日本人とキリスト教

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好感と反感

  現在、一般日本人の間には、キリスト教に対する好感と反感が共存しています。社会的な感覚としても個々人の感覚としても、同じようにいうことができます。たとえ、キリスト教に対する好感がかなり高いものであっても、反感がそれを上回っているならば、社会としてキリスト教を受け入れるのも、個人としてクリスチャンになるのも、はなはだ困難なことであるはずです。

好感

 キリスト教に対する好感は、主にここ150年ほどの日本におけるキリスト教活動の成果といえるでし ょう。教会の活動はもとより、学校や病院などの社会事業、あるいは教育や人権に対する貢献、さらには慈善事業なども、キリスト教に対する評価と好感度を高めたことでしょう。あるいは西洋諸国、いわゆるキリ スト教諸国の進んだ文明への憧れが、キリスト教への好感度の増幅をもたらしたのだと思われます。

反感

いっぽう、キリスト教への反感は、好感に比べるともっと根深く、日本の歴史あるいは文化と深くつながっていると思われます。文化が歴史を作り、歴史が文化を創ります。キリスト教に対する国民的感覚あるいは感情も、日本文化の一部として、歴史によって作られ歴史を作り続けています。

カトリック伝来

 日本人のキリスト教に対する感覚を歴史的に調べると、驚くような事実に気づきます。まず、16世紀中ごろにカトリックが伝来したときの、日本人の態度です。(ザビエルの来日は1549年)最初に薩摩に上陸したザビエルは、わずか数日の滞在で2000~3000人の改宗者を得たと言われています(伝承の違いにより、1年間の滞在で100人の受洗とも言われている)。これを100分の1と大胆に値引きしても、20~30人です。考えられない速さです。ザビエルの言葉も不十分でしたから、人々はカトリックの教えをよく理解して受け入れたのではなかったでしょう。ただ、天地創造の神を信じたのかマリヤを信じたのか、それともただ、新しい宗教がよさそうだからそれを受け入れただけなのかは不明です。そしてその後わずか半世紀、1600年には日本全土におよそ30万人の信徒を擁するほどに膨れ、1614年の統計では聖職者150名、信徒数65万以上、公家2家、大名55名となっています。1600年当時の日本の総人口は1200万人を少し超えるくらい、現代日本の10分の1でしたから、これは「ものすごい」数です。

 たぶん、このころのカトリックの信仰は、まさしく「信仰による救い」に近かったのではないでしょうか。少なくても「信仰のみ」を主張する「改革派的聖書信仰」が実践した、聖書の理解を前提とした救い、すなわち「理解という行いのキリスト教」とは相当違うと思われます。ともあれ、当時の日本人は、一般庶民から武将や大名たちにいたるまで、前衛的で善いものは何でも受け入れようという気質に満ちていたようです。ただし、この善いものというのは「善悪」の善いではなく、自分にとって都合の善いもの、益となるものという意味です。特に当初カトリックを優遇した信長などは新しがり屋で、おおいに興味をもって取り入れようとしたのです。仏教の僧侶たちを除いた日本人は、このころ、キリスト教に対してほとんど反感を持っていなかったことが明白です。

開国

 徳川250年が終わり、カトリック伝来から300年、日本人は再びキリスト教に出会うことになりましたが、このときの日本人のキリスト教に対する感覚は、300年前とはまったく異なっていました。それから、およそ150年で現代になるのですが、このあいだ、キリスト教は信教の自由のもと、戦時中のわずかな期間を除いてはほとんど妨げられることなく、自由に活動できました。万を越えると思われる宣教師たちも日本にやってきたのですが、そして日本の総人口も1億2000万人を超えるほどですが、クリスチャンの数は100万強です。国民の1%にも満たない有様です。しかもこの中にはカトリックはもちろん、聖書を神の言葉と信じない「クリスチャン」、キリストが神の子であることを信じない「クリスチャン」、それからさらに極端な異端まで含まれているのです。いったい何がこのような変化をもたらしたのでしょう。カトリックの伝来から、明治の開国までの300年の間に、日本人の心にそのような大きな変化をもたらす何かが起こったのです。

