だれが一番偉いのか?

ルカ伝9章46-55節

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2011y/111030.htm

 今日は、十二弟子の中で繰り返し行われた〈議論〉について触れた記事を見てみたいと思います。イエスの教えを直接受けた弟子ですから、何か高尚な議論かと期待するところですが、〈自分たちの中で、だれが一番偉いかという〉かなり人間臭い〈議論〉でした。このようなことから、弟子たちが本当に普通の人たちであったことが分かるのです。だからと言って、この記事の重要性が貶められるということではありません。イエスの対応が挿入されることによって、この〈議論〉は、人生論的に本質的な問題を取り扱い、人生の価値を支える基盤を問うものとなっているのです。また、それは、先週も少し触れましたが、究極的には「自分とは何ものか?」を問うアイデンティティにも関わるものなのです。

 室町時代の剣豪であった『塚原卜伝』の武者修行の旅を描いたテレビ時代劇の中で、こんな台詞が出て来ました。「人は何のために生まれたかを知らずして生まれ、また何処に行くのかを知らずして死んでいく。」これは、アイデンティティを見失ってさ迷う人間の姿をよく表現していると思います。アイデンティティを喪失しやすい状況は、現代も室町時代末期とあまり変わらないと思います。すでに述べたように、福音書によると、イエスの弟子たちは、〈自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論〉を繰り返していました。この繰り返しが意味するところは、弟子たち自身のアイデンティティの維持のために絶えずそれが必要であったということです。今日は、まずこのような弟子たちの心理の問題点を指摘したいと思います。さらに、イエスが教えた、これとは異質な新しい人生原理(生き方)についても触れたいと思います。

(1)比較級の人生論

弟子たちの関心事

さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
               ルカ9:46

 まず、ルカ946をご覧ください。〈だれが一番偉いかという議論〉が行われたのは、「ペテロの信仰告白」や「変貌の山」(ヘルモン山)の出来事があった地方の町〈ピリポ・カイザリア〉から南下して〈カペナウム〉に戻る途中のことです(マルコ933)。〈だれが一番偉いか〉の〈偉い〉(メガス)とは、「大きい」という意味です。現在、ハードディスクの容量に「メガ」という単位が「百万倍」(キロ(千)の千倍)という意味で使われていますが、その語源となっている言葉です。ちなみに、「メガ」の1000倍(十億倍)の「ギガ」は「巨人」(ギガス)、ギガの1000倍(1兆倍)の「テラ」は「怪物」(テラス)を意味するギリシャ語を語源としています。人物の評価をするには、いろいろな意味で「メガス」かどうかが問われたのです。

 〈だれが一番偉いかという議論〉は、他の弟子と自分を比較していることが前提となっています。なぜ、このような「比較」にこだわり続けたのでしょうか?それは、自分のアイデンティティを見出せるのは、他者との比較によると思っていたからではないでしょうか。比較によって自分がより〈偉い〉となれば、自分の存在価値を確認できて安心できますし、他のだれかが自分より〈偉い〉となれば、その人との関係を維持する中で自分のアイデンティティを見出せる可能性が開かれるからです。

その典型としてのパウロ

また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。
              ガラテヤ1:14

 新約聖書の中で最も顕著に、他者との比較で自分のアイデンティティを見出すのに成功したのはパウロだと思われます。ガラテヤ114は、パウロのそのような告白なのです。当時のユダヤ社会では、〈ユダヤ教に進んで(いる)〉ことは社会的に評価されるために必要な条件であり、大変有利な立場にあることでした。この〈進んで(いる)(プロコプトー)という動詞は、「(道なきところに道を)切り開いて進む」という意味なのです。しかも、〈人一倍熱心〉(ゼーローテース)は、固有名詞として当時の過激派であった「熱心党」にも用いられた言葉でした。ヴァイタリティに溢れるパウロの姿を思い浮かべる描写ですね。

