十字架のことば(福音)の力 

 

●「十字架のことば(福音)は、滅びに至る人々には、愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。

 あなたは、この聖書の一節をお読みになられてどのようにお感じになられるでしょうか。このみ言葉は、使徒であり伝道者であったパウロが、ギリシャのコリントという街の信者に書き送った手紙の中の一節です。コリント(アテネのすぐ近くにあった街)はギリシャの一大都市でありました。ギリシャは当時の世界における文化の中心地であり、そこに住む人々はこの世の哲学的な知識を重んじるあまり、キリストの十字架の福音のメッセージを浅薄この上もない愚かなものとして、軽蔑していたのです。この世の知恵によって、神の奥義であるキリストの十字架の福音を理解することはできないのです。しかし、パウロは、この十字架のことばにこそ、「神の力」があると大胆に力説しました。

 この一節に、「滅びに至る人々」と、「救いを受ける私たち」という二種類の人々が出て来ます。、「滅びに至る人々」とは、キリストの十字架の福音(良き訪れ)を拒んで、死後において永遠の滅び(地獄)に入る人々のことです。「救いを受ける私たち」とは、パウロを含めて、イエスがキリスト(メシヤ:救い主)であることを認め、そのイエスが全人類の罪の身代わりに十字架で死なれたことを信じたクリスチャンのことです。クリスチャンとは、キリストが自分の身代わりに十字架で死んでくださり、よみがえられたことを信じて永遠のいのちを得て、罪と永遠のさばきから救われた人たちです。真のクリスチャンたちは、救われた確信をもっており、確かな希望をもって天国に向かって旅をしている人たちです。

●「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1:21~25)。

 今日も、当時と少しも変っていません。自ら「クリスチャン」であると自称しながら、キリストの十字架の福音を知らない人たちが多くいます。キリストを信じて罪が赦されたという確信も喜び持たない人たちもいます。また、キリストの人格や教訓や模範は説くけれども、キリストの「十字架の贖い(救い)」や「身代わりの死」を全く語らない教会もあるようであります。しかし、パウロは、そうではありませんでした。「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」と言っています。人々から愚かと思われていた、「十字架につけられたキリスト」による救いを宣べ伝えました。

 パウロは、この世の知恵を重んじたコリント人に向かって、「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」(Ⅰコリント2:2) と、大胆に語っています。現代においても、真のクリスチャンは人々が信じても信じなくても、受け入れても受け入れなくても、どんなに軽蔑され愚か者と呼ばれても「十字架につけられたキリスト」こそが神の力であり、そこにこそ神の救いがあるのです。甘言をもって人々を誘い、耳障りの良いことばを語っても、そのメッセージの根底に十字架がなければ、それは、純福音ではありません。

●「みことば(十字架の福音)を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。 」(Ⅱテモテへの手紙4:1~5)。

 この手紙は、パウロが殉教直前に若い伝道者テモテに宛てて書かれたものです。終わりの時代には、耳障りの良い話、すなわち、聖書を開いても罪も神のさばきも語らない、そして、十字架と復活のないキリストが語られるようになるので、時が良くても悪くても、「みことば(十字架の福音)を宣べ伝えなさい。」と教訓と警告を与えたのです。パウロは、もう間もなくこの世を去って主のみもとに行こうとしていた時に、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と、きっぱりと言い切ることが出来ました。

 刻々と終末が近づいている昨今、世界中に「われこそは、世界(人類)を救う救世主である!」と豪語する偽キリストたちが続々と現われています。しかし、そこには十字架がないので、偽者であることをすぐ見抜くことができます。イエス・キリストは、約2000年前、旧約聖書が預言されていたように救い主として来られ、そして、その生涯の最期に十字架に架かられ、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分でわからないのです。」と、とりなしの祈りをされ、息を引き取られる前には、「完了した」(ヨハネ19:30)と宣告されました。

●「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。」(ローマ人への手紙1:16)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。

●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。


 今の時代の真のクリスチャンたちも、世に迎合することなく、世と妥協せず、十字架の福音を恥じることなく、まっすぐにキリストの十字架(と復活)の福音を語らなければならないことを聖書から教えられるのです。もし、あなたが、まだイエス・キリストをご自分の救い主と信じておられないならば、永遠のいのちをもっていないことになります。どうか、ご自分の今までの神に背を向けた罪の生活を悔い改め、キリストを信じて救われて下さいますように心からお勧めいたします。 

 

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