国家的弾圧

 カトリックがすさまじい勢いで広がり始めたとき、為政者たちは早くも弾圧を始めました。単に少数の者の迫害でも、地域的な迫害でもなく、これは為政者による国家的な弾圧でした。この弾圧には主に二つの要素があったと考えられます。

権力のバランス

 信長と秀吉は、すぐにカトリックに対する好意的な態度を改めました。なにが直接の原因であるかは不明ですが、たぶん、総じて言えば為政者としての嗅覚だと思います。当時の日本は、天皇を中心とした朝廷と、武家の二つの権力の微妙なバランスの上に成り立っていました。歴史上、天皇が実権を持ったことはわずかしかなく、ほとんどは象徴的な権力ではありましたが、将軍をはじめとする武家は、形式上は朝廷から権威を授かったという名のもとに、実権を振るっていたのです(日本の歴史を通して天皇の象徴的権力という構図はあまり変わっていません)。このバランスの上に、絶対の権力を持つ至上の神が加わると、事態は大変複雑になり、微妙なバランスが危険にさらされます。それは為政者たちにはすぐにわかることでした。特に、極楽浄土を信じていた一向一揆の農民に手を焼いた経験がある信長には、カトリックのパライソ(天国)の信仰のおそろしさが、はっきりと見えたはずです。突然の死を迎えた信長の後を継いだ秀吉は1587年にキリシタン追放令を出しています。

植民地主義国家への防衛

 もうひとつの、そしてさらに厄介で深刻な問題が、明らかになりました。1596年12月、土佐沖で難破したスペイン船サン・フェリペ号の船員が、自分たちの王はまず宣教師たちを送り人々を信仰によって懐柔してから、その国を植民地化するのだと説明したというのです。その報告がまだ幼かった秀頼と、5大老の一人であった家康に届いたために、26聖人の処刑につながったと言われています。(秀吉はまだ生きていましたが、どこまで彼が関わっていたかは不明)この船員が語ったという話が、事実であったかどうかは定かではありませんが、当時の為政者がポルトガルやスペインに対して、疑いの目を向け始めていたことは確かのようです。(船員の話は日本側の記録にはなく、カトリック側が26聖人の殉教の理由を調査しているとき、証言としてでてきたものです)さらに家康は、4年後に起こったオランダ船の漂着によって、イギリス人のウイリアム・アダムス(三浦按針)やオランダ人ヤン・ヨーステン(東京駅の八重洲口、八重洲通りは彼の名からとられた)を抱えることとなり、彼らからキリスト教にもカトリックとプロテスタントがあり、カトリック国のスペインやポルトガルが世界中で推進していた、暴虐非道な植民地政策を知ることになりました。当時、スペインやポルトガルとイギリスやオランダは敵対関係にあり、日本にもその争いが持ち込まれていたのです。当時のカトリック国の植民地政策に気づいた家康は、次第にスペインやポルトガルに対する不審を強め、ついに外国取引に厳しい制限を設け、カトリックの信仰をもたらさない中国や朝鮮、そしてオランダなどわずかな国々とだけ通商をゆるしました。そしてキリスト教の布教をなおいっそう厳しく禁じ、弾圧を激しくすることになったのです。

キリシタンの迫害

 秀吉に始まるキリシタンの迫害はとても厳しく、残忍なものでした。キリスト教が広がることを防ぐ見せしめの意味があったために、ことさら過酷になったのです。それらの主な点を列挙すると次のようなものがあります。

① 刑罰  刑罰には入牢、財産没収、死刑、他者にも刑が及ぶ連座制。キリスト教信仰をすてても、代々 に及ぶ監視。(男子6代まで女子3代まで)