 この節に〈比べ、はるかに〉とあるように、他者の上にある自分をパウロは意識していたのです。神に選ばれたユダヤ民族の中で、さらに他者を凌ぐエリート中のエリート、そのような意識がかつてのパウロの心を支えていたと、私は思います。それが、前半生のパウロのアイデンティティであったと思います。しかし、このようなアイデンティティを維持するのは、大変なことであったと思います。〈多くの者たちに比べ、はるかに … 進んでおり、 人一倍熱心 …〉でなければ、それはいつか崩壊するという不安があります。そのため、パウロはかなり無理をしたようです。何の罪もない善良なユダヤ人キリスト者たちを迫害するという暴挙に出たのです。実は、彼の師匠であった〈ガマリエル〉は、「律法の美」と呼ばれるほど高名なラビでしたが、ユダヤ人キリスト者を迫害せずに神に任せよと進言した、大変に温和な人物であったのです。しかし、パウロは師匠のこの指示を無視して、迫害の首謀者となったのです。このような迫害に彼を駆り立てたものとは、キリスト者を異端者と見なす敵意であったことは明白ですが、他の理由として、自我を維持するために、他者より先に進んでいることに必死であったということではないでしょうか?こうして、彼は手を出してはいけない領域にまで入り込んでしまったのです。

(2)比較級の人生論の結末

他者との競争に勝ち抜く精神

私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。
              テトス3:3

 当時のパウロの心の状況を正直に告白している箇所があります。テトス33をご覧ください。〈悪意とねたみの中で生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした〉というところが印象的ですね。これは、彼が他者との競争や比較の中で、何とか事故のアイデンティティを獲得し維持しようともがいていた過程で経験した感情であると思われます。こうして、必死の思いで頑張った結果、パウロは自分のアイデンティティの獲得し、さらに維持することに成功したかに見えました。

 しかし、それは30代の半ばまでのことでした。それが砂上の楼閣のように崩れる経験をするのです。それは、キリストとの出会いによって引き起こされ、それまでの人生を築いてきた人生原理(生き方)を全面的に見直すように導かれたのです。

その結末

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。… 私はその罪人のかしらです。 Ⅰテモテ1:13-15

 パウロ書簡の中から、過去の生き方についての告白をもう一つ見てみましょう。Ⅰテモテ113-15をご覧ください。13節には〈迫害する者〉(ディオークテース)とありますが、これは「追求する者」という意味で、敵意をもって追求すれば「迫害者」ですが、良い意味では「熱心に追い求める」となります。この説では、悪い意味で使われていることは明白ですが、良い意味でもパウロが「熱心な努力家」であったことは間違いないと思います。彼のその熱心さが、〈罪人のかしら〉と呼ぶほどの非情なまでの経歴を辿らせたと言えます。

 この〈罪人のかしら〉(プロートス)の〈かしら〉とは、第一人者(プロートス)という意味です。立場においても時間においても、他に先行していることを指す言葉です。それは、〈罪〉が重いということと同時に、〈罪人〉のあり方の「典型」とか「本質」とかいう意味合いがあります。すなわち、他者との比較で自分のアイデンティティを見出そうとしたパウロの生き方そのものが、〈罪人〉のあり方なのです。そして、彼の場合、最大限の過激さと非情さをもってそうしたので、〈罪人のかしら〉なのです。

(3)更新されるアイデンティティ

人の心理を知るキリスト

しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、 … ルカ9:47

 前半生のパウロのこのような心理は、実は福音書で描かれるイエスの弟子たちと同じなのです。表面的には(物理的には)、〈わたしについて来なさい〉(マタイ419)というイエスの命令に従っていましたが、〈自分を捨て、自分の十字架を負()〉(マタイ1624)という、古い人生原理(アイデンティティ形成など)を放棄する霊的・心理的な変化にまで至っていなかったのです。彼らの外側はイエスに従っていながら、内面の内奥にある心理構造は古い人生原理に従ったままだったのです。ルカ947をご覧ください。〈彼らの心の中の(その)考え〉とありますが、〈考え〉という単語、は46節の〈だれが一番偉いかという議論〉の〈議論〉(ディアロギスモス)と同じ言葉なのです。しかも、〈知っておられて〉の時制は、イエスがその時に初めて知ったのではなくて、以前からずっと洞察しておられたということを示しています。

 イエスは、弟子たちが何を最も強い動機として生きていたのか、アイデンティティを築き維持するのに、何を基礎にしようていたのかを、ちゃんと見抜いておられたのです。ですから、〈だれが一番偉いかという議論〉に弟子たちが浸る理由も分かっておられました。イエス様の弟子養成の方針は、問題の本質を指摘しながら、そこが変わることを目指すというものであったようです。枝葉のところで小言を言って叱っても、問題は繰り返されます。しかし、本質的なところがほんの少し修正されるだけで、その後の人生行程はガラリと変わるのです。

