられ、神殿を建てることを許され、神礼拝を使命として生かされてきた民だったのです。
 キリストがそのご自分の国ユダヤに来られるという、帰ってくると言う。普通なら、人々の大歓迎を受けるはずでしょう。しかし、そうではありませんでした。
 故郷の人からは尊敬されない。民衆はキリストの奇跡や病気の癒しは求めても、罪の問題には無関心。宗教的指導者はねたみと反感を向け、ついには十字架につけろと言い出す始末。めちゃくちゃな暗黒裁判で、キリストは死に追いやられたのです。
 小村寿太郎という人がいます。悲劇の外交官と言われる人です。明治時代、日本が大国ロシアと戦争をし、多大の犠牲を払いながらも薄氷の勝利、引き分けに近いぎりぎりの勝利を手にしたとされる日露戦争の時、外務大臣を務めていました。
 戦後、アメリカのルーズベルト大統領の仲介のもと、ポーツマスで条約を結んだ小村は、「日本に帰ったら、自分は同胞に恨まれ、殺されるかもしれない。」と覚悟していたそうです。
 何故か、大きな犠牲を払った日本人は莫大な賠償をロシアから得られると信じ、期待していましたが、実際は引き分けに近い勝利で、ロシア側は負けた等とは微塵も思っておらず、もし、仮に条約締結が出来ず、戦いが続けば、もはや戦力ゼロの状況にある日本の滅亡は必至と、小村は判断していたからです。
 後世の歴史家はみな小村の判断は正しかった、その行動は正しかったと言います。しかし、その当時、小村が母国日本に帰ると、待っていたのは条約を不満とする同胞からの非難、中傷、暴力、脅かしの嵐でした。
 人間は真理を受け入れない、受け入れたがらない存在だということです。口では、「真理が大切」と言いながら、実は、自分が見たくないものに光を当てる真理を嫌い、真理を排除しようとする存在なのです。
 イエス・キリストがご自分の国ユダヤに生まれた時にも、同じことが起こりました。
 光には幾つかの役割がありますが、その一つは、私たち人間に暗闇を知らせることです。光あるがために、私たちは自分の内側の闇を知ります。闇だけだったら、闇が闇であることを理解できないでしょう。イエス・キリストが来られ、キリストの光に照らされて、私たちは自分の心の闇、罪を知るのです。
 私たちの偽善はキリストの光によって化けの皮をはがされ、自分がいかに短気で、人を見下し、ねたみ深い者であるかを知り、うろたえます。
 「警察のご厄介になった事もないし、隣近所では良い人と言われているし、自分もまあまあの人間か」といい気になっていた者が、キリストの光に照らされて、自分がいかに自分のことしか考えていないか、人を顧みること甚だ少ない、冷たい心の持ち主であるかを教えられ、驚くのです。
 そして、自己中心の罪人である人間は、光なるキリストよりも闇を愛し、キリストを受け入れないと、聖書は教えています。つまり、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と言うのは、ユダヤ人だけでなく、すべて人間全体の問題なのです。
 しかし、キリストの光に照らし出され、本当に自分の罪の正体を知り、心砕かれた人は、キリストを求め、近づき、頼るようになると聖書は語ります。
 これは、九十歳台でこの福音書を書いたヨハネ、様々な苦難を経験しながら、自分の心の闇を見つめ続けたヨハネの心のより所となったことば、神のお約束でした。

 1:12,13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

 宗教改革者のメランヒトンは、このことばを口にしながら、安らかに世を去ったと言われます。ヨハネ3:16とともにヨハネ福音書の金言と言われる、このことば、神のお約束には、死の恐れを消し去り、大いなる平安をもたらす力があるということです。
 私たちが神の子どもとされるための条件は、たったひとつ。イエス・キリストを受け入れること、イエス・キリストを救いの主として信じることのみです。
 民族、社会的地位、財産、仕事、能力、年齢、生まれた家、これまでどんな人生を歩んできたのか等一切関係なく、ただイエス・キリストを信じれば神の子とされるという恵みのお約束です。
 イエス・キリストは主の祈りを教えられた時、天地万物の造り主の神に対して、「天の父よ」と呼びかけてよい、そう心からの親しみを込めて呼びかけよ、と勧めました。
 神の子の特権とは、全能で、永遠で、聖なる神を私の父であると認め、喜ぶことです。父親が愛する子どものことをすべて知っているように、神が私の個人的な喜びも、苦しみや悩みも知っていてくださるので平安だと言うことです。
 父の神が私のあらゆる必要と行くべき最善の道を知り、私の祝福、幸福、喜びと繁栄を、心から望み、そのために共に人生を歩んでくださると言うことなのです。
 果たして、皆様は自分が神の子とされたことを特権、本当なら自分のような罪人が受けるに値しない特別な栄誉と感じているでしょうか。

 それを、この世において受ける様々な栄誉の中でも、最高のものと思っているでしょうか。神の子とされたことを喜ぶことと、それにふさわしい生き方を求めること、考えることが、生活の中心にあるでしょうか。
 私自身が神から受けた特権のベストスリーは、妻と結婚できたこと、教会に仕える牧師の仕事を頂いたこと、そして、何よりも、神の子とされたことでしょうか。
 結婚しているかいないか、どんな仕事をしているか、どんな賜物に恵まれているか、健康か病気か、何人か、それら一切を超えて、神の子とされたことを最高の喜びとし、それにふさわしく生きること、それが私たちの人生であることを覚えたいのです。

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