② 報奨金 キリシタンを密告したものに対して与えられる。宣教師、指導的立場の信徒、一般の信徒と金額は異なったが、非常に高価でしかもだんだん高額になった。

③ 宗門改め すべての人間の宗教を調査して記録することによって、キリシタンがいないか確認し、これ以上増えないようにした。そのために、宗門改め帳や宗門改め人別帳ができた。

④ 踏み絵 疑いのある者たちにキリストやマリヤの絵、あるいはレリーフを踏ませることによって、隠れ潜んでいたキリシタンたちを探し出した。

⑤ 5人組 家長5人から10人を一組とした、つまり、5家族から10家族をひとまとめにした相互監視制度。内部の者が告発した場合は、告発されたものだけに刑罰が及んだが、外部から告発された場合は、組のものすべてが連座制で罰せられた。そのために、非常に厳しい相互監視となった。

⑥ 檀家制度 すべての日本人はどこかの仏教寺の檀家とならなければいけないという定め。これによってキリシタンが出ないようにした。人々は檀家寺が発行する身分証明書がなければ、何もすることができなかった。

 この期間の過酷なキリシタン弾圧で殉教したものは全国に及び、その数は3万にとも30万人とも言わ れますが3~5万人というところが妥当と考える人が多いようです。

植民地化の危険性は実在したか

 カトリック国の植民地政策を警戒して鎖国とキリシタン迫害が行われたのですが、果たして植民地化の危険性は本当にあったのでしょうか。これは当時のポルトガル、あるいはスペインが世界で行っていたことを知れば、家康の空想であったと言うことはできません。スペインは現在のカリフォルニアから南の、ほとんどの中南米諸国を植民地としていました。その残虐非道さは筆舌に尽くしがたいものです。インカ帝国は完全に滅ぼされてしまいました。スペインが植民地にできなかった唯一の国ブラジルは、ポルトガルのものになりました。日本の近くでは、フィリピンがすでにスペインの植民地となり、スペイン王フィリップの名がつけられていました。カウンター・プロテスタント運動であるイエズス会の指導者だったフランシスコ・ザビエルや、後任者のルイス・フロイスなどは、純粋な宣教的情熱で日本の伝道を試みたようですが、ほかの修道会に属するものたちは明らかにポルトガルやスペインの手先としてきていました。そのために、ザビエルもフロイスもよく似たことをしています。彼らがバチカンに送った手紙には、日本国民の優秀さが賞賛され、これほどの民族はほかにいない、ぜひともこの民族をカトリック化すべきだと書かれていましたが、ポルトガルやスペイン王に宛てた手紙では、日本民族は野蛮で怠け者でどうしょうもないやからで、おまけに国は貧しい。このような国を植民地化しても何の益もないばかりか、大損をすることになると報告されているのです。彼らは、明らかにポルトガルやスペインの植民地政策が日本にも及ぶことを危惧し、それを阻止しようとしていたのです。さらに、カトリックの信仰を受け入れた大名たちの中には、カトリック信仰を擁護するために神社仏閣を破壊する者が現れたり、領地をポルトガル王に献上しようとする者まで現れていたのです。事実、キリシタンたちの間には、ポルトガルの来日を夢見るものが多くいたと思われます。島原の乱で原城に篭城した2万5千人及んだと言われるカトリック信徒たちは、ポルトガルの救援を待ち望みながら死んで行ったのです。

 ですから、もしもこのとき鎖国が行われず、キリシタン迫害がなかったとするならば、日本はカトリック 化し、ポルトガルかスペインの植民地となっていた可能性がとても高いのです。すると日本は彼らに植民地化された国々が味わった辛酸を味わわなければならず、私たちが今享受している繁栄も夢のまた夢に終わっていたはずです。日本のカトリック信徒が辛酸な迫害を耐えていたちょうどそのとき、中南米の国々では、カトリックの侵略による植民地化の苦境を耐えていた人々が大勢いたのです。どちらがより苦しんだかはわかりませんが、死者の数だけを取り上げるならば、日本で殺されたカトリック信徒より、カトリック信仰の人々が殺した中南米をはじめとする植民地の人々のほうが、圧倒的に多かったのです。