しかしイエスは、 … ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、 彼らに言われた。…  ルカ9:47-48

 ところが、本質的な部分に触れられると、誰でも怒りの感情が起こるものです。なぜなら、「それが自分だ」と思っているほどの心の内奥の問題点が指摘されるわけですから、自分の人生や自分自身が否定された、と感じるからです。ですから、指摘される問題が本質的であればあるほど、怒りをもって拒絶されることが多いのです。自分は本当に変わりたいのだと思う人でなければ、このよう場合に聞く耳を持たないのです。しかし、人が本当に変わるためには、どうしても避けて通ることができない関門なのです。それは、それまでの人生原理を廃止して、新しい人生原理に生まれ変わることなのです。

 と同時に、それを指摘すると関係が破綻するかも知れないというリスクもありますから、極めて微妙な問題なのです。しかし、イエスのアプローチは大変に巧みなのです。〈ひとりの子どもを取り、自分のそばに立たせ(た)〉とあります。〈子ども〉(パイディオン)とは、生まれたての乳児から幼児までを指す言葉です。〈子ども〉を教材に利用したことは、和みのある雰囲気を作り出したと思います。こういう本質的な部分に立ち入る話をするときには、雰囲気作りが極めて重要であることを、カウンセラーとしても一流であられたイエスはちゃんと心得ておられたのです。

人生原理の更新

だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。             ルカ9:48

 最後に、イエスが示された「新しい人生原理」について見てみましょう。ルカ948をご覧ください。イエスは、〈このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる〉ことの意義を教えておられるのです。〈受け入れる〉とは、「(相手の存在の価値を)認める」ことです。当時のユダヤ社会では十三歳で大人になるとみなされ、ユダヤ教会で一人前の男性として名簿に登録されたのです。ところが、キリストは〈子どもを … 受け入れる〉ことを要請されたのです。これは何を意味するのでしょうか?

 十三歳未満の〈子ども〉は、一人前の男として認めてもらえず、また、社会的に何らかの役割を果たすこともできませんでした。大人になってもこうだったら、深刻な問題ですね。しかし、〈子ども〉は、大人とは異なるアイデンティティを持っているから、大丈夫なのです。それは、親子関係の中で養われるものであって、自分は親に愛され、受け入れられている、そして、自分も親のような大人になりたい、という人格的な繋がりから来るアイデンティティなのです。人間という存在の根源であり救済者でもある御方にまで遡るという意味で、このアイデンティティは、根源的なものと言えるでしょう。イエスは、〈子ども〉に、神との人格的な関係に生きる人間のひな型を見ておられたのではないでしょうか?ですから、〈子どもを受け入れる〉ということは、〈子ども〉の人生原理である、神との人格的な繋がりの中で生きること、そして、その中に自分のアイデンティティの基盤があることを信じることを意味します。

 48節を再度ご覧ください。〈子どもを受け入れる〉=〈(キリスト)を受け入れる〉=〈(父なる神)を受け入れる〉という関係になっていることが分かります。すなわち、〈子どもを受け入れる〉(子どもを評価する)とは、〈子ども〉の人生原理を最も価値あるものと見なすことであり、それは、キリストと父なる神との人格的関係を最重要なものと見なすことと同義なのです。

…あなたがたすべての中で一番小さい者(こそ)が一番偉いのです。 ルカ9:48

 そして、48節の最後の部分が教えの結論となっています。〈小さい者〉(ミクロス)とは、現在長さの単位として、1mmの千分の一という意味で使用されています。現在の尺度では目に見えないほどの小ささのことです。当時の言葉として、具体的にどれほどの小ささを言うのかは分かりませんが、〈あなたがたすべての中で一番小さい者〉とはどんな人を意味するのでしょうか?それは、〈子ども〉で表現された生き方を、実際に自分の根本的な人生原理として生きている人ということではないでしょうか。このような者こそが〈偉い〉(メガス)とイエスは教えられたのです。

 新改訳では〈一番偉い〉(比較級)となっていますが、原文ではただ〈偉い〉となっているだけです。ですから、他者と比較して〈偉い〉とする古い原理とは無関係であることが分かります。あなたはどうでしょうか?キリストに表面的に従いながらも、心の内奥においては比較によって自分を量る古い原理に従う段階を離れ、キリストとのあなた固有の関係を主軸として生きる新しい〈いのち〉に従う用意はできておられるでしょうか?