 なお、反キリスト教感情とは直接の関わりはありませんが、このカトリック国の植民地政策が、日本の為政者を植民地主義に駆り立てたことも、付記しておかなければなりません。特に、今回のラブソナタが韓国の教会の日本に対する働きかけとして行われているところから、この点も大切です。カトリックの宣教師たちから、世界中の国々で展開されていた植民政策について聞きおよんでいた秀吉は、日本がカトリック国の植民地政策に対抗するために、自らも植民地政策に乗り出そうとしたのです。それが秀吉による朝鮮侵略です。もちろん、秀吉自身の野望の実現と言う一面も否定できません。日本を統治した秀吉はそれだけでは満足できず、中国の支配を夢見て始めたのがこの侵略でした。その夢を具体的に遂行する大義名分が、カトリック国の植民地政策だったと思われます。直接中国に兵を出すほどの水軍力を持っていなかった秀吉は、朝鮮の先導によって中国に攻め込もうとしたのですが、朝鮮がこれに応じなかったために、まず朝鮮を統治しようとして侵略したのです。それまで、かなり友好的な関係にあった韓国と日本は、このときから、険悪な関係に入ったのです。

日本人の中に芽生え育った反キリスト教感情

 ほぼ300年にわたる、全国的な反カトリック政策は、日本人の心に拭き去ることができない反キリスト 教感情を刻み込みました。多くの庶民にとっては、理由は何であれ、キリシタンになることもキリシタンと付き合うことも、たちまち死につながる恐ろしいことでした。もともと定着性の強い稲作文化で、狭い領地に閉じ込められて互いに親密な付き合いをせざるを得ず、和の文化を大切にして生きてきた日本人が、徹底的な相互監視システムの中に入れられて、疑心暗鬼の生活を強いられたのです。以前からあった、共同体生活、温和な和の精神が、強烈な疑いと、排斥と、摘発と、告発による和となったのです。キリシタンになることは、個人的な危険を招いただけではなく、共同体全体の危険を招いたのですから、その恐れは想像を絶するものだったでしょう。キリシタンになることはまさに恐ろしい反社会的行動であり、国家的重罪となったのです。そのような精神構造が形成されたところには、容易にキリシタンに関する悪意の物語が作り上げられ、広められて行きました。キリシタンは妖術を使うとか、人肉を食らうという話がまことしやかに伝えられて、キリスト教に対する恐怖が増大され、ついには邪宗門とさえ呼ばれるようになって忌み嫌われたのです。

宗教を利用する実利主義

 もともと日本人は非常に実利主義な民族でした。「善悪」の問題よりも、自分たちに都合が善いかどうか、益になるかどうかで、物事を判断したのです。したがって、宗教のために命を賭けるという意識は、ほかの民族に比べると非常に薄いといわねばなりません。一向一揆や島原の乱は、日本人には例外的な出来事です。日本人はむしろ、宗教を利用してきたのです。宗教は自分の命を賭けるものではなく、宗教が人間の幸せのために貢献すべきもの、神も仏も、自分たちの都合のために仕えるものと理解してきたのです。それは日本の歴史を見ると明らかです。仏教が取り入れられたとき、蘇我と物部が争いましたが、ここでも実利が重んじられました。キリシタン迫害のためには仏教が最大限に利用されました。明治になると仏教が排斥されて神道が利用されました。このような宗教的ご都合主義は日本人の感情の中に深く浸み込んでいます。ですから、一般の日本人は、キリスト教が正しいか、真実かということで取捨選択をすることはまずありません。自分にとって、あるいは自分の属する社会にとって益になるかどうかで判断するのです。

和魂洋才

 明治になって日本が開国したときも、徹底した実利主義が明治の指導者たちの哲学でした。自分たちの新生国家にとって益となるものは何でも学び、取り入れようとしました。西洋の才能を益になると判断し選択したのです。しかし、魂はあくまでも日本のたましいを守り、西洋の精神、すなわちキリスト教は徹底して排除しようとしたのです。西欧諸国の様子を学んだ人々は、キリスト教がそれらの国々の精神的支柱となっていることを簡単に見抜きました。そして日本にもそのような精神的支柱となりえる宗教が必要であると考えたのです。しかし彼らは、キリスト教は選びませんでした。キリスト教は日本国にとって益にはならないと判断し、キリスト教に代わるものを探したのです。彼らは、仏教では西欧キリスト教に太刀打ちできないと見抜きました。そこで取り入れたのが、本居宣長や平田篤胤によって提唱された復古神道です。

 本居宣長の考えをさらに突き詰めた平田篤胤は、日本の精神的支えとなるのは神道であると考え、記紀(古事記と日本書紀)の神話を体系的にまとめたものを作り上げようとしました。そのとき特に参考にしたのが、まだご禁制であったキリスト教文書だったのです。明治の指導者たちは、西欧のキリスト教を排斥し、キリスト教に太刀打ちできる精神的支柱として、キリスト教を参考に作り上げた復古神道を持ち出したのです。こうして復古神道は国家神道となり、天皇が祀り上げられるようになりました。そして徳川時代に反キリスト教政策として優遇されてきた仏教は退けられ、激しい廃仏毀釈運動が起こり、多くの寺が破壊され、僧侶たちも職を追われたのです。

明治政府の対キリスト教感情

 明治の指導者たちは、キリスト教に対して複雑な感情を抱いていました。一方では、進んだ西欧を作り上 た精神的支柱として高く評価しながら、絶対に取り入れたくないと考えたのです。ですから、明治になってもキリシタン禁制は堅持され、キリシタン狩りは続けられていたのです。キリスト教に対するマイナスの判断はまた当然のものでした。当時の日本を取り巻いていた状況は、まさに危機的だったのです。その危機をもたらしていたのは、植民地主義の頂点にあった西欧キリスト教諸国でした。明治に移ろうとしていた日本に危機感を抱かせたのは、300年前のカトリック伝来のときと同じ、西欧の植民地政策だったのです。植民地政策を推し進めていた「西欧キリスト教国」の主力は、すでに、ポルトガルやスペインというカトリック国から、イギリスやオランダなどのプロテスタント諸国に変わっていたとは言え、フランスやベルギーなどのカトリック国の植民地政策も続いていました。とくにイギリスとフランスは世界中で植民地獲得を競い、いたるところで幾度も戦いを繰り返していましたが、それがアジアにも持ち込まれていました。最後まで独立を保った稀有な国タイは、このイギリスとフランスの力関係を微妙に利用しながら、それを成し遂げたのです。

 日本にとってもっとも脅威だったのはイギリスでした。明治の直前、イギリスは理不尽なアヘン戦争を起こして、事実上中国を植民地化するのに成功していました。そのイギリスが、生麦事件をきっかけに日本に対する触手をさらにのばし、薩英戦争の勃発にいたりました。このときは、イギリス艦隊の油断から薩摩を打ち破ることができずに、和平交渉にいたったため、イギリスの野望はひとまず頓挫してしまいましたが、西欧キリスト教国の植民地主義政策は日本にとって脅威であり続けました。キリシタン禁止令は諸外国の激しい抗議に遭い、やむを得ず撤回するはめになり、信教の自由を謳うようになりましたが、キリスト教に対する恐怖と疑念は、国家神道の徹底という結果を生み出したのです。

 事実、明治になってまもなく、フランスはインドシナ半島と中国の一部を植民地化していますし、比較的穏やかで、日本を植民地化する意図を持っていなかったアメリカにも、油断はできませんでした。アメリカはメキシコをだましてカリフォルニアやテキサスをはじめ、南部の広大な地域を奪い取り、南太平洋の島々を支配し、フィリッピンを奪っています。アメリカの植民地政策を恐れたハワイの王様は、日本政府に救援を求めたほどです。その手段として、王の妹を天皇家に嫁入りさせ、ハワイを日本領土とするという提案だったのですが、日本側がときいたらずと断っているのです。明治の初期に日本が植民地化されなかったのには、さまざまな幸運が重なったといえますが、中でも、日本の植民地化という意図を持っていなかったアメリカが、最初に日本に接触したという事実があったからだと思われます。こうして、日本にとってキリスト教は、崇高な理念の宗教というより、西欧植民地主義国の宗教であり続けたのです。崇高な教えと理解し始めたのは、明治に至り、多くの外国人、特に宣教師たちが植民地主義とは離れて、キリスト教宣教のために来日し、聖書の教えを広め、学校や病院の社会事業や孤児院などの慈善事業を始めたからです。

日本人の恐れを事実と化した宣教師たち

 ところが、300年近くにわたって育てられた一般日本人のキリスト教に対する恐れは、宣教師たちの高圧的な態度によって事実として証明されてしまいました。多くの宣教師はキリスト教こそ唯一の宗教であるべきだという信念と熱心さで、在来のあらゆる宗教を敵視し、激しく攻撃しました。また、日本の生活習慣、文化そのものが神道や仏教の伝統を背景にしたものであるために、日本の文化にも敵対的な態度を持っていました。そして、自分たちの「キリスト教文化」を絶対に善であり正しいものとして、日本人に押し付けようとしました。また、多くの宣教師はごく自然に人種的優越感も持っていました。そのためにしばしば横柄な態度となり、よくてもパターナリズムに陥っていたのです。要するに文化に対する理解が少なく、高圧的、あるいは敵対的であったために、もともとキリスト教に恐れを抱いていた一般大衆には、このような欧米宣教師たちのすがたに、恐ろしいキリスト教の姿を見たのです。大衆がキリスト教を受け入れることは、非常に難しかったのです。

 多くの場合、クリスチャンであるためには、ある程度日本人の文化や生活習慣を犠牲にして、西欧諸国の 生活習慣を受け入れなければなりませんでした。それはとりもなおさず、日本の文化の中で和を持って生きようとしている日本人の生活に、不協和音を持ち込むことでした。クリスチャンになると、日本で社会生活をすることが困難になったのです。うそもつかずに清く正しく生きようとするクリスチャンでしたが、自分たちの家族や親戚、あるいは会社や隣組の中にいてもらうと、大変迷惑な存在になったのです。善悪の善ではなく、自分たちに都合の善いという善を大切にしながら、和を尊ぶ共同体感覚で、みんなで一緒に生きようという日本人の感覚は、絶対の善悪を論じ、すぐに白黒で判断しながら個人の尊厳を謳い、個人の自由を最優先にして社会の混乱も恐れない、西欧的キリスト教と激しくぶつかったのです。こうして日本のキリスト教は、一般大衆レベルでも「反社会的宗教」とみなされるようになったのです。とくに、地蔵さんを海に捨て、仏壇を焼き、神棚を打ち壊し、仏教式の葬式には参列せず、地域行事にも加わらない敵対的キリスト教は、クリスチャン一人を作るごとに、絶対にクリスチャンにはらないぞと決心する人たちを、大勢作り上げてきたのです。

国際社会の中で争う日本

 西欧キリスト教諸国の植民地主義を最大の恐怖として、それに対抗し得る国力を持つことを最大の課題と した明治政府は、富国強兵を合言葉に軍隊の強化に乗り出しました。しかし、国を富ませないままで軍隊を大きくすることはできません。そこで日本は、遅ればせながら植民地政策に打って出ました。台湾と朝鮮を併合し、満州国を建設して傀儡政権を置きました。朝鮮を統治下においた日本人は、秀吉とその配下の武将たちが生きていたら、どれほど喜んだことかと語り合ったものです。ところが、日本が植民地政策に乗り出したときには、国際社会はすでに、新たな植民地を作ることはしないと合意をしていたのです。ただし、植民地を解放して独立させる合意をしたのではありません。ただはっきりしていることは、日本がバスに乗り遅れたということです。それで国際社会の非難を浴びることになってしまいました。西欧国キリスト教国の植民地主義者たちは、遅れてやってきた東洋の小国が、自分たちと同じように植民地を持つことを快く思わなかったのです。また、西欧諸国にとって、コストに見合うだけの殖民地候補地はもう存在しなくなっていたのです。

 日本の植民地政策は、理由はどうあれ明確な犯罪でした。植民地化された国の人々からみると、まさにとんでもなく野蛮な行為です。植民地化に伴う戦争や統治では、じっさい、多くの日本人が残虐非道でした。それは否定できない事実であり、厳しく糾弾されなければなりません。多くの女性が慰安婦にされました。女性も子供も無差別に惨殺されました。妊婦は腹を割かれて赤子とともに殺されました。赤子は空に放り投げられ、銃剣の的にされました。男たちも銃剣で突かれ、日本刀の試し切りの犠牲になりました。このような話を取り上げていたらキリがありません。佐々木はフィリピンの山岳地で、夫と長男を目の前で日本兵によって惨殺された老婆に会い、面と向かって日本人は嫌いだと言われたことがあります。

 しかしそのような日本の残虐行為でさえ、西欧キリスト教諸国が植民地で行い続けていた非人道的行為に比べると、赤子のようにおとなしいものでした。どこの植民地主義国が、植民地となった国の人々を自分の国の国民としようとしたでしょうか。日本は、台湾や朝鮮で、人々の名前を無理やりに日本人の姓名に変えようとしました。無理強いされた方たちの悔しさと怒りは当然のことですが、少なくても日本は国家として、植民地の人々に同等の地位を与えようとしたということでもあるのです。たとえ実際には、朝鮮人や台湾人あるいは中国人に対する拭いきれない差別意識があったとしても、それは、植民地主義国の白人が有色人種に示した差別意識に比べると、まだ穏やかだったのです。また、どこの植民地主義国が、日本が台湾や朝鮮で行ったような教育とインフラの整備をしているでしょうか。

 日本の植民地政策を弁護しているのではありません。(佐々木は日本の残虐行為を恥じ、自分の福音宣教の働きを持って償おうとい気持ちで、被害国のひとつフィリピンの宣教師になったのです。インドネシアからの招きもありましたが行きませんでした。そこは、長い間オランダ植民地主義の圧制に苦しんでいたところを、たまたま日本軍が侵入して、解放軍になってしまったところでしたので、そこに行ってもあまり償いにはならないと判断したからです)言いたいのは、国際的に見るならば、日本のやったことは西欧キリスト教国の植民地主義者たちに比べると、まだ、善良であったということです。イギリスやフランスが、植民地国で付随的に貢献したことがら、たとえば、イギリスがインドで敷いた鉄道と、日本が植民地で果たした貢献には目的と質において差があるのです。

 このようにして植民地政策に打って出た日本を総攻撃した連合国、すなわち、植民地主義を押し通し続けていたキリスト教国を、日本人、特に教育を受けた日本人は、鬼畜米英として忌み嫌い、戦ったのです。「鬼畜米英」はすでに死語となりましたが、現代でも歴史を学んだ日本人は、西欧の微笑みの仮面の裏に、鬼の顔を見ているのです。1900年の時点で、ヨーロッパ以外の国々で、植民地でなかった国はたった3カ国しかなかったというのが現実なのです。日本と、タイと、リベリアです。(リベリアは、アメリカが解放された黒人奴隷の戻る場所として作り独立させた国です)現代のアジア、アフリカ、ラテンアメリカの貧しさと困窮の原因の大きな部分は、間違いなくキリスト教国の植民地政策にあったのです。彼らが資源を搾取し、労働力を奪い、貧困と無教育のまま放り出しておいたからです。

 連合国に敗北した日本は、確かに戦争犯罪者であり、その点で言い訳をすることはできません。ほかの人が泥棒をしているから、自分も泥棒をしても良いという理屈は通りません。100万円盗んだ自分より、1000万円盗んだ人が悪いとも言えません。凶暴で残忍な強盗に狙われていた人の家を、少しばかり心優しい盗人が先に押し入って荒らしてしまったために、凶暴で残忍な強盗があきらめたとしても、少しばかり心優しい盗人が自分の行為を正当化することはできません。ただ結果として言えることは、東洋の小国、しかも非キリスト教国日本が、このようにして欧米の植民地主義に戦いを挑んだことが、ひとつの大きなきっかけとなり、戦後の多くの独立国の誕生の助けになったのも事実だということです。

 戦争犯罪などについて語るとき、気をつけなければならないのは、どこの国も民族も、自分たちがこうむった被害を大げさに表現し、与えた損害には触れないか過小評価するという事実です。日本もまったく同じです。たとえば、アメリカが行った広島と長崎の無差別爆撃は、非人道的行為として非難しますが、それより先に侵略者日本が重慶で行った無差別爆撃について知る日本人は、ほとんどいません。当時の重慶が国民党に支配されていたために、現代の中国共産党がこのことにあまり触れないのも、知られていない背後にある理由でしょう。中国側の調査では、死者の数も11,000人強と少なめに報告されています。さまざまな資料を調べると4~5万と言うのが良いと思われます。数年前重慶を訪れた日本のサッカーチームが、非常に敵対的な雰囲気の中で試合をしなければならなかったのは、むしろ当然なのです。

キリスト教ではなくキリストを

 私たちは無意識のうちに、西欧的キリスト教を日本に持ち込もうとしています。聖書の教えそのものでは なく、西欧諸国の実情と必要に対応させられた聖書の教えを、日本人に教え、それを受け入れるように薦めています。しかも、かなり高圧的に、「正しい神様」とか「本当の神様」などという言い方で、つまり、あなたたちの神様は間違っていると断定しながら、挑戦的にそれをやり続けてきました。偶像の町アテネで、偶像がはびこっている事実に憤りを感じたパウロでさえ、アテネの人々の心を逆なでするような言葉で宣教を始めませんでした。かえって、彼らの中にある宗教心を認め、それをほめ、共通の立場に立った上で、あなたたちが知らないで拝んでいる神を紹介しましょうと言ったのです。本当の神様を教えようとさえ言わなかったのです。私たちが日本の歴史と文化を理解せず、かつての熱心な宣教師たちのようなやり方で伝道を続けている限り、キリシタン弾圧によって、徹底して浸み込ませられたキリスト教に対する恐怖が、日本人の心に浮上してくるのです。西欧植民地主義の、焼きついて離れない残虐なキリスト教の鬼の顔が、再び鮮明になってくるのです。日本の和の共同体精神を逆なでするどころか、それに真っ向から対立してくる西欧個人主義のキリスト教は、日本人の目には、自分たちの社会生活を壊すものとして写るのです。日本人の共同体意識のすべてが良いのではありませんし、そのような共同体意識がもたらす社会行動が、美しいというのでもありません。そこには聖書の教えに反する概念がたくさん含まれているでしょう。海外生活をしばらく経験すると、日本人のおかしさがそこここに見えてきます。しかし、それすら、欧米個人主義に適用された聖書の教えによって裁かれてはならず、聖書それ自体によって裁かれ判断されるべきなのです。

 私たちが今やらなければならないことは、キリスト教ではなく、つまり、西欧化した聖書の教えではなく、聖書の教えそのものを日本人に提供することです。キリスト教の教えではなく、キリストご自身です。私たちはヨーロッパの色眼鏡を捨てて、日本人として聖書を読みなおし、西欧化されたキリスト教を日本に根付かせようとするのではなく、聖書の教えを直接日本の文化に適用する必要があるのです。西欧人のキリストではなく、日本人のキリストが必要なのです。それが日本人の意識の中に浸透している反キリスト教意識を、幾分でも和らげることになるはずです。

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